【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

文字の大きさ
28 / 43

28

しおりを挟む
 昼下がりの柔らかな陽光が街を包む頃――アリスは、静かにエルウッド男爵邸へと帰ってきた。

 馬車の揺れに身を委ねながら、昨夜から今朝にかけての出来事を、何度も心の中で反芻していた。
 シュヴァリエ公爵邸で過ごした、甘く、けれど確かな重みを持つ一夜。
 まるで夢の中にいたようだったのに、こうして帰り着いた自宅の門をくぐった瞬間、それは現実だったのだと実感させられる。

 邸宅の扉が開き、見慣れた玄関ホールの空気が肺に満ちたとき、アリスの心にふっと安堵が広がった。
 けれどその安堵の裏側には、小さく疼く想いもあった――今の自分を、あの人にも伝えたい。
 そんな、胸の奥から湧き上がる衝動に突き動かされるように、アリスはそっと自室へと向かった。

 そして、静かな朝の光がまだ残る、白いカーテン越しの窓辺に立つ。

 アリスは両手を合わせ、そっと胸元の銀のロケットに触れた。
 それは亡き夫、クロードの遺品のひとつ。小さな蓋を開けば、中には穏やかな笑顔をたたえた彼の写真が収められている。

「クロード様……」

 胸の奥に、温かくも切ない感情が込み上げてきた。けれど、それはもはや悲しみではなかった。

 彼と過ごした日々を思い出すたび、アリスの心は、今もやさしく包まれる。

 ――あなたと過ごした時間は、かけがえのないものでした。
 優しくて、穏やかで、私にはもったいないほど、たくさんの愛をくださいましたね。

 アリスは目を閉じて、静かに深呼吸をする。クロードが最期に遺した手紙の言葉が、今も胸の奥で温かく息づいていた。

 【君はまだ若い。どうか、君が君らしくある世界の中で、愛する人を見つけて、幸せに生きていってほしい。】

 ――あなたが言ってくれた「幸せになってほしい」という言葉を、私はずっと胸に抱いてきました。

 きっと今の私を見たら……少し驚いて、それから微笑んで、「よかったね」と言ってくださるでしょうか。

 ノエル様の隣にいると、不思議と心が静かになるのです。

 あの頃、あなたを失って感じていた痛みが、ゆっくりと優しく、癒されていくのを感じます。

 それでも、あなたのことを忘れた日は、一日たりともありませんでした。

 クロード様――私は今、愛する人と出会いました。

 でも、あなたの存在が消えることは、決してありません。

 あなたは、私の心の中に、今も――そしてこれからも、生き続けています。

 だから、どうか見守っていてください。

 あなたが遺してくれた「幸せになって」という言葉の通りに、私はこれからの人生を歩んでいきます。

 静かな午後の光に包まれて、アリスの表情には、穏やかで確かな強さが宿っていた。

 それは――過去を大切に抱きながら、未来へと一歩を踏み出す人の顔だった。

 ふと、扉の外から控えめなノックの音が響いた。

「アリス様、お手紙が届いております」

 使用人の声に促されて扉を開けると、銀の盆に丁寧に乗せられた封書が差し出された。見慣れた流麗な筆跡に、思わずアリスの心が跳ねる。

 ――ノエル様。

 封を切り、香り立つインクの香に包まれながら、アリスは便箋を手に取った。

=======

アリスへ

昨夜、君と過ごした時間が、今でも胸の中であたたかく灯り続けている。
どうしても伝えたくて、こうしてペンを取った。

正直、まだ信じられないんだ。
君が、あの朝、隣にいてくれたこと。
目が覚めて、夢じゃなかったとわかった瞬間――嬉しくて、嬉しくて、しばらく動けなかった。

思い出すたび、心臓が跳ねる。
君の髪に触れた感触も、頬に寄せた温もりも、まだ指先に残っている。
あんなにも愛しいと思える人が、ほんとうに目の前にいるなんて。

……アリス。
君が笑ってくれるだけで、世界がすこしだけ優しくなる気がするんだ。
そんなふうに感じたのは、君が初めてだ。

身体は大丈夫? 疲れてない?
無理してないか、それだけが気がかりで――
君が心地よく今日を過ごしていることを、ただただ願ってる。

まだ、会いたい。もう、すぐにでも。
でも、急がないよ。君のペースで、君の気持ちのままにいてくれれば、それでいい。

ただ――
恋人として、君のそばにいたい。
ずっと、守らせてほしい。

追伸:
今度は、君の好きな紅茶を淹れる番。
その隣で、君が笑っていてくれたら、それ以上の幸せはない。

――ノエルより

=======

(まだ信じられない……)

アリスはそっと微笑んだ。自分も、まったく同じだった。
 夢のような夜。あの温もり、優しい腕、眠る直前に交わした囁き――どれもが、あまりに現実味がなかった。

 けれど、こうして手紙が届いた。

 たしかに、彼と過ごした夜は存在していたのだと、ページのひとつひとつが証明してくれる。

「……ふふっ」

 声が漏れる。あまりにもまっすぐで、そして抑えきれないほどの愛が詰まっていた。

 “アリス。君が笑ってくれるだけで、世界が少しだけ優しくなる――”
 その一文を読み返しながら、アリスは胸元をぎゅっと押さえる。

 (どうして……あの人は、こんなにも、私を真っすぐに愛してくれるの?)

 頬が熱くなる。喜びと戸惑いとが、胸の奥でやさしく混ざり合い、涙になって滲みそうだった。

 机の上にそっと手紙を置き、目を閉じる。
 頭の中で、彼の声が何度もよみがえる。

 ――恋人として、君のそばにいたい。ずっと、守らせてほしい。

 (……ノエル様)

 そう呼ぶだけで、胸が温かくなった。

 アリスは立ち上がり、小さなティーポットに湯を沸かす。お気に入りのダージリンを選んで、静かに蒸らす時間。

 窓の外では、夏の夕暮れがゆっくりと広がっていた。
 蝉の声が遠くで響き、吹き込む風がレースのカーテンをゆらす。

 カップに注がれた紅茶の香りが、部屋にやわらかく広がっていく。

 (次は……この紅茶を、ノエル様と一緒に)

 心の中で、そっと未来を想像する。
 隣に彼がいて、二人で笑い合いながら、同じカップに口をつける日。

 少しずつでもいい。ゆっくりでいい。
 でも、きっと――あの人となら、前を向いて歩いていける。

 アリスはそっとカップを手に取り、目を閉じて、ノエルの姿を思い浮かべながら、ひと口、紅茶を含んだ。

 それは、まるで恋の味のように――やさしく、甘く、胸に染み渡っていった。







しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

侯爵家の婚約者

やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。 7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。 その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。 カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。 家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。 だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。 17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。 そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。 全86話+番外編の予定

【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない

ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。 既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。 未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。 後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。 欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。 * 作り話です * そんなに長くしない予定です

老伯爵へ嫁ぐことが決まりました。白い結婚ですが。

ルーシャオ
恋愛
グリフィン伯爵家令嬢アルビナは実家の困窮のせいで援助金目当ての結婚に同意させられ、ラポール伯爵へ嫁ぐこととなる。しかし祖父の戦友だったというラポール伯爵とは五十歳も歳が離れ、名目だけの『白い結婚』とはいえ初婚で後妻という微妙な立場に置かれることに。 ぎこちなく暮らす中、アルビナはフィーという女騎士と出会い、友人になったつもりだったが——。

氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―

柴田はつみ
恋愛
亡国との同盟の証として、大国ターナルの若き王――ギルベルトに嫁いだエルフレイデ。 しかし、結婚初夜に彼女を待っていたのは、氷の刃のように冷たい拒絶だった。 「お前を抱くことはない。この国に、お前の居場所はないと思え」 屈辱に震えながらも、エルフレイデは亡き母の教え―― 「己の誇り(たましい)を決して売ってはならない」――を胸に刻み、静かに、しかし凛として言い返す。 「承知いたしました。ならば私も誓いましょう。生涯、あなたと褥を共にすることはございません」 愛なき結婚、冷遇される王妃。 それでも彼女は、逃げも嘆きもせず、王妃としての務めを完璧に果たすことで、己の価値を証明しようとする。 ――孤独な戦いが、今、始まろうとしていた。

幼い頃に、大きくなったら結婚しようと約束した人は、英雄になりました。きっと彼はもう、わたしとの約束なんて覚えていない

ラム猫
恋愛
 幼い頃に、セレフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セレフィアはそれを喜んで受け入れた。  その後、十年以上彼と再会することはなかった。  三年間続いていた戦争が終わり、シルヴァードが王国を勝利に導いた英雄として帰ってきた。彼の隣には、聖女の姿が。彼は自分との約束をとっくに忘れているだろうと、セレフィアはその場を離れた。  しかし治療師として働いているセレフィアは、彼の後遺症治療のために彼と対面することになる。余計なことは言わず、ただ彼の治療をすることだけを考えていた。が、やけに彼との距離が近い。  それどころか、シルヴァードはセレフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。 「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」 「お願い、セレフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」 ※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。 ※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。

後妻の条件を出したら……

しゃーりん
恋愛
妻と離婚した伯爵令息アークライトは、友人に聞かれて自分が後妻に望む条件をいくつか挙げた。 格上の貴族から厄介な女性を押しつけられることを危惧し、友人の勧めで伯爵令嬢マデリーンと結婚することになった。 だがこのマデリーン、アークライトの出した条件にそれほどズレてはいないが、貴族令嬢としての教育を受けていないという驚きの事実が発覚したのだ。 しかし、明るく真面目なマデリーンをアークライトはすぐに好きになるというお話です。

『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ
恋愛
公爵カルロスの後妻として嫁いだシャルロットは、 結婚初日から気づいていた。 夫は優しい。 礼儀正しく、決して冷たくはない。 けれど──どこか遠い。 夜会で向けられる微笑みの奥には、 亡き前妻エリザベラの影が静かに揺れていた。 社交界は囁く。 「公爵さまは、今も前妻を想っているのだわ」 「後妻は所詮、影の夫人よ」 その言葉に胸が痛む。 けれどシャルロットは自分に言い聞かせた。 ──これは政略婚。 愛を求めてはいけない、と。 そんなある日、彼女はカルロスの書斎で “あり得ない手紙”を見つけてしまう。 『愛しいカルロスへ。  私は必ずあなたのもとへ戻るわ。          エリザベラ』 ……前妻は、本当に死んだのだろうか? 噂、沈黙、誤解、そして夫の隠す真実。 揺れ動く心のまま、シャルロットは “ガラスの花嫁”のように繊細にひび割れていく。 しかし、前妻の影が完全に姿を現したとき、 カルロスの静かな愛がようやく溢れ出す。 「影なんて、最初からいない。  見ていたのは……ずっと君だけだった」 消えた指輪、隠された手紙、閉ざされた書庫── すべての謎が解けたとき、 影に怯えていた花嫁は光を手に入れる。 切なく、美しく、そして必ず幸せになる後妻ロマンス。 愛に触れたとき、ガラスは光へと変わる

離婚を望む悪女は、冷酷夫の執愛から逃げられない

柴田はつみ
恋愛
目が覚めた瞬間、そこは自分が読み終えたばかりの恋愛小説の世界だった——しかも転生したのは、後に夫カルロスに殺される悪女・アイリス。 バッドエンドを避けるため、アイリスは結婚早々に離婚を申し出る。だが、冷たく突き放すカルロスの真意は読めず、街では彼と寄り添う美貌の令嬢カミラの姿が頻繁に目撃され、噂は瞬く間に広まる。 カミラは男心を弄ぶ意地悪な女。わざと二人の関係を深い仲であるかのように吹聴し、アイリスの心をかき乱す。 そんな中、幼馴染クリスが現れ、アイリスを庇い続ける。だがその優しさは、カルロスの嫉妬と誤解を一層深めていき……。 愛しているのに素直になれない夫と、彼を信じられない妻。三角関係が燃え上がる中、アイリスは自分の運命を書き換えるため、最後の選択を迫られる。

処理中です...