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夜気の残る早朝。
ジュールは、まだ温もりの残るセラの寝室を後にした。
まだ夜の名残が空に薄く漂い、青と紫が混じる静かな世界が広がっていた。
(……また離れてしまうのか)
さっきまで腕の中で眠っていたセラの体温が、まだ袖の内側に確かに残っていた。
(もっと……そばにいたい)
そう願ってしまう自分が、どうしようもなく苦しかった。
玄関の扉が静かに閉じると、夜明け前の冷気が一気に肌を撫でる。
石畳の上を踏みしめるたび、靴音が小さな罪の影のように胸へ返ってくる。
待たせていた馬車に乗り込むと、御者が軽く帽子を押さえて会釈し、車輪がゆっくりと動き出した。
街を抜ける石畳の振動が、セラの細い指の感触をふいに思い出させる。
腕の中で眠たげにまどろむ表情。
自分に縋るような抱きしめ方。
愛し合う時に漏らす甘い声。
どれもまだ、ジュールの身体の奥深くに焼きついて離れなかった。
距離ができた途端、胸の空洞がじわじわと広がって、“会いたい” という想いだけが熱を持って膨れ上がっていく。
その募り方に、もう抗う術もなく——
むしろ、その感覚に慣れ始めている自分に気づき、胸がきゅうと締めつけられた。
***
フェルディナン邸までは、街道をしばらく走らねばならない距離だった。
大きな並木道の先に、淡い朝靄の中でぼんやりと巨躯を浮かび上がらせる屋敷が見える。
伯爵夫妻が住まう東棟は絢爛たる白壁の宮殿。
そして、ジュールとレアが暮らす西棟は、同じ敷地とは思えないほど静かで、厳かな灰石の建物だ。
馬車が西棟前で止まると、ジュールは胸にまだ残るセラの温度をそっと押し隠すように、深く息を吸った。
(……セラ……)
愛おしさが胸を彩り、同時に胸奥で薄い痛みが走る。
この感情を抱いたまま、眠る妻の前に立つことになる事実が、片側だけ重く沈む。
しかし──玄関扉を開いた瞬間、
「旦那様!!」
控えていた執事が、滅多に見せない慌てた顔で駆け寄ってきた。
「……どうした?」
執事は息を切らし、声を震わせながら告げた。
「レア様が……!」
「レアが?」
「……指を、お動かしになりました!」
世界が、一瞬息を止めたようだった。
ジュールの心臓が、まるで胸を突き破るように跳ねる。
(……レア……?)
名前を呼んだだけで、胸の奥が裂けたように疼く。
「……本当か?」
「はい……!侍女のミレイユが確認し、私もすぐに参りました。
つい先ほど……確かに、指先が……!」
視界がにじむ。
十年という重すぎる沈黙が、いま、薄氷のようにひび割れていく。
「……レア……」
その名は、安堵とも恐怖ともつかない震えを含んでいた。
セラの温もりがまだ身体のどこかに残っているのに、胸の別の場所でまったく違う痛みが広がっていく。
決して混ぜてはならない二つの温度が、胸の奥で擦れあう。
「レアの部屋へ行く」
「は、はい!」
ジュールは執事の後を追い、西棟を駆け抜けた。
長い廊下の角を曲がるたびに胸が苦しくなる。期待が膨らむたび、裏切られる恐怖も同じだけせり上がった。
「……レア……頼む……」
扉の前で執事が立ち止まった。
ジュールは息を整え、扉を開いた。
薄い朝光に満たされた寝室。
白い寝衣のレアが、十年前と変わらない静寂の中にいた。
メイドが三人、緊張した面持ちのまま、レアの寝台の両側で固まっている。
「……ジュール様、レア様の指、……確かに動かれました」
一人のメイドの声は震えていた。
ジュールは息をのみ、レアの寝台へ歩み寄った。
寝台の白いシーツが朝光を受けて淡く光る。
彼はそっとベッドの縁に片膝を寄せ、レアの寝顔に視線を合わせるように身をかがめた。
「……レア」
その名を呼ぶ声は、まるで触れれば壊れてしまうものを前にしたときのように震えていた。
触れた指先は、あの日と同じ――けれど、確かに生の気配を宿していた。
「レア……」
もう一度、ジュールが呼びかけた。
その瞬間——
指先が、ほんのわずかに震えた。
「…………!」
メイドたちが息をのみ、執事が涙ぐむ。
「レア……!聞こえるのか……?レア……」
返答はない。
ただその数度の震えが、十年の絶望を、薄荷のように溶かしていった。
こみあげるものが喉をつき上げる。
胸が熱くて痛い。
だが同時に、胸の奥のさらに奥で──
セラの名が、静かに疼いた。
この喜びを、素直に抱きしめてはいけない気がした。罪と温もりが同時に胸を引き裂く。
「旦那様……出立の時刻が近づいております」
侍従の言葉で現実が戻る。
出発しなければならない。
それでも、手が離れなかった。
(……レア……)
もう少し側にいたい。
気配が戻ったこの瞬間を、離したくなかった。
しかし背を向けるたび、胸の奥では別の名前が痛む。
(……セラ……俺は……)
愛した妻。
そして、離れられなくなってしまった人。
両方が胸の内で呼吸し、互いに相手を押しのけ、せめぎ合う。
ジュールはゆっくりとレアの手を離し、立ち上がった。
「義父上と義母上に……このことを。
レアをしっかり頼む。何かあればすぐに知らせてくれ」
「承知いたしました」
扉を出ても、何度も振り返ってしまう。
喜びが胸を満たす。
しかしその喜びの底から、静かにあふれてくる影があった。
──今帰りたいのは、どちらのもとなのか。
その問いが、ジュールの心に深い亀裂を生み始めていた。
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