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アナベルは稽古場の客席の隅に腰を下ろし、ステージで演技を繰り広げるエリオットをじっと見つめていた。
今日の彼女の仕事は、役者陣の動きを確認しながら、台本の翻訳に不自然な点がないか、また動きとセリフがかけ離れていないかをチェックすること。いわば「裏方監査」のような役割である。
だが、心ここにあらず。
気づけば視線はエリオットばかりを追ってしまう。照明に照らされた彼の横顔、真剣に台本を見つめる眼差し、台詞を口にするときの張りのある声。
すべてが胸をざわつかせ、甘い痺れを伴ってアナベルの心臓を叩いた。
(ダ、ダメよアナベル!公私混同は絶対禁止! 私は冷静な職業婦人なの、恋する乙女じゃないのよ!)
小声で自分に言い聞かせ、こそこそと両頬を押さえる。
「……私は職業婦人、職業婦人……ぶつぶつぶつ……」
「ん? アナベル?どこか変な箇所があったかい?」
隣の席に座っていた演出家が首を傾げる。アナベルは飛び上がるほど驚き、慌てて台本を抱え直した。
「い、いえっ!全く問題ありません!」
頬を真っ赤にしながら答えると、演出家は満足そうに大きく頷いた。
「よし!今回の舞台も大ヒット間違いなしだな。隣国ではこの演目、半年以上ロングランを続けているんだ」
「そうですか!皆さんに楽しんでいただけるのが、私も楽しみです!」
アナベルは笑顔で返すが、内心は(見られてないわよね!? 私が恋する乙女モードなの、バレてないわよね!?)と心臓ばくばく。
そのとき――舞台の上から妙な沈黙が落ちてきた。
「……」
「……エリオットさん?」
相手役の女優が不安げに声を掛ける。エリオットがセリフに躓いていた。普段なら絶対にありえないことだ。
「ああ、すまない。次のセリフは……なんだったっけ?」
「次は――」
女優が口を開きかけた瞬間、監督の声が飛んだ。
「一休みしよう!」
場の空気が和らぐ。エリオットは小さく息を吐き、手にした台本へ目を落とした。
「珍しいわね?」
そこに現れたのは、腕を組んだビアンカだった。氷のように鋭い視線を向ける。
「エリオットがセリフに詰まるなんて。あの娘のせいじゃない?」
視線の先には、客席のアナベル。
「彼女が演出家と楽しげに話しているのを見ただけでセリフが飛ぶなんて……大したことないのね。交際は、あなたにとって、マイナスなんじゃない?」
ピシャリと言い放つビアンカ。
「……ビアンカ」
エリオットは返答に詰まった。図星ではある。実際、彼女の笑顔と声に意識を奪われ、頭の中からセリフがふと消え去っていた。
しかし、彼はふわりと笑みを浮かべる。
「僕は、大した役者じゃないさ。恋する情けない男だった。けれど……こうして人間らしい自分を実感できて嬉しいんだ」
「な、何それ……」
「こんな感情は初めてで、少し戸惑っただけなんだ。本番に迷惑はかけないよ」
さらりと告げる彼に、ビアンカは真っ赤になって「バカみたい!」と叫び、その場を立ち去った。
エリオットは苦笑しながらも、心の奥で確信していた。恋を知った今、自分の芝居はもっと深みを増す――そんな手応えを。
***
その夜。
下宿の台所に、フライパン片手のカロリーヌの怒声が響いた。
「ちょっと! あなたねぇ、うちの下宿を何だと思ってるのよ!」
エリオットは椅子に座り、真剣な顔で答える。
「もちろん、アナベルが住んでいる素敵な下宿だと思っているよ」
「す、素敵な下宿って……ふん、ちゃんと分かってるじゃないの……って、ちがーう!!毎日毎日、帰りに寄って、ちゃっかり夕飯まで食べていくのは何なのよ!」
アナベルは慌てて両手を合わせる。
「す、すみません……カロリーヌさん」
「いいえ!アナベルは謝らなくていいの!私が物申してるのは、この彼氏に対してよ!」
カロリーヌはフライパンを振り回しながら怒鳴る。エリオットはまるで悪びれもせずに言った。
「この下宿の門限は21時でしょ? 仕事帰りにアナベルと一緒に食事すると、どうしてもギリギリになっちゃって、一緒にいられる時間が短くなってね。それに、アナベルはカロリーヌの夕飯が大好きだから……」
「なっ……!アナベル、あなたって子は!彼氏よりも私の夕飯を選んでくれるのね!なんて良い子なのっ!」
「だから、僕が一緒にここで夕飯を食べれば、門限を気にせず済むしね」
「部外者は21時に出て行ってもらうのよ!!」
すると、エリオットがにやりと笑った。
「なんだかんだ言って、目を瞑ってくれるカロリーヌが好きだなぁ」
「きぃぃーっ!!甘い言葉なんて、私は絶対ひっかからないわよ!」
「今度、ギル伯父さんのお休みの日を教えてあげようと思ってたんだけどな」
「っ!!」
カロリーヌの目がぎょろりと動いた。数秒後、彼女は大きくため息をつき――
「し、仕方ないわね……恋人同士、仲睦まじく過ごしなさい!ただし!!この下宿では、いかがわしいことは禁止ですからねっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ。
アナベルは頬を染めながらも、そのやり取りにくすくす笑いを漏らした。
エリオットとカロリーヌの掛け合いは、毎晩繰り広げられる下宿名物の喜劇のようで、彼女の心をほんのり温めるのだった。
今日の彼女の仕事は、役者陣の動きを確認しながら、台本の翻訳に不自然な点がないか、また動きとセリフがかけ離れていないかをチェックすること。いわば「裏方監査」のような役割である。
だが、心ここにあらず。
気づけば視線はエリオットばかりを追ってしまう。照明に照らされた彼の横顔、真剣に台本を見つめる眼差し、台詞を口にするときの張りのある声。
すべてが胸をざわつかせ、甘い痺れを伴ってアナベルの心臓を叩いた。
(ダ、ダメよアナベル!公私混同は絶対禁止! 私は冷静な職業婦人なの、恋する乙女じゃないのよ!)
小声で自分に言い聞かせ、こそこそと両頬を押さえる。
「……私は職業婦人、職業婦人……ぶつぶつぶつ……」
「ん? アナベル?どこか変な箇所があったかい?」
隣の席に座っていた演出家が首を傾げる。アナベルは飛び上がるほど驚き、慌てて台本を抱え直した。
「い、いえっ!全く問題ありません!」
頬を真っ赤にしながら答えると、演出家は満足そうに大きく頷いた。
「よし!今回の舞台も大ヒット間違いなしだな。隣国ではこの演目、半年以上ロングランを続けているんだ」
「そうですか!皆さんに楽しんでいただけるのが、私も楽しみです!」
アナベルは笑顔で返すが、内心は(見られてないわよね!? 私が恋する乙女モードなの、バレてないわよね!?)と心臓ばくばく。
そのとき――舞台の上から妙な沈黙が落ちてきた。
「……」
「……エリオットさん?」
相手役の女優が不安げに声を掛ける。エリオットがセリフに躓いていた。普段なら絶対にありえないことだ。
「ああ、すまない。次のセリフは……なんだったっけ?」
「次は――」
女優が口を開きかけた瞬間、監督の声が飛んだ。
「一休みしよう!」
場の空気が和らぐ。エリオットは小さく息を吐き、手にした台本へ目を落とした。
「珍しいわね?」
そこに現れたのは、腕を組んだビアンカだった。氷のように鋭い視線を向ける。
「エリオットがセリフに詰まるなんて。あの娘のせいじゃない?」
視線の先には、客席のアナベル。
「彼女が演出家と楽しげに話しているのを見ただけでセリフが飛ぶなんて……大したことないのね。交際は、あなたにとって、マイナスなんじゃない?」
ピシャリと言い放つビアンカ。
「……ビアンカ」
エリオットは返答に詰まった。図星ではある。実際、彼女の笑顔と声に意識を奪われ、頭の中からセリフがふと消え去っていた。
しかし、彼はふわりと笑みを浮かべる。
「僕は、大した役者じゃないさ。恋する情けない男だった。けれど……こうして人間らしい自分を実感できて嬉しいんだ」
「な、何それ……」
「こんな感情は初めてで、少し戸惑っただけなんだ。本番に迷惑はかけないよ」
さらりと告げる彼に、ビアンカは真っ赤になって「バカみたい!」と叫び、その場を立ち去った。
エリオットは苦笑しながらも、心の奥で確信していた。恋を知った今、自分の芝居はもっと深みを増す――そんな手応えを。
***
その夜。
下宿の台所に、フライパン片手のカロリーヌの怒声が響いた。
「ちょっと! あなたねぇ、うちの下宿を何だと思ってるのよ!」
エリオットは椅子に座り、真剣な顔で答える。
「もちろん、アナベルが住んでいる素敵な下宿だと思っているよ」
「す、素敵な下宿って……ふん、ちゃんと分かってるじゃないの……って、ちがーう!!毎日毎日、帰りに寄って、ちゃっかり夕飯まで食べていくのは何なのよ!」
アナベルは慌てて両手を合わせる。
「す、すみません……カロリーヌさん」
「いいえ!アナベルは謝らなくていいの!私が物申してるのは、この彼氏に対してよ!」
カロリーヌはフライパンを振り回しながら怒鳴る。エリオットはまるで悪びれもせずに言った。
「この下宿の門限は21時でしょ? 仕事帰りにアナベルと一緒に食事すると、どうしてもギリギリになっちゃって、一緒にいられる時間が短くなってね。それに、アナベルはカロリーヌの夕飯が大好きだから……」
「なっ……!アナベル、あなたって子は!彼氏よりも私の夕飯を選んでくれるのね!なんて良い子なのっ!」
「だから、僕が一緒にここで夕飯を食べれば、門限を気にせず済むしね」
「部外者は21時に出て行ってもらうのよ!!」
すると、エリオットがにやりと笑った。
「なんだかんだ言って、目を瞑ってくれるカロリーヌが好きだなぁ」
「きぃぃーっ!!甘い言葉なんて、私は絶対ひっかからないわよ!」
「今度、ギル伯父さんのお休みの日を教えてあげようと思ってたんだけどな」
「っ!!」
カロリーヌの目がぎょろりと動いた。数秒後、彼女は大きくため息をつき――
「し、仕方ないわね……恋人同士、仲睦まじく過ごしなさい!ただし!!この下宿では、いかがわしいことは禁止ですからねっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ。
アナベルは頬を染めながらも、そのやり取りにくすくす笑いを漏らした。
エリオットとカロリーヌの掛け合いは、毎晩繰り広げられる下宿名物の喜劇のようで、彼女の心をほんのり温めるのだった。
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