【R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 ――空気が裂ける音がした。

 夕刻の街路。
 西へ沈む陽が濃い橙色の影を敷き、馬車道を細長く染めていた。

 その道を、フェルディナン家の紋章を掲げた黒塗りの馬車が走っていく。
 御者台の老人が手綱を握り、鞍上の馬は落ち着いていたはずだった。

 だが次の瞬間――

 馬が、狂ったように嘶いた。

 後足が跳ね、前輪が激しく軋み、馬車が大きく傾く。通行人が叫び声を上げ、街がざわめきに呑まれた。

「止まれ、止まれッ!!」

 御者が叫んでも、馬は聞いていない。
 何かに怯えるように暴れ、車輪は石畳を引き裂くように滑った。

 馬車の窓から、細い指が一瞬だけ伸びる。

 レアの手。

 助けを求めるような、掴もうとするような――その手は、誰にも届かず、揺れの中で宙を掻いた。

 轟音と共に、馬車は横転した。

 ガラスが散り、鉄枠が石畳に潰れた音が街のざわめきを押し潰す。
 衝撃の直後、レアの姿は硝子の陰に沈み、白い腕だけが露わになった。

 血か、夕陽の色か、判別のつかない赤がじわりと滲む。

 ――その瞬間、遠くで誰かの悲鳴が上がった。

 「奥様だ──!フェルディナン家の若奥様だ!」


***


 王都商務院の廊下に、慌ただしい靴音が響いた。

 副官執務室の扉が乱暴に開かれ、若い役人が蒼ざめた顔で駆け込む。

「ジュール様っ――フェルディナン伯爵邸より緊急の知らせです!」

 羽根ペンを走らせていたジュールの手が止まった。顔を上げた瞬間、胸が冷たいものに掴まれたように固まる。

「レア様が、馬車の事故に……!」

 音が消えた。
 役人の言葉の続きが聞こえない。ただ、喉の奥から声にならない息が漏れた。

「……失礼」

 椅子を引く余裕もなく立ち上がり、外套すら取り落としながら駆け出した。

 外の風が冷たい。
 足元がふらついているのに、走らずにはいられなかった。

(レア……!)

 名前しか、出てこなかった。





 フェルディナン邸、西棟の寝室。
 扉を押し開けた瞬間、重苦しい気配が空気ごと胸にのしかかった。

 白いカーテンの向こう、レアはベッドに横たわっていた。

 髪は解かれ、傷を保護するため頭には包帯が巻かれている。
 その白布を赤い染みがゆっくり広げていて――止血はできているはずなのに、痛々しいほど鮮やかだった。

「……レア……」

 掠れた声しか出なかった。

 足が震え、ベッドに近づこうとしても、歩みが定まらない。

 傍らでは、伯爵夫人マリアンヌが嗚咽を抑えきれず泣き崩れ、伯爵アルマンも蒼白な顔で手を組み、何かに祈るように震えている。

「脳を強く打たれました。意識は……いつ戻るか、わかりません」

 医師によるその言葉が、まるで斧のように頭に落ちた。

(……嘘だ)

 声にならない否定が喉に貼りつく。
 ジュールの視界がぼやけていくのを自覚した。――今朝の光景が、頭から離れない。


 朝、レアと会話した時の状況を思い出していた。

 薄いカーテン越しに差し込む朝の光の中、
 レアは鏡台の前で静かに髪を整えていた。

 その顔は、どこか遠くにあるものを見ているようだった。

「今日は、早めに仕事を切り上げるよ。
一緒にどこかへ行かないか?湖畔でも、散歩でも」

 自然に出た言葉だった。
 仕事のことよりも、ただ、一緒にレアと過ごしたかった。

 最近のレアは、笑うのに少し力がいるように見えた。
 子が授からない焦りに追い詰められているのを、ジュールはずっと胸を痛めながら見ていた。

(子ができたら、それはきっと幸せだ。
でも……無理なら、フェルディナン家の親族から養子を迎えればいい。
そんなことで、レアの人生が縛られる必要なんてない)

 ジュールが願うのは、ただ――
 あの明るくて、溌剌で、自分にまっすぐ笑うレアが、もう一度幸せに息をできるようになることだった。

 だから、手を伸ばした。

 けれど、レアは振り返らず、わずかに肩を揺らすだけだった。

「……ごめんなさい。
今日は、久しぶりに会いたいがいるの。
どうしても、会っておきたくて」

 
 名は言わなかった。
 その声の奥にあるぎこちなさが胸に刺さった。

「そうか……。気をつけて行くんだよ」

 そう返すしかなかった。
 束縛する言葉は、彼女の傷を深くする気がして。

(友人に会って、気分転換をすれば、少しは楽になるかもしれない)

 自分の微笑みが、彼女にはどう映ったのか。

 昨夜、泣きじゃくりながらすがってきたレアを抱きしめたあと、
 胸に残った息だけのため息。
 あれを、レアは後悔だと思ったのだろうか。

 本当は、苦しむレアが痛ましく、どう手を伸ばせば良いのかわからず、その迷いが息になっただけだった。

(きっと帰ってくる頃には、笑顔を取り戻してるはずだ)

 そう信じて、あえて外出を深く追及しなかった。今の彼女には、束縛よりも“自由な時間”が必要だと思ったからだ。

 まさか、その判断が――
 この事態を招いたとは思いたくなかった。

 今、寝台に横たわるレアの手に触れる。
 冷たくはない。
 確かに、人の温度が残っている。

 ただ眠っているだけのように、美しかった。

 昨夜、泣きながら求められ、抱きしめ合った感触まで思い出せる。
 柔らかい髪の匂い。震える肩。
 愛していると言えば、彼女は子どものように泣いて笑った。

 そのすべてが――もう二度と返ってこない気がした。

 ジュールの視界が滲む。
 涙は止め方を知らないまま零れ落ち、レアの手に落ちた。

「……レア、レア、起きてくれ…」

 声は震え、祈りのように掠れていく。
 縋るように手を握りしめる。
 返事はない。まぶたは閉じたまま、呼吸だけが静かに生を告げている。

(どうか……目を覚ましてくれ…)

 その言葉は声にならず、胸の奥で血のように溜まっていくだけだった。

 ――この日を境に、レア・フェルディナンは眠り続けることになる。
 十年もの長い歳月を。

 抱きしめた温もりだけを残していた。

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