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しおりを挟む商務院に出仕するようになったジュールは、
毎朝、西棟のバルコニーに差し込む薄金色の光を浴びながら静かに身支度を整え、整えた髪に指を通してから馬車へ乗り込んだ。
目的地は王都中央区にそびえる庁舎。
議事に始まり、帳簿、来客対応、視察、歓談――
若くして副官となった彼の一日は、常に書類と人々の声に満ちている。
しかし、どれほど忙しい日でも、
夕刻、馬車でフェルディナン邸へ戻る道すがら、必ず思うことがあった。
(……西棟は、静かでいい)
東棟の華やかさと違い、石造りの西棟は落ち着いていて、どこか彼の故郷を思わせる“呼吸しやすさ”がある。
特に庭園は格別だった。
鮮やかすぎない草花の並び、柔らかい風、少し湿った土の匂い――港町の丘の風景を重ねてしまう静けさがあった。
そのためジュールは、邸内へ入る前に必ず庭園に立ち寄る。
花々の間に立ち、ほんの短い時間、誰にも触れられない自分だけの静寂を味わうのが習慣になっていた。
その日も同じように、夕暮れの庭園で佇むジュールの姿があった。
灰金の髪を淡い風が揺らし、指先がそっと草葉を辿る。目元には、疲れとも違う、遠い記憶の温度が宿っていた。
レアは侍女を連れて回廊を歩いていた。
ふと、アーチ状の窓の向こう――西の庭園の一角に、見慣れた肩の線が見えた。
(……ジュール?)
足が自然に止まった。
胸の鼓動が早まるのではなく、逆にぎゅっと縮まるような感覚が走る。
芝の上に立つ彼は、まるで独りきりの世界に沈んでいるかのようだった。
レアは息を呑んだ。
(……その表情……)
幼いころの記憶を、胸の奥でそっと抱き締めるような、柔らかく、切ない微笑み。
夫として自分に向ける“今”の笑顔とは違う。
もっと深く、もっと奥に沈んだ――
“過去”に向ける微笑みだった。
風が草の匂いを揺らし、その光景だけが時間から切り離されたように見えた。
沈黙の中、胸の奥がひきつる。
(……あの子を思い出している)
名前を出さなくてもわかる。
あの静けさは、あの眼差しは――
レアの知らない“昔のジュール”の領域にあるもの。
夕焼けを背に立つ彼の横顔が、恐ろしいほど遠く感じられた。
*
フェルディナン邸・西棟の晩餐室には、変わらず穏やかな幸福が満ちていた。
ワインの灯りの下、ジュールはいつものようにレアの皿が空きそうになると自然に気づき、微笑んで取り分けてくれる。
「今日の商務院はどうだった?」
「忙しかったけど……帰ってきて、レアと食事できるとほっとするよ」
レアは笑みを返し、ジュールも柔らかく目を細める。指が触れ合うだけで、まだお互い少し照れる。
——そんな甘さが残る新婚一年目だった。
話題は軽やかに流れ、食卓には温かい空気が漂っていた。
ジュールは仕事の小さな愚痴や、庭園に咲いた花の話も楽しそうに語る。
「まぁ……ウィリアムはご結婚なさったのね」
「ああ。独身生活が謳歌できなくなったと、少し残念そうに言っていたよ」
「ふふっ……とうとう観念したのね。お相手はどなた?」
「……確か、遠縁で“幼馴染”だと言っていたな」
“幼馴染”の響きに、レアの手がぴたりと止まった。だがジュールは、その小さな変化には気づいていない。
レアはふいを装って、問いを挟んだ。
「そういえば……幼馴染のセラさんって、今どうされているの?」
今度は、ジュールのフォークが、ほんのわずか止まった。
驚きを飲み込むように瞬きをしてから、いつもの誠実で落ち着いた声音で答える。
「王都の薬学校で学んでいると、エヴェラールにいる彼女の両親から聞いたよ」
「王都の薬学校に?とても優秀な方なのね…」
「ああ…そう、だね…」
そこで、ジュールの言葉は急に歯切れを失った。
「……本人には会っていないの?」
レアは微笑んだまま、瞳の奥を決して揺らさない。ジュールは返事に迷い、少しだけ視線を伏せた。
「…王都にいると聞かされたのは、最近で…実はもっと前からこっちにいたみたいなんだ。もっと早く知らせてくれていたら…」
そこで、ジュールの言葉がふっと途切れた。
彼自身が“何を口にしようとしたか”気づいたのだ。
レアは微笑を崩さずに問いを重ねる。
「知らせてくれていたら、王都を案内してあげた?」
食卓の上に、静かな波紋が落ちた。
「……いや。もう、そういう間柄じゃなくなってしまったから」
ジュールはまっすぐ言い直した。
レアを見るその目は誠実で、揺らぎはなかった。
それでもレアの胸の奥に小さく棘が刺さる。
問い詰めたい衝動が喉まで上がったが、レアはそれを飲み込んだ。
完璧な余裕の微笑を取り繕う。
「そう……じゃあ話題を変えましょう?
今日ね、ロワール夫人のお茶会に行ってきたの」
ジュールはほっとしたように微笑み、いつもの穏やかさを取り戻して話し始めた。
レアも笑った。
けれど——胸の奥では何かが静かに燃えていた。
その炎はまだ誰にも見えない。
レア自身さえ、気づかないふりをしている。
だが確かに——
愛ゆえの独占欲が、静かに、強く、燃え広がり始めていた。
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