【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 目を閉じているのに、光を感じた。
 遠くで、潮の音がしている。

 ――ここは、海辺の丘。

 セラは小さな頃、よくここでジュールと遊んだ。
 まだ少年の彼は、風に髪を揺らし、手をかざして陽を見上げている。

 ――ジュール、早く!
 ――待って、セラ。そんなに急ぐと転ぶ。

 潮風に笑い声が混ざり、彼が先に駆け出す。
 その背を追いかけながら、幼いセラは確かに思っていた。

 “ずっとこの人を見ていたい”――と。



 場面が変わる。
 春の光が柔らかく差す、庭の一角。

 夢の中のセラは十五歳。
 淡い青のドレスに身を包み、少しだけ大人びていた。

 丘を降りて王都に学びに出たジュールが、久しぶりに屋敷へ帰ってきた。
 もう少年ではない。
 背は伸び、言葉の端々に大人の響きを纏っていた。

「……ジュール」
 そう呼ぶと、彼は静かに振り返った。
 光に照らされた横顔が、まぶしくて、胸が痛くなる。

「ねえ、あなたがいなくなってから、毎日がつまらなかったの」
 自分でも驚くほど、言葉がこぼれた。
 夢の中なのに、胸の鼓動が痛いほどだった。

「……好きなの。ジュールのことが」

 一瞬、風が止まる。
 ジュールは目を伏せ、そして笑った。

「ありがとう、セラ」
 優しい声。けれど、その笑みは、拒むように静かだった。

「でも、君はまだ子どもだ。恋なんて、知らないだろう」

「知らないけど、あなたを見てると苦しくなる」
「それは……きっと、憧れだよ」

 そう言って、彼はゆっくりと手を伸ばし、セラの頬に触れた。
 その指先があたたかくて、涙が滲んだ。

「……ジュール」
 名を呼んだ瞬間、唇が触れた。

 短い、やさしい口づけ。
 春の匂いと、少し潮の味がした。

 けれど、そのぬくもりが消えるのも一瞬だった。

 彼の声が遠くで響く。
 ――ごめん。君は、まだ。

 伸ばした手が空を掴む。
 光が白く弾け、世界が揺れた。



 目を開けると、天井の木目が揺れていた。

 胸が上下し、頬が熱い。
 夢の残り香のように、唇が震えていた。

 ――夢、だったの?

 けれど、その感触が鮮明すぎて、現実と区別がつかなかった。
 ゆっくりと手を伸ばす。指先が唇に触れる。

 ……違う。これは、昨日の――。

 あの夜、熱を帯びた静寂の中で触れた、彼の唇の温度。夢ではなく、確かに現実のもの。

 胸の奥がざわめく。
 喉の奥に熱がこみ上げ、息が詰まった。

 カーテンの隙間から差す朝の光が、あの日の海の光と重なる。
 あの夢の続きが、いま現実に届いてしまったのだ。

 ――どうして、あの人はあの時、あんなふうに。
  そして私は、どうしてあんなにも……。

 答えのない問いが、熱を帯びて胸の中を巡った。

 セラは枕に顔を埋め、静かに目を閉じた。
 眠ることも、覚めることもできないまま、昨日の唇の記憶が、何度も何度も波のように寄せては返した。


***


 倒れてから、一週間。
 セラは自宅で静養していた。
 窓辺の鉢植えに朝の光が差し込み、風にレースのカーテンが揺れている。

 体の熱は下がったが、まだ胸の奥にかすかな重みが残っていた。

 夢と現実の境が曖昧なまま、寝台に横たわると、昨日の出来事が何度も頭の中で反芻された。

 そんなとき、玄関の扉を叩く音がした。

「やあ、セラ。生きてるか?」
 その声に思わず笑みがこぼれる。
 扉を開けると、診療所の院長――アラン・ド・モンルージュが、薬草の束を片手に立っていた。

 栗色の髪を後ろで束ね、淡い灰の瞳がやさしく笑っている。

 三十五歳、モンルージュ伯爵家の三男坊。爵位を継がない代わりに、学問と医療の道を選び、王都で診療所を開いた人だった。

「スープと薬草だ。栄養取らなきゃ、また倒れる」
「ありがとうございます。でも……お忙しいのに」
「忙しいからこそ、優秀な薬師に寝込まれると困るんだよ」

 冗談めかして言う声に、思わず笑みがこぼれる。

 アランはそのまま椅子を引き寄せ、軽くため息をついた。

「フェルディナン夫人の件なんだが……」
 セラの手がわずかに止まる。

「夜でも呼ばれてたって聞いた。夫人に頼られすぎてないか?」
「……私が倒れたのは、ただの疲労です。夫人のせいではありません」
「そう言うと思った」

 アランは少し笑って、机の上の薬草束を指でなぞった。
「セラ、真面目なのはいいけど、自分を省くなよ。
フェルディナン家の往診は、今後しばらく俺かルネに交代してもいい。お前は少し休め」

 セラは首を横に振る。
「でも、夫人の調子はようやく安定してきたんです。途中で人が変わると――」
「患者のために言ってるんだな?」
「はい」
「……だったら、患者を支える“お前”も守らなきゃ意味がない」

 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
 彼は叱るような声ではなく、静かに、確かにセラを気遣っていた。

「……分かりました。少し考えます」
「よく考えておいてくれ」

 アランは立ち上がりながら、苦笑まじりに言った。

「ったく。昔から強情なんだよな。薬草抱えて雪道を歩いたときも、似たような顔してた」
「覚えてるんですか」
「忘れられるか。こっちは肝を冷やした」

 軽い口調の奥に、確かな信頼の温度があった。

 セラは思わず微笑みながらも、胸の奥にわずかな痛みを覚えた。

 ――この穏やかなやりとりの裏に、思い出すべきではない“別の声”があったからだった。

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