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番外編
1
モントレーの執務室には、穏やかな午後の光が差し込んでいた。
書類に目を通していたアデルが、ふと顔を上げる。
「リセラ。邸の使用人も増えたのだし、畑仕事と私の侍女、両方なんて……身体がもたないわ」
少し心配そうな声音だった。
アデルの傍に立つリセラは、ぴんと背筋を伸ばす。
侍女と畑作業を兼任しているリセラは、最近では作業着姿でいることが多かった。
小柄で華奢な体つきは変わらないが、以前よりも引き締まり、しなやかな強さを感じさせる。
日に焼けた肌に、肩までの切りっぱなしの黒髪が軽やかに揺れる。
少し伸びたその髪は、動くたびに頬に触れ、そのたびに無造作にかき上げられていた。
大きな琥珀色の瞳は、今も変わらずまっすぐだ。
「いいえ!わだすは、どちらも全力でやりたいですだ」
きっぱりと言い切る。
「今は種の植え付けがあるから忙しいけんど……もう少ししたら、畑の方は落ち着くと思うべさ」
「そうね……私も最近はなかなか畑に行けていないから、人手が足りないわよね」
アデルが小さく息を吐く。
「お嬢様は領主だべさ。畑に出る必要はねぇですだ」
「……では、侍女を――」
アデルが言いかけると、リセラは大きく首を振り、声を張り上げた。
「お嬢様の侍女は、誰にも譲れないですだ!」
その真っ直ぐな言葉に、アデルは思わず小さく息をついた。
「でも……リセラの身体は一つしかないのよ。何かあったら、私は心配だわ」
「……わだすも、もう一個身体が欲しいべさ」
ぽつりと呟き、ため息をつく。
「お嬢様にご不便をおかけしていたら……申し訳ないですだ」
「私は大丈夫だけれど……」
アデルが言いかけた、そのとき――
「なら、当面は私がアデルの侍女の代わりを務めようか」
横から、落ち着いた声が割り込んだ。
「ルイ様?」
リセラが目を丸くする。
ルイは、何でもないことのように続けた。
「そのほうが都合がいい。常にアデルのそばにいられるからね」
さらりと言ってのける。
アデルの頬が、わずかに染まった。
「ルイ……本気で言っているの?」
「ああ。本気だよ」
迷いのない返答だった。
そのまま自然に視線が交わる。
言葉はなくとも、空気がやわらかく満ちていく。
――甘い空気が、そこにあった。
リセラは、その様子をそっと見守り――
「……お邪魔になりそうですだ」
小さく呟くと、静かに一礼した。
そして、足音を忍ばせるように執務室をあとにする。
扉を閉めたあと、リセラは、ほっと一息ついた。
「……相変わらず、ラブラブなお二人だべさ」
ぽつりと呟く。
そのとき――
「……何を一人でぶつぶつ言っている」
背後から、低い声が落ちた。
気配を消すように近づいてきたその足音は、ほとんど床に吸われていた。
「お前は……独り言がでかいな」
振り返ると、そこに立っていたのはノクスだった。
畑作業の途中だったのだろう。
袖をまくり上げた腕には、まだ土が付いている。
その佇まいは不思議と騒がしくなく、むしろ、静かだった。
周囲の空気に溶け込むように、そこにいる。
「ああ、ノクス」
リセラが振り返る。
その姿を見つけた途端、どこか安心したように声が弾んだ。
「おめえ、何しに来たんだぁ?」
「……ルイに用があってな」
少しだけ視線を逸らす。
「今は、お二人の時間を邪魔しちゃだめだべ」
リセラが、きっぱりと言い切る。
「……お、おう」
あっさり引き下がったあと、しばしの沈黙が落ちる。
「じゃあ、畑に戻るべか」
「ああ……そうするか」
二人は並んで歩き出した。
風が抜ける畑へと向かう。
しばらくして、ノクスが口を開いた。
「お前さ……忙しすぎないか?」
「んだな。最近の悩みだな」
あっさりと返す。
「だろう?」
「お嬢様の侍女の仕事が滞って申し訳ねぇんだ」
リセラは、少しだけ視線を落とす。
「かといって、他の人間にお嬢様を任せるわけにもいかねぇ。わだすしかいねえだ」
その言葉には、迷いがなかった。
「それでもな……畑も気になるべさ」
ふっと顔を上げる。
「でけぇ岩なんて、わだす以外どかせるか?」
「お、俺だって――」
ノクスが食い下がる。
「いんや」
即答だった。
「おめえは腰が入ってねえから、危なっかしいべさ」
じろりと見る。
「土木作業の才能がねぇんだわ」
「……土木作業の才能……」
ノクスは、遠い目をした。
そのとき――
「リセラー!でっけぇ岩が出てきたぞ! 頼む!」
遠くからリセラを呼ぶ声が飛ぶ。
「おう、任せるべ!」
リセラは腕まくりをすると、そのまま駆け出していく。
迷いのない背中だった。
ノクスは、その背を黙って見送る。
(……ああいうとこだ)
ぽつりと、胸の奥で何かが動く。
だが、言葉にはならなかった。
*
夕方――
モントレー邸、ルイの書斎。
「……なんだ、珍しいな」
ルイが、気配だけで声をかける。
「すっかり農夫になっているから、もう諜報じみた動きはできないかと思っていたが」
次の瞬間、影がわずかに揺れ――ノクスが姿を現した。
「馬鹿言え。こんなの、呼吸と同じだ」
ぶっきらぼうに返す。
「そうか。それで…」
ルイが視線を向ける。
「何の用だ?」
ノクスは、少しだけ言葉に詰まる。
「……リセラのことなんだが」
ぼそりと落とす。
「……あいつ、休みがないだろう?」
ルイは、ふっと小さく笑った。
「ああ。アデルも取らせようとしているが……本人が頑なに拒否している」
「拒否?」
「ああ」
淡々と続ける。
「アデルのそばを離れたくないらしい」
「くっ……!」
ノクスが頭を抱える。
「またそれか!二言目には“お嬢様”だ、あいつは!」
「ふっ……」
ルイは楽しげに目を細める。
「リセラを振り向かせるのは――これまでのお前の任務より、はるかに難しいかもしれないな」
軽く言ってのける。
ノクスは、天を仰いだ。
「……み、未知数すぎる……!!」
書類に目を通していたアデルが、ふと顔を上げる。
「リセラ。邸の使用人も増えたのだし、畑仕事と私の侍女、両方なんて……身体がもたないわ」
少し心配そうな声音だった。
アデルの傍に立つリセラは、ぴんと背筋を伸ばす。
侍女と畑作業を兼任しているリセラは、最近では作業着姿でいることが多かった。
小柄で華奢な体つきは変わらないが、以前よりも引き締まり、しなやかな強さを感じさせる。
日に焼けた肌に、肩までの切りっぱなしの黒髪が軽やかに揺れる。
少し伸びたその髪は、動くたびに頬に触れ、そのたびに無造作にかき上げられていた。
大きな琥珀色の瞳は、今も変わらずまっすぐだ。
「いいえ!わだすは、どちらも全力でやりたいですだ」
きっぱりと言い切る。
「今は種の植え付けがあるから忙しいけんど……もう少ししたら、畑の方は落ち着くと思うべさ」
「そうね……私も最近はなかなか畑に行けていないから、人手が足りないわよね」
アデルが小さく息を吐く。
「お嬢様は領主だべさ。畑に出る必要はねぇですだ」
「……では、侍女を――」
アデルが言いかけると、リセラは大きく首を振り、声を張り上げた。
「お嬢様の侍女は、誰にも譲れないですだ!」
その真っ直ぐな言葉に、アデルは思わず小さく息をついた。
「でも……リセラの身体は一つしかないのよ。何かあったら、私は心配だわ」
「……わだすも、もう一個身体が欲しいべさ」
ぽつりと呟き、ため息をつく。
「お嬢様にご不便をおかけしていたら……申し訳ないですだ」
「私は大丈夫だけれど……」
アデルが言いかけた、そのとき――
「なら、当面は私がアデルの侍女の代わりを務めようか」
横から、落ち着いた声が割り込んだ。
「ルイ様?」
リセラが目を丸くする。
ルイは、何でもないことのように続けた。
「そのほうが都合がいい。常にアデルのそばにいられるからね」
さらりと言ってのける。
アデルの頬が、わずかに染まった。
「ルイ……本気で言っているの?」
「ああ。本気だよ」
迷いのない返答だった。
そのまま自然に視線が交わる。
言葉はなくとも、空気がやわらかく満ちていく。
――甘い空気が、そこにあった。
リセラは、その様子をそっと見守り――
「……お邪魔になりそうですだ」
小さく呟くと、静かに一礼した。
そして、足音を忍ばせるように執務室をあとにする。
扉を閉めたあと、リセラは、ほっと一息ついた。
「……相変わらず、ラブラブなお二人だべさ」
ぽつりと呟く。
そのとき――
「……何を一人でぶつぶつ言っている」
背後から、低い声が落ちた。
気配を消すように近づいてきたその足音は、ほとんど床に吸われていた。
「お前は……独り言がでかいな」
振り返ると、そこに立っていたのはノクスだった。
畑作業の途中だったのだろう。
袖をまくり上げた腕には、まだ土が付いている。
その佇まいは不思議と騒がしくなく、むしろ、静かだった。
周囲の空気に溶け込むように、そこにいる。
「ああ、ノクス」
リセラが振り返る。
その姿を見つけた途端、どこか安心したように声が弾んだ。
「おめえ、何しに来たんだぁ?」
「……ルイに用があってな」
少しだけ視線を逸らす。
「今は、お二人の時間を邪魔しちゃだめだべ」
リセラが、きっぱりと言い切る。
「……お、おう」
あっさり引き下がったあと、しばしの沈黙が落ちる。
「じゃあ、畑に戻るべか」
「ああ……そうするか」
二人は並んで歩き出した。
風が抜ける畑へと向かう。
しばらくして、ノクスが口を開いた。
「お前さ……忙しすぎないか?」
「んだな。最近の悩みだな」
あっさりと返す。
「だろう?」
「お嬢様の侍女の仕事が滞って申し訳ねぇんだ」
リセラは、少しだけ視線を落とす。
「かといって、他の人間にお嬢様を任せるわけにもいかねぇ。わだすしかいねえだ」
その言葉には、迷いがなかった。
「それでもな……畑も気になるべさ」
ふっと顔を上げる。
「でけぇ岩なんて、わだす以外どかせるか?」
「お、俺だって――」
ノクスが食い下がる。
「いんや」
即答だった。
「おめえは腰が入ってねえから、危なっかしいべさ」
じろりと見る。
「土木作業の才能がねぇんだわ」
「……土木作業の才能……」
ノクスは、遠い目をした。
そのとき――
「リセラー!でっけぇ岩が出てきたぞ! 頼む!」
遠くからリセラを呼ぶ声が飛ぶ。
「おう、任せるべ!」
リセラは腕まくりをすると、そのまま駆け出していく。
迷いのない背中だった。
ノクスは、その背を黙って見送る。
(……ああいうとこだ)
ぽつりと、胸の奥で何かが動く。
だが、言葉にはならなかった。
*
夕方――
モントレー邸、ルイの書斎。
「……なんだ、珍しいな」
ルイが、気配だけで声をかける。
「すっかり農夫になっているから、もう諜報じみた動きはできないかと思っていたが」
次の瞬間、影がわずかに揺れ――ノクスが姿を現した。
「馬鹿言え。こんなの、呼吸と同じだ」
ぶっきらぼうに返す。
「そうか。それで…」
ルイが視線を向ける。
「何の用だ?」
ノクスは、少しだけ言葉に詰まる。
「……リセラのことなんだが」
ぼそりと落とす。
「……あいつ、休みがないだろう?」
ルイは、ふっと小さく笑った。
「ああ。アデルも取らせようとしているが……本人が頑なに拒否している」
「拒否?」
「ああ」
淡々と続ける。
「アデルのそばを離れたくないらしい」
「くっ……!」
ノクスが頭を抱える。
「またそれか!二言目には“お嬢様”だ、あいつは!」
「ふっ……」
ルイは楽しげに目を細める。
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