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数日後。
ノエルの主導によって、〈クロード・エルウッド財団〉は南部リナリア支局への抜き打ち監査を決行した。
動員されたのは、財団本部でも指折りの精鋭監査官たち。
さらに、財務・法務・公益性の各分野における第三者の専門家を加えた独立調査チームも同行し、監査は異例の規模と緊張感に包まれた。
ノエル自身が直接人選に関わり、「最終報告には私が責任を持って目を通す」と声明を出したことで、現場の空気は引き締まり、組織の内外に強い圧力がかかった。
だが――その大規模調査の報に、世間が注目した“ある存在”の姿はなかった。
ノエルの両親、ギルベール公爵とテレーゼ公爵夫人である。
本来であれば、財団のアドバイザーであり、ノエルの後見たるシュヴァリエ公爵家が前面に出て陣頭指揮を取ることは、政略的にも有効だったはずだ。
貴族社会において「家名による責任の担保」は、信頼回復の常套手段であり、事実それを期待する声も少なくなかった。
しかし――公爵夫妻は沈黙を守り、舞台には現れなかった。
それは、ノエル自身が要請を拒んだからだった。
彼は、アリスのこれまでの努力と信頼を、「後ろ盾があるから」という印象で矮小化させたくなかった。
「親の名で事を納めれば、アリスの信頼は“後ろ盾のある女”という色眼鏡で見られる。
……それは、アリスが積み重ねてきた本当の価値を損なう。
だからこそ、私が、対等な立場で守る」
ノエルの真意を受け取ったギルベール公爵は、「この件はノエルに任せる」と静かに言い、事態に一切の口出しをしなかった。
テレーゼもまた、「もしも本当に必要になったときは、私が前に出ます」とだけ言い残し、沈黙の立場を選んだ。
――それは、“何もしない”のではない。
『信じて、見守る』という、シュヴァリエ家なりの最大の支援だった。
そして、それはノエルにとっても、将来アリスと「対等に生きる」ための、唯一の選択でもあった。
***
一方、アリスは本部に残り、外面上は平静を保ちつつ、淡々と業務をこなしていた。
けれど内心では、不安という名の靄が、呼吸すら鈍らせていた。
(――どうして、こんなことが……)
それは信念を揺るがす出来事だった。
寄付者の善意、救済を待つ子どもたちの未来。
そのすべてを支えるために、自分を削ってきた。財団を信じてきた。
――裏切られるはずがない。
心から、そう信じていたのに。
やがて届けられた初期報告は、その想いを容赦なく打ち砕いた。
「確認された不正支出は、過去二年間で合計およそ一万二千リーヴァ。実在しない備品購入や、架空の施設工事費用が主な内容です」
「関与が判明した業者は五社。そのうち二社は、支局長の親族によって運営されていたと確認されています」
――身内による利益供与と、巧妙に隠された裏帳簿。
不明金の一部は、支局長の生活費や高級家具の購入に充てられていた疑いがある。
さらに、これらの不正を知りながら黙認していた職員が複数存在することも明らかになった。
アリスの視界がぐらりと揺れた。
手にした報告書の活字が、涙でにじみ、読めない。
(……こんな不正が二年も続いていたの……)
あまりにも情けなく、悔しく、苦しいのに、怒りの言葉も涙も出てこなかった。
ただ、息をひそめて耐えるしかなかった。
そのとき、ノエルが無言で傍に歩み寄る。
肩越しに机上の書類へ視線を落とし、その目が、静かに怒りを燃やしていた。
「――関係者は、私が責任を持って排除する。
君が信じて築いてきた誠実な日々を、これ以上踏みにじらせたりはしない」
その声は冷静だったが、言葉の奥に籠もる強い決意が、アリスの心を震わせた。
アリスはゆっくりと顔を上げる。その瞳には、涙ではなく、確かな意思が宿っていた。
「……監査報告が出る前に、私から声明を発表します。
財団を代表して謝罪し、再発防止のための改革案を提示します」
そう語る彼女の拳は、膝の上でそっと握られていた。
誰の助けも借りず、己の立場で矢面に立とうとする強さがそこにあった。
ノエルは彼女の横顔を見つめ、しばらく言葉を失う。
そして、低く息を吐いた。
「……君が矢面に立つ必要はない。攻撃されるべきは、君じゃない。
私が君を守る。どんな痛みも、非難も、全部、私が受け止める」
アリスは、そっと微笑んだ。けれど、その笑みは哀しく、どこか痛々しかった。
「ありがとう、ノエル様。でも……私は、理事長です。責任を果たさずに済ませることはできません。亡き夫――クロード様の名を、汚すわけにはいきません」
その一言に、ノエルは言葉を詰まらせる。
彼女は本当に、強い。
けれど、強くあろうとするその姿が、どれほど孤独であったか。
ノエルには、彼女の冷たい指先が、それを物語っているように感じられた。
彼はそっとアリスの手を取り、じっと見つめる。
「君が一人で戦うことはない。私がそばにいる。……それだけは、信じていて」
アリスは、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
そしてそっとノエルに寄りかかり、額を彼の胸元に預ける。
「……ありがとうございます」
この夜、ふたりの絆はまた一歩、深く結び直された。
だがそれは同時に、嵐の前触れでもあった。
――不正の全貌が公にされれば、世論は一気に財団へと傾くだろう。
「女が理事長だから甘くなったのではないか」
「後妻が築いた財団など、元から信用ならなかった」――そんな心ない声が、火に油を注ぐように飛び交うかもしれない。
そして、貴族社会がそれをどう見るか。
公爵家の嫡男であるノエルと、問題を抱えた組織の理事長であるアリスの関係は、当然ながら取り沙汰されることになる。
まだ、ふたりの未来は、決して安定してはいなかった。
ノエルの主導によって、〈クロード・エルウッド財団〉は南部リナリア支局への抜き打ち監査を決行した。
動員されたのは、財団本部でも指折りの精鋭監査官たち。
さらに、財務・法務・公益性の各分野における第三者の専門家を加えた独立調査チームも同行し、監査は異例の規模と緊張感に包まれた。
ノエル自身が直接人選に関わり、「最終報告には私が責任を持って目を通す」と声明を出したことで、現場の空気は引き締まり、組織の内外に強い圧力がかかった。
だが――その大規模調査の報に、世間が注目した“ある存在”の姿はなかった。
ノエルの両親、ギルベール公爵とテレーゼ公爵夫人である。
本来であれば、財団のアドバイザーであり、ノエルの後見たるシュヴァリエ公爵家が前面に出て陣頭指揮を取ることは、政略的にも有効だったはずだ。
貴族社会において「家名による責任の担保」は、信頼回復の常套手段であり、事実それを期待する声も少なくなかった。
しかし――公爵夫妻は沈黙を守り、舞台には現れなかった。
それは、ノエル自身が要請を拒んだからだった。
彼は、アリスのこれまでの努力と信頼を、「後ろ盾があるから」という印象で矮小化させたくなかった。
「親の名で事を納めれば、アリスの信頼は“後ろ盾のある女”という色眼鏡で見られる。
……それは、アリスが積み重ねてきた本当の価値を損なう。
だからこそ、私が、対等な立場で守る」
ノエルの真意を受け取ったギルベール公爵は、「この件はノエルに任せる」と静かに言い、事態に一切の口出しをしなかった。
テレーゼもまた、「もしも本当に必要になったときは、私が前に出ます」とだけ言い残し、沈黙の立場を選んだ。
――それは、“何もしない”のではない。
『信じて、見守る』という、シュヴァリエ家なりの最大の支援だった。
そして、それはノエルにとっても、将来アリスと「対等に生きる」ための、唯一の選択でもあった。
***
一方、アリスは本部に残り、外面上は平静を保ちつつ、淡々と業務をこなしていた。
けれど内心では、不安という名の靄が、呼吸すら鈍らせていた。
(――どうして、こんなことが……)
それは信念を揺るがす出来事だった。
寄付者の善意、救済を待つ子どもたちの未来。
そのすべてを支えるために、自分を削ってきた。財団を信じてきた。
――裏切られるはずがない。
心から、そう信じていたのに。
やがて届けられた初期報告は、その想いを容赦なく打ち砕いた。
「確認された不正支出は、過去二年間で合計およそ一万二千リーヴァ。実在しない備品購入や、架空の施設工事費用が主な内容です」
「関与が判明した業者は五社。そのうち二社は、支局長の親族によって運営されていたと確認されています」
――身内による利益供与と、巧妙に隠された裏帳簿。
不明金の一部は、支局長の生活費や高級家具の購入に充てられていた疑いがある。
さらに、これらの不正を知りながら黙認していた職員が複数存在することも明らかになった。
アリスの視界がぐらりと揺れた。
手にした報告書の活字が、涙でにじみ、読めない。
(……こんな不正が二年も続いていたの……)
あまりにも情けなく、悔しく、苦しいのに、怒りの言葉も涙も出てこなかった。
ただ、息をひそめて耐えるしかなかった。
そのとき、ノエルが無言で傍に歩み寄る。
肩越しに机上の書類へ視線を落とし、その目が、静かに怒りを燃やしていた。
「――関係者は、私が責任を持って排除する。
君が信じて築いてきた誠実な日々を、これ以上踏みにじらせたりはしない」
その声は冷静だったが、言葉の奥に籠もる強い決意が、アリスの心を震わせた。
アリスはゆっくりと顔を上げる。その瞳には、涙ではなく、確かな意思が宿っていた。
「……監査報告が出る前に、私から声明を発表します。
財団を代表して謝罪し、再発防止のための改革案を提示します」
そう語る彼女の拳は、膝の上でそっと握られていた。
誰の助けも借りず、己の立場で矢面に立とうとする強さがそこにあった。
ノエルは彼女の横顔を見つめ、しばらく言葉を失う。
そして、低く息を吐いた。
「……君が矢面に立つ必要はない。攻撃されるべきは、君じゃない。
私が君を守る。どんな痛みも、非難も、全部、私が受け止める」
アリスは、そっと微笑んだ。けれど、その笑みは哀しく、どこか痛々しかった。
「ありがとう、ノエル様。でも……私は、理事長です。責任を果たさずに済ませることはできません。亡き夫――クロード様の名を、汚すわけにはいきません」
その一言に、ノエルは言葉を詰まらせる。
彼女は本当に、強い。
けれど、強くあろうとするその姿が、どれほど孤独であったか。
ノエルには、彼女の冷たい指先が、それを物語っているように感じられた。
彼はそっとアリスの手を取り、じっと見つめる。
「君が一人で戦うことはない。私がそばにいる。……それだけは、信じていて」
アリスは、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
そしてそっとノエルに寄りかかり、額を彼の胸元に預ける。
「……ありがとうございます」
この夜、ふたりの絆はまた一歩、深く結び直された。
だがそれは同時に、嵐の前触れでもあった。
――不正の全貌が公にされれば、世論は一気に財団へと傾くだろう。
「女が理事長だから甘くなったのではないか」
「後妻が築いた財団など、元から信用ならなかった」――そんな心ない声が、火に油を注ぐように飛び交うかもしれない。
そして、貴族社会がそれをどう見るか。
公爵家の嫡男であるノエルと、問題を抱えた組織の理事長であるアリスの関係は、当然ながら取り沙汰されることになる。
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