奪われた令嬢と、偽りの夫

とっくり

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 翌朝。
 ベルヌー法律事務所の扉の前に、ひときわ目立つ影があった。

 騎士団の制服――濃紺の外套。
 胸元の徽章は鈍く光り、腰の剣帯は無駄なく締められている。

 そこに立つ青年は、ひと目で分かるほど鍛え抜かれていた。

 肩幅は広く、背はいつの間にかアデルよりも高い。

 短く整えられた金髪。
 端正な顔立ちに、引き締まった輪郭。
 そして、細部まで行き届いた姿勢。

 背筋を正し、通りを見渡す鋭い視線。
 その姿は紛れもなく――人を守る側に立つ者のものだった。

 かつて、姉の影に隠れるように立っていた少年は、もうどこにもいない。

「……本当に来てくれたのね」

 アデルが声をかけると、青年は即座に振り返った。

「約束しただろ。今日から、俺が護衛をする」

 ロイクは短く答え、すぐに周囲へ視線を走らせる。その仕草は、もはや「弟」というより――完全に「騎士」のそれだった。

「堅いなぁ。肩に力入りすぎだべ」

 リセラが呆れたように言う。

「命が狙われている可能性があるんだ。甘く見られない」

 きっぱりと言い切る声。
 そこには職務としての冷静さと、それ以上の何かが滲んでいた。

「……頼もしいわ。ありがとう、ロイク。ところで……仕事の方は大丈夫なの?」

 アデルがそう尋ねると、ロイクは一瞬だけ目を逸らした。ほんのわずかな沈黙のあと、低く続ける。

「姉さんの事故の件、騎士団長も前から怪しんでいたんだ。
今回、新聞で姉さんのことが取り上げられただろ?
もし事件なら、黒幕が動くはずだって……それで、護衛の許可をもらえた」

 言葉を選ぶように、一拍置いてから、付け加える。

「……あの時、俺は何もできなかった。姉さんのそばにいなかった。だから今度こそ、同じ後悔はしない」

 その声には、悔恨と決意がはっきりと滲んでいた。

「……そうなの……」

 アデルはそれ以上問い詰めず、ただ静かに頷いた。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。
 三年間の空白のあいだに、失ったものは多い。

 けれど――こうして、変わらず手を伸ばしてくれる存在がいる。

「ありがとう、ロイク」

 その一言に込めた感情は、感謝だけではなかった。

 守られているという安心と、それ以上に――もう一人ではない、という確かな実感。

 ロイクは何も言わず、ただ一度だけ、力強く頷いた。






 街へ出る道中。
 昨日までとは、明らかに違う空気があった。

 ロイクは半歩前を歩き、人の流れ、路地、建物の影を無言で確認している。

 視線を向けられる感覚は、確かにある。
 だが、昨日のような“まとわりつく不快感”はなかった。

「……今日は、だいぶ静かだっぺ」

 リセラが小声で言う。

「護衛がついた途端に引く……」
「それだけ、“様子見”だったってことね」

 アデルは胸の奥で、嫌な確信を深めていた。

 ――試されている。
 こちらが、どこまで本気か。





 午前の通りは人が多く、商人の呼び声や荷馬車の音が絶えなかった。
 一見すれば、いつもと変わらない平穏な光景だ。

 だが――

 ロイクは、わずかに眉を寄せた。

(……おかしい)

 視線を動かさず、気配だけを拾う。
 足音の数。
 人の流れ。
 立ち止まる位置。

 ──合わない。

 酒屋の前に立つ男。
 布地屋の軒先で商品を眺める女。
 通りを渡り、また戻ってくる青年。

 誰もが自然に振る舞っている。
 だが、決定的に“目的がない”。

 ロイクは無意識に歩調を半拍だけ落とした。すると――背後の足音も、同じように遅れる。

(……ついてきている)

 確信だった。

 ロイクは何事もないふりをして角を曲がる。露店の影に入った瞬間、視線だけで背後を確認した。

 ――二人。

 直接目を合わせることはない。
 だが、こちらの動きに合わせて位置を変えている。

 護衛対象に気づかれないよう、
 あくまで“街の一部”として溶け込むやり方。

(……素人じゃない)

 騎士団で学んだ尾行の基本。
 そして、それを少しだけ崩した、不慣れな癖。

(……誰かに雇われている)

 ロイクは、そっと拳を握った。

 横を歩くアデルは、気づいていない。
 リセラも、まだ“違和感”の段階だ。

 それでいい。

(今は、気づかせるな)

 ロイクは、何も言わずに一歩前へ出た。
 自然に二人の進路を遮る位置へ。

 肩越しに、さりげなく後方を睨む。

 その一瞬――視線が、確かにぶつかった。男はすぐに目を逸らし、人混みに紛れる。

(……引いた)

 ロイクは胸の奥で静かに息を整えた。

(間違いない。姉さんは、もう“見られている”)

 それでも表情は変えない。
 声も出さない。

 ただ、剣帯の位置をわずかに調整し、
 背中で語るように、そこに立ち続けた。

 ――今度こそ。

 守れなかった過去は、もう繰り返さない。

 ロイクは、街の喧騒の中で、
 ただ一人、戦場に立っていた。





 事務所へ戻るまでの道のりで、ロイクは一言も口にしなかった。

 だが、扉をくぐった瞬間、空気が切り替わる。

「クロード先生。少し、よろしいですか」

 名指しされたクロードは、すぐに顔を上げた。ロイクの声音が、ただ事ではないと察したからだ。

「どうした」

「……尾行されていました。二名。街の人間を装っていましたが、動きが不自然だった」

 事務所の空気が、静かに張り詰める。

「気づかれたか?」

「ええ。俺が視線を向けた瞬間、引きました。完全な素人ではありません。ですが……」

 ロイクは一拍置いた。

「騎士団の訓練を受けた人間でもない。誰かに雇われた、街の人間です」

 クロードは、机に指を組んだ。

「……なるほど」

 そこへ、アデルがゆっくりと口を開く。

「ハロルドさんの件と……似ていますね」

 全員の視線が、彼女に集まる。

「彼の周囲をうろついていた男たちも、直接的な危害は加えず、ただ“見せる”だけでした。怖がらせて、考え直させるためのやり方……」

「同じ手口だな」

 クロードが低く言った。

「圧をかける。だが、法には触れないぎりぎりで」

 ロイクが頷く。

「……個人の怨恨じゃありません。組織的です。しかも、対象を選んでいる」

「弱い立場の者。声を上げにくい者」
 クラリスが続ける。

「そして――」
 アデルが、言葉を継いだ。

「奪う価値があるものを持っている人」

 沈黙。
 その言葉が、重く落ちた。

 クロードは、ゆっくりと立ち上がる。

「……これは、単なる偶然じゃない」

 窓の外へ視線を向け、続けた。

「同じ“弁護士”の影がある。契約改ざん、圧のかけ方、撤退のさせ方……やり口が、あまりに揃いすぎている」

 ロイクは、拳を握った。

「姉さんが狙われたのも……」

「ああ」

 クロードは即答した。

「君の勘は正しい。アデル嬢は“次の段階”に入っている」

 アデルは、静かに息を吸った。
 怖くないわけではない。

 だが――

「……なら、尚更です」

 顔を上げ、はっきりと言う。

「ここで引くわけにはいきません。
 ハロルドさんも、同じでしょう?」

 ロイクは、その横顔を見つめた。

 かつて守れなかった姉。
 だが今は、自分の足で立ち、前を向いている。

「……俺も、全力で守る」

 クロードは、短く頷いた。

「よし。では、次の一手だ」

 これは、法廷に出る前の戦い。
 だが、すでに盤は並び、駒は動いている。

 静かに。
 確実に。

 ――逃げ場のないところへ。

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