奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 ハロルド・クレインが帰ったあとも、ベルヌー法律事務所の空気は、どこか張りつめたままだった。

 机の上には、問題の契約書。
 アデルは写しを取りながら、改めて目を走らせる。

(……やっぱり)

 どこかで見た。
 読み慣れたはずの法文なのに、微細な違和感が、いくつも重なっている。

 文章の流れは自然だ。
 語句も特別おかしくはない。
 だが──「理解させない」ために書かれている。

「先生」

 マティアスが、低い声で口を開いた。

「条文そのものは標準的です。ですが……第三条と第五条の繋がりが、不自然すぎます」

「……意図的だな」

 クロードは即答した。

「署名者が“読み流す前提”で作られている。  理解されることを、最初から想定していない」

 アデルは、ふと顔を上げる。

「……署名は、本物なんですよね?」

「ああ」

 クロードは静かに頷いた。

「印章も筆跡も、本人のものだ。だが──」

 彼は該当箇所を指で示す。

「この条文だけ、紙質がわずかに違う。インクの沈み方も、他と揃っていない」

 マティアスが思わず息をのむ。

「……後から、差し替えた?」

「正確には、“すり替え”だ」

 クロードの声は冷静だった。

「一度完成した契約書を解体し、  条文の一部だけを入れ替え、再製本している」

「そんな……手間のかかることを……」

「手間を惜しまない者ほど、奪うものが大きい」

 クロードは静かに立ち上がった。

「二階だ。古本屋の爺さんのところへ行く」






 二階の古本屋は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

 天井近くまで積まれた書架。
 古紙とインクの匂い。
 外の喧騒が、嘘のように遮断されている。

 棚の隙間を縫うように差し込む光の中で、老人は帳面を繰っていた。

「……来ると思っとったわい」

 顔を上げぬまま、爺さんが言う。

「調べものをしに来た」

 クロードが簡潔に告げる。

「契約改ざんの判例。十年ほど前から、同じ手口が続いているはずだ」

 ページをめくっていた老人の手が、ぴたりと止まった。

「……ほう」

 沈黙。
 やがて、ゆっくりと棚の奥へ向かい、
 一冊の分厚い帳面が引き抜かれる。

 表紙には、かすれた文字。

【民間契約・係争記録(非公開写)】

「表に出とらん裁判ばかりじゃ」

 老人は淡々と告げる。

「示談で終わったもの。  泣き寝入りしたもの。  ……声を上げられなかった者たちの記録だ」

 ページが、静かにめくられる。

「……これじゃな」

 指された箇所を、アデルが覗き込む。

 地主。
 投資話。
 条文の差し替え。

 どれも、ハロルドの件と驚くほど似ていた。そして、最後に小さく記された名前。

「……弁護士名、ですね」

 クロードの視線が、そこに留まる。

「……同じだ」

 低く呟く。

 ハロルドの契約書に記されていた名と、
 過去の案件に関わった弁護士。

 同一人物だった。

「偶然……じゃない……」

 アデルの声が、わずかに震える。

「この弁護士は、弱い立場の人間ばかりを狙っている」

 老人が、ぽつりと言った。

「土地を持っている。  だが、後ろ盾がない。  法に疎い。……実に、都合がいい」

 クロードは、帳面を静かに閉じる。

「……そして」

 一拍、置いて、

「モーリス家が使っていた弁護士と、同じ人間だ」

 空気が、凍りついた。

 アデルの胸に、
 はっきりとした輪郭を持つ疑念が浮かび上がる。

(……やっぱり、繋がっている)

 奪われた財産。
 改ざんされた契約。
 同じ“影”。

 これは、単独犯ではない。
 網の目のように張り巡らされた、
 意図的な仕組みだった。

「……先生」

 アデルはゆっくりと口を開いた。

「この件、まだ出てきますよね」

 クロードは、わずかに口角を上げた。

「ああ。間違いなくな」

 その笑みは、冷静で、
 そしてどこか獲物を見定めるようでもあった。

「だが──もう逃がさない」





 翌日、ベルヌー法律事務所には、
 再びハロルド・クレインの姿があった。

 昨日より幾分、顔色は良い。
 だが、落ち着いているとは言い難く、
 椅子に座っても背筋は強張ったままだ。

「……呼び出してしまって、すみません」

 アデルがそう言うと、
 ハロルドは慌てて首を振った。

「いえ……こちらこそ。  正直、まだ頭が追いついていなくて……」

 クロードは、机の上に数枚の書類を並べた。

「今日は、“なぜ貴方が狙われたのか”を説明する」

 ハロルドの喉が、ごくりと鳴る。

「……俺は、ただの農地持ちです。爵位も、後ろ盾もない」

「その“ただの”が問題なんだ」

 クロードは淡々と答える。

「貴方の土地は小さい。だが──位置が良すぎる」

 マティアスが地図を広げる。

 街道。
 河川。
 商業区。
 そして、その中央。

 ハロルドの土地があった。

「……物流の要所ですね」

 アデルが息をのむ。

「街道と川を繋ぐ、唯一の中継点……」

「そうだ」

 クロードは頷く。

「表向きの理由は、だ。  倉庫群の建設。  土地を安く集め、価値が跳ね上がったところで転売する」

 一拍、置く。

「だが──それは“”の価値にすぎない」

 ハロルドが、息を詰める。

「説明されない価値……?」

「そうだ」

 クロードは静かに言った。

「本当に狙われる土地には、  必ず“”がある」

 事務所に、重い沈黙が落ちた。

 アデルは、胸の奥で確信していた。

(……この件も、私の件も、同じ流れの中にある…)

 これは、誰か一人の裁判ではない。

 奪う側と、奪われる側。
 その構図そのものを、覆す戦いなのだと。

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