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アルマンの暴言からしばらくした頃。
フェルディナン邸には、以前の穏やかな空気がゆっくりと戻りつつあった。
あの日以降、マリアンヌから徹底的に無視されたアルマンは、数日も経たないうちに耐えきれず、妻の部屋を訪れ、震える声で謝罪した。
「レアとジュールにも謝罪なさい」
マリアンヌは氷のような瞳で静かに告げた。
その結果、アルマンは二人に正式な謝罪を行い、広間は妙に神妙な空気に包まれた。
二人で西棟の屋敷に戻る途中、レアはジュールの腕をつつき、小さく微笑んだ。
「……ねえ、結局はお母様に頭が上がらないのよ、お父様って」
「そうだね。私も驚いたよ」
ふたりは顔を見合わせて口元を緩め、久しぶりに心から笑えた気がした。
ジュールは、レアが穏やかに戻ったことに深く安堵した。
レアもまた、いつもと変わらぬ明るさを見せ、ジュールに寄り添い、まるで一連の痛みをすべて流したかのように過ごす。
──だが、それは“表面上”だけだった。
レアの胸の奥では、沈んでいたはずの影が再びゆっくりと動き出していた。
*
ジュールを悩ませたあの日以降、二人は努めて平穏を保っていた。
食卓では笑顔が交わされ、夜会などは、仲睦まじく出席し、夜には寄り添って眠る日々が続いたがーー。
レアはそっと目を伏せるたび、胸に疼きが走った。
(……あの影を、確かめないままではいられない)
ジュールから何気なく放たれる“幼馴染”という言葉。その音に触れた途端、彼の声の輪郭がほのかに和らぐ。
それは彼が忘れたと思い込んでいる、幼い恋心の“ほとぼり”のように――
レアには、確かに聞こえてしまうのだ。
***
そしてレアは、静かに、しかし確かな意志とともに動き始めた。
使用人たちには慎ましく、丁寧に――決して目立たぬようにと命じ、エヴェラール子爵家の使用人から少しずつ情報を集めさせた。
ほどなくして、はっきりとした報せが届く。
セラ・レヴェランス。
王立薬科学園・学士課程を優秀な成績で卒業後、王都の診療所に勤務。
(……王都に、いる)
胸の奥がひとつ震え、レアは深く息をついた。
「ねぇ、ミレイユ?」
長年側に仕える侍女ミレイユを呼び、さりげない声色で切り出す。
「お友達から、王都で評判の診療所の話を聞いたの。
とても腕の良い薬師さんがいるそうなのよ」
「レア様……どこかお身体の具合が悪いのですか?」
心配が一気に浮かんだように、ミレイユの声が震えた。
「いいえ、違うわ。この通り元気よ。ただ……この前までのこと、覚えているでしょう?
お父様にも、ひどいことを言われたし……」
「レア様……」
悲しげに眉を下げるミレイユの手を、レアはそっと包んだ。安心させるように微笑んだまま、言葉を続ける。
「お友達に言われたの。身体が冷えると、子が授かりにくいのだって。
薬草で冷えを改善する薬があると聞いたわ」
表情は柔らかいままだったが、その瞳には揺るがない決意があった。
「まだ決めたわけじゃないけれど……その評判の薬師さんがどういう方なのか、様子を知りたいの。
王立薬科学園を首席で卒業なさった若い女性だとか」
「かしこまりました、レア様」
「デリケートなことだから……ジュールには絶対に知られたくないの。
誰にも話さないでね」
ミレイユは深く頷いた。
レアは微笑んでいたが、その指先は静かに強く握りしめられていた。
*
ーーほどなくして、ミレイユから報告を受ける。
「……レア様。ご報告がございます」
ミレイユがそっと扉を閉め、盆を胸に抱いたまま近づいてくる。
その声音に、レアは自然と背筋を伸ばした。
「例の薬師の女性……ついに所在がわかりました」
「話して、ミレイユ」
「はい。セラ・レヴェランスという名の方です。評判も非常に良く、若いのに腕が確かだとか」
続けて、ミレイユはセラの学歴、身体的特徴を説明する。
レアの心に、微かな波紋が広がった。
華やかな貴族社会の中で、学歴も功績も“確かさ”も、それ自体は脅威にならない。
だが――
ジュールの幼馴染であり、彼が唯一、昔を語る時に声色を柔らかくした相手。
その条件が加わるだけで、胸の奥で何かが冷たく揺れた。
「……その診療所は、どこにあるの?」
「中央区と東区の境にございます。学園のすぐ近くです」
「そう……」
レアは視線を落とし、組んだ指先にそっと力を込めた。
「……一度、見てみたいわ。どんな方なのかしら」
「レア様、ご病気ではないのですよね?」
ミレイユが心配げに身を乗り出す。
レアはやわらかく微笑み、首を振った。
「ええ、元気よ。ただ……薬草を調合していただくなら、腕の確かな方でないと不安でしょう?だから、この目で確かめたいの」
「でしたら、お会いになる手配を——」
「いいえ、それはまだいいわ」
レアは軽やかに遮った。
「まだ薬に頼るかどうかも考え中なの。
もし直接お会いしてからお断りすることになったら失礼だもの。
ただ……遠目に、どんな方なのか様子だけ見てみたいの」
「なるほど……かしこまりました。
では、馬車の手配をいたします」
ミレイユが深く一礼して部屋を出ていく。
扉が閉まると同時に、レアはゆっくりと胸元へ手を当てた。
(……彼女は、どんな顔をしているのかしら)
その問いの奥へ、もっと鋭く、もっと生々しい感情が静かに沈んでいた。
フェルディナン邸には、以前の穏やかな空気がゆっくりと戻りつつあった。
あの日以降、マリアンヌから徹底的に無視されたアルマンは、数日も経たないうちに耐えきれず、妻の部屋を訪れ、震える声で謝罪した。
「レアとジュールにも謝罪なさい」
マリアンヌは氷のような瞳で静かに告げた。
その結果、アルマンは二人に正式な謝罪を行い、広間は妙に神妙な空気に包まれた。
二人で西棟の屋敷に戻る途中、レアはジュールの腕をつつき、小さく微笑んだ。
「……ねえ、結局はお母様に頭が上がらないのよ、お父様って」
「そうだね。私も驚いたよ」
ふたりは顔を見合わせて口元を緩め、久しぶりに心から笑えた気がした。
ジュールは、レアが穏やかに戻ったことに深く安堵した。
レアもまた、いつもと変わらぬ明るさを見せ、ジュールに寄り添い、まるで一連の痛みをすべて流したかのように過ごす。
──だが、それは“表面上”だけだった。
レアの胸の奥では、沈んでいたはずの影が再びゆっくりと動き出していた。
*
ジュールを悩ませたあの日以降、二人は努めて平穏を保っていた。
食卓では笑顔が交わされ、夜会などは、仲睦まじく出席し、夜には寄り添って眠る日々が続いたがーー。
レアはそっと目を伏せるたび、胸に疼きが走った。
(……あの影を、確かめないままではいられない)
ジュールから何気なく放たれる“幼馴染”という言葉。その音に触れた途端、彼の声の輪郭がほのかに和らぐ。
それは彼が忘れたと思い込んでいる、幼い恋心の“ほとぼり”のように――
レアには、確かに聞こえてしまうのだ。
***
そしてレアは、静かに、しかし確かな意志とともに動き始めた。
使用人たちには慎ましく、丁寧に――決して目立たぬようにと命じ、エヴェラール子爵家の使用人から少しずつ情報を集めさせた。
ほどなくして、はっきりとした報せが届く。
セラ・レヴェランス。
王立薬科学園・学士課程を優秀な成績で卒業後、王都の診療所に勤務。
(……王都に、いる)
胸の奥がひとつ震え、レアは深く息をついた。
「ねぇ、ミレイユ?」
長年側に仕える侍女ミレイユを呼び、さりげない声色で切り出す。
「お友達から、王都で評判の診療所の話を聞いたの。
とても腕の良い薬師さんがいるそうなのよ」
「レア様……どこかお身体の具合が悪いのですか?」
心配が一気に浮かんだように、ミレイユの声が震えた。
「いいえ、違うわ。この通り元気よ。ただ……この前までのこと、覚えているでしょう?
お父様にも、ひどいことを言われたし……」
「レア様……」
悲しげに眉を下げるミレイユの手を、レアはそっと包んだ。安心させるように微笑んだまま、言葉を続ける。
「お友達に言われたの。身体が冷えると、子が授かりにくいのだって。
薬草で冷えを改善する薬があると聞いたわ」
表情は柔らかいままだったが、その瞳には揺るがない決意があった。
「まだ決めたわけじゃないけれど……その評判の薬師さんがどういう方なのか、様子を知りたいの。
王立薬科学園を首席で卒業なさった若い女性だとか」
「かしこまりました、レア様」
「デリケートなことだから……ジュールには絶対に知られたくないの。
誰にも話さないでね」
ミレイユは深く頷いた。
レアは微笑んでいたが、その指先は静かに強く握りしめられていた。
*
ーーほどなくして、ミレイユから報告を受ける。
「……レア様。ご報告がございます」
ミレイユがそっと扉を閉め、盆を胸に抱いたまま近づいてくる。
その声音に、レアは自然と背筋を伸ばした。
「例の薬師の女性……ついに所在がわかりました」
「話して、ミレイユ」
「はい。セラ・レヴェランスという名の方です。評判も非常に良く、若いのに腕が確かだとか」
続けて、ミレイユはセラの学歴、身体的特徴を説明する。
レアの心に、微かな波紋が広がった。
華やかな貴族社会の中で、学歴も功績も“確かさ”も、それ自体は脅威にならない。
だが――
ジュールの幼馴染であり、彼が唯一、昔を語る時に声色を柔らかくした相手。
その条件が加わるだけで、胸の奥で何かが冷たく揺れた。
「……その診療所は、どこにあるの?」
「中央区と東区の境にございます。学園のすぐ近くです」
「そう……」
レアは視線を落とし、組んだ指先にそっと力を込めた。
「……一度、見てみたいわ。どんな方なのかしら」
「レア様、ご病気ではないのですよね?」
ミレイユが心配げに身を乗り出す。
レアはやわらかく微笑み、首を振った。
「ええ、元気よ。ただ……薬草を調合していただくなら、腕の確かな方でないと不安でしょう?だから、この目で確かめたいの」
「でしたら、お会いになる手配を——」
「いいえ、それはまだいいわ」
レアは軽やかに遮った。
「まだ薬に頼るかどうかも考え中なの。
もし直接お会いしてからお断りすることになったら失礼だもの。
ただ……遠目に、どんな方なのか様子だけ見てみたいの」
「なるほど……かしこまりました。
では、馬車の手配をいたします」
ミレイユが深く一礼して部屋を出ていく。
扉が閉まると同時に、レアはゆっくりと胸元へ手を当てた。
(……彼女は、どんな顔をしているのかしら)
その問いの奥へ、もっと鋭く、もっと生々しい感情が静かに沈んでいた。
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