君と普通の恋をした

アポロ

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アイドル

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 照明の光度が落ちたステージ上からはお客さんがよく見える。左から四番目のおじさんのライトを振る動きがすごく優しそうだった。開演早々からサクラがいると気付かされた私は軽く目眩がして、ピッチがハマらなかった自分の声にいら立った。それでも今は歌える歌を心を込めて歌う。自分を失ったりはしない。全力でパフォーマンスする。冷や汗をかきながらそう強く思っていた。だのにAメロのソロ歌詞の「君が好きなだけなのに」も盛大に間違えてしまう。ああやっぱり私なんかにラブソングは難しい、そもそも芸能は向いとらんのかもしれん、いっそやめてしまえたらどんなに楽になることやら。

 本拠地愛知での最終公演だったから事務所の社長のミチコさんが来てくれている。チケットもチェキも売り上げが悪いとぼやきたいだろうに、ちょっといいジンギスカン屋で打ち上げまで催してくれた。次は九州へ遠征したいだとかそろそろ新メンバーを加入させようだとか盛り上がって仲間たちが焼けた羊のお肉を譲り合う、そんな光景を遠目に私だけが二人席でマネージャーの新川と軽い個別反省会になるんだろうと覚悟していた。が、事はそんな甘い話ではすまされず、みんなが飲み食いしている真ん前で本格的な説教を始められ、私は二分の一に切られた三割引きのキャベツの断面みたいな面持ちを作らされた。

真凜まりんよ。音が外れてフラバったのは仕方がない。その後、だって夢を見てるからの歌詞を間違えたのも大きなミスとは言わん。俺が言いたいことは分かるか?」

「歌やダンスがへろへろでも笑顔まで崩壊したらいかんよね」

 私の責任だ。みんながしかめ面でジンギスカンを食べさせられている。居合わせたお店の新人スタッフまで肩身が狭そうなのも私のせいだ。新川以外のみんな、美味しいはずの羊さんをまずくさせて本当に申し訳ない。

「その通りだわ。基礎がなっていないんだわ。このままじゃメジャーなんて夢のまた夢。仮にやる気がなくてもお金を払って観に来てくれとるお客さんの前に出たらショーのプロとして元気いっぱい弾けること。それが出来なかったらせめてほほえむ。まあ当然の礼儀だよね?」

「うんわかっとる私もそう思うごめんなさいね本当に。仮にやる気があっても仮にやる気がなくてもとか言われればなるほど、やる気がゼロの地下アイドルと思われても仕方ないよね」

「あんだその態度てめぇ逆ギレしとんか!?」

 その通り、キレそうだ。新川お前それでも密かに私と付き合っとる男なのか。本音は私と別れるチャンスだと思っとんだろが。いや、そんな喧嘩の繰り返しは不毛でかなわん。私がへの字まゆげで目配せする。ミチコさんにはその合図を察して社長らしく場を取りなしてほしい。

「ふう。新川君、そのへんでいいじゃん。全体的にはみんながよくフォローしていたで。ほら、食べなさい。真凜も。もういいから食べなさい、ほら」

 ほら、ほら、ほら。うちの事務所の裏舞台ではこれが定番中の茶番だ。これにてひとまず場は丸く収まる。

「うっ。泣きそう。ミチコさんありがとう、でも私もう無理や逃げるわ」

 ジンギスカン屋を飛び出すと私は冷たい夜気に急かされるまでもなく走り出した。すぐにでもおじさんに会いたかった。ミチコさんとおじさんだけが私と新川の関係を知っていて、おじさんは私が意地悪新川のことで泣きついてもミチコさんみたいに頭ごなしに「ま、うまくやりなよ」なんて言わない。ビッグエコーの呼び込みのカタコトのカラオケイカガデスカに対して「大変だねー」と言えるのがおじさん。

 駆け足五分、所々塗装ハゲのあるオフホワイトの集合住宅に着いた。蜘蛛の巣の払われていない共用階段で二階へ上がって手前から三番目の『村上』。そこがミチコさんとおじさんの自宅兼事務所だった。私はグループで最古参のメンバーだし一応リーダーなので合鍵を持っている。チャイムは鳴らさず入ってもいい。でも玄関扉から奥は意外に無人で真っ暗だった。

「おじさん何しとんだ」

 どこにいるの。早く帰ってきてよ。劇場にサクラなんかしに来なくていいしこんな時こそ甘えさせてほしいのに。SOSを送ろうとしたけどスマホはジンギスカン屋に置き忘れてきた。一滴も飲んでいないのにぶっ倒れそうになる。リビングにあるパソコンで連絡が取れるのだろうか。でもロックを解除するパスワードはおじさんとミチコさんしかしらない。

 冷蔵庫から缶ビールを失敬して一瞬ジンギスカン屋へ戻ろうか迷った。誰もいない事務所で資料やグッズの在庫の仮置き場みたいになっているソファにお尻をぐいぐい押し込むと、まるで自分自身こそ眠たくなるほどかわいくない衣装を着た余り物だ。
 やめるが勝ちか。地下から卒業したって誰も困らないよね。むしろせいせいしてくれるメンバーもいる。新川が賛成するなら弁当屋のバイトのシフトを増やして前向きに家出も検討したかった。

 新川は結果が重要だと言いたいわけではなくて、真凜というアイドルがぶれることにいらだっている。私が活動以外の何かに気を向けられるのは良くないと。それは分かっちゃいるが私は歌もダンスも新川も好きで冷静に考えてみると実は今の自分も失望するほど嫌いじゃなかった。色んな好きなことを少しでも長く続けるにはどうすればいいのか、一番信頼出来るおじさんには優しく教えてほしかった。おじさんはいつもどうして人に優しいのかなんて考えさせない。おじさんは稼げない芸能事務所のお手伝いもお手伝いをさせる妻のミチコさんも売れそうにない私たちのこともただ大好きだと言う。ミチコさんと新川が寝ているか、それを何度泣いて問い詰めたって、おじさんの微笑みは本物で私に絶対肯定しなかった。

「真凜ちゃん、風邪を引いちゃいますよ」

 おじさん。ミチコさん。新川。新川。
 まどろみの私にそう言ってゆさぶり起こして何が辛いのか聞いてくれ。私がどこへ行けばいいのかもっとはっきり言ってくれ。二本目のビールを飲み干してしまう前に君はきっとまだ輝くと伝えてくれ。芸能の神にも意地悪な新川にもかわいがられる私ってどんな私だ、こんな甘えたアホでもすっきり分かるように丁寧な説明をしてくれ。

 気がついたら新川が心配そうに私の髪を撫でながら顔を見てくれていた。

「起きた?」

「うん。いつ来たの」

「今。お腹すいてる?」

「うん」

「おじさんと会ってた?」

「ううん。一人だったよ」

 私の髪を撫でる男は新川だけだ。おじさんは私に触れたりはしない。私がいなくなれば新川も一人になるのだろうか。
 新川は、きつく言って悪かったと思っている。それなりに付き合いの長い真凜だけにしか強気になれない、本当は弱腰のマネージャー。それくらいアホな私でも分かっているつもりだ。

「なあ。やめたくなったら言えよ」

 新川がめずらしく悲しそうに言ったからなんか感心した。
 私は安物のダッサイ衣装を着たまま。ジンギスカンを食べ損ねたお腹がぐうと鳴る。
 だのにそれが嫌でもなくて、勢いまかせにはじめて彼とキスをした。
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