【完結】灰薔薇伝 ― 祈りは光に還るー

とっくり

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リゼル・ノウヴァ

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 鉄の扉が閉じた音は、雷のように響いた。
 そのまま、世界が音を失った。

 ここは修道院の地下。
 かつて懺悔の礼拝堂として使われていた古い聖堂の跡だ。

 罪を悔いる者が独りで祈るための小部屋――いまは、異端者を一時拘束するための牢として使われている。

 石の壁には古い祈祷文の刻印がまだ残り、天井は低く、冷たい水がひとしずくずつ滴っていた。

 湿った空気が肺を刺し、苔の匂いが鉄と混じって鼻を突く。

 小さな明かり窓がひとつ。昼でもそこから落ちる光は細く、まるで天から垂れた糸のようだった。

 その光が床に細い線を描いては、夜ごとに静かに消えていく。

 リゼルはそこに、閉じ込められた。
 パンと水だけが与えられ、一日の終わりに審問官の足音が響く。



「修道女リゼル、再び問う」
「敵国の騎士を逃がしたのは、お前だな」

 鉄格子の向こう、蝋燭の光がわずかに揺れ、審問官の影が壁に長く伸びている。

「いいえ。私は人を救いました」

「救う? あれは敵だ」
「神の前で、人に敵はありません」

 審問官の眉がぴくりと動く。
「貴様の祈りで、何が変わる!」
「祈りは風のようなものです。あなたの目に見えなくても、確かに世界を動かします」

 机が叩かれ、怒声がこだました。
「詭弁を!」

 だがリゼルの声は乱れなかった。
 その静けさは、審問官の怒りよりも鋭かった。

「私は、誰かの命を奪うよりも、ひとつの命を守りたかった。
もしそれが罪なら、喜んで背負います」

 審問官は沈黙したまま、鉄格子の向こうから視線を投げた。

 その瞳には、怒りよりも理解できぬものへの苛立ちがあった。

「……連れていけ」

 その一言に、兵が二人、鍵を鳴らして入ってくる。

 鎖が外されることはなかった。リゼルの両腕には冷たい鉄が重く絡みつき、彼女は静かに立ち上がった。

 行き先は、この地下のさらに奥――“封印室”と呼ばれる狭い独房。かつて罪を悔いる僧が篭ったという、誰の声も届かぬ場所だった。

 石の扉の向こうは、光さえ届かない。苔と湿気と祈りの残滓だけが漂う空間。

 兵の一人が扉を押し開け、もう一人が鎖を引く。鎖が床を擦るたびに、冷たい音が響いた。

 リゼルはその音に合わせるように、かすかに唇を動かした。

「……主よ、どうかこの場所にも、わずかな光をお与えください」

 兵が思わず動きを止める。
 それでも審問官の短い命令で、扉は閉じられた。

 重い音が響く。
 再び、世界が沈黙した。


***

 九日目。
 空気は重く、光は細い。リゼルの頬はこけ、唇は乾いて血の味がする。それでも祈りを止めなかった。

 石壁に背を預け、両手を組む。

「どうか……この世界が、もう少しだけ優しくありますように」

 その囁きが空気に溶けた瞬間、かすかな香りがした。

 灰薔薇の匂い――
 本来、地上の庭でしか咲かないはずの香りだった。

 リゼルは息を詰め、壁際に目をやった。苔の間に、小さな蕾があった。灰色の花弁をわずかに開き、その縁が淡く光っている。

 彼女は震える指でそっと触れた。
 冷たく、けれど確かに生きていた。

「……あなた、見ていたのね。アシュレイ」

 涙が頬を伝った。
 けれど、それは絶望ではなく、祈りの証だった。

 そのとき、遠くで鐘が鳴った。
 低く、重く、霧の中を震わせる音。
 同時に――地上でざわめきが起こる。

 兵の声、修道女の叫び。
「は、花が……咲いた!」

 灰薔薇の庭。
 十年に一度も咲かぬはずの花が、牢の光と同じ青で一斉に開いていた。




 翌朝。
 院長と審問官が、香のような匂いに導かれるように地下へ降りてきた。

 鉄の扉を開けた瞬間、淡い光が二人の顔を照らした。

 壁を這う灰薔薇の蔓。十日間の闇を越えて、光の方へ伸びていた。

 審問官は声を失い、院長は長く息を吐いた。光に満ちた牢の中で立ち尽くし、やがて跪いた。

「……見なさい。神は怒りではなく、赦しをお見せになった」

 院長の言葉に、審問官は目を伏せ、兵たちは剣を下ろした。地下の牢が、一瞬で祈りの礼拝堂に戻ったようだった。

 院長は立ち上がり、自らリゼルの縄を解いた。

「神の光は、お前を罰するためではなく、
我らを照らすためにここへ来たのだろう」

 リゼルは静かに首を振った。
「私は何もしていません。ただ、憎しみよりも祈りを選んだだけです」

 院長はその言葉に深く頷き、低く祈りの言葉を唱えた。

 灰薔薇の花弁が一枚、彼の掌に落ちた。青く、儚く、温かかった。

 外では、鐘が鳴る。
 一回、二回――やがて二十五回。

 リゼルは顔を上げ、光の方を見つめて微笑んだ。

「灰が散っても、あなたは光の方にいる」

 その声は、遠くで吹く風のように静かで、けれど確かに世界のどこかへ届いていた。

 灰薔薇の花弁が空へ舞い上がり、牢の闇は、もうどこにもなかった。
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