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リゼル・ノウヴァ
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鉄の扉が閉じた音は、雷のように響いた。
そのまま、世界が音を失った。
ここは修道院の地下。
かつて懺悔の礼拝堂として使われていた古い聖堂の跡だ。
罪を悔いる者が独りで祈るための小部屋――いまは、異端者を一時拘束するための牢として使われている。
石の壁には古い祈祷文の刻印がまだ残り、天井は低く、冷たい水がひとしずくずつ滴っていた。
湿った空気が肺を刺し、苔の匂いが鉄と混じって鼻を突く。
小さな明かり窓がひとつ。昼でもそこから落ちる光は細く、まるで天から垂れた糸のようだった。
その光が床に細い線を描いては、夜ごとに静かに消えていく。
リゼルはそこに、閉じ込められた。
パンと水だけが与えられ、一日の終わりに審問官の足音が響く。
*
「修道女リゼル、再び問う」
「敵国の騎士を逃がしたのは、お前だな」
鉄格子の向こう、蝋燭の光がわずかに揺れ、審問官の影が壁に長く伸びている。
「いいえ。私は人を救いました」
「救う? あれは敵だ」
「神の前で、人に敵はありません」
審問官の眉がぴくりと動く。
「貴様の祈りで、何が変わる!」
「祈りは風のようなものです。あなたの目に見えなくても、確かに世界を動かします」
机が叩かれ、怒声がこだました。
「詭弁を!」
だがリゼルの声は乱れなかった。
その静けさは、審問官の怒りよりも鋭かった。
「私は、誰かの命を奪うよりも、ひとつの命を守りたかった。
もしそれが罪なら、喜んで背負います」
審問官は沈黙したまま、鉄格子の向こうから視線を投げた。
その瞳には、怒りよりも理解できぬものへの苛立ちがあった。
「……連れていけ」
その一言に、兵が二人、鍵を鳴らして入ってくる。
鎖が外されることはなかった。リゼルの両腕には冷たい鉄が重く絡みつき、彼女は静かに立ち上がった。
行き先は、この地下のさらに奥――“封印室”と呼ばれる狭い独房。かつて罪を悔いる僧が篭ったという、誰の声も届かぬ場所だった。
石の扉の向こうは、光さえ届かない。苔と湿気と祈りの残滓だけが漂う空間。
兵の一人が扉を押し開け、もう一人が鎖を引く。鎖が床を擦るたびに、冷たい音が響いた。
リゼルはその音に合わせるように、かすかに唇を動かした。
「……主よ、どうかこの場所にも、わずかな光をお与えください」
兵が思わず動きを止める。
それでも審問官の短い命令で、扉は閉じられた。
重い音が響く。
再び、世界が沈黙した。
***
九日目。
空気は重く、光は細い。リゼルの頬はこけ、唇は乾いて血の味がする。それでも祈りを止めなかった。
石壁に背を預け、両手を組む。
「どうか……この世界が、もう少しだけ優しくありますように」
その囁きが空気に溶けた瞬間、かすかな香りがした。
灰薔薇の匂い――
本来、地上の庭でしか咲かないはずの香りだった。
リゼルは息を詰め、壁際に目をやった。苔の間に、小さな蕾があった。灰色の花弁をわずかに開き、その縁が淡く光っている。
彼女は震える指でそっと触れた。
冷たく、けれど確かに生きていた。
「……あなた、見ていたのね。アシュレイ」
涙が頬を伝った。
けれど、それは絶望ではなく、祈りの証だった。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
低く、重く、霧の中を震わせる音。
同時に――地上でざわめきが起こる。
兵の声、修道女の叫び。
「は、花が……咲いた!」
灰薔薇の庭。
十年に一度も咲かぬはずの花が、牢の光と同じ青で一斉に開いていた。
*
翌朝。
院長と審問官が、香のような匂いに導かれるように地下へ降りてきた。
鉄の扉を開けた瞬間、淡い光が二人の顔を照らした。
壁を這う灰薔薇の蔓。十日間の闇を越えて、光の方へ伸びていた。
審問官は声を失い、院長は長く息を吐いた。光に満ちた牢の中で立ち尽くし、やがて跪いた。
「……見なさい。神は怒りではなく、赦しをお見せになった」
院長の言葉に、審問官は目を伏せ、兵たちは剣を下ろした。地下の牢が、一瞬で祈りの礼拝堂に戻ったようだった。
院長は立ち上がり、自らリゼルの縄を解いた。
「神の光は、お前を罰するためではなく、
我らを照らすためにここへ来たのだろう」
リゼルは静かに首を振った。
「私は何もしていません。ただ、憎しみよりも祈りを選んだだけです」
院長はその言葉に深く頷き、低く祈りの言葉を唱えた。
灰薔薇の花弁が一枚、彼の掌に落ちた。青く、儚く、温かかった。
外では、鐘が鳴る。
一回、二回――やがて二十五回。
リゼルは顔を上げ、光の方を見つめて微笑んだ。
「灰が散っても、あなたは光の方にいる」
その声は、遠くで吹く風のように静かで、けれど確かに世界のどこかへ届いていた。
灰薔薇の花弁が空へ舞い上がり、牢の闇は、もうどこにもなかった。
そのまま、世界が音を失った。
ここは修道院の地下。
かつて懺悔の礼拝堂として使われていた古い聖堂の跡だ。
罪を悔いる者が独りで祈るための小部屋――いまは、異端者を一時拘束するための牢として使われている。
石の壁には古い祈祷文の刻印がまだ残り、天井は低く、冷たい水がひとしずくずつ滴っていた。
湿った空気が肺を刺し、苔の匂いが鉄と混じって鼻を突く。
小さな明かり窓がひとつ。昼でもそこから落ちる光は細く、まるで天から垂れた糸のようだった。
その光が床に細い線を描いては、夜ごとに静かに消えていく。
リゼルはそこに、閉じ込められた。
パンと水だけが与えられ、一日の終わりに審問官の足音が響く。
*
「修道女リゼル、再び問う」
「敵国の騎士を逃がしたのは、お前だな」
鉄格子の向こう、蝋燭の光がわずかに揺れ、審問官の影が壁に長く伸びている。
「いいえ。私は人を救いました」
「救う? あれは敵だ」
「神の前で、人に敵はありません」
審問官の眉がぴくりと動く。
「貴様の祈りで、何が変わる!」
「祈りは風のようなものです。あなたの目に見えなくても、確かに世界を動かします」
机が叩かれ、怒声がこだました。
「詭弁を!」
だがリゼルの声は乱れなかった。
その静けさは、審問官の怒りよりも鋭かった。
「私は、誰かの命を奪うよりも、ひとつの命を守りたかった。
もしそれが罪なら、喜んで背負います」
審問官は沈黙したまま、鉄格子の向こうから視線を投げた。
その瞳には、怒りよりも理解できぬものへの苛立ちがあった。
「……連れていけ」
その一言に、兵が二人、鍵を鳴らして入ってくる。
鎖が外されることはなかった。リゼルの両腕には冷たい鉄が重く絡みつき、彼女は静かに立ち上がった。
行き先は、この地下のさらに奥――“封印室”と呼ばれる狭い独房。かつて罪を悔いる僧が篭ったという、誰の声も届かぬ場所だった。
石の扉の向こうは、光さえ届かない。苔と湿気と祈りの残滓だけが漂う空間。
兵の一人が扉を押し開け、もう一人が鎖を引く。鎖が床を擦るたびに、冷たい音が響いた。
リゼルはその音に合わせるように、かすかに唇を動かした。
「……主よ、どうかこの場所にも、わずかな光をお与えください」
兵が思わず動きを止める。
それでも審問官の短い命令で、扉は閉じられた。
重い音が響く。
再び、世界が沈黙した。
***
九日目。
空気は重く、光は細い。リゼルの頬はこけ、唇は乾いて血の味がする。それでも祈りを止めなかった。
石壁に背を預け、両手を組む。
「どうか……この世界が、もう少しだけ優しくありますように」
その囁きが空気に溶けた瞬間、かすかな香りがした。
灰薔薇の匂い――
本来、地上の庭でしか咲かないはずの香りだった。
リゼルは息を詰め、壁際に目をやった。苔の間に、小さな蕾があった。灰色の花弁をわずかに開き、その縁が淡く光っている。
彼女は震える指でそっと触れた。
冷たく、けれど確かに生きていた。
「……あなた、見ていたのね。アシュレイ」
涙が頬を伝った。
けれど、それは絶望ではなく、祈りの証だった。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
低く、重く、霧の中を震わせる音。
同時に――地上でざわめきが起こる。
兵の声、修道女の叫び。
「は、花が……咲いた!」
灰薔薇の庭。
十年に一度も咲かぬはずの花が、牢の光と同じ青で一斉に開いていた。
*
翌朝。
院長と審問官が、香のような匂いに導かれるように地下へ降りてきた。
鉄の扉を開けた瞬間、淡い光が二人の顔を照らした。
壁を這う灰薔薇の蔓。十日間の闇を越えて、光の方へ伸びていた。
審問官は声を失い、院長は長く息を吐いた。光に満ちた牢の中で立ち尽くし、やがて跪いた。
「……見なさい。神は怒りではなく、赦しをお見せになった」
院長の言葉に、審問官は目を伏せ、兵たちは剣を下ろした。地下の牢が、一瞬で祈りの礼拝堂に戻ったようだった。
院長は立ち上がり、自らリゼルの縄を解いた。
「神の光は、お前を罰するためではなく、
我らを照らすためにここへ来たのだろう」
リゼルは静かに首を振った。
「私は何もしていません。ただ、憎しみよりも祈りを選んだだけです」
院長はその言葉に深く頷き、低く祈りの言葉を唱えた。
灰薔薇の花弁が一枚、彼の掌に落ちた。青く、儚く、温かかった。
外では、鐘が鳴る。
一回、二回――やがて二十五回。
リゼルは顔を上げ、光の方を見つめて微笑んだ。
「灰が散っても、あなたは光の方にいる」
その声は、遠くで吹く風のように静かで、けれど確かに世界のどこかへ届いていた。
灰薔薇の花弁が空へ舞い上がり、牢の闇は、もうどこにもなかった。
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