【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

文字の大きさ
10 / 52

10

しおりを挟む
 翌週の午前。
 春の雨が、フェルディナン邸の屋根をやわらかく叩いていた。

 濡れた石畳が淡く光り、庭の白薔薇が雨粒を抱いてしずかに揺れている。

 セラは往診のため、再びその門をくぐった。

 薄い霧を含んだ空気のなかで、外套の裾がしっとりと重くなる。

 ――一度来ただけなのに、もう道を覚えている。

 それが不思議で、自分でも驚いていた。

 屋敷の回廊は磨かれた大理石が光を映し、雨雲の陰りを受けてもなお、どこか神聖な白さを保っていた。

 フェルディナン夫人の診察を終え、薬箱を抱えたセラは、静かな廊下を歩いて玄関へ向かっていた。

 整然とした空気のなかで、靴音だけが響く。

 遠くで、時計の針が小さく時を刻んでいる。

 十五年前の自分なら、その音を聞くだけで胸が高鳴っただろう。

 ――彼に会える時間が近づくような気がしていたからだ。

 けれど今は違う。
 その音が、過ぎ去った年月の重さを思い出させる。懐かしさよりも、ほんの少し息苦しさを覚えた。

 笑おうとしたけれど、唇は動かなかった。
 心の奥のどこかで、名もない痛みがかすかに鳴っていた。






 玄関の前に差しかかったその時――
 奥の扉が、静かに開いた。

 執事が誰かに恭しく頭を下げ、道を空ける。その向こうから、背の高い男が現れた。

 灰金の髪は耳にかかるほどの長さで、前髪だけが長めに流れ、端正な顔立ちを際立たせ、光を受けて柔らかく揺れた。

 深い蒼の瞳は静かで、夜明け前の空のようにどこか冷たく、それでいて吸い込まれるほど澄んでいる。

 歩みはしなやかで、静かな威厳と大人の男として研ぎ澄まれた気配を纏っていた。

 ――ジュールだった。

 十五年という歳月が、彼を少年から男へと育て上げ、昔にはなかった男の色気を匂わせていた。

 セラの心臓が強く鳴る。
 手の中の薬箱がわずかに震えた。

 彼がこちらを見た瞬間、セラの時間が止まる。

 あの日、丘の上で風に笑った少年。
 港の光の中で、自分の髪にそっと指を伸ばした少年。

 その人が、今ここに立っている。
 息が詰まり、胸が痛いほど熱くなる。

 ジュールの口元がわずかに動き、すぐに閉じられた。言葉を探すような、遠い記憶の淵を覗くような仕草。

 お互いに声を失っていた。
 十五年分の言葉が喉の奥で絡まり、ほどけなかった。

 ようやく、先に口を開いたのはセラだった。

「……ごきげんよう」

 それだけ。
 名を呼ぶことがどうしてもできなかった。
 呼んだ瞬間、過去が音を立てて崩れてしまいそうだった。

 ジュールの眉がかすかに揺れる。
 声は低く落ち着き、穏やかなままだっま。

「……ああ、セラ。久しいな」

 その一言が胸の奥を震わせた。
 あの少年の声が、大人の響きに育って戻ってきた。

 セラは静かに頭を下げる。
 自分の鼓動だけが、世界の音を塗り潰していた。

  そのとき、廊下の奥から柔らかな声が響いた。

「あら、ジュール。今戻ったのね。……ちょうど良かったわ」
 フェルディナン夫人が姿を見せ、微笑みながら続けた。
「この方が、先日お話しした薬師のセラさんよ」

 ジュールがゆっくりと振り向く。
 その仕草ひとつで、十五年前の記憶がよみがえる。

「……そうでしたか」
 短い言葉のあと、彼の視線が再びセラに向く。

 まっすぐで、逃げ場のないほど澄んだ瞳。その奥に、どこか痛みのような翳りが宿っていた。

 胸の奥が軋んだ。
 十五年の歳月を経ても、ただその目に見つめられるだけで、世界の色が一瞬で変わってしまう。

 夫人が穏やかに笑った。
「腕の良い方なのよ。セラさんの薬を飲み始めてから、本当に楽になったの。香りも優しくてね」

 ジュールの瞳が再びセラに移る。
 微かな驚きと、言葉にならない感情がその奥に滲んだ。

 セラは咄嗟に視線を逸らし、わずかに頭を下げた。
 頬が熱い。それなのに、手のひらは氷のように冷たかった。

「最近のあなたは、顔色がすぐれないわ。良かったら、あなたもセラさんに診ていただいたら?」
 夫人は心配そうに婿の顔を覗き込む。

 ジュールは小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「私はこの通り元気です。義母上のご体調が回復されたのなら、それ以上の喜びはありません」

「ええ、安心して。……ねえ、セラさん、またお願いできる?」

「ええ、もちろんです」

 セラは微笑みながら応じた。
 けれど、その声はほんの少し震えていた。

 薬箱を胸の前に抱きしめるように持ち直す。
 指先に力を込めなければ、心が零れてしまいそうだった。

 彼の穏やかな声が、耳の奥に残る。
 それは十五年前と同じ音のはずなのに――
 どうしてこんなにも、痛いほど懐かしいのだろう。




 廊下を離れ、玄関へ向かう途中、セラは小さく息を吐いた。

 ――十五年。

 長い年月が過ぎたのに、彼を見ると、あの頃の自分が呼び戻されてしまう。

 足を止め、振り返る。
 遠くの扉の向こう、ジュールが夫人の傍に立っているのが見えた。

 その横顔は穏やかで、どこか悲しげだった。

 彼の妻が事故に遭ったのは、十年前のこと。
それ以来、彼女は一度も目を覚まさない。

 十年という途方もない歳月のあいだ——
 彼はどれほどの痛みを、ひとりで背負ってきたのだろう。

 胸の奥が締めつけられた。
 その背中が語るものを、彼女は知ってはいけない気がした。

 薬箱を握る指先が冷たくなる。

 ――見てはいけない。

 そう言い聞かせながらも、視線を外せなかった。

 遠い春の光の中、あの日の少年が、静かに大人の影をまとって立っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

旦那様に学園時代の隠し子!? 娘のためフローレンスは笑う-昔の女は引っ込んでなさい!

恋せよ恋
恋愛
結婚五年目。 誰もが羨む夫婦──フローレンスとジョシュアの平穏は、 三歳の娘がつぶやいた“たった一言”で崩れ落ちた。 「キャ...ス...といっしょ?」 キャス……? その名を知るはずのない我が子が、どうして? 胸騒ぎはやがて確信へと変わる。 夫が隠し続けていた“女の影”が、 じわりと家族の中に染み出していた。 だがそれは、いま目の前の裏切りではない。 学園卒業の夜──婚約前の学園時代の“あの過ち”。 その一夜の結果は、静かに、確実に、 フローレンスの家族を壊しはじめていた。 愛しているのに疑ってしまう。 信じたいのに、信じられない。 夫は嘘をつき続け、女は影のように フローレンスの生活に忍び寄る。 ──私は、この結婚を守れるの? ──それとも、すべてを捨ててしまうべきなの? 秘密、裏切り、嫉妬、そして母としての戦い。 真実が暴かれたとき、愛は修復か、崩壊か──。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!

この罰は永遠に

豆狸
恋愛
「オードリー、そなたはいつも私達を見ているが、一体なにが楽しいんだ?」 「クロード様の黄金色の髪が光を浴びて、キラキラ輝いているのを見るのが好きなのです」 「……ふうん」 その灰色の瞳には、いつもクロードが映っていた。 なろう様でも公開中です。

【完結】王命の代行をお引き受けいたします

ユユ
恋愛
白過ぎる結婚。 逃れられない。 隣接する仲の悪い貴族同士の婚姻は王命だった。 相手は一人息子。 姉が嫁ぐはずだったのに式の前夜に事故死。 仕方なく私が花嫁に。 * 作り話です。 * 完結しています。

【完結】恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?―――激しく同意するので別れましょう

冬馬亮
恋愛
「恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?」 セシリエの婚約者、イアーゴはそう言った。 少し離れた後ろの席で、婚約者にその台詞を聞かれているとも知らずに。 ※たぶん全部で15〜20話くらいの予定です。 さくさく進みます。

論破令嬢の政略結婚

ささい
恋愛
政略結婚の初夜、夫ルーファスが「君を愛していないから白い結婚にしたい」と言い出す。しかし妻カレンは、感傷を排し、論理で夫を完全に黙らせる。​​​​​​​ ※小説家になろうにも投稿しております。

私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―

喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。 そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。 二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。 最初は手紙も返ってきていたのに、 いつからか音信不通に。 あんなにうっとうしいほど構ってきた男が―― なぜ突然、私を無視するの? 不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、 突然ルイスが帰還した。 ボロボロの身体。 そして隣には――見知らぬ女。 勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、 私の中で何かが壊れた。 混乱、絶望、そして……再起。 すがりつく女は、みっともないだけ。 私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。 「私を簡単に捨てられるとでも? ――君が望んでも、離さない」 呪いを自ら解き放ち、 彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。 すれ違い、誤解、呪い、執着、 そして狂おしいほどの愛―― 二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。 過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。

友達の肩書き

菅井群青
恋愛
琢磨は友達の彼女や元カノや友達の好きな人には絶対に手を出さないと公言している。 私は……どんなに強く思っても友達だ。私はこの位置から動けない。 どうして、こんなにも好きなのに……恋愛のスタートラインに立てないの……。 「よかった、千紘が友達で本当に良かった──」 近くにいるはずなのに遠い背中を見つめることしか出来ない……。そんな二人の関係が変わる出来事が起こる。

【完結】シュゼットのはなし

ここ
恋愛
子猫(獣人)のシュゼットは王子を守るため、かわりに竜の呪いを受けた。 顔に大きな傷ができてしまう。 当然責任をとって妃のひとりになるはずだったのだが‥。

処理中です...