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谷の朝は、深い霧に包まれて始まった。
雨季がようやく過ぎ去り、澄んだ空気が村全体に新たな呼吸を吹き込んでいた。山肌をなでる風はやわらかく、どこか懐かしい。谷はまた、静かに歩みを始めようとしていた。
仮設棟の窓辺で、ミリアはそっとカーテンを引いた。淡い光が部屋に差し込み、ベッドに横たわる男の頬を照らす。
「バルタザール……朝よ」
その声に応えるように、彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。焦点を結ぶまでにしばらくかかり、まぶしげに目を細めながらも、ミリアの顔を見て小さく呟く。
「……おはよう」
「少し……外に出てみない?」
その言葉に、彼は少し驚いたように目を開き直した。体の芯にまだ倦怠感は残る。それでも、バルタザール・ヘルマンは、ミリアの差し出す手を静かに取った。
「無理しないで。……でも、外の空気は、きっといい薬になるわ」
ゆっくりと、彼は上半身を起こし、震える足で床を踏みしめる。ふたりの歩幅はまだ揃っていなかった。けれど、その一歩一歩には確かな重みがあった。
扉を開けた先に広がっていたのは、変わりゆく谷の姿だった。崩落した斜面には新たな杭が打ち込まれ、土嚢が積まれ、村の男たちが木材を運び、少女たちが水を運んでいた。
バルタザールは言葉もなく、それを見つめていた。
この数週間、自分はこの場所にいなかった。けれど、村は立ち止まらなかった。いや、立ち止まらなかったのは──人々だった。
「……俺が、いなくても、ここは動いていたんだな」
それは、建築家としての誇りと、どこか寂しさを含んだ言葉だった。
ミリアは、彼の手をそっと握る。
「あなたが築いたものが、ここに残ってるからよ。あなたの設計も、あなたの言葉も、ちゃんと人に届いていた」
バルタザールはふっと目を伏せ、遠くに広がる谷を見渡した。
「……もし、俺がいなくなっても、誰も困らなかったらって……それが、怖かった」
ミリアはその手をぎゅっと強くした。
「でも、誰もあなたを忘れてなかった。私だって、ずっと……あなたが必要だった」
バルタザールは、やがて空を仰いだ。雲間から差し込む光が、彼の目を照らす。
「……また始めよう。ここから」
その言葉に、ミリアはやさしく微笑んだ。
「ふたりで、ね」
***
夕刻の風が、山の稜線をなでる頃。
ユリウス・エルデンは、ひとり現場の端に立っていた。
図面の端が風に揺れ、手で押さえながら、彼は崩落箇所の再建図に視線を落としていた。
「ユリウス」
背後から聞こえた低い声に、ユリウスははっとして振り返る。そこに立っていたのは、まだ細身の身体に淡い疲労を残した、バルタザールだった。
「先生……!」
「世話になった。……ありがとう。お前がいてくれて、本当によかった」
その言葉に、ユリウスの胸が震える。
「……僕、先生に追いつきたくて……でも、こんなかたちで現場を任されるとは思いませんでした」
「だが、お前はやり遂げた。俺には到底できない判断もしていた。お前はもう、一人前だよ、ユリウス」
ユリウスの目が潤む。ずっと憧れていた背中は、今、ようやく手の届くところにある。
バルタザールは手を差し出す。
「これからも、俺の隣で支えてくれ」
「……はい。必ず」
ふたりの手が、強く結ばれた。
***
夜、ミリアが準備した小さな食堂には、あたたかな灯りがともっていた。
粗末ながらも心のこもった料理が並び、村人たちが笑顔で語らう。
「乾杯しようか」と誰かが言い、村の長が手を挙げる。
「ここに、新しい未来を築く者たちに」
カーン、と小さな鐘の音が響いた。
その音は、谷に夜が訪れる合図ではなく、新しい時代の幕開けを告げるものだった。
バルタザールは、隣に座るミリアの手を取り、小さく呟く。
「君が再び、俺に会いに来てくれて本当に良かった」
ミリアは少しだけ顔を赤らめて笑った。
「これからは、ずっと、あなたの隣にいるわ」
火が揺れる。笑い声が重なる。
未来は、まだ小さく未完成だ。
けれど、それは確かに、ここにあった。
火の明かりが小さく揺れ、村人たちの話し声が遠くに聞こえる中、バルタザールは少し黙り込んでから、湯の入ったカップを見つめるようにして言った。
「……その、ミリア」
「ん? なに?」
「……その……俺たち……結婚するんだからさ。お互い、ちゃんと休みを取って……旅行にでも行かないか?」
その言葉に、ミリアは目を瞬かせた。
「まぁ! 新婚旅行ってこと?」
「そ、そういうの、あまり得意じゃないんだが……だがまあ、お互い病み上がりだしな。保養地で温泉にでも入って、身体を休めるのはどうかと思って」
耳の先まで赤くしながら、どこかぶっきらぼうな言い方だったが、そこには真剣な気遣いがにじんでいた。
ミリアは思わず吹き出しそうになりながらも、あたたかな微笑みを浮かべる。
「ふふふ、渋い選択ね。でも、年齢を重ねた私たちには、それもまた素敵だわ。のんびり、ゆっくり、ね」
「……うん。それなら良かった。実は、少し調べておいた候補地がいくつかあってな。こことか、ここは泉質が良いらしいし、食事も評判が──」
バルタザールはポケットから、切り取った温泉地の雑誌記事を出して説明し始めた。
「えっ、意外と乗り気なのね、あなた」
ミリアが肩を揺らして笑うと、バルタザールはわずかに咳払いして、言い訳のように口を開いた。
「調べただけだ。別に、深い意味はない」
「ふふ、そうね。深い意味はないわよね?でも、とても楽しそうな旅行になりそう」
ミリアが目を細めてそう言うと、バルタザールもわずかに照れながら、静かにうなずいた。
それは、ふたりにとってのこれからのはじまりだった。
喧騒の中で育まれた絆は、ようやく穏やかな時間の中へと踏み出していく。
火がゆらめき、星がまたたく夜空の下。
新たな日々が、確かに始まりつつあった。
(おわり)
※ここまで、読んでくださり、誠にありがとうございました。
「君を迎えに行く」のバルタザール先生と
ユリウスの二人は好きなキャラでした。
ユリウスは婚約者がいる設定ですが、
全くそんな要素が出ず・・・
いつかユリウスの話も書けたらと思っております。
また、よろしくお願いいたします。
雨季がようやく過ぎ去り、澄んだ空気が村全体に新たな呼吸を吹き込んでいた。山肌をなでる風はやわらかく、どこか懐かしい。谷はまた、静かに歩みを始めようとしていた。
仮設棟の窓辺で、ミリアはそっとカーテンを引いた。淡い光が部屋に差し込み、ベッドに横たわる男の頬を照らす。
「バルタザール……朝よ」
その声に応えるように、彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。焦点を結ぶまでにしばらくかかり、まぶしげに目を細めながらも、ミリアの顔を見て小さく呟く。
「……おはよう」
「少し……外に出てみない?」
その言葉に、彼は少し驚いたように目を開き直した。体の芯にまだ倦怠感は残る。それでも、バルタザール・ヘルマンは、ミリアの差し出す手を静かに取った。
「無理しないで。……でも、外の空気は、きっといい薬になるわ」
ゆっくりと、彼は上半身を起こし、震える足で床を踏みしめる。ふたりの歩幅はまだ揃っていなかった。けれど、その一歩一歩には確かな重みがあった。
扉を開けた先に広がっていたのは、変わりゆく谷の姿だった。崩落した斜面には新たな杭が打ち込まれ、土嚢が積まれ、村の男たちが木材を運び、少女たちが水を運んでいた。
バルタザールは言葉もなく、それを見つめていた。
この数週間、自分はこの場所にいなかった。けれど、村は立ち止まらなかった。いや、立ち止まらなかったのは──人々だった。
「……俺が、いなくても、ここは動いていたんだな」
それは、建築家としての誇りと、どこか寂しさを含んだ言葉だった。
ミリアは、彼の手をそっと握る。
「あなたが築いたものが、ここに残ってるからよ。あなたの設計も、あなたの言葉も、ちゃんと人に届いていた」
バルタザールはふっと目を伏せ、遠くに広がる谷を見渡した。
「……もし、俺がいなくなっても、誰も困らなかったらって……それが、怖かった」
ミリアはその手をぎゅっと強くした。
「でも、誰もあなたを忘れてなかった。私だって、ずっと……あなたが必要だった」
バルタザールは、やがて空を仰いだ。雲間から差し込む光が、彼の目を照らす。
「……また始めよう。ここから」
その言葉に、ミリアはやさしく微笑んだ。
「ふたりで、ね」
***
夕刻の風が、山の稜線をなでる頃。
ユリウス・エルデンは、ひとり現場の端に立っていた。
図面の端が風に揺れ、手で押さえながら、彼は崩落箇所の再建図に視線を落としていた。
「ユリウス」
背後から聞こえた低い声に、ユリウスははっとして振り返る。そこに立っていたのは、まだ細身の身体に淡い疲労を残した、バルタザールだった。
「先生……!」
「世話になった。……ありがとう。お前がいてくれて、本当によかった」
その言葉に、ユリウスの胸が震える。
「……僕、先生に追いつきたくて……でも、こんなかたちで現場を任されるとは思いませんでした」
「だが、お前はやり遂げた。俺には到底できない判断もしていた。お前はもう、一人前だよ、ユリウス」
ユリウスの目が潤む。ずっと憧れていた背中は、今、ようやく手の届くところにある。
バルタザールは手を差し出す。
「これからも、俺の隣で支えてくれ」
「……はい。必ず」
ふたりの手が、強く結ばれた。
***
夜、ミリアが準備した小さな食堂には、あたたかな灯りがともっていた。
粗末ながらも心のこもった料理が並び、村人たちが笑顔で語らう。
「乾杯しようか」と誰かが言い、村の長が手を挙げる。
「ここに、新しい未来を築く者たちに」
カーン、と小さな鐘の音が響いた。
その音は、谷に夜が訪れる合図ではなく、新しい時代の幕開けを告げるものだった。
バルタザールは、隣に座るミリアの手を取り、小さく呟く。
「君が再び、俺に会いに来てくれて本当に良かった」
ミリアは少しだけ顔を赤らめて笑った。
「これからは、ずっと、あなたの隣にいるわ」
火が揺れる。笑い声が重なる。
未来は、まだ小さく未完成だ。
けれど、それは確かに、ここにあった。
火の明かりが小さく揺れ、村人たちの話し声が遠くに聞こえる中、バルタザールは少し黙り込んでから、湯の入ったカップを見つめるようにして言った。
「……その、ミリア」
「ん? なに?」
「……その……俺たち……結婚するんだからさ。お互い、ちゃんと休みを取って……旅行にでも行かないか?」
その言葉に、ミリアは目を瞬かせた。
「まぁ! 新婚旅行ってこと?」
「そ、そういうの、あまり得意じゃないんだが……だがまあ、お互い病み上がりだしな。保養地で温泉にでも入って、身体を休めるのはどうかと思って」
耳の先まで赤くしながら、どこかぶっきらぼうな言い方だったが、そこには真剣な気遣いがにじんでいた。
ミリアは思わず吹き出しそうになりながらも、あたたかな微笑みを浮かべる。
「ふふふ、渋い選択ね。でも、年齢を重ねた私たちには、それもまた素敵だわ。のんびり、ゆっくり、ね」
「……うん。それなら良かった。実は、少し調べておいた候補地がいくつかあってな。こことか、ここは泉質が良いらしいし、食事も評判が──」
バルタザールはポケットから、切り取った温泉地の雑誌記事を出して説明し始めた。
「えっ、意外と乗り気なのね、あなた」
ミリアが肩を揺らして笑うと、バルタザールはわずかに咳払いして、言い訳のように口を開いた。
「調べただけだ。別に、深い意味はない」
「ふふ、そうね。深い意味はないわよね?でも、とても楽しそうな旅行になりそう」
ミリアが目を細めてそう言うと、バルタザールもわずかに照れながら、静かにうなずいた。
それは、ふたりにとってのこれからのはじまりだった。
喧騒の中で育まれた絆は、ようやく穏やかな時間の中へと踏み出していく。
火がゆらめき、星がまたたく夜空の下。
新たな日々が、確かに始まりつつあった。
(おわり)
※ここまで、読んでくださり、誠にありがとうございました。
「君を迎えに行く」のバルタザール先生と
ユリウスの二人は好きなキャラでした。
ユリウスは婚約者がいる設定ですが、
全くそんな要素が出ず・・・
いつかユリウスの話も書けたらと思っております。
また、よろしくお願いいたします。
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