16 / 52
16
しおりを挟む
目を閉じているのに、光を感じた。
遠くで、潮の音がしている。
――ここは、海辺の丘。
セラは小さな頃、よくここでジュールと遊んだ。
まだ少年の彼は、風に髪を揺らし、手をかざして陽を見上げている。
――ジュール、早く!
――待って、セラ。そんなに急ぐと転ぶ。
潮風に笑い声が混ざり、彼が先に駆け出す。
その背を追いかけながら、幼いセラは確かに思っていた。
“ずっとこの人を見ていたい”――と。
*
場面が変わる。
春の光が柔らかく差す、庭の一角。
夢の中のセラは十五歳。
淡い青のドレスに身を包み、少しだけ大人びていた。
丘を降りて王都に学びに出たジュールが、久しぶりに屋敷へ帰ってきた。
もう少年ではない。
背は伸び、言葉の端々に大人の響きを纏っていた。
「……ジュール」
そう呼ぶと、彼は静かに振り返った。
光に照らされた横顔が、まぶしくて、胸が痛くなる。
「ねえ、あなたがいなくなってから、毎日がつまらなかったの」
自分でも驚くほど、言葉がこぼれた。
夢の中なのに、胸の鼓動が痛いほどだった。
「……好きなの。ジュールのことが」
一瞬、風が止まる。
ジュールは目を伏せ、そして笑った。
「ありがとう、セラ」
優しい声。けれど、その笑みは、拒むように静かだった。
「でも、君はまだ子どもだ。恋なんて、知らないだろう」
「知らないけど、あなたを見てると苦しくなる」
「それは……きっと、憧れだよ」
そう言って、彼はゆっくりと手を伸ばし、セラの頬に触れた。
その指先があたたかくて、涙が滲んだ。
「……ジュール」
名を呼んだ瞬間、唇が触れた。
短い、やさしい口づけ。
春の匂いと、少し潮の味がした。
けれど、そのぬくもりが消えるのも一瞬だった。
彼の声が遠くで響く。
――ごめん。君は、まだ。
伸ばした手が空を掴む。
光が白く弾け、世界が揺れた。
*
目を開けると、天井の木目が揺れていた。
胸が上下し、頬が熱い。
夢の残り香のように、唇が震えていた。
――夢、だったの?
けれど、その感触が鮮明すぎて、現実と区別がつかなかった。
ゆっくりと手を伸ばす。指先が唇に触れる。
……違う。これは、昨日の――。
あの夜、熱を帯びた静寂の中で触れた、彼の唇の温度。夢ではなく、確かに現実のもの。
胸の奥がざわめく。
喉の奥に熱がこみ上げ、息が詰まった。
カーテンの隙間から差す朝の光が、あの日の海の光と重なる。
あの夢の続きが、いま現実に届いてしまったのだ。
――どうして、あの人はあの時、あんなふうに。
そして私は、どうしてあんなにも……。
答えのない問いが、熱を帯びて胸の中を巡った。
セラは枕に顔を埋め、静かに目を閉じた。
眠ることも、覚めることもできないまま、昨日の唇の記憶が、何度も何度も波のように寄せては返した。
***
倒れてから、一週間。
セラは自宅で静養していた。
窓辺の鉢植えに朝の光が差し込み、風にレースのカーテンが揺れている。
体の熱は下がったが、まだ胸の奥にかすかな重みが残っていた。
夢と現実の境が曖昧なまま、寝台に横たわると、昨日の出来事が何度も頭の中で反芻された。
そんなとき、玄関の扉を叩く音がした。
「やあ、セラ。生きてるか?」
その声に思わず笑みがこぼれる。
扉を開けると、診療所の院長――アラン・ド・モンルージュが、薬草の束を片手に立っていた。
栗色の髪を後ろで束ね、淡い灰の瞳がやさしく笑っている。
三十五歳、モンルージュ伯爵家の三男坊。爵位を継がない代わりに、学問と医療の道を選び、王都で診療所を開いた人だった。
「スープと薬草だ。栄養取らなきゃ、また倒れる」
「ありがとうございます。でも……お忙しいのに」
「忙しいからこそ、優秀な薬師に寝込まれると困るんだよ」
冗談めかして言う声に、思わず笑みがこぼれる。
アランはそのまま椅子を引き寄せ、軽くため息をついた。
「フェルディナン夫人の件なんだが……」
セラの手がわずかに止まる。
「夜でも呼ばれてたって聞いた。夫人に頼られすぎてないか?」
「……私が倒れたのは、ただの疲労です。夫人のせいではありません」
「そう言うと思った」
アランは少し笑って、机の上の薬草束を指でなぞった。
「セラ、真面目なのはいいけど、自分を省くなよ。
フェルディナン家の往診は、今後しばらく俺かルネに交代してもいい。お前は少し休め」
セラは首を横に振る。
「でも、夫人の調子はようやく安定してきたんです。途中で人が変わると――」
「患者のために言ってるんだな?」
「はい」
「……だったら、患者を支える“お前”も守らなきゃ意味がない」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
彼は叱るような声ではなく、静かに、確かにセラを気遣っていた。
「……分かりました。少し考えます」
「よく考えておいてくれ」
アランは立ち上がりながら、苦笑まじりに言った。
「ったく。昔から強情なんだよな。薬草抱えて雪道を歩いたときも、似たような顔してた」
「覚えてるんですか」
「忘れられるか。こっちは肝を冷やした」
軽い口調の奥に、確かな信頼の温度があった。
セラは思わず微笑みながらも、胸の奥にわずかな痛みを覚えた。
――この穏やかなやりとりの裏に、思い出すべきではない“別の声”があったからだった。
遠くで、潮の音がしている。
――ここは、海辺の丘。
セラは小さな頃、よくここでジュールと遊んだ。
まだ少年の彼は、風に髪を揺らし、手をかざして陽を見上げている。
――ジュール、早く!
――待って、セラ。そんなに急ぐと転ぶ。
潮風に笑い声が混ざり、彼が先に駆け出す。
その背を追いかけながら、幼いセラは確かに思っていた。
“ずっとこの人を見ていたい”――と。
*
場面が変わる。
春の光が柔らかく差す、庭の一角。
夢の中のセラは十五歳。
淡い青のドレスに身を包み、少しだけ大人びていた。
丘を降りて王都に学びに出たジュールが、久しぶりに屋敷へ帰ってきた。
もう少年ではない。
背は伸び、言葉の端々に大人の響きを纏っていた。
「……ジュール」
そう呼ぶと、彼は静かに振り返った。
光に照らされた横顔が、まぶしくて、胸が痛くなる。
「ねえ、あなたがいなくなってから、毎日がつまらなかったの」
自分でも驚くほど、言葉がこぼれた。
夢の中なのに、胸の鼓動が痛いほどだった。
「……好きなの。ジュールのことが」
一瞬、風が止まる。
ジュールは目を伏せ、そして笑った。
「ありがとう、セラ」
優しい声。けれど、その笑みは、拒むように静かだった。
「でも、君はまだ子どもだ。恋なんて、知らないだろう」
「知らないけど、あなたを見てると苦しくなる」
「それは……きっと、憧れだよ」
そう言って、彼はゆっくりと手を伸ばし、セラの頬に触れた。
その指先があたたかくて、涙が滲んだ。
「……ジュール」
名を呼んだ瞬間、唇が触れた。
短い、やさしい口づけ。
春の匂いと、少し潮の味がした。
けれど、そのぬくもりが消えるのも一瞬だった。
彼の声が遠くで響く。
――ごめん。君は、まだ。
伸ばした手が空を掴む。
光が白く弾け、世界が揺れた。
*
目を開けると、天井の木目が揺れていた。
胸が上下し、頬が熱い。
夢の残り香のように、唇が震えていた。
――夢、だったの?
けれど、その感触が鮮明すぎて、現実と区別がつかなかった。
ゆっくりと手を伸ばす。指先が唇に触れる。
……違う。これは、昨日の――。
あの夜、熱を帯びた静寂の中で触れた、彼の唇の温度。夢ではなく、確かに現実のもの。
胸の奥がざわめく。
喉の奥に熱がこみ上げ、息が詰まった。
カーテンの隙間から差す朝の光が、あの日の海の光と重なる。
あの夢の続きが、いま現実に届いてしまったのだ。
――どうして、あの人はあの時、あんなふうに。
そして私は、どうしてあんなにも……。
答えのない問いが、熱を帯びて胸の中を巡った。
セラは枕に顔を埋め、静かに目を閉じた。
眠ることも、覚めることもできないまま、昨日の唇の記憶が、何度も何度も波のように寄せては返した。
***
倒れてから、一週間。
セラは自宅で静養していた。
窓辺の鉢植えに朝の光が差し込み、風にレースのカーテンが揺れている。
体の熱は下がったが、まだ胸の奥にかすかな重みが残っていた。
夢と現実の境が曖昧なまま、寝台に横たわると、昨日の出来事が何度も頭の中で反芻された。
そんなとき、玄関の扉を叩く音がした。
「やあ、セラ。生きてるか?」
その声に思わず笑みがこぼれる。
扉を開けると、診療所の院長――アラン・ド・モンルージュが、薬草の束を片手に立っていた。
栗色の髪を後ろで束ね、淡い灰の瞳がやさしく笑っている。
三十五歳、モンルージュ伯爵家の三男坊。爵位を継がない代わりに、学問と医療の道を選び、王都で診療所を開いた人だった。
「スープと薬草だ。栄養取らなきゃ、また倒れる」
「ありがとうございます。でも……お忙しいのに」
「忙しいからこそ、優秀な薬師に寝込まれると困るんだよ」
冗談めかして言う声に、思わず笑みがこぼれる。
アランはそのまま椅子を引き寄せ、軽くため息をついた。
「フェルディナン夫人の件なんだが……」
セラの手がわずかに止まる。
「夜でも呼ばれてたって聞いた。夫人に頼られすぎてないか?」
「……私が倒れたのは、ただの疲労です。夫人のせいではありません」
「そう言うと思った」
アランは少し笑って、机の上の薬草束を指でなぞった。
「セラ、真面目なのはいいけど、自分を省くなよ。
フェルディナン家の往診は、今後しばらく俺かルネに交代してもいい。お前は少し休め」
セラは首を横に振る。
「でも、夫人の調子はようやく安定してきたんです。途中で人が変わると――」
「患者のために言ってるんだな?」
「はい」
「……だったら、患者を支える“お前”も守らなきゃ意味がない」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
彼は叱るような声ではなく、静かに、確かにセラを気遣っていた。
「……分かりました。少し考えます」
「よく考えておいてくれ」
アランは立ち上がりながら、苦笑まじりに言った。
「ったく。昔から強情なんだよな。薬草抱えて雪道を歩いたときも、似たような顔してた」
「覚えてるんですか」
「忘れられるか。こっちは肝を冷やした」
軽い口調の奥に、確かな信頼の温度があった。
セラは思わず微笑みながらも、胸の奥にわずかな痛みを覚えた。
――この穏やかなやりとりの裏に、思い出すべきではない“別の声”があったからだった。
29
あなたにおすすめの小説
旦那様に学園時代の隠し子!? 娘のためフローレンスは笑う-昔の女は引っ込んでなさい!
恋せよ恋
恋愛
結婚五年目。
誰もが羨む夫婦──フローレンスとジョシュアの平穏は、
三歳の娘がつぶやいた“たった一言”で崩れ落ちた。
「キャ...ス...といっしょ?」
キャス……?
その名を知るはずのない我が子が、どうして?
胸騒ぎはやがて確信へと変わる。
夫が隠し続けていた“女の影”が、
じわりと家族の中に染み出していた。
だがそれは、いま目の前の裏切りではない。
学園卒業の夜──婚約前の学園時代の“あの過ち”。
その一夜の結果は、静かに、確実に、
フローレンスの家族を壊しはじめていた。
愛しているのに疑ってしまう。
信じたいのに、信じられない。
夫は嘘をつき続け、女は影のように
フローレンスの生活に忍び寄る。
──私は、この結婚を守れるの?
──それとも、すべてを捨ててしまうべきなの?
秘密、裏切り、嫉妬、そして母としての戦い。
真実が暴かれたとき、愛は修復か、崩壊か──。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!
【完結】王命の代行をお引き受けいたします
ユユ
恋愛
白過ぎる結婚。
逃れられない。
隣接する仲の悪い貴族同士の婚姻は王命だった。
相手は一人息子。
姉が嫁ぐはずだったのに式の前夜に事故死。
仕方なく私が花嫁に。
* 作り話です。
* 完結しています。
この罰は永遠に
豆狸
恋愛
「オードリー、そなたはいつも私達を見ているが、一体なにが楽しいんだ?」
「クロード様の黄金色の髪が光を浴びて、キラキラ輝いているのを見るのが好きなのです」
「……ふうん」
その灰色の瞳には、いつもクロードが映っていた。
なろう様でも公開中です。
論破令嬢の政略結婚
ささい
恋愛
政略結婚の初夜、夫ルーファスが「君を愛していないから白い結婚にしたい」と言い出す。しかし妻カレンは、感傷を排し、論理で夫を完全に黙らせる。
※小説家になろうにも投稿しております。
友達の肩書き
菅井群青
恋愛
琢磨は友達の彼女や元カノや友達の好きな人には絶対に手を出さないと公言している。
私は……どんなに強く思っても友達だ。私はこの位置から動けない。
どうして、こんなにも好きなのに……恋愛のスタートラインに立てないの……。
「よかった、千紘が友達で本当に良かった──」
近くにいるはずなのに遠い背中を見つめることしか出来ない……。そんな二人の関係が変わる出来事が起こる。
心許せる幼なじみと兄の恋路を邪魔したと思っていたら、幸せになるために必要だと思っていることをしている人が、私の周りには大勢いたようです
珠宮さくら
恋愛
チェチーリア・ジェノヴァは、あることがきっかけとなって部屋に引きこもっていた。でも、心許せる幼なじみと兄と侍女と一緒にいると不安が和らいだ。
そんな、ある日、幼なじみがいつの間にか婚約をしていて、その人物に会うために留学すると突然聞かされることになったチェチーリアは、自分が兄と幼なじみの恋路を邪魔していると思うようになって、一念発起するのだが、勘違いとすれ違いの中から抜け出すことはない人生を送ることになるとは夢にも思わなかった。
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる