【完結】綺麗なだけじゃ、生きていけない

とっくり

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 アナベルは、背後から向けられていたビアンカの視線に気づくことなく、両腕で抱えていた舞台資料を胸にぎゅっと押し当てた。

 紙の角が少し肌に当たって痛いはずなのに、その感覚すら心地よい。
 エリオットとの短いやり取りが、胸の奥でじんわりと温かく広がっていたからだ。

(来年……本当に、誕生日会に、声をかけてもいいのかな)

 ほんの口約束ひとつで、こんなにも胸が躍ってしまう自分に、思わず小さく笑ってしまう。

 だがその一方で、奥底にひやりと冷たいものが忍び込んでくる。
――彼の隣には、いつもビアンカがいる。   その事実を忘れたわけではない。

 ちくりと胸を刺す思いを抱えたまま歩いていると、廊下の先から明るい声が響いた。

「アナベル!」

 最近劇団に入った大道具スタッフ、ジャイルだった。
 年齢はアナベルと同じで、背はやや高く、茶色の髪にはまだ寝癖が残っていた。笑うと少年のように無邪気な表情が現れ、人懐っこい瞳が自然と周囲の心を和ませる。そばかすが頬にちらほらと見え、決して派手ではないが、どこか親しみやすく、好かれる容姿をしていた。

「昼に、ポテトを買い過ぎちゃってさ。もしよかったら、食べない?」
「え!ジャイルは食べないの?」
「うん、もう自分はたくさん食べたから、余ったんだ」
「ありがとう!うれしい。実は、お昼まだだったの。助かる~」

 アナベルはぱっと花が咲くように微笑み、差し出された袋を両手で受け取った。油紙越しに温もりが伝わり、その温かさが心にも染みる。

 アナベルは、ジャイルのにこやかな顔を見るたびに、思わず心がほっと温かくなるのを感じた。

(ジャイルって、こういう人だから、みんなに好かれるんだろうな)

 アナベルはそう思うと同時に、自分もつい甘えてしまうことに気づき、少し照れくささを覚えた。
 普段、劇場では、緊張感を持って働いている自分が、同じ歳の彼の前では気負いもなく、無防備に笑うことができるのだった。


――背後で、まだエリオットがこちらを見送っているとも知らずに。

(アナベル……あんな嬉しそうに)

 エリオットはふと、自分の手元を見下ろした。そこに、彼女をあんな顔にさせられるような物は何ひとつない。
その瞬間、胸の奥に微かなざわめきが走った。

(あの大道具のジャイル……アナベルに気があるんじゃないか?)

 初めて抱くその感情は、はっきりと名を付けられない。ただ、妙なもやもやが心に絡みついて離れない。
 エリオットは首を振り、午後の稽古へと意識を切り替えようとした。

 劇場の昼下がりは、今日も華やかで賑やかだ。けれど、その光と音の下では、気づかれぬまま、静かに波紋が広がり始めていた。

***

 アナベルが劇場での片付けを終え、帰り支度をしていると、再びジャイルが声をかけてきた。

「アナベル、一緒に帰らない?」

 彼の声は自然で、ほんのり温かさが混じる。アナベルは少し驚きつつも、柔らかく微笑む。

「いいけど、私、乗り合い馬車で帰るよ?」
「では、乗り合い馬車まで、一緒に行ってもいいかな?」
「ええ、帰りましょう」

 にこやかに応じるアナベルに、ジャイルもホッとしたように肩の力を抜き、少年のような笑みを浮かべた。

 二人は、劇場から乗り合い馬車までの道を歩きながら、自然と会話を交わした。
 街路樹の間から差し込む夕陽に、長く伸びた影がゆらゆら揺れる。ジャイルは、自分の家族について話し始めた。

「うちは大工の家系で、父と兄が家業を継いでるんだ。僕も小さい頃から手伝っていて、父の紹介で、この劇団に入ることになったんだ」

 アナベルは興味深く耳を傾ける。ジャイルの声は穏やかで、語る様子から家族への愛情がにじみ出ていた。

「母は観劇が大好きで、僕の仕事をとても喜んでくれているよ」
「家族仲が良いんだね!」
「うん、うちは良すぎるくらいかも」と、ジャイルは少し照れたように笑った。

 自然な笑顔に、アナベルも心が和む。つい自分の家族についても聞かれる。

「アナベルの家族は?」

 その無邪気な質問に、胸が少し締め付けられる。アナベルはゆっくり息を吐き、口を開いた。

「事故で、両親とも亡くなってしまって…」

 ジャイルの顔色が一瞬にして変わった。

「ごめん!無神経なことを聞いてしまって…」

 その真剣な謝罪に、アナベルは柔らかく首を振る。

「ううん。気にしないで。もう、踏ん切りもついたの。家族の仲良い話、大好きだから、もっと聞かせて?」

 夕暮れに染まる通りの空気が、二人の間を穏やかに包む。アナベルの言葉に、ジャイルの瞳も自然と輝きを取り戻す。

「じゃあ、もっと話すね!」

 ジャイルは笑顔で、たくさんの家族の面白いエピソードを話してくれた。
 アナベルはその話に思わず笑い、心の奥に溜まっていた重みが少しずつほどけていくのを感じた。

 街路樹の影が長く伸び、馬車の鈴の音が遠くから響く中、二人の歩みは自然と呼吸を合わせ、柔らかい夕暮れの空気の中に温かい時間が流れていった。
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