【完結】そして、ふたりで築く場所へ

とっくり

文字の大きさ
31 / 32

31

しおりを挟む
 谷に朝の霧が立ち込め、夜明け前の空気はしんと静まり返っていた。

 仮設棟の奥、灯りを落とした小さな部屋。窓から差す淡い光の気配だけが、時が確かに進んでいることを知らせていた。

 簡素なベッドに横たわる男――バルタザール・ヘルマンは、高熱にうなされながら浅い眠りをさまよっていた。
 現地に来てから休息もほとんど取らず、ずっと働き詰めだった身体がとうとう悲鳴をあげていた。

 額には氷嚢。頬は紅潮し、唇は乾いていた。それでも、眉間に寄った皺が消えることはなかった。

「……南面……基礎が……流される……」

 苦しげな声で、彼は夢の中でもなお現場のことを口にしていた。設計図を頭の中で引き直し、崩れた地盤を修正しようとするように。
 その姿は、どれだけ高熱に浮かされてもなお、建築家としての矜持を手放せない彼そのものだった。

 その時、扉がそっと開いた。

「……ミリア先生……!?」

 看護師が驚いた声を上げる。
 けれど、入ってきた女性は、ただ一つうなずいてコートを脱ぐと、音を立てぬように彼の傍に膝をついた。

「バルタザール……私、帰ってきたわ」

 その声は、春を告げる風のように、静かで、温かかった。
 ミリアの指が彼の額に触れる。冷たいその肌に、彼女の手のひらがそっと重なる。指先は微かに震えていたが、それは不安からではない。ずっと待ち望んでいた時間が、今ようやく訪れたことに、胸が締めつけられていたのだ。

 しばらくして、バルタザールのまぶたがわずかに動いた。

「……ミリア……?」

 掠れた声。けれど、その呼び方に、確かに彼自身が宿っていた。

「ええ、私よ」

「……夢じゃ……ないのか……?」

 彼の瞳が濡れて揺れる。それを見て、ミリアもまた涙をこぼしそうになる。

「夢じゃない。ちゃんと、ここにいるわ。あなたのもとに、帰ってきたの」

 その言葉に、バルタザールの表情がゆっくりと崩れていく。

 頬を伝う汗と熱、それでも彼は、今にも消えてしまいそうな力で彼女の指を掴んだ。まるで、何かを確かめるようだった。

 何度も心の中で描いた再会の景色が、現実になったことを、ようやく信じられたかのように、バルタザールは安堵の表情を浮かべた。

「……無理……するなって……言ったのに……」

「それはこっちのセリフよ。あなたがどれだけ無茶をしてたか、聞いたわ」

 ミリアの声が、震えた。

 自分がいない間に、彼は倒れるまで立ち続けていた。熱に侵されながらも、人々を守り、夢を守ろうとした――その強さに、胸が痛くなる。

「すまない……でも……止まれなかった。ここは……君と……作った……場所だから」

 彼の言葉は、途切れ途切れだった。それでも、ひとつひとつが心に刺さった。

 あの人は、ひとりで抱えすぎる。責任を、未来を、そして自分さえも。

 それをわかっていたのに、そばにいられなかった悔しさと、今ここにいられる安堵が入り混じり、ミリアの胸を締めつけた。

 彼の髪をそっと撫でながら、ミリアは言う。

「もう、いいの。一人で背負わないで。これからは、ふたりで……築いていこう」

「……ミリア……」

「あなたがいないと、意味がないの。この村も、未来も。私の生きる場所は、あなたの隣なの」

 その瞬間、バルタザールの瞳に浮かんだ涙が、頬を伝って落ちた。

 彼は口を開こうとしたが、声にならなかった。ただ、ミリアの手を、もう片方の手でも包み込んで――それが、彼のすべての答えだった。

 ミリアは身をかがめ、彼の額に唇を落とした。

 それは、再会の印。
 それは、約束の証。

「おかえりって、ちゃんと言えるまで、待ってるわ。だから、ゆっくり休んで」

 彼の表情が、ふっと緩んだ。

 張り詰めた糸がほどけ、深い眠りが再び彼を包み込む。
 その顔には、はじめて見るような安らかなの色が滲んでいた。

 霧がゆっくりと晴れていく。

 窓の外、空の彼方から差し込む朝の光が、ふたりの未来をそっと照らし始めていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

歴史から消された皇女〜2人の皇女の願いが叶うまで終われない〜

珠宮さくら
恋愛
ファバン大国の皇女として生まれた娘がいた。 1人は生まれる前から期待され、生まれた後も皇女として周りの思惑の中で過ごすことになり、もう1人は皇女として認められることなく、街で暮らしていた。 彼女たちの運命は、生まれる前から人々の祈りと感謝と願いによって縛られていたが、彼らの願いよりも、もっと強い願いをかけていたのは、その2人の皇女たちだった。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

時間を止めて ~忘れられない元カレは完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な人でした 【完結】

remo
恋愛
どんなに好きになっても、彼は絶対に私を愛さない。 佐倉ここ。 玩具メーカーで働く24歳のOL。 鬼上司・高野雅(がく)に叱責されながら仕事に奔走する中、忘れられない元カレ・常盤千晃(ちあき)に再会。 完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な彼には、悲しい秘密があった。 【完結】ありがとうございました‼

妻が通う邸の中に

月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。

国王陛下はいつも眠たい

通木遼平
恋愛
 八つの国が一つになって建国されたフォルトマジア王国では、「主家」と呼ばれる八つのかつての王家が順番に王位を継ぐことが決まっていた。その一つであり先々代の王家でもあったエリーディアに生まれたフィーナディアは、ある日突然、現国王であるトゥーランのラグルに嫁ぐよう父から告げられる。彼女の父親と姉は自分たちこそ王位にふさわしいと言ってはばからず、どんな手を使ってでもラグルを陥れるよう命じたのだった。  しかしそんな父たちの考えに賛同できないフィーナディアは、父の企みをラグルに伝え、婚約もなかったことにし、後は自由にさせてもらおうと考える。しかしふとしたきっかけでラグルとの距離が縮まっていき……。

【完結】灰薔薇伝 ― 祈りは光に還るー

とっくり
恋愛
  「灰が散っても、祈りは光に還る」 戦で傷ついた騎士と、彼を救った修道女。 罪と祈りの十日、孤独の十年―― 灰薔薇の咲く風の丘で、 二人の想いは時を越えて静かに息づく。 滅びゆく国、信仰と禁忌の狭間で、 一人の女が“赦し”を信じ、 一人の男が“生きる”ことを選んだ。 灰薔薇の香りは、愛でも奇跡でもなく、 祈りそのものだった。 彼らに下される運命は――。

猫になった悪女 ~元夫が溺愛してくるなんて想定外~

黒猫子猫
恋愛
ディアナは欲深く、夫にも結婚を強いた悪女として知られた女王だ。当然のように人々から嫌われ、夫婦仲は悪く、病に倒れた時も誰も哀しまなかった。ディアナは、それで良かった。余命宣告を受け、自分の幸せを追い求める事などとうに止めた。祖国のためにできる事は全てやった。思うままに生きたから、人生をやり直せると言われても、人間などまっぴらごめんだ。 そして、《猫》になった。日向でのんびりと寝ている姿が羨ましかったからだ。いざ、自堕落な生活をしようと思ったら、元夫に拾われてしまった。しかも、自分が死んで、解放されたはずの彼の様子が妙だ。 あなた、隙あらば撫でようとするの、止めてくれる? 私達は白い結婚だったでしょう。 あなた、再婚する気がないの? 「お前を愛したりしない」って嬉しい事を言ってくれたのは誰よ! 猫になった孤高の女王×妻を失って初めて色々気づいてしまった王配の恋のお話。 ※全30話です。

没落伯爵令嬢の玉の輿試練

狭山ひびき
恋愛
 アリエル・ロカンクールは没落伯爵家の長女ある。  貧乏な家のため、何が何でも玉の輿に乗りたいアリエルはある日、伯爵家の若き当主ジェラルド・ル・フォールが結婚相手を決めているという話を聞く。  彼は自分と結婚したい女性を集めて、お茶会をするらしい。  変わり者で有名な伯爵だが、国で有数の資産家でもある。  アリエルは玉の輿結婚のため、伯爵のそのパーティーに参加することにするが、伯爵はそのお見合いパーティーでアリエルたちにテストと称し計算問題を解かせた。  いったい何の目的だろうと、テストに合格して会場に向かったアリエル。  ジェラルドは会場にいたほかの令嬢たちを返し、アリエルただ一人を残した。  てっきり結婚相手に選ばれたと思ったアリエルに、ジェラルドは「君はまだ合格じゃない」という。  そして差し出されたのは、謎めいた暗号が書かれているカードだった。 「この暗号文が示す答えを見つけてくれ。そうすれば、君は晴れて我が家の女主人、玉の輿だ」  ジェラルドは言う。  アリエルは謎を解き、目的通り玉の輿に乗れるのか⁉  謎を解くにつれて、ジェラルドとの関係も変化していき――

処理中です...