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谷に朝の霧が立ち込め、夜明け前の空気はしんと静まり返っていた。
仮設棟の奥、灯りを落とした小さな部屋。窓から差す淡い光の気配だけが、時が確かに進んでいることを知らせていた。
簡素なベッドに横たわる男――バルタザール・ヘルマンは、高熱にうなされながら浅い眠りをさまよっていた。
現地に来てから休息もほとんど取らず、ずっと働き詰めだった身体がとうとう悲鳴をあげていた。
額には氷嚢。頬は紅潮し、唇は乾いていた。それでも、眉間に寄った皺が消えることはなかった。
「……南面……基礎が……流される……」
苦しげな声で、彼は夢の中でもなお現場のことを口にしていた。設計図を頭の中で引き直し、崩れた地盤を修正しようとするように。
その姿は、どれだけ高熱に浮かされてもなお、建築家としての矜持を手放せない彼そのものだった。
その時、扉がそっと開いた。
「……ミリア先生……!?」
看護師が驚いた声を上げる。
けれど、入ってきた女性は、ただ一つうなずいてコートを脱ぐと、音を立てぬように彼の傍に膝をついた。
「バルタザール……私、帰ってきたわ」
その声は、春を告げる風のように、静かで、温かかった。
ミリアの指が彼の額に触れる。冷たいその肌に、彼女の手のひらがそっと重なる。指先は微かに震えていたが、それは不安からではない。ずっと待ち望んでいた時間が、今ようやく訪れたことに、胸が締めつけられていたのだ。
しばらくして、バルタザールのまぶたがわずかに動いた。
「……ミリア……?」
掠れた声。けれど、その呼び方に、確かに彼自身が宿っていた。
「ええ、私よ」
「……夢じゃ……ないのか……?」
彼の瞳が濡れて揺れる。それを見て、ミリアもまた涙をこぼしそうになる。
「夢じゃない。ちゃんと、ここにいるわ。あなたのもとに、帰ってきたの」
その言葉に、バルタザールの表情がゆっくりと崩れていく。
頬を伝う汗と熱、それでも彼は、今にも消えてしまいそうな力で彼女の指を掴んだ。まるで、何かを確かめるようだった。
何度も心の中で描いた再会の景色が、現実になったことを、ようやく信じられたかのように、バルタザールは安堵の表情を浮かべた。
「……無理……するなって……言ったのに……」
「それはこっちのセリフよ。あなたがどれだけ無茶をしてたか、聞いたわ」
ミリアの声が、震えた。
自分がいない間に、彼は倒れるまで立ち続けていた。熱に侵されながらも、人々を守り、夢を守ろうとした――その強さに、胸が痛くなる。
「すまない……でも……止まれなかった。ここは……君と……作った……場所だから」
彼の言葉は、途切れ途切れだった。それでも、ひとつひとつが心に刺さった。
あの人は、ひとりで抱えすぎる。責任を、未来を、そして自分さえも。
それをわかっていたのに、そばにいられなかった悔しさと、今ここにいられる安堵が入り混じり、ミリアの胸を締めつけた。
彼の髪をそっと撫でながら、ミリアは言う。
「もう、いいの。一人で背負わないで。これからは、ふたりで……築いていこう」
「……ミリア……」
「あなたがいないと、意味がないの。この村も、未来も。私の生きる場所は、あなたの隣なの」
その瞬間、バルタザールの瞳に浮かんだ涙が、頬を伝って落ちた。
彼は口を開こうとしたが、声にならなかった。ただ、ミリアの手を、もう片方の手でも包み込んで――それが、彼のすべての答えだった。
ミリアは身をかがめ、彼の額に唇を落とした。
それは、再会の印。
それは、約束の証。
「おかえりって、ちゃんと言えるまで、待ってるわ。だから、ゆっくり休んで」
彼の表情が、ふっと緩んだ。
張り詰めた糸がほどけ、深い眠りが再び彼を包み込む。
その顔には、はじめて見るような安らかなの色が滲んでいた。
霧がゆっくりと晴れていく。
窓の外、空の彼方から差し込む朝の光が、ふたりの未来をそっと照らし始めていた。
仮設棟の奥、灯りを落とした小さな部屋。窓から差す淡い光の気配だけが、時が確かに進んでいることを知らせていた。
簡素なベッドに横たわる男――バルタザール・ヘルマンは、高熱にうなされながら浅い眠りをさまよっていた。
現地に来てから休息もほとんど取らず、ずっと働き詰めだった身体がとうとう悲鳴をあげていた。
額には氷嚢。頬は紅潮し、唇は乾いていた。それでも、眉間に寄った皺が消えることはなかった。
「……南面……基礎が……流される……」
苦しげな声で、彼は夢の中でもなお現場のことを口にしていた。設計図を頭の中で引き直し、崩れた地盤を修正しようとするように。
その姿は、どれだけ高熱に浮かされてもなお、建築家としての矜持を手放せない彼そのものだった。
その時、扉がそっと開いた。
「……ミリア先生……!?」
看護師が驚いた声を上げる。
けれど、入ってきた女性は、ただ一つうなずいてコートを脱ぐと、音を立てぬように彼の傍に膝をついた。
「バルタザール……私、帰ってきたわ」
その声は、春を告げる風のように、静かで、温かかった。
ミリアの指が彼の額に触れる。冷たいその肌に、彼女の手のひらがそっと重なる。指先は微かに震えていたが、それは不安からではない。ずっと待ち望んでいた時間が、今ようやく訪れたことに、胸が締めつけられていたのだ。
しばらくして、バルタザールのまぶたがわずかに動いた。
「……ミリア……?」
掠れた声。けれど、その呼び方に、確かに彼自身が宿っていた。
「ええ、私よ」
「……夢じゃ……ないのか……?」
彼の瞳が濡れて揺れる。それを見て、ミリアもまた涙をこぼしそうになる。
「夢じゃない。ちゃんと、ここにいるわ。あなたのもとに、帰ってきたの」
その言葉に、バルタザールの表情がゆっくりと崩れていく。
頬を伝う汗と熱、それでも彼は、今にも消えてしまいそうな力で彼女の指を掴んだ。まるで、何かを確かめるようだった。
何度も心の中で描いた再会の景色が、現実になったことを、ようやく信じられたかのように、バルタザールは安堵の表情を浮かべた。
「……無理……するなって……言ったのに……」
「それはこっちのセリフよ。あなたがどれだけ無茶をしてたか、聞いたわ」
ミリアの声が、震えた。
自分がいない間に、彼は倒れるまで立ち続けていた。熱に侵されながらも、人々を守り、夢を守ろうとした――その強さに、胸が痛くなる。
「すまない……でも……止まれなかった。ここは……君と……作った……場所だから」
彼の言葉は、途切れ途切れだった。それでも、ひとつひとつが心に刺さった。
あの人は、ひとりで抱えすぎる。責任を、未来を、そして自分さえも。
それをわかっていたのに、そばにいられなかった悔しさと、今ここにいられる安堵が入り混じり、ミリアの胸を締めつけた。
彼の髪をそっと撫でながら、ミリアは言う。
「もう、いいの。一人で背負わないで。これからは、ふたりで……築いていこう」
「……ミリア……」
「あなたがいないと、意味がないの。この村も、未来も。私の生きる場所は、あなたの隣なの」
その瞬間、バルタザールの瞳に浮かんだ涙が、頬を伝って落ちた。
彼は口を開こうとしたが、声にならなかった。ただ、ミリアの手を、もう片方の手でも包み込んで――それが、彼のすべての答えだった。
ミリアは身をかがめ、彼の額に唇を落とした。
それは、再会の印。
それは、約束の証。
「おかえりって、ちゃんと言えるまで、待ってるわ。だから、ゆっくり休んで」
彼の表情が、ふっと緩んだ。
張り詰めた糸がほどけ、深い眠りが再び彼を包み込む。
その顔には、はじめて見るような安らかなの色が滲んでいた。
霧がゆっくりと晴れていく。
窓の外、空の彼方から差し込む朝の光が、ふたりの未来をそっと照らし始めていた。
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