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第2章
2-3
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「幸せだと思うのなら、貴女はきっと幸せなのよ」
朝日を眩しそうに見つめながらも、そう言いきった彼女はとても美しかった。
フードの中で、ぴくりと灰色の耳を動かして、わたしは堪えきれず、彼女に抱き着いた。
彼女は抱き締め返すことはしない。
だから安心できた。
壊れたキキという女には、灰色猫耳の娘がいた。
「よう、キキ」
よく通う定食屋の親父に見つかった。
「今日は何か食べてくか?」
いつだって気さくな笑顔の彼だったが、だからと言って信頼に足る人物である保証などない。
私は背中に隠れたネコをなるべく見つからずして、この窮地を乗り越えようとした。
が、時すでに遅し。
定食屋の親父は、目ざとく私の後ろにいるネコに気がついた。
「おや、そのチビちゃんは誰だい? あんたさんは誰かとつるむようなタイプにゃあ、見えなかったがね」
本気で首を傾げているようなので、私は素直に答えることにした。
「……拾ったのよ」
それから、根掘り葉掘り聞かれる前に、話を逸らすことにした。
その方が真っ赤な嘘をつくより余程効率的だ。
「ふたり分の食事を頂戴。いつものやつ」
親父はふっと優しげに笑うと、よく通る声で厨房に指示を出した。
「鶏唐揚げ定食、ふたつ!」
その怒号の余韻が無くなるより前に私はネコの背中を押した。
「ネコ、行くわよ」
ネコはポンチョのフードを再度深く被り直すと、てこてこと私の後ろを着いてきた。
私達は店の一番奥に息を潜めて座った。
テーブルに備え付けてあるコップに油を注ぎ、ネコに差し出す。
「そろそろ燃料が切れる頃でしょう?」
ネコは恐る恐るコップに顔を近づけて、鼻をひくつかせた。
「……く、くさい」
顰めっ面のネコが可笑しくて、私はふっと笑う。
何だかとても久しぶりに口角をあげた気がする。
「しょうがないわよ。だってここは、ワームシティ。元下層居住区なんだもの。どこもかしこも汚いし、臭い。燃料がきちんと置かれているだけ、この店は上等な方なのよ」
ふぅん、だなんて偉そうに頷くと、ネコは鼻をつまんでゆっくりゆっくりコップの中身を空っぽにしていった。
飲み干したあと、うへぇって顔をしていたから相当に嫌な味がしたんだろう。
さすが生粋のお嬢様ってわけね、と納得すると共に、初めてワームシティに足を踏み入れたときの自分も思い出した。
たぶん、今のネコみたいな表情をしていたに違いない。
「ネコ、この油にあまり嫌な顔をしてはだめよ。貴女がハイドラから来たってことがバレてしまうから。こっそり周りを見なさい。ね、みんな美味しそうに飲んでいるでしょ? ここでは、こんな油でも貴重で美味しい燃料なのよ。これからこの場所で生活するのなら、この不味さにも慣れなきゃね」
私の言葉にネコは神妙に頷いた。
それから、今度は嬉しそうな表情でごくごくと勢いよく燃料を飲み干してみせた。
フードの中で耳がびくびく動いているのが窺えるから、相当無理をしているのだろう。
本当に根性のある娘だわ。
ネコがぺろりと燃料を平らげた直後、唐揚げ定食が二つ届いた。
「はい、お待ち!」
人間の感情を理解するために作られたご飯というものは、私達アンドロイドには本来全く不必要なものだ。
定食屋の意義は、無料で出される燃料がメインであり、ご飯を頼むアンドロイドはあまり多くない。
それでも、と私は思う。
それでも私にはアンナと過ごした記憶が本当であることを示すために、必要不可欠なことであったのだ。
彼女が大好きだった唐揚げ定食を食べる必要があったのだ。
ネコは唐揚げをせっせと必死に口へ運んでいる。
はふ、はふ、もぐ、もぐ。
口いっぱいに唐揚げを詰め込んで、咀嚼する姿はなんだか人間みたいだ。
一通り食べたあと、私達は燃料を給油しながら、会話を再開した。
所謂、作戦会議というやつだ。
「今夜はこのまま、オヤジのところへ逃げようと思う」
こてんと首を傾げたネコが問いかける。
「オヤジ?」
「貴女のお父さんの、昔の仲間よ」
「……そっか。その人は、その……」
「大丈夫よ。彼に話はつけてある。マリーも彼の元にいるわ」
「マリーって、キキの飼い猫でしょ? 真っ黒の」
「えぇ」
「早く会いたいなー」
「そう。それじゃあ、急ぎましょう」
私達は勘定を終えると、そそくさとこの街から立ち去った。
さよなら、砂漠の見知らぬ街。
さよなら、見知らぬ定食屋の見知らぬ親父。
たぶん、もう二度と会うことはないだろう。
もしかしたら、先に壊れるのは彼らの方かもしれないね。
帝王モグラに見つかって。
私達が潜伏していたことが判明して。
モグラの苛立ちに触れてしまって。
残酷な当て付けの為だけに、彼らは壊れてしまうのかもしれないわね。
それでも、私達は行かねばならない。
こんな終末世界を終わらせる為に。
正義の為でも、信念の為でも、ないよ。
ただ死ぬまで生きる……いいえ、違うわね。
壊れるまで生きる、そのためだけよ。
アンナの言う「幸福」のためよ。
私は、壊さなくちゃいけない。
こんな汚れた世界など。
こんな果てしない永遠など。
人類の居ない地球など。
フードを深く深く、目が見えなくなるまで深く被り、私達は出発した。
馬も飛行機も空飛ぶ車も、何も必要がない。
この頑丈すぎる足で、昼夜問わず、砂漠を駆け巡るのだ。
跳ぶように走って。
踊るみたいに駆けて。
ネコは笑っていた。
「こんなにも自由を感じたことってないよ! わたし、キキについてきて良かった!」
純粋無垢なその表情が胸の柔らかいところを抉る。
残酷なのはモグラでも、人類でも、ましてや地球なんかでもないんだ。
ネコ。
私が貴女を連れてきたのは、ね。
貴女が鍵だったからよ。
地球を破滅させる、最後の希望。
あの夜、アンナが私に託してくれた希望。
人類の最後の悪足掻き。
最終手段。
地球を殺す、大罪の為の手法。
愚かで馬鹿げていて、だから愛おしい人類の、地球へのラブレターよ。
だから、貴女は特別なの。
他のどのアンドロイドよりも一等星みたいに尊い存在なのよ。
声には出せない想いが胸に降り積もる。
この砂嵐が私の気持ちまですっかり持って行ってくれたら、いいのにね。
三日三晩かけて、私達は世界の裏側までやってきた。
上層居住区から脱出して初めて私が跳躍した脚力を持っていることを知ったとき、私は悲しかった。虚しかった。
それが今、こんなにも役に立っている。
カスタマイズされた、私とネコの足。
誰もこの速さについては来られない。
アンナは自分が居なくなる未来を予測して、私にこの能力を授けたのだろう。
それはとても苦しいことだ。
モグラは鍵が誰かに攫われたとしてもそこから鍵だけが逃げられるようにと考えて、ネコにこの能力を授けたのだろう。
正反対に使われるなど、彼も大概ついていないアンドロイドだ。
そして、不幸なことに。
とてもとても不幸なことに。
地球を約一週間で、一周することができる私達には、世界がとても窮屈に思えた。
不思議だね。
技術が進めば進むほどに、知らないものを知っていく度に、私達は虚しさを覚えるよ。
狭くて、小さくて、知らず知らずのうちに蔑ろにしてしまうんだわ。
モグラとアンナの旧友であり、仲間であったオヤジは、地球に唯一残された森林地帯ユートピアの地下深くに眠っている。
コールドスリープと呼ばれる箱に入って、さながら眠り姫のように、あるいは白雪姫のように、夢から目覚めさせてくれる王子様を待ち続けている。
そして、彼が地球に最後まで残された人間であり、正真正銘に可哀想な人間なのだった。
唯一の存在だったから、唯一の場所に眠らせたのかな。
それなら、モグラもまたそこまで悪いアンドロイドでもないのかもね。
ただ地球を愛しすぎてしまったというだけで。
本当は人類のことも愛したかったのかもね。
私がアンナを愛してた、みたいに。
それでもやっぱり、私が彼を許すことは未来永劫、天文学的確率を持ってしても有り得ないけれど。
いつまでも平行線のまま、そのまま、地球は滅亡しちゃうけど。させちゃうけど。
そのことを、彼に許して欲しいとも思わないけれど。
だけど、だけど。
また違った過去に出会えていたのなら。
私達は互いを憎まずに済んだのかもね。
好き合うことは出来なくとも。
壊し合うことも、傷つけ合うことも、騙し合うことも、なかったのかもね。
私達は私達のまま、無干渉に互いを尊重して、アンナを真ん中に折衝して、生きて、いけたのかもね。
そんな風に、過去にありもしない夢を見るから、ほらやっぱり。
この星は終わりだよ。
じゃれつくみたいに生い茂る草花を、木々を、生命を、私とネコから切り離しながら私達は地下への入口を探した。
入り口は入念に隠されているのか、一向に見つかる気配がない。
そのうちに日が暮れてゆく。
カラスの鳴き声は聞こえずとも、橙色の郷愁ばかりが私達を襲う。
おうちに帰りましょ。
お手手つないで帰りましょ。
一緒に帰る人も、帰る場所も、私達にはもう存在しないけれど。
オヤジと無事に再会することが出来たなら、私はひとつ尋ねてみたい。
人類はどうして私達アンドロイドに、人間らしさを与えてしまったの?
「……ないわ。どうして?」
がくりと膝をついて、ジャングルの空を見上げた。
草の声が優しく私を包み込む。
もう何も怖いことなどないみたいに。
もう何も恐れることなどないみたいに。
胎児のようにただ守られて。
私もこの星も、生きていけるのだろうか。
生きていかねばならないのだろうか。
たとえ鍵があったとしても、開ける錠前が存在しないのなら、果たして鍵の存在は必要だったのだろうか。
哲学的に問いただして、私の命ももう終わりにしたい。
これから先、永遠の向こう側まで狂ったみたいに人類を恋しく思い続けるのであるならば、いっそこのまま壊れてしまいたい。
胸に慟哭が空いた。
泣きたいはずなのに涙は出ない。
アンナを失ったときに流した涙の回路は、数千年の時を経て錆付いていたのだ。
だから、叫ぶしかなかった。
雄叫びを上げ、光の見えない夜のジャングル。
漆黒のなか膝をついて、空を仰いだ。
絶望の中、なんの脈絡もなく、間の抜けた声が後ろから聞こえた。
「いたっ」
ネコだった。
どうやら痛いらしいので、後ろを振り向いてあげることにした。
何かに躓いて転んでしまったらしい。
「もう、痛いなぁ。この、この!」
小さな手足を必死にじたばたさせながら、ネコは地面に向かって地団駄を踏んでいた。
その滑稽で可愛い様子に、先程までの喪失感はどこかへと消えてしまった。
それで良いのだ。
生きるとは、そういうことだ。
なし崩しにそう実感して、私は肩を竦め、微笑んだ。
が、次の瞬間。
私はひとつの可能性に思い至り、はっとした。
「待って。ネコ、ちょっとそこ退いてくれる?」
ぴょんとネコが猫らしく横に跳ぶ。
ネコが躓いた突起物を私は必死に探す。
あたりは真っ暗だ。
仄かな青い月の光だけを頼りに、地面に手を当てる。
元上層居住区のアンドロイドに暗視モードになる瞳は搭載されていない。……くそぅ。
じめっぽい草や土。
違う、ここじゃない。
探す範囲を少し拡げると、ひとつの人工物に手が当たる。
突起物の人工物。
オアシスとは相容れない、ひとつの人工物。
それは、地下への入り口だった。
「ネコ、こっちに来て」
新型アンドロイドのネコは、夜目が効く。
ネコの青い目が闇の中、光る。
そして、だんだんと近づいてくる。
青々とした光の幻惑の中、私とネコの視線が絡んだ。
ネコは無表情に私を見つめる。
その深遠な瞳の奥に、彼女のアンドロイドらしさを垣間見た気がした。
どれだけ擬態してもしきれない。
どれだけ模倣してもしきれない。
私達は、機械仕掛けのアンドロイドだ。
私達は、人間に似せられたただの紛い物だ。
「ネコ、ここを見て」
私は顔を下に向けた。
後を追って、ネコの視線も下へと向かう。
コールドスリープへと続く地下通路、の入り口、になる人工物があった。
鍵はネコ。
ネコの青い瞳の光だ。
ネコの青い光を得て、僅かな突起物は成長する。
アンドロイドよりも遥かに生命みたいに。
ぼわん、と周辺が青い光源に包まれる。
それから、突起物は魔法陣みたいな丸い鉄の板と化した。
地下へと下るエレベーターだ。
私はネコの手を取って、立ち上がった。
エレベーターを出現させる鍵がネコの瞳なら、エレベーターを動かすのはネコの手だった。
「さぁ、下りましょう」
私の言葉が夜のオアシスに吸い込まれてゆく。
ネコはにゃっと笑って、その両手を板の中央に押し付けた。
あおいあおい。
ひかりが。
かぜが。
わたしたちを。
やさしく。
むかえいれ。
ゆっくりと。
てつのかたまりは。
ちかへと。
むかう。
こーるどすりーぷ。
しずかに。
ねむりながら。
わたしたちをまっている、ひとがいる。
朝日を眩しそうに見つめながらも、そう言いきった彼女はとても美しかった。
フードの中で、ぴくりと灰色の耳を動かして、わたしは堪えきれず、彼女に抱き着いた。
彼女は抱き締め返すことはしない。
だから安心できた。
壊れたキキという女には、灰色猫耳の娘がいた。
「よう、キキ」
よく通う定食屋の親父に見つかった。
「今日は何か食べてくか?」
いつだって気さくな笑顔の彼だったが、だからと言って信頼に足る人物である保証などない。
私は背中に隠れたネコをなるべく見つからずして、この窮地を乗り越えようとした。
が、時すでに遅し。
定食屋の親父は、目ざとく私の後ろにいるネコに気がついた。
「おや、そのチビちゃんは誰だい? あんたさんは誰かとつるむようなタイプにゃあ、見えなかったがね」
本気で首を傾げているようなので、私は素直に答えることにした。
「……拾ったのよ」
それから、根掘り葉掘り聞かれる前に、話を逸らすことにした。
その方が真っ赤な嘘をつくより余程効率的だ。
「ふたり分の食事を頂戴。いつものやつ」
親父はふっと優しげに笑うと、よく通る声で厨房に指示を出した。
「鶏唐揚げ定食、ふたつ!」
その怒号の余韻が無くなるより前に私はネコの背中を押した。
「ネコ、行くわよ」
ネコはポンチョのフードを再度深く被り直すと、てこてこと私の後ろを着いてきた。
私達は店の一番奥に息を潜めて座った。
テーブルに備え付けてあるコップに油を注ぎ、ネコに差し出す。
「そろそろ燃料が切れる頃でしょう?」
ネコは恐る恐るコップに顔を近づけて、鼻をひくつかせた。
「……く、くさい」
顰めっ面のネコが可笑しくて、私はふっと笑う。
何だかとても久しぶりに口角をあげた気がする。
「しょうがないわよ。だってここは、ワームシティ。元下層居住区なんだもの。どこもかしこも汚いし、臭い。燃料がきちんと置かれているだけ、この店は上等な方なのよ」
ふぅん、だなんて偉そうに頷くと、ネコは鼻をつまんでゆっくりゆっくりコップの中身を空っぽにしていった。
飲み干したあと、うへぇって顔をしていたから相当に嫌な味がしたんだろう。
さすが生粋のお嬢様ってわけね、と納得すると共に、初めてワームシティに足を踏み入れたときの自分も思い出した。
たぶん、今のネコみたいな表情をしていたに違いない。
「ネコ、この油にあまり嫌な顔をしてはだめよ。貴女がハイドラから来たってことがバレてしまうから。こっそり周りを見なさい。ね、みんな美味しそうに飲んでいるでしょ? ここでは、こんな油でも貴重で美味しい燃料なのよ。これからこの場所で生活するのなら、この不味さにも慣れなきゃね」
私の言葉にネコは神妙に頷いた。
それから、今度は嬉しそうな表情でごくごくと勢いよく燃料を飲み干してみせた。
フードの中で耳がびくびく動いているのが窺えるから、相当無理をしているのだろう。
本当に根性のある娘だわ。
ネコがぺろりと燃料を平らげた直後、唐揚げ定食が二つ届いた。
「はい、お待ち!」
人間の感情を理解するために作られたご飯というものは、私達アンドロイドには本来全く不必要なものだ。
定食屋の意義は、無料で出される燃料がメインであり、ご飯を頼むアンドロイドはあまり多くない。
それでも、と私は思う。
それでも私にはアンナと過ごした記憶が本当であることを示すために、必要不可欠なことであったのだ。
彼女が大好きだった唐揚げ定食を食べる必要があったのだ。
ネコは唐揚げをせっせと必死に口へ運んでいる。
はふ、はふ、もぐ、もぐ。
口いっぱいに唐揚げを詰め込んで、咀嚼する姿はなんだか人間みたいだ。
一通り食べたあと、私達は燃料を給油しながら、会話を再開した。
所謂、作戦会議というやつだ。
「今夜はこのまま、オヤジのところへ逃げようと思う」
こてんと首を傾げたネコが問いかける。
「オヤジ?」
「貴女のお父さんの、昔の仲間よ」
「……そっか。その人は、その……」
「大丈夫よ。彼に話はつけてある。マリーも彼の元にいるわ」
「マリーって、キキの飼い猫でしょ? 真っ黒の」
「えぇ」
「早く会いたいなー」
「そう。それじゃあ、急ぎましょう」
私達は勘定を終えると、そそくさとこの街から立ち去った。
さよなら、砂漠の見知らぬ街。
さよなら、見知らぬ定食屋の見知らぬ親父。
たぶん、もう二度と会うことはないだろう。
もしかしたら、先に壊れるのは彼らの方かもしれないね。
帝王モグラに見つかって。
私達が潜伏していたことが判明して。
モグラの苛立ちに触れてしまって。
残酷な当て付けの為だけに、彼らは壊れてしまうのかもしれないわね。
それでも、私達は行かねばならない。
こんな終末世界を終わらせる為に。
正義の為でも、信念の為でも、ないよ。
ただ死ぬまで生きる……いいえ、違うわね。
壊れるまで生きる、そのためだけよ。
アンナの言う「幸福」のためよ。
私は、壊さなくちゃいけない。
こんな汚れた世界など。
こんな果てしない永遠など。
人類の居ない地球など。
フードを深く深く、目が見えなくなるまで深く被り、私達は出発した。
馬も飛行機も空飛ぶ車も、何も必要がない。
この頑丈すぎる足で、昼夜問わず、砂漠を駆け巡るのだ。
跳ぶように走って。
踊るみたいに駆けて。
ネコは笑っていた。
「こんなにも自由を感じたことってないよ! わたし、キキについてきて良かった!」
純粋無垢なその表情が胸の柔らかいところを抉る。
残酷なのはモグラでも、人類でも、ましてや地球なんかでもないんだ。
ネコ。
私が貴女を連れてきたのは、ね。
貴女が鍵だったからよ。
地球を破滅させる、最後の希望。
あの夜、アンナが私に託してくれた希望。
人類の最後の悪足掻き。
最終手段。
地球を殺す、大罪の為の手法。
愚かで馬鹿げていて、だから愛おしい人類の、地球へのラブレターよ。
だから、貴女は特別なの。
他のどのアンドロイドよりも一等星みたいに尊い存在なのよ。
声には出せない想いが胸に降り積もる。
この砂嵐が私の気持ちまですっかり持って行ってくれたら、いいのにね。
三日三晩かけて、私達は世界の裏側までやってきた。
上層居住区から脱出して初めて私が跳躍した脚力を持っていることを知ったとき、私は悲しかった。虚しかった。
それが今、こんなにも役に立っている。
カスタマイズされた、私とネコの足。
誰もこの速さについては来られない。
アンナは自分が居なくなる未来を予測して、私にこの能力を授けたのだろう。
それはとても苦しいことだ。
モグラは鍵が誰かに攫われたとしてもそこから鍵だけが逃げられるようにと考えて、ネコにこの能力を授けたのだろう。
正反対に使われるなど、彼も大概ついていないアンドロイドだ。
そして、不幸なことに。
とてもとても不幸なことに。
地球を約一週間で、一周することができる私達には、世界がとても窮屈に思えた。
不思議だね。
技術が進めば進むほどに、知らないものを知っていく度に、私達は虚しさを覚えるよ。
狭くて、小さくて、知らず知らずのうちに蔑ろにしてしまうんだわ。
モグラとアンナの旧友であり、仲間であったオヤジは、地球に唯一残された森林地帯ユートピアの地下深くに眠っている。
コールドスリープと呼ばれる箱に入って、さながら眠り姫のように、あるいは白雪姫のように、夢から目覚めさせてくれる王子様を待ち続けている。
そして、彼が地球に最後まで残された人間であり、正真正銘に可哀想な人間なのだった。
唯一の存在だったから、唯一の場所に眠らせたのかな。
それなら、モグラもまたそこまで悪いアンドロイドでもないのかもね。
ただ地球を愛しすぎてしまったというだけで。
本当は人類のことも愛したかったのかもね。
私がアンナを愛してた、みたいに。
それでもやっぱり、私が彼を許すことは未来永劫、天文学的確率を持ってしても有り得ないけれど。
いつまでも平行線のまま、そのまま、地球は滅亡しちゃうけど。させちゃうけど。
そのことを、彼に許して欲しいとも思わないけれど。
だけど、だけど。
また違った過去に出会えていたのなら。
私達は互いを憎まずに済んだのかもね。
好き合うことは出来なくとも。
壊し合うことも、傷つけ合うことも、騙し合うことも、なかったのかもね。
私達は私達のまま、無干渉に互いを尊重して、アンナを真ん中に折衝して、生きて、いけたのかもね。
そんな風に、過去にありもしない夢を見るから、ほらやっぱり。
この星は終わりだよ。
じゃれつくみたいに生い茂る草花を、木々を、生命を、私とネコから切り離しながら私達は地下への入口を探した。
入り口は入念に隠されているのか、一向に見つかる気配がない。
そのうちに日が暮れてゆく。
カラスの鳴き声は聞こえずとも、橙色の郷愁ばかりが私達を襲う。
おうちに帰りましょ。
お手手つないで帰りましょ。
一緒に帰る人も、帰る場所も、私達にはもう存在しないけれど。
オヤジと無事に再会することが出来たなら、私はひとつ尋ねてみたい。
人類はどうして私達アンドロイドに、人間らしさを与えてしまったの?
「……ないわ。どうして?」
がくりと膝をついて、ジャングルの空を見上げた。
草の声が優しく私を包み込む。
もう何も怖いことなどないみたいに。
もう何も恐れることなどないみたいに。
胎児のようにただ守られて。
私もこの星も、生きていけるのだろうか。
生きていかねばならないのだろうか。
たとえ鍵があったとしても、開ける錠前が存在しないのなら、果たして鍵の存在は必要だったのだろうか。
哲学的に問いただして、私の命ももう終わりにしたい。
これから先、永遠の向こう側まで狂ったみたいに人類を恋しく思い続けるのであるならば、いっそこのまま壊れてしまいたい。
胸に慟哭が空いた。
泣きたいはずなのに涙は出ない。
アンナを失ったときに流した涙の回路は、数千年の時を経て錆付いていたのだ。
だから、叫ぶしかなかった。
雄叫びを上げ、光の見えない夜のジャングル。
漆黒のなか膝をついて、空を仰いだ。
絶望の中、なんの脈絡もなく、間の抜けた声が後ろから聞こえた。
「いたっ」
ネコだった。
どうやら痛いらしいので、後ろを振り向いてあげることにした。
何かに躓いて転んでしまったらしい。
「もう、痛いなぁ。この、この!」
小さな手足を必死にじたばたさせながら、ネコは地面に向かって地団駄を踏んでいた。
その滑稽で可愛い様子に、先程までの喪失感はどこかへと消えてしまった。
それで良いのだ。
生きるとは、そういうことだ。
なし崩しにそう実感して、私は肩を竦め、微笑んだ。
が、次の瞬間。
私はひとつの可能性に思い至り、はっとした。
「待って。ネコ、ちょっとそこ退いてくれる?」
ぴょんとネコが猫らしく横に跳ぶ。
ネコが躓いた突起物を私は必死に探す。
あたりは真っ暗だ。
仄かな青い月の光だけを頼りに、地面に手を当てる。
元上層居住区のアンドロイドに暗視モードになる瞳は搭載されていない。……くそぅ。
じめっぽい草や土。
違う、ここじゃない。
探す範囲を少し拡げると、ひとつの人工物に手が当たる。
突起物の人工物。
オアシスとは相容れない、ひとつの人工物。
それは、地下への入り口だった。
「ネコ、こっちに来て」
新型アンドロイドのネコは、夜目が効く。
ネコの青い目が闇の中、光る。
そして、だんだんと近づいてくる。
青々とした光の幻惑の中、私とネコの視線が絡んだ。
ネコは無表情に私を見つめる。
その深遠な瞳の奥に、彼女のアンドロイドらしさを垣間見た気がした。
どれだけ擬態してもしきれない。
どれだけ模倣してもしきれない。
私達は、機械仕掛けのアンドロイドだ。
私達は、人間に似せられたただの紛い物だ。
「ネコ、ここを見て」
私は顔を下に向けた。
後を追って、ネコの視線も下へと向かう。
コールドスリープへと続く地下通路、の入り口、になる人工物があった。
鍵はネコ。
ネコの青い瞳の光だ。
ネコの青い光を得て、僅かな突起物は成長する。
アンドロイドよりも遥かに生命みたいに。
ぼわん、と周辺が青い光源に包まれる。
それから、突起物は魔法陣みたいな丸い鉄の板と化した。
地下へと下るエレベーターだ。
私はネコの手を取って、立ち上がった。
エレベーターを出現させる鍵がネコの瞳なら、エレベーターを動かすのはネコの手だった。
「さぁ、下りましょう」
私の言葉が夜のオアシスに吸い込まれてゆく。
ネコはにゃっと笑って、その両手を板の中央に押し付けた。
あおいあおい。
ひかりが。
かぜが。
わたしたちを。
やさしく。
むかえいれ。
ゆっくりと。
てつのかたまりは。
ちかへと。
むかう。
こーるどすりーぷ。
しずかに。
ねむりながら。
わたしたちをまっている、ひとがいる。
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