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後編
部屋は狭く、土壁は白の上から煤が薄く擦れている。
藁の寝台には洗い立ての麻布――指先に少しだけ固い糊気と、乾いた石鹸の匂い。
薄い毛布は膝に載せるとすぐ体温を覚え、藁の微かな刺が布越しに伝わる。
鉛格子の小窓から尖塔の影が斜めに差し、火皿の炎がそれを揺らす。
下の酒場の笑いが床板の隙間で細くほどけ、ここだけ時間が遅くなる。触れるたびに、布の音と呼吸の音が静かに混ざり合った。
窓の外には教会の尖塔、遠くで鐘を調律する気配。火皿の炎が壁に揺れ、ふたりの影を少しずつ近づける。
外套の留め具に、彼の指が触れる。急がない。結び目をほどくたび、息の温度が近づく。アルマは自分の髪を解き、肩に落とした。解けた髪が彼の手首を撫で、指先が迷いなくそこに留まる。
「痛むところはあるか?」
「いいえ。大丈夫。あなたは?」
「君がそう言うなら、僕も大丈夫だ」
言葉はそれだけで足りた。
衣擦れの音と、触れ合いに生まれる微かな嘆息。冷えた頬が温まり、指が記憶するように輪郭をなぞる。
二人は顔を寄せ、唇を重ねた。
浅く触れては離れ、また確かめる。
縁をなぞる息が混じり、舌先がかすめた瞬間、喉の奥で小さく息が跳ねる。
火の粉がぱち、と弾け、遠い鐘の音がにじんだ。世界は口づけと掌の広さまで縮み、その狭さが甘く疼く。
彼の胸に額を預けると、厚みのある鼓動が耳の奥で重なっていく。
襟元から鎖骨へ指先が迷い、布の下の温度が言葉の代わりに返事をした。触れるたび、確かめ合う音が静かに増えていった。
アルマの背に置かれた掌は、行く手を塞ぐ柵ではなかった。
肩甲の稜線に沿って重さを変え、戻るべき場所を体温で示す灯のようだった。
指先が背をゆるく辿るたび、呼吸が細く整い、胸の奥で“ここだ”という合図がやわらかくほどける。
やがて夜は深く沈み、ことばは役目を解かれた。代わりに唇と指先が語り、甘い息が重なる。
お互いの熱情を分け合い、体温と鼓動だけが、長い時間を丁寧に進めていった。
***
朝。薄い霧が街路を覆い、教会の鐘が一度だけ、柔らかく打たれた。麻布の皺に沿って、白い光が静かに差し込む。
アルマは身を起こし、膝に毛布を掛けて窓辺に座った。髪は片側にまとめ、首元には昨夜の熱がまだ残っている。背後では、男が起き上がる気配がした。
「おはよう」
声は低く、眠りの名残りを含んでいる。彼は寝台の端に腰を下ろし、壁に立てかけてあった剣の位置を無意識に確かめた。習い性の動き。アルマはその所作に、誰かを守る人の長い時間を見た。
「朝のパンを頼んでくる。……君は、ここに?」
「ええ」
男が扉へ向かいかけたとき、アルマは呼び止めた。
「待って。ひとつだけ、今のうちに」
彼女は机の上の羊皮紙切れに、素早く文字を刻む。墨は昨夜、店から持ってきた携行瓶のもの。筆先が乾かぬうちに、短く書いて、折って、男に差し出す。
「これは?」
「灰衣の祭の掟、最後の一つ。——名を明かさぬまま、名の代わりに一行だけ残す」
男は紙片を開いた。そこには小さな文字で、《あなたの静けさに、私の騒ぎが救われた》とある。
彼は息をひとつ笑いに変え、護符の銀葉を外してアルマの掌に乗せた。
「なら、僕の一行。紙ではなく、ものに託す。……この銀葉は海沿いの修道院で祝別を受けた。旅の無事と、別れの痛みが鈍くなる加護があると言われる。君が要らなければ、海へ投げてもいい」
「いただくわ。海は遠いけれど、痛みのほうは、今朝はもう鈍くなっている気がする」
「それは僕のせいか?」
「私の選んだ夜のせいよ」
彼は頷き、扉を開けた。短い軋みが、時刻を教える。
「北門の開く鐘が三つ鳴ったら、発つ」
「ええ。三つ目の鐘で店に鍵を入れて朝の支度をしてから、館へ向かう」
「見知らぬまま、ありがとう」
「見知らぬあなたも、ありがとう」
扉が閉じる。足音が階段を下り、廊下の遠さに消えてゆく。
アルマは掌の銀葉を強く握り、胸に当てた。冷えた金属が、ゆっくり体温に馴染む。
——名を持たないふたりが、ひと晩だけ互いの名になった。
やがて、鐘が一つ、二つ、三つ。
街はいつもの顔を取り戻し、祭の灰衣は物干し台に翻るだろう。アルマは編み紐を結び直し、扉へ向かった。
この一夜に救われる朝が、これからも何度か来る。紙の余白に残る小さな滲みのように、確かな跡だけが残る。
彼女は笑う。今日もまた、同じ机、同じ印章。けれど、そこへ戻る足取りは、昨夜より少しだけ軽やかだった。
藁の寝台には洗い立ての麻布――指先に少しだけ固い糊気と、乾いた石鹸の匂い。
薄い毛布は膝に載せるとすぐ体温を覚え、藁の微かな刺が布越しに伝わる。
鉛格子の小窓から尖塔の影が斜めに差し、火皿の炎がそれを揺らす。
下の酒場の笑いが床板の隙間で細くほどけ、ここだけ時間が遅くなる。触れるたびに、布の音と呼吸の音が静かに混ざり合った。
窓の外には教会の尖塔、遠くで鐘を調律する気配。火皿の炎が壁に揺れ、ふたりの影を少しずつ近づける。
外套の留め具に、彼の指が触れる。急がない。結び目をほどくたび、息の温度が近づく。アルマは自分の髪を解き、肩に落とした。解けた髪が彼の手首を撫で、指先が迷いなくそこに留まる。
「痛むところはあるか?」
「いいえ。大丈夫。あなたは?」
「君がそう言うなら、僕も大丈夫だ」
言葉はそれだけで足りた。
衣擦れの音と、触れ合いに生まれる微かな嘆息。冷えた頬が温まり、指が記憶するように輪郭をなぞる。
二人は顔を寄せ、唇を重ねた。
浅く触れては離れ、また確かめる。
縁をなぞる息が混じり、舌先がかすめた瞬間、喉の奥で小さく息が跳ねる。
火の粉がぱち、と弾け、遠い鐘の音がにじんだ。世界は口づけと掌の広さまで縮み、その狭さが甘く疼く。
彼の胸に額を預けると、厚みのある鼓動が耳の奥で重なっていく。
襟元から鎖骨へ指先が迷い、布の下の温度が言葉の代わりに返事をした。触れるたび、確かめ合う音が静かに増えていった。
アルマの背に置かれた掌は、行く手を塞ぐ柵ではなかった。
肩甲の稜線に沿って重さを変え、戻るべき場所を体温で示す灯のようだった。
指先が背をゆるく辿るたび、呼吸が細く整い、胸の奥で“ここだ”という合図がやわらかくほどける。
やがて夜は深く沈み、ことばは役目を解かれた。代わりに唇と指先が語り、甘い息が重なる。
お互いの熱情を分け合い、体温と鼓動だけが、長い時間を丁寧に進めていった。
***
朝。薄い霧が街路を覆い、教会の鐘が一度だけ、柔らかく打たれた。麻布の皺に沿って、白い光が静かに差し込む。
アルマは身を起こし、膝に毛布を掛けて窓辺に座った。髪は片側にまとめ、首元には昨夜の熱がまだ残っている。背後では、男が起き上がる気配がした。
「おはよう」
声は低く、眠りの名残りを含んでいる。彼は寝台の端に腰を下ろし、壁に立てかけてあった剣の位置を無意識に確かめた。習い性の動き。アルマはその所作に、誰かを守る人の長い時間を見た。
「朝のパンを頼んでくる。……君は、ここに?」
「ええ」
男が扉へ向かいかけたとき、アルマは呼び止めた。
「待って。ひとつだけ、今のうちに」
彼女は机の上の羊皮紙切れに、素早く文字を刻む。墨は昨夜、店から持ってきた携行瓶のもの。筆先が乾かぬうちに、短く書いて、折って、男に差し出す。
「これは?」
「灰衣の祭の掟、最後の一つ。——名を明かさぬまま、名の代わりに一行だけ残す」
男は紙片を開いた。そこには小さな文字で、《あなたの静けさに、私の騒ぎが救われた》とある。
彼は息をひとつ笑いに変え、護符の銀葉を外してアルマの掌に乗せた。
「なら、僕の一行。紙ではなく、ものに託す。……この銀葉は海沿いの修道院で祝別を受けた。旅の無事と、別れの痛みが鈍くなる加護があると言われる。君が要らなければ、海へ投げてもいい」
「いただくわ。海は遠いけれど、痛みのほうは、今朝はもう鈍くなっている気がする」
「それは僕のせいか?」
「私の選んだ夜のせいよ」
彼は頷き、扉を開けた。短い軋みが、時刻を教える。
「北門の開く鐘が三つ鳴ったら、発つ」
「ええ。三つ目の鐘で店に鍵を入れて朝の支度をしてから、館へ向かう」
「見知らぬまま、ありがとう」
「見知らぬあなたも、ありがとう」
扉が閉じる。足音が階段を下り、廊下の遠さに消えてゆく。
アルマは掌の銀葉を強く握り、胸に当てた。冷えた金属が、ゆっくり体温に馴染む。
——名を持たないふたりが、ひと晩だけ互いの名になった。
やがて、鐘が一つ、二つ、三つ。
街はいつもの顔を取り戻し、祭の灰衣は物干し台に翻るだろう。アルマは編み紐を結び直し、扉へ向かった。
この一夜に救われる朝が、これからも何度か来る。紙の余白に残る小さな滲みのように、確かな跡だけが残る。
彼女は笑う。今日もまた、同じ机、同じ印章。けれど、そこへ戻る足取りは、昨夜より少しだけ軽やかだった。
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