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夜会からの帰路、モンタヴィル家の馬車には、沈黙と、ひどくちぐはぐな空気が流れていた。
座席の片側にはアナベルとセラフィナ、もう一方に母と侍女のマリーが並ぶ。馬車の窓の外では街灯の明かりが流れ、揺れるたびに車内にかすかな影を落としていく。
セラフィナは黙ったまま、窓の外に視線を固定したままだった。その横顔はどこか青ざめ、手は膝の上でかすかに震えていた。
けれど、母はそれにまったく気づく様子もなく、興奮気味に口を開く。
「アナベルったら、まるで舞踏会の花だったわ!あの鮮やかな赤いドレスがこれほど似合うなんて、まさに奇跡よ。どの婦人も見惚れていたわ!ねえ、マリー?」
「ええ、本当に。まるで舞台に咲いた一輪の薔薇のようでしたわ、お嬢様は。華やかで、大層、美しく、しかも気さくでお優しい……皆様が目を奪われるのも当然でございます」
マリーが調子を合わせるように頷くと、母は満足げに頷き、さらに乗せるように言葉を継いだ。
「そうなのよ。謙虚なところも、また良いのよ。あの場であれだけ注目されても、浮かれる様子ひとつない。まったく、うちのアナベルはなんて奥ゆかしいのかしら!」
「お母様……」
アナベルは、視線を伏せて小さくかぶりを振った。
──お姉様の前で、何をそんなに持ち上げるの。
ちらりと横を見ると、セラフィナの瞳は相変わらず窓の外に向けられたまま、まるで何も聞いていないかのように無表情な上に顔色が悪かった。
「お姉様……お加減が悪いのでは?」
恐る恐る声をかけると、セラフィナがゆっくりとこちらを向く。その瞳は冷たいほどに澄みきっていて、けれど、ひどく乾いていた。
「身体は……元気よ。ただ、少し、ね」
それだけを呟くと、再び黙り込んでしまった。
*
屋敷に戻ると、セラフィナはすぐに階段を上がり、自室に戻ろうとした。
「お姉様、待って!」
アナベルはスカートを持ち上げて姉の背を追い、廊下の途中で呼び止めた。
「お姉様、本当に、どこか調子が──」
その瞬間、セラフィナがくるりと振り返り、まるで堰を切ったように怒りをぶつけてきた。
「……今日は、自分が主人公のつもりだったんでしょう? あんな派手なドレスを着て、皆の視線を一身に集めて、気持ちよかった? 満足?」
「え……?」
「はしたないにもほどがあるわ!まるで街の娼婦じゃない。あんな赤、貴族の娘が着る色じゃないわ!見苦しい!それでも“モンタヴィル家の娘”だっていうの? 恥を知りなさい!」
怒声が廊下に響いた。
アナベルは目を見開き、呆然と立ち尽くす。セラフィナは目を血走らせ、なおも続ける。
「どうやってルシアンを籠絡したの? まさか……身体を使ったんじゃないでしょうね!」
「な……!」
アナベルの顔から血の気が引いた。
呼吸ができない。酸素が喉に届かず、胸が痛くて、声が出ない。
セラフィナの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。それでも、言葉の棘は止まらなかった。
「見たわよ……あの廊下で……あの人の告白。……全部聞こえてたの。ずっと好きだったですって? あの人は、私の婚約者よ……っ!」
「……っ!」
姉の心が、ここまで傷ついていたとは知らなかった。
言葉よりも、怒りよりも、アナベルの胸を締めつけたのは、セラフィナの苦しみだった。
そのとき──。
「いい加減にしなさい!」
怒号と共に、セラフィナの頬に鋭い音が響いた。
駆けつけた父が、その場で彼女を平手打ちしたのだった。
「お前は、心まで醜いのか!」
セラフィナは一瞬、呆然とし、そのまま動けずにいた。
「お父様、やめてっ!」
アナベルは慌てて父の腕を掴み、目に涙を浮かべて叫ぶ。
「お願い、お姉様を責めないで。お姉様は悪くないっ!」
「アナベル……」
そこへ母もやって来て、娘をぎゅっと抱きしめた。
「こんな時にまで姉を庇うなんて……なんて健気なの。あなたって子は……」
母の手は優しかった。声も、抱きしめる腕も。
けれど、その優しさが、どこかぞっとするほど冷たく思えた。
*
セラフィナには「謹慎」が命じられ、使用人にも口止めが下された。
アナベルは夜が明けるのを待たず、父の執務室に足を運ぶ。
「お願いです。お姉様の謹慎を解いてください。……お姉様が怒ったのには、理由があるんです」
アナベルは真実を打ち明けた。
──ルシアンから告白されたこと。
──それを姉が見ていたということ。
父と母は一瞬、顔を見合わせた。
そして──
「ならば、ルシアンとアナベルが結婚すればいい話だ。アナベルを後継者にすれば、すべて丸く収まるじゃないか!」
父の声には喜びすらにじんでいた。
「お前ほど皆に好かれる娘はいない。後継者には最適だ。心配するな、ルシアンが支えてくれる」
「……そんな……」
アナベルは声を失った。
「わたしは……後継者なんて無理です。教育だって何も受けていませんし、この家を継ぐ器じゃ……」
「謙虚だな、そこも良いところだよ」
「そうそう、セラフィナより、ずっと美しくて、優しいんだもの。ふさわしいわ」
両親はまるで夢を見るように笑っていた。
その笑顔が、かつては愛しくて、世界で一番信じられるものだった。
けれど今、アナベルは背筋を冷たいものが這いのぼるのを感じた。
(お姉様は……こんな理不尽な中で、ずっと……)
胸が押し潰されそうになった。
「……婚約も、後継者も、絶対に受けません」
アナベルはそう言い残し、ドアを開け放って部屋を飛び出した。
*
翌朝、両親は領地に向かうため、屋敷を発った。
馬車の見送りに立つアナベルは、作り笑いを浮かべながら、二人の姿が角を曲がるまで見送っていた。
やがて馬車の音が遠ざかり、静けさだけがその場に残った。
――それが、生きて顔を合わせる最後の別れになるとは、このときのアナベルには、知る由もなかった。
座席の片側にはアナベルとセラフィナ、もう一方に母と侍女のマリーが並ぶ。馬車の窓の外では街灯の明かりが流れ、揺れるたびに車内にかすかな影を落としていく。
セラフィナは黙ったまま、窓の外に視線を固定したままだった。その横顔はどこか青ざめ、手は膝の上でかすかに震えていた。
けれど、母はそれにまったく気づく様子もなく、興奮気味に口を開く。
「アナベルったら、まるで舞踏会の花だったわ!あの鮮やかな赤いドレスがこれほど似合うなんて、まさに奇跡よ。どの婦人も見惚れていたわ!ねえ、マリー?」
「ええ、本当に。まるで舞台に咲いた一輪の薔薇のようでしたわ、お嬢様は。華やかで、大層、美しく、しかも気さくでお優しい……皆様が目を奪われるのも当然でございます」
マリーが調子を合わせるように頷くと、母は満足げに頷き、さらに乗せるように言葉を継いだ。
「そうなのよ。謙虚なところも、また良いのよ。あの場であれだけ注目されても、浮かれる様子ひとつない。まったく、うちのアナベルはなんて奥ゆかしいのかしら!」
「お母様……」
アナベルは、視線を伏せて小さくかぶりを振った。
──お姉様の前で、何をそんなに持ち上げるの。
ちらりと横を見ると、セラフィナの瞳は相変わらず窓の外に向けられたまま、まるで何も聞いていないかのように無表情な上に顔色が悪かった。
「お姉様……お加減が悪いのでは?」
恐る恐る声をかけると、セラフィナがゆっくりとこちらを向く。その瞳は冷たいほどに澄みきっていて、けれど、ひどく乾いていた。
「身体は……元気よ。ただ、少し、ね」
それだけを呟くと、再び黙り込んでしまった。
*
屋敷に戻ると、セラフィナはすぐに階段を上がり、自室に戻ろうとした。
「お姉様、待って!」
アナベルはスカートを持ち上げて姉の背を追い、廊下の途中で呼び止めた。
「お姉様、本当に、どこか調子が──」
その瞬間、セラフィナがくるりと振り返り、まるで堰を切ったように怒りをぶつけてきた。
「……今日は、自分が主人公のつもりだったんでしょう? あんな派手なドレスを着て、皆の視線を一身に集めて、気持ちよかった? 満足?」
「え……?」
「はしたないにもほどがあるわ!まるで街の娼婦じゃない。あんな赤、貴族の娘が着る色じゃないわ!見苦しい!それでも“モンタヴィル家の娘”だっていうの? 恥を知りなさい!」
怒声が廊下に響いた。
アナベルは目を見開き、呆然と立ち尽くす。セラフィナは目を血走らせ、なおも続ける。
「どうやってルシアンを籠絡したの? まさか……身体を使ったんじゃないでしょうね!」
「な……!」
アナベルの顔から血の気が引いた。
呼吸ができない。酸素が喉に届かず、胸が痛くて、声が出ない。
セラフィナの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。それでも、言葉の棘は止まらなかった。
「見たわよ……あの廊下で……あの人の告白。……全部聞こえてたの。ずっと好きだったですって? あの人は、私の婚約者よ……っ!」
「……っ!」
姉の心が、ここまで傷ついていたとは知らなかった。
言葉よりも、怒りよりも、アナベルの胸を締めつけたのは、セラフィナの苦しみだった。
そのとき──。
「いい加減にしなさい!」
怒号と共に、セラフィナの頬に鋭い音が響いた。
駆けつけた父が、その場で彼女を平手打ちしたのだった。
「お前は、心まで醜いのか!」
セラフィナは一瞬、呆然とし、そのまま動けずにいた。
「お父様、やめてっ!」
アナベルは慌てて父の腕を掴み、目に涙を浮かべて叫ぶ。
「お願い、お姉様を責めないで。お姉様は悪くないっ!」
「アナベル……」
そこへ母もやって来て、娘をぎゅっと抱きしめた。
「こんな時にまで姉を庇うなんて……なんて健気なの。あなたって子は……」
母の手は優しかった。声も、抱きしめる腕も。
けれど、その優しさが、どこかぞっとするほど冷たく思えた。
*
セラフィナには「謹慎」が命じられ、使用人にも口止めが下された。
アナベルは夜が明けるのを待たず、父の執務室に足を運ぶ。
「お願いです。お姉様の謹慎を解いてください。……お姉様が怒ったのには、理由があるんです」
アナベルは真実を打ち明けた。
──ルシアンから告白されたこと。
──それを姉が見ていたということ。
父と母は一瞬、顔を見合わせた。
そして──
「ならば、ルシアンとアナベルが結婚すればいい話だ。アナベルを後継者にすれば、すべて丸く収まるじゃないか!」
父の声には喜びすらにじんでいた。
「お前ほど皆に好かれる娘はいない。後継者には最適だ。心配するな、ルシアンが支えてくれる」
「……そんな……」
アナベルは声を失った。
「わたしは……後継者なんて無理です。教育だって何も受けていませんし、この家を継ぐ器じゃ……」
「謙虚だな、そこも良いところだよ」
「そうそう、セラフィナより、ずっと美しくて、優しいんだもの。ふさわしいわ」
両親はまるで夢を見るように笑っていた。
その笑顔が、かつては愛しくて、世界で一番信じられるものだった。
けれど今、アナベルは背筋を冷たいものが這いのぼるのを感じた。
(お姉様は……こんな理不尽な中で、ずっと……)
胸が押し潰されそうになった。
「……婚約も、後継者も、絶対に受けません」
アナベルはそう言い残し、ドアを開け放って部屋を飛び出した。
*
翌朝、両親は領地に向かうため、屋敷を発った。
馬車の見送りに立つアナベルは、作り笑いを浮かべながら、二人の姿が角を曲がるまで見送っていた。
やがて馬車の音が遠ざかり、静けさだけがその場に残った。
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