【完結】装丁のない恋 〜ルーメンの夜に〜

とっくり

文字の大きさ
8 / 14

8

しおりを挟む
 夜更け、窓硝子を薄く鳴らす風が、机のランプの炎を細くした。

 ソフィは小さな“&”の活字を掌で転がし、紙を一枚だけ引き寄せる。

マルセルの紙片に書かれた“二行”という言葉が、胸の内側でひと目盛りずつ音を立てた。

 鉛筆を立て、いちど置き、呼吸を整えて、また立てる。

 折られる前の紙――誰の本にもまだならない、平らな余白。そこに、そっと触れる指の温度。

【折られる前の紙は、誰のものにもならない。指の温度で、波は静かになる】

 読み返すと、少しだけ気恥ずかしくなった。今の自分の気持ちが表れているからだろうか。

『足りないほどが届く』と彼は言った。
二行は、たしかにほんの少しだけ喉に余白を残すような気がする。

 封筒に入れ、角を蜂蜜色の蝋で一滴留める。

表には【ルーメン(LUMEN )編集部行】と書き、裏には〈オルフェ〉の名だけ書き、印刷所経由で投函した。




 朝の工房。
 糊鍋は弱火で息をし、小口が日差しを薄く返した。

「聞いたぞ。二行は出すのか」
 とリーヴが首にかけたタオルで顔を拭いながら聞かれた。

「はい。印刷所便で出しました」
「そうか。――針はまっすぐ、角は落とすなよ」
「はい」

 しばらくして、使いの少年が駆け込む。  
 束の角に小さな赤い点――受け取り済みの合図。

 ソフィは胸のどこかが、静かに温まるのを感じた。名は出さない。でも、言葉は届いた。



 昼、ソフィは向かいの食堂に行った。
マルセルに会えるか、わずかな期待があったが、いなかった。

 スープと固いパンで簡単に済ませ、〈オルフェ〉に戻る。

 入口の鈴が鳴った。アントンが工房に顔を覗かせた。いつもの黒いエプロンを身につけ、灰褐色の静かな目て話す。
「ルーメンに出したよ」
「ありがとう」
 彼は胸ポケットから薄い紙片を取り出す。
「編集部から預かったんだ」

【二行、良い温度。週末号・灯芯枠で組む】
 短い文で“&”印は赤鉛筆だった。

「おめでとう、良かったな」
「まだ、匿名だけどね」
「それでもいいじゃないか」
 アントンは穏やかに返しながら見本帳を台に置いた。

「午後は紙をカットする作業に入るよ。人手が足りなかったら声をかけて」
「大丈夫、ありがとう」
「何かあれば向かいに。ほとんどの時間は印刷所にいるからさ」

それだけ言って、扉の鈴をやさしく一度鳴らし、戻っていった。



 午後の仕事の合間、紙の端に指を置いたまま、ソフィは昨夜のエリスの笑いを思い出した。

 “返してね?”――あの声は、所有の合図だった。

 胸の奥で火がくすぶる。
 けれど、その火で紙を焦がさないように、そして、胸が燃え出さないように、指を冷やした。



 夕刻、終了のベルと同時にルチアがふらりと工房に顔を出した。

「仕事終わった?」
「ええ、今終わったわ」
「少し、話せる?」
「ええ」」

 二人で港のほうへ歩き出した。
風はやさしく、看板の鎖が遠くで一度だけ鳴る。

「二行、読んだよ」
 とルチアがソフィの顔を覗き込みながら話す。

「え、もう?」
「編集部の壁に貼ってあったの。“組見本”でね。撮らないでって言われたから、目だけで撮ったよ」
 ルチアはミントをひと粒、ソフィの掌に落とした。

「ソフィは、薄め方が上手よ。水じゃなく、空気でね」
「空気の薄めかた?」
「そう。――あの人の近くにいながら自分の温度を保つのは、手に職と同じくらいむずかしいから」
 ルチアの視線は凪いだ海に向けられている。

「……うん」
「質問。好きは、仕事の前? 後?」
 問い方は軽いのに、芯だけはまっすぐだった。
 ソフィは少し考える。
「同列。……今は」
 恋も仕事も“仮綴じ”のまま。
 どちらにも指の入る余地を残す――そんな答えだ。

「それがいい」
 ルチアは片目を閉じて笑う。  

「夜は街の呼吸を受け取り、朝はページの呼吸を揃える。彼はそう。――あなたはあなたの順番で」
 ルチアは肩をすくめた。

 “彼”のリズムに合わせなくていい。
 合わせる時も、外す時も、それを自分で決めればいいという合図だけを彼女は示したのだった。



 昼休み、港の売店に〈灯芯〉が並ぶと聞き、自然に足が向いた。

扉に手をかけた瞬間、背後で低い声が落ちる。

「いい二行だった」

 振り向くと、濃紺のコートに白シャツの袖口のボタンが一つ外れ、耳に赤鉛筆――マルセルだった。

「買うよ」
 彼は硬貨を指で軽く転がし、二部を取る。
「一部は僕。もう一部は君に」
 整った口元を綻ばせて、一冊をソフィへ手渡す。
「いいの? ありがとう」
「ここで会えたのも縁だからね」
 彼の片口角が上がり、浅いえくぼが落ちた。

 少し間を置いて――
「この先の角に、スープの店がある。少しだけ寄っていく?君の昼は削らない。無理なら次で」
 言い方はやわらかいのに、誘いははっきりしている。

 ソフィは微笑んだ。
「今日は工房に戻るの。……その場所、紙に書いてくれる?」

「もちろん」
 マルセルは紙片に店名と小さな“&”を書き、ソフィの掌にそっと置いた。

「昼、五分だけ寄り道しよう。君の時間は君のままで」

 灰青の瞳を細めて手を振り、彼は通りの輪の継ぎ目へ消えていった。
 
 ソフィは紙片の“&”を親指でそっとなぞり、売店のガラスに映る自分の顔を一度だけ見てから、工房へ向けて歩き出した。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

幽閉された王子と愛する侍女

月山 歩
恋愛
私の愛する王子様が、王の暗殺の容疑をかけられて離宮に幽閉された。私は彼が心配で、王国の方針に逆らい、侍女の立場を捨て、彼の世話をしに駆けつける。嫌疑が晴れたら、私はもう王宮には、戻れない。それを知った王子は。

騙され続けて、諦めて落ちて来た僕の妻

月山 歩
恋愛
「新しい街で、二人で生きていこう。」木の下で、一緒に行こうと約束した恋人は現れず、待ち過ぎて、ついに倒れるセシリア。助けてくれた幼馴染のハルワルドに、私をあげる。私はいつも間違ってばかりだから。

【完結】シャーロットを侮ってはいけない

七瀬菜々
恋愛
『侯爵家のルーカスが、今度は劇団の歌姫フレデリカに手を出したらしい』 社交界にこんな噂が流れ出した。 ルーカスが女性と噂になるのは、今回に限っての事ではない。 しかし、『軽薄な男』を何よりも嫌うシャーロットは、そんな男に成り下がってしまった愛しい人をどうにかしようと動き出す。 ※他のサイトにて掲載したものを、少し修正してを投稿しました

【完結】0日婚の白魔女皇后は呪いの冷酷帝に寵愛される

さわらにたの
恋愛
「冷酷帝」エンジュに皇后として望まれ、政略結婚として輿入れした白魔術師キーラ。 初夜にて「俺は呪われている。本当は皇后などいらん、解呪のためだけにお前を呼んだ」と明かされて解呪に挑むことに……から次第にあれやこれやで結局ハピエンラブラブになるお話です ほんのりと前作「魔力なしの転生少女は天才魔術師様に求婚される」と同じ世界線、時間軸です

王家の血を引いていないと判明した私は、何故か変わらず愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女であるスレリアは、自身が王家の血筋ではないことを知った。 それによって彼女は、家族との関係が終わると思っていた。父や母、兄弟の面々に事実をどう受け止められるのか、彼女は不安だったのだ。 しかしそれは、杞憂に終わった。 スレリアの家族は、彼女を家族として愛しており、排斥するつもりなどはなかったのだ。 ただその愛し方は、それぞれであった。 今まで通りの距離を保つ者、溺愛してくる者、さらには求婚してくる者、そんな家族の様々な対応に、スレリアは少々困惑するのだった。

結婚前日に友人と入れ替わってしまった・・・!

月(ユエ)/久瀬まりか
恋愛
伯爵令嬢キャンディスは、愛する婚約者パトリックとの挙式を明日に控えた朝、目覚めると同級生のキムに入れ替わっていた。屋敷に戻っても門すら入れてもらえず、なすすべなく結婚式を迎えてしまう。このままではパトリックも自分の人生も奪われてしまう! そこでキャンディスは藁にも縋る思いである場所へ向かう。 「残念な顔だとバカにされていた私が隣国の王子様に見初められました」に出てくる魔法使いゼインのシリーズですが、この話だけでも読めます。

【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。

朝日みらい
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。 宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。 彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。 加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。 果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?

【完結】おしどり夫婦と呼ばれる二人

通木遼平
恋愛
 アルディモア王国国王の孫娘、隣国の王女でもあるアルティナはアルディモアの騎士で公爵子息であるギディオンと結婚した。政略結婚の多いアルディモアで、二人は仲睦まじく、おしどり夫婦と呼ばれている。  が、二人の心の内はそうでもなく……。 ※他サイトでも掲載しています

処理中です...