顔も思い出せぬあの味をもう一度

粟生深泥

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第1章

思い出のナポリタン④

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 勝沼さんの家を訪れた翌日、わたしと綾乃は田野瀬くんの家にいた。小奇麗にまとめられたワンルームのリビングでどことなく所在なさげな気分に包まれる。部屋の主はリビングにはおらず、キッチンで文字通り腕を振るっていた。
 勝沼さんからもらったノートには「喫茶カツヌマ」のメニューのレシピが事細かに書き込まれていて、少し癖のある字――その字を綾乃は懐かしそうに眺めていた――だったけど、ナポリタンのレシピもすぐに見つけることができた。
 そのナポリタンを作ってみるかどうかという選択肢が勝沼さんの家を辞したわたしたちを悩ませた。せっかくだから食べてみたいという気持ちはあったし、綾乃はわたしよりもっと強かったと思う。だけど、綾乃もわたしもあまり料理は得意ではなくて、迂闊に作ってしまうことで綾乃の想い出の味を壊してしまうのが怖かった。
 できれば料理が得意な人に作ってもらいたい。それから、綾乃やわたしと面識がある人――それで思い当たったのはいつもお弁当を作ってきている田野瀬くんだった。
 帰りの電車に乗りながら、SNSの同期のグループから「A.Tanose」というIDの田野瀬くんの連絡先を引っ張り出して、ナポリタンのレシピを写真で送り、作れそうか聞いてみると、できると思うという返事が返ってきた。綾乃と顔を見合わせて、田野瀬くんに二人分作ってくれないかお願いすると、「材料を用意したりするから、翌日なら大丈夫」と、細かいことは何も聞かずに受け入れてくれた。
「うーん、職場で仕事してるより絵になるなあ」
 そんな恩人のような相手を、綾乃は容赦なく評する。確かに、赤い麵が踊るフライパンを振る姿は堂に入っていたけど、仕事中の姿と比べなくてもいいじゃない。そもそもわたしは田野瀬くんが働く姿を知らない。
「仕事中の田野瀬くんってどんな感じなの?」
「あー、彩夏、やっぱり気になっちゃう?」
 すっかり調子を戻した綾乃がニッと笑う。昨日の勝沼さんの家での様子はどこに行ったのか、いつもの綾乃だった。
「やっぱりって何よ」
「んー、ほら、料理が得意な人っていったときに彩夏が真っ先に名前を挙げたのが田野瀬くんだし、彩夏的には一石二鳥だったのかなーって」
 楽しそうな綾乃に息をつくだけの返事を返す。料理を食べてみたいという思いがあったのは否定しないけど、二匹目の鳥はいったい何のことなのか。
 そんなことを言われると急に意識してしまって、改めてリビングを見渡す。家具などがシンプルにまとめられた部屋。唯一その部屋で異彩を放っているのは、部屋の奥でパーテーションに仕切られているパソコン周りだった。ディスクトップパソコン自体久しぶりに見たし、何に使うかわからないような機材がゴテゴテと繋がれている。部屋の家具の数より、パソコンにつながる機器の方が多いかもしれない。
「あまりジロジロみられると、ちょっと恥ずかしいかなあ」
 苦笑い気味の田野瀬くんの声にビクッとする。布巾を持った田野瀬くんが困ったように笑っていた。
「結構、ゲームとかするからカスタムしてるんだけど、やりすぎだよね」
「う、ううん。いいと思う。それより、もうできたんだ?」
「うん、効率的に作れるようにレシピがまとめられてたからね。でも、色々隠し味もあって参考になったよ」
 やっぱりお店で出すことを前提としたレシピになっているのだろうか。ナポリタン作りを田野瀬くんに頼んで正解だった。多分、わたしと綾乃で作っても、そうしたノートに書かれた以外のところまでは気づかなかったと思う。
「はい、どうぞ。うまく作れたかはわからないけどね」
 テーブルを拭き終わると、田野瀬くんは三人分のナポリタンを運んできた。真っ赤な麺が食欲をそそる。パッと見たところ具材は玉ねぎにピーマン、ベーコンとシンプルなナポリタンに見える。
 お好みで、とテーブルに粉チーズとタバスコが置かれた。どちらも使って形跡があって、このナポリタンのために買ってきたわけではないことに感心してしまう。わたしの家にはどちらもない。
 綾乃が慎重に粉チーズとタバスコをふりかけ、わたしもそれに続く。田野瀬くんまで回し終わったところで手を合わせる。
「いただきます」
 目の前の料理と、田野瀬くんと、勝沼さんへ。
「……んーっ!」
 一口ナポリタンを食べて、驚いた。昔ながらのナポリタンといった味わいのはずなのにとても深みがある。濃厚なのにベタッとしていない。そこにチーズやタバスコが交わるとまた違った味わいに彩られる。
 この前、Lala’s Kitchenで食べたナポリタンとは味の方向性は違っているけど、勝沼さんのナポリタンもとてもおいしい。なにより、なんだかホッとする味だった。
「どうかな?」
 少し不安そうに田野瀬くんが綾乃の方を見る。その綾乃は、無我夢中といった様子でナポリタンを口に運んでいた。言葉を聞かなくても、感想はわかったようなものだった。
 しばらくして田野瀬くんの視線に気づいた綾乃が顔を上げ、ちょっと恥ずかしそうに笑う。
「これ……この味だよ。すごいよ、田野瀬くん!」
「よかった。安心した」
「懐かしい……。おじちゃんにもお礼言えたしこれで十分って思ってたけど、また食べられてよかった」
 綾乃の言葉に田野瀬くんも嬉しそうに微笑んだ。わたしももう一度ナポリタンを食べると、すぐに手が止まらなくなる。それは綾乃も同じようで、しばらく三人で黙々とナポリタンを食べた。
「この量も懐かしいなあ。食べても食べても無くならないの」
 そういう綾乃の皿にはまだ半分くらいナポリタンが残っている。わたしの皿も同じような感じで、元々二人分くらいの量が盛り付けられていたような気がする。
「それも、レシピ通りなんだ」
 綾乃の言葉に田野瀬くんはふっと立ち上がると、あのレシピのノートを持ってきてあるページを開いてみせた。それは、ナポリタンのレシピの次のページ。
――アヤちゃんにお腹いっぱい食べさせる。
 そんな言葉が癖のある字でノートの余白に走り書きされていた。なぜ次のページに隠すように書いていたのか、それもノートを書いた人の想いが表れているようだった。綾乃のことをスゴイ大切に思っていて、でもそのまま口に出すのは恥ずかしい感じ。
「あっ……」
 昨日は決して涙を流さなかった綾乃の瞳から、つっと雫が零れる。その視線がノートとナポリタンを行き来する。
「ありがとう……、おじちゃん、ほんとうにありがとう……っ!」
 泣きながらナポリタンを食べる綾乃を、優しく田野瀬くんが見守っている。
 ああ、きっと喫茶カツヌマでも同じような光景が広がっていたんだろう。高校生の綾乃が美味しそうにナポリタンを食べる様子を、老夫婦が穏やかな笑顔で眺めている。
 じんわりと熱くなった目頭を押さえながら、わたしも残る思い出の欠片を味わう。一口食べるたび、胸の奥をほっとした温かさが包み込んだ。
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