【完結】そして、ふたりで築く場所へ

とっくり

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 夜が明けきらぬうちから、ユリウス・エルデンは仮設棟の図面の前に立っていた。

 まだ乾ききらない紙の上に、雨水で滲んだ線が細かく残っている。
 だが、彼の指先は迷わずその上をなぞり、頭の中で何度も手順を組み直していた。

「……水の流れは変わってる。東の傾斜が新たな水路になった……なら、仮設の通路は一時撤去して、こっちに排水路を――」

 泥にまみれたブーツのまま、ユリウスは戸口を蹴って開け、すでに集まり始めた村人たちへ向けて大きな声で呼びかける。

「土嚢をあと二列! 崩れた東の小道は封鎖してください!」

「ユリウスさん、材木は?」

「荷馬車は南の丘を回して搬入! 道を整備して誘導します!」

 的確で無駄のない指示。
 その姿に、村人たちは自然と従って動き出していた。人々の間に芽生えつつある信頼――それは、彼が誰よりも現場に身を投じ、共に汗を流していることの証だった。

 汗と泥に塗れたユリウスの顔。
 その目には迷いがない。ただまっすぐに、前を見据えていた。

「先生が築いた設計と信頼を、ここで途切れさせるわけにはいかない」

 その一心だけが、彼の足を動かしていた。


***
 

 その頃、仮設棟の奥。

 簡易ベッドの上で、バルタザール・ヘルマンは熱にうなされていた。

 額には濡れた布が置かれ、唇は乾き、頬には異常な紅潮。けれど、彼の意識は――まだ、現場を彷徨っていた。

「……排水……逆勾配……南の斜面、木の根が……支えに……」

 うわ言のように、彼は断片的な設計用語を呟き続ける。夢の中でも、彼は尚も図面を引き直し、倒壊した地盤の構造を組み立てていた。

(間に合わない……支えが足りない……このままじゃ……)

 混濁した意識の中で、何度も崩れる壁、浸水する仮設棟の光景がフラッシュのように繰り返される。
 ミリアの姿が浮かんでは消え、声が届かぬまま、泥に沈んでいく建物が頭をよぎる。

 焦り。罪悪感。自責。ミリアが不在の今、自分がこの場を守らなければという強烈な使命感が、病に侵された体をなお突き動かそうとしていた。

(あれは……俺が……設計した……俺が……)

 その執念が、彼を眠りの底から呼び戻そうとする。だが、体は動かない。頭は痛く、四肢には力が入らない。

 ──情けない。

 心のどこかで、彼はそう呟いていた。

 彼女と描いた未来。
 その未来を築くはずのこの村で、自分は寝台に伏して、何もできていない。

 ミリアが命を懸けて願った場所を、自分の手で守れないという無力感が、彼の胸を締めつけていた。

 そこへ、小さな声が聞こえた。

「――大丈夫。あの青年が、ちゃんと現場を動かしてくれてるわよ」

 村の看護師が、氷嚢を替えながらそっと囁いた言葉だった。その声が耳に届いたのかどうかはわからない。

 だが次の瞬間、バルタザールの強張っていた眉間が、わずかに緩んだ。

(……ユリウス……)

 意識の奥底で、その名が確かに呼ばれた。

 
***


 一方、ノルデンの療養施設では、ミリアが帰郷の支度を整えていた。

 ミリアは前日、医師から「あと数週間で現地に戻れるだろう」と告げられていた。血液検査の数値が安定し、症状の進行が止まったことが確認されたのだ。

「……よかった……」

 まだ体力は完全ではなかったが、彼女は慎重に荷をまとめ、スーツケースに衣服や医療器具、そして一冊のノートを収める。

 ──バルタザールへの手紙を綴った、あのノートだった。

「もうすぐ、会えるのよ……バルタザール。どうか、無事でいて」

 ミリアは思わず手を止め、窓の外へ目をやった。

 緑に染まった初夏の庭を、風がさざめきながら通り抜けていく。その音は、谷の村の風を思い起こさせるようだった。

 彼女の傍には姉が立っていた。
静かに寄り添い、妹の決意を見守るその顔には、どこかほっとしたような、そして一抹の寂しさも滲んでいた。

「もう、行くのね?」
「ええ。……私、あの場所で、生きていたいの」
「わかってるわ。止めない。でも、今度こそ無理はしないって、彼に約束してあげて」
「うん。無理はしないわ。早く彼に会いたい」

 ミリアは頷き、ノートを胸に抱きしめた。彼女の瞳には、力強い意志の光が宿っていた。

 

 ――その夜。

 ユリウスは、図面とにらめっこしながら、仮設棟のランタンの下で一人残っていた。

 崩れた地盤、流された排水路、使えなくなった設備。それらを頭の中で整理しながら、何度もペンを走らせる。

「あとは……どう補強するかだ。斜面の安定性を保つには……」

 ふと、彼は空を見上げた。

 満天の星が瞬いていた。冷たい空気の中で、それはどこか希望のように、光を放っていた。

「ミリアさん。あなたが戻って来られるまでに、俺がこの村を守ってみせる」

 風が、山の谷を静かに抜けていった。

 夜明けは、すぐそこまで来ていた。
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