灰衣の祭の一夜

とっくり

文字の大きさ
2 / 2

後編

 部屋は狭く、土壁は白の上から煤が薄く擦れている。

 藁の寝台には洗い立ての麻布――指先に少しだけ固い糊気と、乾いた石鹸の匂い。
薄い毛布は膝に載せるとすぐ体温を覚え、藁の微かな刺が布越しに伝わる。

 鉛格子の小窓から尖塔の影が斜めに差し、火皿の炎がそれを揺らす。

 下の酒場の笑いが床板の隙間で細くほどけ、ここだけ時間が遅くなる。触れるたびに、布の音と呼吸の音が静かに混ざり合った。

 窓の外には教会の尖塔、遠くで鐘を調律する気配。火皿の炎が壁に揺れ、ふたりの影を少しずつ近づける。

 外套の留め具に、彼の指が触れる。急がない。結び目をほどくたび、息の温度が近づく。アルマは自分の髪を解き、肩に落とした。解けた髪が彼の手首を撫で、指先が迷いなくそこに留まる。

「痛むところはあるか?」

「いいえ。大丈夫。あなたは?」

「君がそう言うなら、僕も大丈夫だ」

 言葉はそれだけで足りた。

 衣擦れの音と、触れ合いに生まれる微かな嘆息。冷えた頬が温まり、指が記憶するように輪郭をなぞる。

 二人は顔を寄せ、唇を重ねた。

 浅く触れては離れ、また確かめる。
 縁をなぞる息が混じり、舌先がかすめた瞬間、喉の奥で小さく息が跳ねる。

 火の粉がぱち、と弾け、遠い鐘の音がにじんだ。世界は口づけと掌の広さまで縮み、その狭さが甘く疼く。

 彼の胸に額を預けると、厚みのある鼓動が耳の奥で重なっていく。

 襟元から鎖骨へ指先が迷い、布の下の温度が言葉の代わりに返事をした。触れるたび、確かめ合う音が静かに増えていった。

 アルマの背に置かれた掌は、行く手を塞ぐ柵ではなかった。

 肩甲の稜線に沿って重さを変え、戻るべき場所を体温で示す灯のようだった。

 指先が背をゆるく辿るたび、呼吸が細く整い、胸の奥で“ここだ”という合図がやわらかくほどける。

 やがて夜は深く沈み、ことばは役目を解かれた。代わりに唇と指先が語り、甘い息が重なる。

 お互いの熱情を分け合い、体温と鼓動だけが、長い時間を丁寧に進めていった。


***


 朝。薄い霧が街路を覆い、教会の鐘が一度だけ、柔らかく打たれた。麻布の皺に沿って、白い光が静かに差し込む。

 アルマは身を起こし、膝に毛布を掛けて窓辺に座った。髪は片側にまとめ、首元には昨夜の熱がまだ残っている。背後では、男が起き上がる気配がした。

「おはよう」

 声は低く、眠りの名残りを含んでいる。彼は寝台の端に腰を下ろし、壁に立てかけてあった剣の位置を無意識に確かめた。習い性の動き。アルマはその所作に、誰かを守る人の長い時間を見た。

「朝のパンを頼んでくる。……君は、ここに?」

「ええ」

 男が扉へ向かいかけたとき、アルマは呼び止めた。

「待って。ひとつだけ、今のうちに」

 彼女は机の上の羊皮紙切れに、素早く文字を刻む。墨は昨夜、店から持ってきた携行瓶のもの。筆先が乾かぬうちに、短く書いて、折って、男に差し出す。

「これは?」

「灰衣の祭の掟、最後の一つ。——名を明かさぬまま、名の代わりに一行だけ残す」

 男は紙片を開いた。そこには小さな文字で、《あなたの静けさに、私の騒ぎが救われた》とある。

 彼は息をひとつ笑いに変え、護符の銀葉を外してアルマの掌に乗せた。

「なら、僕の一行。紙ではなく、ものに託す。……この銀葉は海沿いの修道院で祝別を受けた。旅の無事と、別れの痛みが鈍くなる加護があると言われる。君が要らなければ、海へ投げてもいい」

「いただくわ。海は遠いけれど、痛みのほうは、今朝はもう鈍くなっている気がする」

「それは僕のせいか?」

「私の選んだ夜のせいよ」

 彼は頷き、扉を開けた。短い軋みが、時刻を教える。

「北門の開く鐘が三つ鳴ったら、発つ」

「ええ。三つ目の鐘で店に鍵を入れて朝の支度をしてから、館へ向かう」

「見知らぬまま、ありがとう」

「見知らぬあなたも、ありがとう」

 扉が閉じる。足音が階段を下り、廊下の遠さに消えてゆく。

 アルマは掌の銀葉を強く握り、胸に当てた。冷えた金属が、ゆっくり体温に馴染む。

 ——名を持たないふたりが、ひと晩だけ互いの名になった。

 やがて、鐘が一つ、二つ、三つ。
 街はいつもの顔を取り戻し、祭の灰衣は物干し台に翻るだろう。アルマは編み紐を結び直し、扉へ向かった。

 この一夜に救われる朝が、これからも何度か来る。紙の余白に残る小さな滲みのように、確かな跡だけが残る。

 彼女は笑う。今日もまた、同じ机、同じ印章。けれど、そこへ戻る足取りは、昨夜より少しだけ軽やかだった。

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

ストーカーはもうしません!

エヌ
恋愛
ス、トー...カー? 自分の行為がストーカーかもしれないと気づき自重する令嬢と無表情無反応されるがままとみせかけたヤンデレ令息のお話。

旦那様の愛が重い

おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。 毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。 他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。 甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。 本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…