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記事には、かつて病と闘っていた彼女が、隣国ノルデンで先進的な治療を受けながらも勉学を重ね、王立医学学校を首席で卒業したことが記されていた。
紙面には、凛とした笑顔を浮かべるミリアの写真が載っている。少し大人びたその顔は、面影を残しながらも、強さと覚悟に満ちていた。
バルタザールは、新聞を持つ手を止めた。
胸の奥が、つんと、ひりつくように痛んだ。
彼女が、病気だった。
入退院を繰り返すほどの重い病を抱えていたのだと、初めて知った。
――だから、突然、何も言わずに去ったのか。
――あのとき、「風になりたい」と呟いたのは、死を見つめていたからなのか。
彼の頭脳は冷静に情報を処理しようとしたが、心はそうはいかなかった。
「……なぜ、誰も、俺に何も言わなかった」
思わず口をついて出た低い声に、自分で驚いた。
家族も、彼女も、皆が自分には何も言わなかった。
いや、もしかしたら――彼自身が、彼女にきちんと向き合ってこなかったのかもしれない。
紙面に書かれていた一節が、胸に深く突き刺さる。
「夢を抱いたけれど、叶うかどうかは、未知数でした」
それでも、彼女は夢を叶えた。
自身の命の限界を知りながらも、前を向いて歩き続けたのだ。
バルタザールは無言のまま新聞を閉じ、机に静かに置いた。
その瞳は深く沈み、眼鏡の奥でわずかに揺れていた。
心の中で何かが崩れ、そして新しく何かが芽生えるのを、彼は確かに感じていた。
――「彼女に、聞かなくてはならない。今度こそ、きちんと、話を」
***
数日後の午後。研究室の扉が軽やかにノックされる音が響いた。
「お邪魔してもいいかしら?」
いつもの調子でそう言って入ってきたのは、ミリア・グレイマンだった。
その声は明るく弾んでいたが、バルタザールには、どこか張り詰めた空気が感じ取れた。
彼女はワンピースの裾を気にしながら、研究室に一歩踏み込む。
若い研究生たちが思わず手を止めて彼女に視線を送ったが、ミリアは気さくに挨拶を返し、馴染んだ様子で一角の椅子に腰を下ろした。
ユリウスが資料を運びながら彼女に笑いかける。
「ミリアさん、またいらしたんですね」
「ええ。なんだかここに来るのが習慣になってきちゃった」
冗談めかした声に、若者たちはほっとしたように笑う。
バルタザールは黙ったまま手元の設計図に視線を落としていたが、やがて静かに口を開いた。
「……君の記事を読んだ」
その言葉に、ミリアの笑顔がふと止まった。
周囲の空気が、わずかに張り詰める。
バルタザールは顔を上げず、机に視線を落としたまま続ける。
「医学学校を首席で卒業したこと。治療のために十三歳で移住したこと……そして、君が長く病と闘っていたことも、初めて知った」
ミリアは一瞬だけ目を伏せた。そして、ゆっくりと頷いた。
「……新聞記事の話をしちゃったから、読むむかもとは思ったけど、読んじゃったのね?」
声に責める色はなかった。ただ、少しだけ寂しげだった。
「ちょっと、良いか?」
バルタザールはミリアに声を掛けて、研究室を後にした。
二人は中庭に移動し、木陰のベンチに横並びに腰をかけた。
「驚いた。……いや、それ以上に、何も知らなかった自分が情けないと思った」
バルタザールの声は珍しく感情を帯びていた。
自分だけが蚊帳の外にいたような、そして、彼女の重荷にまったく気づかなかったという後悔が、胸に渦巻いていた。
ミリアは、そんな彼の様子をじっと見つめ、やがて優しく微笑んだ。
「……あの頃は、誰にも言いたくなかったのよ。私、ずっと夢を語ってたでしょ? “医学を学びたい”って。あれ、ただの子供の夢じゃなかったの。生きる理由だったのよ」
声は軽やかだったが、その奥には深い覚悟があった。
「再燃した時、医者には無理だって言われたの。でも、私は諦めたくなかった。だから治療に専念するために、全部……置いていった」
「君は、俺に手紙をくれた」
「うん。でも、住所は書かなかった。返事が来たら、私は迷ってしまうと思ったから」
その言葉に、バルタザールは黙り込んだ。
木々の葉に視線を落としながら、自分の手を握りしめた。
「……君は、強い」
「強くなんてないわよ。怖くて仕方なかった。今だって……」
言いかけて、ミリアは唇を噛み締めた。
そして、笑った。
「でも、こうして今、バルタザールに“読んだ”って言われるの、なんだか悪くないな。少し照れちゃうけど」
バルタザールは、はじめて顔を上げた。
彼女の瞳は、あの頃と同じ、曇りのない光を湛えていた。
だがその奥には、知らなかった時間と痛みが刻まれていた。
「仕事はどうしてる?」
「今は休暇中なの。ずっと働き詰めだったから、休みがたくさんあるの」
彼はゆっくりと頷いた。
「君の今までを聞かせてくれないか。
あと、君のこれからのことも」
ミリアは目を丸くしたあと、ふっと笑う。
「……わかった。じゃあ、次に来る時には“ちゃんと”話す。大事なこと、全部」
その約束を最後に、彼女は立ち上がり、中庭を後にした。
軽やかな足取りの裏で、肩の線がほんの少しだけ震えていたのを、バルタザールは見逃さなかった。
紙面には、凛とした笑顔を浮かべるミリアの写真が載っている。少し大人びたその顔は、面影を残しながらも、強さと覚悟に満ちていた。
バルタザールは、新聞を持つ手を止めた。
胸の奥が、つんと、ひりつくように痛んだ。
彼女が、病気だった。
入退院を繰り返すほどの重い病を抱えていたのだと、初めて知った。
――だから、突然、何も言わずに去ったのか。
――あのとき、「風になりたい」と呟いたのは、死を見つめていたからなのか。
彼の頭脳は冷静に情報を処理しようとしたが、心はそうはいかなかった。
「……なぜ、誰も、俺に何も言わなかった」
思わず口をついて出た低い声に、自分で驚いた。
家族も、彼女も、皆が自分には何も言わなかった。
いや、もしかしたら――彼自身が、彼女にきちんと向き合ってこなかったのかもしれない。
紙面に書かれていた一節が、胸に深く突き刺さる。
「夢を抱いたけれど、叶うかどうかは、未知数でした」
それでも、彼女は夢を叶えた。
自身の命の限界を知りながらも、前を向いて歩き続けたのだ。
バルタザールは無言のまま新聞を閉じ、机に静かに置いた。
その瞳は深く沈み、眼鏡の奥でわずかに揺れていた。
心の中で何かが崩れ、そして新しく何かが芽生えるのを、彼は確かに感じていた。
――「彼女に、聞かなくてはならない。今度こそ、きちんと、話を」
***
数日後の午後。研究室の扉が軽やかにノックされる音が響いた。
「お邪魔してもいいかしら?」
いつもの調子でそう言って入ってきたのは、ミリア・グレイマンだった。
その声は明るく弾んでいたが、バルタザールには、どこか張り詰めた空気が感じ取れた。
彼女はワンピースの裾を気にしながら、研究室に一歩踏み込む。
若い研究生たちが思わず手を止めて彼女に視線を送ったが、ミリアは気さくに挨拶を返し、馴染んだ様子で一角の椅子に腰を下ろした。
ユリウスが資料を運びながら彼女に笑いかける。
「ミリアさん、またいらしたんですね」
「ええ。なんだかここに来るのが習慣になってきちゃった」
冗談めかした声に、若者たちはほっとしたように笑う。
バルタザールは黙ったまま手元の設計図に視線を落としていたが、やがて静かに口を開いた。
「……君の記事を読んだ」
その言葉に、ミリアの笑顔がふと止まった。
周囲の空気が、わずかに張り詰める。
バルタザールは顔を上げず、机に視線を落としたまま続ける。
「医学学校を首席で卒業したこと。治療のために十三歳で移住したこと……そして、君が長く病と闘っていたことも、初めて知った」
ミリアは一瞬だけ目を伏せた。そして、ゆっくりと頷いた。
「……新聞記事の話をしちゃったから、読むむかもとは思ったけど、読んじゃったのね?」
声に責める色はなかった。ただ、少しだけ寂しげだった。
「ちょっと、良いか?」
バルタザールはミリアに声を掛けて、研究室を後にした。
二人は中庭に移動し、木陰のベンチに横並びに腰をかけた。
「驚いた。……いや、それ以上に、何も知らなかった自分が情けないと思った」
バルタザールの声は珍しく感情を帯びていた。
自分だけが蚊帳の外にいたような、そして、彼女の重荷にまったく気づかなかったという後悔が、胸に渦巻いていた。
ミリアは、そんな彼の様子をじっと見つめ、やがて優しく微笑んだ。
「……あの頃は、誰にも言いたくなかったのよ。私、ずっと夢を語ってたでしょ? “医学を学びたい”って。あれ、ただの子供の夢じゃなかったの。生きる理由だったのよ」
声は軽やかだったが、その奥には深い覚悟があった。
「再燃した時、医者には無理だって言われたの。でも、私は諦めたくなかった。だから治療に専念するために、全部……置いていった」
「君は、俺に手紙をくれた」
「うん。でも、住所は書かなかった。返事が来たら、私は迷ってしまうと思ったから」
その言葉に、バルタザールは黙り込んだ。
木々の葉に視線を落としながら、自分の手を握りしめた。
「……君は、強い」
「強くなんてないわよ。怖くて仕方なかった。今だって……」
言いかけて、ミリアは唇を噛み締めた。
そして、笑った。
「でも、こうして今、バルタザールに“読んだ”って言われるの、なんだか悪くないな。少し照れちゃうけど」
バルタザールは、はじめて顔を上げた。
彼女の瞳は、あの頃と同じ、曇りのない光を湛えていた。
だがその奥には、知らなかった時間と痛みが刻まれていた。
「仕事はどうしてる?」
「今は休暇中なの。ずっと働き詰めだったから、休みがたくさんあるの」
彼はゆっくりと頷いた。
「君の今までを聞かせてくれないか。
あと、君のこれからのことも」
ミリアは目を丸くしたあと、ふっと笑う。
「……わかった。じゃあ、次に来る時には“ちゃんと”話す。大事なこと、全部」
その約束を最後に、彼女は立ち上がり、中庭を後にした。
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