灰衣の祭の一夜

とっくり

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前編

 秋の終わり、北の城塞都市ヴァル=リュンでは、年に一度の「灰衣(はいごろも)の祭」が始まっていた。

 罪も名も身分も、ひと晩だけ外套に預ける古い風習。広場では笛が踊り、屋台の蜂蜜酒の匂いが冷たい空気をやわらげる。

 アルマは灰色の外套の留め具を指で確かめ、ひと呼吸で酒場の扉を押した。

 店の名は《黒麦亭》。灯りに霞む湯気と笑い声の奥で、吟遊詩人が古い海の歌を細く伸ばしている。

 彼女は二十八。書記として領主館に出仕し、昼は羊皮紙と印蝋に囲まれ、夜は父の書店を手伝う。誰にもわからぬ疲れが、背中の編み紐の内側に溜まっていた。祭の夜くらい、別人でいたかった。

 灰の外套の陰から、深い栗色の波打つ髪がこぼれた。卵型の頬に灯りが触れ、灰青の瞳が一瞬だけこちらを測る。

 最も人の少ない窓辺に腰を下ろすと、隣の席で甲冑の手甲を外している男が目に入った。
 
「一緒に飲みませんか」
 アルマは静かに隣の席に座る男に声を掛けた。

 三十代半ば、雪焼けした頬、黒檀のような髪。肩には旅の埃、腰には剣。だが瞳は水面の青—暗い湖の静けさを宿している。

「今夜は、見知らぬままで飲みたい気分なの」

 アルマが言うより先に、男は笑みを少しだけ浮かべた。

「では、見知らぬ淑女。杯を。祭の掟に従い、名は要らぬが、嘘も要らない」

 杯が触れ合った音が、鐘のように澄んでいた。

「旅の方?」

「そう見えるかい?いや、見えるだろうな。……一仕事を終えて、明け方には北門から発つ」

「私は、ここに残る人間。明日には、いつもの机、いつもの印章」

「なら、なおさらよい夜にしよう」

 彼は薄い革手袋を外し、皿の上の黒麦パンを二つに割った。節ばった指、剣を持つ手に沿って古傷が走る。アルマは、自分の指先に染みついたインクの匂いを意識して、つい微笑んだ。

「書く人の手だ」

「ええ。あなたは、戦う人の手」

「戦いばかりではないさ。人の話を聴いて、黙って立っているのも仕事のうちだ」

 いくつかの皿が運ばれ、蜂蜜酒が満たされる。祭の喧騒は遠く、ふたりの席だけが、ゆるやかに時間から外れていた。

「祭の夜の掟を、もうひとつ」

 男が懐から銀葉の形をした小さな護符を取り出した。中央に青い瑪瑙(めのう)が一粒はめ込まれている。

「嘘をつかない代わりに、問いをひとつずつ。答えたくなければ、黙って杯を傾ければいい」

「面白い約束ね」

「最初は僕から。君は誰かを待っている?」

 アルマは一拍置いて、杯を口元に運んだ。蜂蜜の甘さが喉を撫でる。

「黙るという答えにするわ」

「了解。なら次は君の番だ」

「あなたは、どこへ帰るの?」

「帰る場所が増えていくのが、旅というものだ。今夜は、ここ」

 そう言って彼は、窓に映る灯の海を見た。外では、灰色の外套をまとった恋人たちが、ふざけるように街角でくるりと回る。楽士が調子を変えると、店の中央で即席の輪舞が始まった。

「踊りますか?」

 男は椅子から立ち、手を差し出した。アルマは逡巡ののち、その手に自分の手を重ねる。手袋を外した掌が、秋の冷たさをふわりと散らす。

 輪舞は簡単なステップで、誰とでも踊れる。だが二人は互いの呼吸に合わせ、少しずつ歩幅を近づけていく。彼の掌が、外套越しに肩甲のあたりを確かめるように支え、アルマの指先は彼の心臓の鼓動の上に留まった。

「君は、よく笑う」

「今日だけは、笑っていたいもの」

「今日だけでいいのか?」

「明日からの私のために、今日だけは」

 音楽が終わると、男はわずかに距離を取り、礼をした。祭の礼法に忠実な沈黙が、ふたりの間に降りる。アルマの胸に、静かな火が灯っていた。彼の目の青に、夜が吸い込まれていく。

「宿を取っている。二階、石段の突き当たり」

 言葉は短いが、粗野ではない。選び抜かれた刃物のように無駄がない。

「私から、ひとつ。……怖い人?」

「君が怖がるなら、扉は閉める。君が望むなら、開ける。鍵は君に渡す」

 彼は外套のポケットから小さな木鍵を出し、掌の上に置いた。アルマはそれを見つめ、やがてそっと握りしめた。

 ――灰衣の祭では、罪も名も置いてゆく。けれど選ぶことの責は、誰に渡しても軽くはならない。

「今夜、私が選ぶ」

 彼女はそう言って、階段へ向かった。

   

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