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しおりを挟む――空気が裂ける音がした。
夕刻の街路。
西へ沈む陽が濃い橙色の影を敷き、馬車道を細長く染めていた。
その道を、フェルディナン家の紋章を掲げた黒塗りの馬車が走っていく。
御者台の老人が手綱を握り、鞍上の馬は落ち着いていたはずだった。
だが次の瞬間――
馬が、狂ったように嘶いた。
後足が跳ね、前輪が激しく軋み、馬車が大きく傾く。通行人が叫び声を上げ、街がざわめきに呑まれた。
「止まれ、止まれッ!!」
御者が叫んでも、馬は聞いていない。
何かに怯えるように暴れ、車輪は石畳を引き裂くように滑った。
馬車の窓から、細い指が一瞬だけ伸びる。
レアの手。
助けを求めるような、掴もうとするような――その手は、誰にも届かず、揺れの中で宙を掻いた。
轟音と共に、馬車は横転した。
ガラスが散り、鉄枠が石畳に潰れた音が街のざわめきを押し潰す。
衝撃の直後、レアの姿は硝子の陰に沈み、白い腕だけが露わになった。
血か、夕陽の色か、判別のつかない赤がじわりと滲む。
――その瞬間、遠くで誰かの悲鳴が上がった。
「奥様だ──!フェルディナン家の若奥様だ!」
***
王都商務院の廊下に、慌ただしい靴音が響いた。
副官執務室の扉が乱暴に開かれ、若い役人が蒼ざめた顔で駆け込む。
「ジュール様っ――フェルディナン伯爵邸より緊急の知らせです!」
羽根ペンを走らせていたジュールの手が止まった。顔を上げた瞬間、胸が冷たいものに掴まれたように固まる。
「レア様が、馬車の事故に……!」
音が消えた。
役人の言葉の続きが聞こえない。ただ、喉の奥から声にならない息が漏れた。
「……失礼」
椅子を引く余裕もなく立ち上がり、外套すら取り落としながら駆け出した。
外の風が冷たい。
足元がふらついているのに、走らずにはいられなかった。
(レア……!)
名前しか、出てこなかった。
*
フェルディナン邸、西棟の寝室。
扉を押し開けた瞬間、重苦しい気配が空気ごと胸にのしかかった。
白いカーテンの向こう、レアはベッドに横たわっていた。
髪は解かれ、傷を保護するため頭には包帯が巻かれている。
その白布を赤い染みがゆっくり広げていて――止血はできているはずなのに、痛々しいほど鮮やかだった。
「……レア……」
掠れた声しか出なかった。
足が震え、ベッドに近づこうとしても、歩みが定まらない。
傍らでは、伯爵夫人マリアンヌが嗚咽を抑えきれず泣き崩れ、伯爵アルマンも蒼白な顔で手を組み、何かに祈るように震えている。
「脳を強く打たれました。意識は……いつ戻るか、わかりません」
医師によるその言葉が、まるで斧のように頭に落ちた。
(……嘘だ)
声にならない否定が喉に貼りつく。
ジュールの視界がぼやけていくのを自覚した。――今朝の光景が、頭から離れない。
朝、レアと会話した時の状況を思い出していた。
薄いカーテン越しに差し込む朝の光の中、
レアは鏡台の前で静かに髪を整えていた。
その顔は、どこか遠くにあるものを見ているようだった。
「今日は、早めに仕事を切り上げるよ。
一緒にどこかへ行かないか?湖畔でも、散歩でも」
自然に出た言葉だった。
仕事のことよりも、ただ、一緒にレアと過ごしたかった。
最近のレアは、笑うのに少し力がいるように見えた。
子が授からない焦りに追い詰められているのを、ジュールはずっと胸を痛めながら見ていた。
(子ができたら、それはきっと幸せだ。
でも……無理なら、フェルディナン家の親族から養子を迎えればいい。
そんなことで、レアの人生が縛られる必要なんてない)
ジュールが願うのは、ただ――
あの明るくて、溌剌で、自分にまっすぐ笑うレアが、もう一度幸せに息をできるようになることだった。
だから、手を伸ばした。
けれど、レアは振り返らず、わずかに肩を揺らすだけだった。
「……ごめんなさい。
今日は、久しぶりに会いたい友人がいるの。
どうしても、会っておきたくて」
友人。
名は言わなかった。
その声の奥にあるぎこちなさが胸に刺さった。
「そうか……。気をつけて行くんだよ」
そう返すしかなかった。
束縛する言葉は、彼女の傷を深くする気がして。
(友人に会って、気分転換をすれば、少しは楽になるかもしれない)
自分の微笑みが、彼女にはどう映ったのか。
昨夜、泣きじゃくりながらすがってきたレアを抱きしめたあと、
胸に残った息だけのため息。
あれを、レアは後悔だと思ったのだろうか。
本当は、苦しむレアが痛ましく、どう手を伸ばせば良いのかわからず、その迷いが息になっただけだった。
(きっと帰ってくる頃には、笑顔を取り戻してるはずだ)
そう信じて、あえて外出を深く追及しなかった。今の彼女には、束縛よりも“自由な時間”が必要だと思ったからだ。
まさか、その判断が――
この事態を招いたとは思いたくなかった。
今、寝台に横たわるレアの手に触れる。
冷たくはない。
確かに、人の温度が残っている。
ただ眠っているだけのように、美しかった。
昨夜、泣きながら求められ、抱きしめ合った感触まで思い出せる。
柔らかい髪の匂い。震える肩。
愛していると言えば、彼女は子どものように泣いて笑った。
そのすべてが――もう二度と返ってこない気がした。
ジュールの視界が滲む。
涙は止め方を知らないまま零れ落ち、レアの手に落ちた。
「……レア、レア、起きてくれ…」
声は震え、祈りのように掠れていく。
縋るように手を握りしめる。
返事はない。まぶたは閉じたまま、呼吸だけが静かに生を告げている。
(どうか……目を覚ましてくれ…)
その言葉は声にならず、胸の奥で血のように溜まっていくだけだった。
――この日を境に、レア・フェルディナンは眠り続けることになる。
十年もの長い歳月を。
抱きしめた温もりだけを残していた。
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