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夜更け、窓硝子を薄く鳴らす風が、机のランプの炎を細くした。
ソフィは小さな“&”の活字を掌で転がし、紙を一枚だけ引き寄せる。
マルセルの紙片に書かれた“二行”という言葉が、胸の内側でひと目盛りずつ音を立てた。
鉛筆を立て、いちど置き、呼吸を整えて、また立てる。
折られる前の紙――誰の本にもまだならない、平らな余白。そこに、そっと触れる指の温度。
【折られる前の紙は、誰のものにもならない。指の温度で、波は静かになる】
読み返すと、少しだけ気恥ずかしくなった。今の自分の気持ちが表れているからだろうか。
『足りないほどが届く』と彼は言った。
二行は、たしかにほんの少しだけ喉に余白を残すような気がする。
封筒に入れ、角を蜂蜜色の蝋で一滴留める。
表には【ルーメン(LUMEN )編集部行】と書き、裏には〈オルフェ〉の名だけ書き、印刷所経由で投函した。
*
朝の工房。
糊鍋は弱火で息をし、小口が日差しを薄く返した。
「聞いたぞ。二行は出すのか」
とリーヴが首にかけたタオルで顔を拭いながら聞かれた。
「はい。印刷所便で出しました」
「そうか。――針はまっすぐ、角は落とすなよ」
「はい」
しばらくして、使いの少年が駆け込む。
束の角に小さな赤い点――受け取り済みの合図。
ソフィは胸のどこかが、静かに温まるのを感じた。名は出さない。でも、言葉は届いた。
*
昼、ソフィは向かいの食堂に行った。
マルセルに会えるか、わずかな期待があったが、いなかった。
スープと固いパンで簡単に済ませ、〈オルフェ〉に戻る。
入口の鈴が鳴った。アントンが工房に顔を覗かせた。いつもの黒いエプロンを身につけ、灰褐色の静かな目て話す。
「ルーメンに出したよ」
「ありがとう」
彼は胸ポケットから薄い紙片を取り出す。
「編集部から預かったんだ」
【二行、良い温度。週末号・灯芯枠で組む】
短い文で“&”印は赤鉛筆だった。
「おめでとう、良かったな」
「まだ、匿名だけどね」
「それでもいいじゃないか」
アントンは穏やかに返しながら見本帳を台に置いた。
「午後は紙をカットする作業に入るよ。人手が足りなかったら声をかけて」
「大丈夫、ありがとう」
「何かあれば向かいに。ほとんどの時間は印刷所にいるからさ」
それだけ言って、扉の鈴をやさしく一度鳴らし、戻っていった。
*
午後の仕事の合間、紙の端に指を置いたまま、ソフィは昨夜のエリスの笑いを思い出した。
“返してね?”――あの声は、所有の合図だった。
胸の奥で火がくすぶる。
けれど、その火で紙を焦がさないように、そして、胸が燃え出さないように、指を冷やした。
*
夕刻、終了のベルと同時にルチアがふらりと工房に顔を出した。
「仕事終わった?」
「ええ、今終わったわ」
「少し、話せる?」
「ええ」」
二人で港のほうへ歩き出した。
風はやさしく、看板の鎖が遠くで一度だけ鳴る。
「二行、読んだよ」
とルチアがソフィの顔を覗き込みながら話す。
「え、もう?」
「編集部の壁に貼ってあったの。“組見本”でね。撮らないでって言われたから、目だけで撮ったよ」
ルチアはミントをひと粒、ソフィの掌に落とした。
「ソフィは、薄め方が上手よ。水じゃなく、空気でね」
「空気の薄めかた?」
「そう。――あの人の近くにいながら自分の温度を保つのは、手に職と同じくらいむずかしいから」
ルチアの視線は凪いだ海に向けられている。
「……うん」
「質問。好きは、仕事の前? 後?」
問い方は軽いのに、芯だけはまっすぐだった。
ソフィは少し考える。
「同列。……今は」
恋も仕事も“仮綴じ”のまま。
どちらにも指の入る余地を残す――そんな答えだ。
「それがいい」
ルチアは片目を閉じて笑う。
「夜は街の呼吸を受け取り、朝はページの呼吸を揃える。彼はそう。――あなたはあなたの順番で」
ルチアは肩をすくめた。
“彼”のリズムに合わせなくていい。
合わせる時も、外す時も、それを自分で決めればいいという合図だけを彼女は示したのだった。
*
昼休み、港の売店に〈灯芯〉が並ぶと聞き、自然に足が向いた。
扉に手をかけた瞬間、背後で低い声が落ちる。
「いい二行だった」
振り向くと、濃紺のコートに白シャツの袖口のボタンが一つ外れ、耳に赤鉛筆――マルセルだった。
「買うよ」
彼は硬貨を指で軽く転がし、二部を取る。
「一部は僕。もう一部は君に」
整った口元を綻ばせて、一冊をソフィへ手渡す。
「いいの? ありがとう」
「ここで会えたのも縁だからね」
彼の片口角が上がり、浅いえくぼが落ちた。
少し間を置いて――
「この先の角に、スープの店がある。少しだけ寄っていく?君の昼は削らない。無理なら次で」
言い方はやわらかいのに、誘いははっきりしている。
ソフィは微笑んだ。
「今日は工房に戻るの。……その場所、紙に書いてくれる?」
「もちろん」
マルセルは紙片に店名と小さな“&”を書き、ソフィの掌にそっと置いた。
「昼、五分だけ寄り道しよう。君の時間は君のままで」
灰青の瞳を細めて手を振り、彼は通りの輪の継ぎ目へ消えていった。
ソフィは紙片の“&”を親指でそっとなぞり、売店のガラスに映る自分の顔を一度だけ見てから、工房へ向けて歩き出した。
ソフィは小さな“&”の活字を掌で転がし、紙を一枚だけ引き寄せる。
マルセルの紙片に書かれた“二行”という言葉が、胸の内側でひと目盛りずつ音を立てた。
鉛筆を立て、いちど置き、呼吸を整えて、また立てる。
折られる前の紙――誰の本にもまだならない、平らな余白。そこに、そっと触れる指の温度。
【折られる前の紙は、誰のものにもならない。指の温度で、波は静かになる】
読み返すと、少しだけ気恥ずかしくなった。今の自分の気持ちが表れているからだろうか。
『足りないほどが届く』と彼は言った。
二行は、たしかにほんの少しだけ喉に余白を残すような気がする。
封筒に入れ、角を蜂蜜色の蝋で一滴留める。
表には【ルーメン(LUMEN )編集部行】と書き、裏には〈オルフェ〉の名だけ書き、印刷所経由で投函した。
*
朝の工房。
糊鍋は弱火で息をし、小口が日差しを薄く返した。
「聞いたぞ。二行は出すのか」
とリーヴが首にかけたタオルで顔を拭いながら聞かれた。
「はい。印刷所便で出しました」
「そうか。――針はまっすぐ、角は落とすなよ」
「はい」
しばらくして、使いの少年が駆け込む。
束の角に小さな赤い点――受け取り済みの合図。
ソフィは胸のどこかが、静かに温まるのを感じた。名は出さない。でも、言葉は届いた。
*
昼、ソフィは向かいの食堂に行った。
マルセルに会えるか、わずかな期待があったが、いなかった。
スープと固いパンで簡単に済ませ、〈オルフェ〉に戻る。
入口の鈴が鳴った。アントンが工房に顔を覗かせた。いつもの黒いエプロンを身につけ、灰褐色の静かな目て話す。
「ルーメンに出したよ」
「ありがとう」
彼は胸ポケットから薄い紙片を取り出す。
「編集部から預かったんだ」
【二行、良い温度。週末号・灯芯枠で組む】
短い文で“&”印は赤鉛筆だった。
「おめでとう、良かったな」
「まだ、匿名だけどね」
「それでもいいじゃないか」
アントンは穏やかに返しながら見本帳を台に置いた。
「午後は紙をカットする作業に入るよ。人手が足りなかったら声をかけて」
「大丈夫、ありがとう」
「何かあれば向かいに。ほとんどの時間は印刷所にいるからさ」
それだけ言って、扉の鈴をやさしく一度鳴らし、戻っていった。
*
午後の仕事の合間、紙の端に指を置いたまま、ソフィは昨夜のエリスの笑いを思い出した。
“返してね?”――あの声は、所有の合図だった。
胸の奥で火がくすぶる。
けれど、その火で紙を焦がさないように、そして、胸が燃え出さないように、指を冷やした。
*
夕刻、終了のベルと同時にルチアがふらりと工房に顔を出した。
「仕事終わった?」
「ええ、今終わったわ」
「少し、話せる?」
「ええ」」
二人で港のほうへ歩き出した。
風はやさしく、看板の鎖が遠くで一度だけ鳴る。
「二行、読んだよ」
とルチアがソフィの顔を覗き込みながら話す。
「え、もう?」
「編集部の壁に貼ってあったの。“組見本”でね。撮らないでって言われたから、目だけで撮ったよ」
ルチアはミントをひと粒、ソフィの掌に落とした。
「ソフィは、薄め方が上手よ。水じゃなく、空気でね」
「空気の薄めかた?」
「そう。――あの人の近くにいながら自分の温度を保つのは、手に職と同じくらいむずかしいから」
ルチアの視線は凪いだ海に向けられている。
「……うん」
「質問。好きは、仕事の前? 後?」
問い方は軽いのに、芯だけはまっすぐだった。
ソフィは少し考える。
「同列。……今は」
恋も仕事も“仮綴じ”のまま。
どちらにも指の入る余地を残す――そんな答えだ。
「それがいい」
ルチアは片目を閉じて笑う。
「夜は街の呼吸を受け取り、朝はページの呼吸を揃える。彼はそう。――あなたはあなたの順番で」
ルチアは肩をすくめた。
“彼”のリズムに合わせなくていい。
合わせる時も、外す時も、それを自分で決めればいいという合図だけを彼女は示したのだった。
*
昼休み、港の売店に〈灯芯〉が並ぶと聞き、自然に足が向いた。
扉に手をかけた瞬間、背後で低い声が落ちる。
「いい二行だった」
振り向くと、濃紺のコートに白シャツの袖口のボタンが一つ外れ、耳に赤鉛筆――マルセルだった。
「買うよ」
彼は硬貨を指で軽く転がし、二部を取る。
「一部は僕。もう一部は君に」
整った口元を綻ばせて、一冊をソフィへ手渡す。
「いいの? ありがとう」
「ここで会えたのも縁だからね」
彼の片口角が上がり、浅いえくぼが落ちた。
少し間を置いて――
「この先の角に、スープの店がある。少しだけ寄っていく?君の昼は削らない。無理なら次で」
言い方はやわらかいのに、誘いははっきりしている。
ソフィは微笑んだ。
「今日は工房に戻るの。……その場所、紙に書いてくれる?」
「もちろん」
マルセルは紙片に店名と小さな“&”を書き、ソフィの掌にそっと置いた。
「昼、五分だけ寄り道しよう。君の時間は君のままで」
灰青の瞳を細めて手を振り、彼は通りの輪の継ぎ目へ消えていった。
ソフィは紙片の“&”を親指でそっとなぞり、売店のガラスに映る自分の顔を一度だけ見てから、工房へ向けて歩き出した。
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