【完結】そして、ふたりで築く場所へ

とっくり

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 それは、午後から降り出した雨が、夜まで止まなかった日のことだった。

 谷の村を取り囲む山の斜面から、突如として土砂が崩れ落ち、建設予定地の一部を呑み込んだ。濁流に押し流された仮設の足場、診療所の裏手まで迫る泥の波。

 バルタザール・ヘルマンは、泥水をかぶった設計図を手に、ずぶ濡れのまま立ち尽くしていた。

「バルタザール先生! 東の斜面も危険です! 避難誘導を!」

 ユリウスの声に我に返ったバルタザールは、すぐさま指示を飛ばした。

「子どもと高齢者を優先に。診療所の機材は布で包んで持ち出せ。荷は小屋の北側へ。あそこなら地盤はまだ安定している」

 命の危機に直面してなお、彼の指示は的確だった。しかし、その顔には疲労が色濃くにじみ、髪から水が滴っても気にも留めていなかった。

 怒号が飛ぶ中で、最も冷静に現場を指揮していたのは、バルタザールだった。

 濡れた設計図を拡げ、崩落した地盤と、仮設棟の損傷を確認する彼の姿は、まさに建築家としての矜持そのものだった。

 しかし、彼の頬は青白く、歩くたびにその足取りは重くなる。

「先生、一度休んでください。顔色が……」

 ユリウスの声にも、バルタザールは首を横に振った。

「……今は、それどころじゃない」

 だが、その夜。彼は補強作業の指示中、ふらりとその場に崩れ落ちた。

 仮設棟に運び込まれたバルタザールは、熱に浮かされ、うわ言のように設計図の位置を口にしていた。ユリウスは手を握りながら、歯を食いしばる。


「……先生、任せてください。今度は僕の番です」

 ふと、彼の中で何かが静かに火を灯した。

「僕がやります。今夜から、僕が現場をまとめます」

 そう告げたユリウスは、資料を手に立ち上がった。

 翌朝から、ユリウスは現場の中心に立ち、村の若者たちと共に作業を進めた。
 時に測量器を構え、時に泥に足を取られながらも、冷静に、そして熱意をもって場を動かしていく。

「ユリウスさん、次の土嚢はどこに積めばいいですか!?」

「こっちの斜面を先に。水の流れをここで食い止める。木材は午後に搬入、荷下ろしはこの列に!」

 年配の大工が「ほう」と感心したように腕を組んだ。

「やるじゃねえか、若造。ヘルマン先生が倒れたってのに、しっかりしてる」
「先生の弟子だもんな。そりゃ、期待できるってもんだ」

 言葉に出す村人は少なくとも、その眼差しに敬意が宿っていた。

 土砂の撤去、水路の修正、再設計──現場は再び動き始めた。

 ユリウスは泥にまみれながらも、仲間たちと肩を並べ、バルタザールが守ろうとした夢を、自らの手で継ごうとする。

 夜半の仮設棟。窓の外では、風がまだ山の木々を揺らしていた。バルタザールは仰向けに横たわり、額に乗せられた布がぬるくなるたびに、ユリウスが丁寧に取り替えていた。

 そのとき、外から誰かの足音が駆けてきた。診療スタッフの一人が、息を切らしながら戸口を開ける。

「ユリウスさん! ノルデンからの便が届きました! 先生宛ての手紙です!」

 ユリウスは即座に立ち上がり、封筒を受け取った。しっかりとした羊皮紙に、バルタザールの名が丁寧な筆跡で書かれている。見覚えのある字体に、ユリウスはふっと息を漏らした。

「……ミリアさんだ」

 手紙を両手で大切に抱えながら、ユリウスはベッドの傍に戻った。

「先生、ミリアさんからです」

 弱々しく目を開いたバルタザールは、封筒を見ると、少しだけ唇の端を上げた。熱にうなされていた瞳に、かすかに光が戻る。

「……ありがとう。渡してくれ」

 彼は手を伸ばし、震える指で封を切ると、ゆっくりと羊皮紙を広げた。灯火の揺らぎの中で文字を追い、その目が少し潤む。

「……無事らしい」

 静かにそう呟くと、彼は胸元で手紙を握りしめた。

「戻ってくるそうだ。もうすぐ……ここに」

 その言葉を聞いたユリウスは、にこりと微笑んだ。

「きっと、ミリアさんは、この村の変化に驚きますよ。先生が心血注いだこの場所も、村の皆さんの頑張りも……それに、僕の成長も、ちょっとだけ」

 冗談めかしたその言葉に、バルタザールも苦笑しそうになったが、すぐに咳き込む。

「……無理は、するな……ユリウス」
「ええ。先生の方こそ。もう少し休んでいてください」

 ユリウスは言いながら、手紙を読み終えたバルタザールの手をそっと包んだ。その手は熱を帯びながらも、わずかに力を返してくる。

「ミリアさんが戻るまでに、やっておきます。いい村にして、いい仲間に囲まれて、先生が笑えるように」

 小さな灯火の下で、ひとつの誓いが結ばれた夜だった。

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