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第2章

夏祭りの記憶①

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 田野瀬くんの家でナポリタンを食べてから数日後、定時になると同時にわたしは「DX推進室」に向かった。部屋の中を見渡し、端のほうの席で働いている見つける田野瀬くんを見つける。
「お疲れ、田野瀬くん」
「あ、三浦さん。お疲れさま」
 そう答えてから田野瀬くんは部屋内に視線を巡らせた後、ちょっと困ったように頬をかく。
「ごめんね。芦倉さん、ちょっと前に部屋出ちゃって」
 今日ここに来た目的は綾乃ではなかったから、むしろ都合がよかったかもしれない。もし綾乃に見られると、後でまた色々言われるかもしれないし。
「ううん。あの、田野瀬くん。これ」
 後ろ手に持ってきた包みを田野瀬くんにわたす。昨日、少し奮発してデパートで買ってきた洋菓子の詰め合わせ。田野瀬くんは少し戸惑いながらそれを受け取った。
「この前、無理聞いてもらったからそのお礼」
「無理?」
 本当にきょとんとしている田野瀬くんに、わたしまできょとんとしてしまう。
「ほら、先週末のナポリタン」
「ああ、気にしなくていいのに。あのレシピの本、僕も色々参考になったし。本当に僕が預かっちゃってよかったのかな?」
 田野瀬くんは何でもないことのように笑う。突然同期がナポリタンを作ってくれって押し掛けてくるのはなかなか大変なことだと思うんだけど。
 ナポリタンを食べたあの日、綾乃は喫茶カツヌマのレシピのノートを田野瀬くんに預けることにした。今持ってても宝の持ち腐れだから、と笑う綾乃に、田野瀬くんは「しばらく借りる」ということでノートを受け取った。
「あっ、そうだ。これ、お返しってわけじゃないけど」
 田野瀬くんはカバンから保冷袋を取り出した。
 何だろうと保冷袋を開いてみると、厳重に包装されたタッパーが入っていた。
「そのレシピの中にポトフがあったから作ってみたんだけど。よかったら、この前約束した煮物代わりに」
 おお。本当に作って来てくれるなんて。
 あれ、でも、これってお返しループが終わらないのでは。まあ、それならそれでいいかもしれない。この前のナポリタンの味からして、ポトフも期待して間違いない。
 そんなことを考えている中で、これが喫茶カツヌマのレシピから生まれたということで、田野瀬くんが困ったように笑っていた理由がピンときた。
「もしかして、綾乃にも作ってきたの?」
「うん。思い出の味かなと思って。一人分も二人分もそんな違わないし」
 田野瀬くんの視線が部屋の扉の方に移る。
「三浦さんが来るちょっと前に渡したんだけど、そしたらビックリしたみたいに部屋を飛び出して行っちゃって……何か悪いことしたのかなあ」
 田野瀬くんの眉が困ったように八の字になる。
 田野瀬くんは悪いことはしていない。行田市に行ってからまだ数日しか経っていない綾乃にとって、再び手渡された思い出の味はまだちょっと刺激があったのだと思う。
「大丈夫、落ち着いたら戻ってくると思うよ」
 綾乃は感謝こそすれ、田野瀬くんを責めたりすることはないだろう。
 さあ、さっきわたしが綾乃がいないことに安心したように、このまま残っていると綾乃が戻ってきた時にわたしが邪魔になるかもしれない。
 田野瀬くんに改めてお礼を告げて、わたしは部屋を後にした。ポトフの入った保冷袋をぎゅっと握りしめる。今から帰って食べるのが楽しみだった。そういえば、今日はロロの配信がある日だから、観ながらいただこうかな。
 そっか、ロロにもお礼を言わないと。あのナポリタンの奇跡のような出来事は、ロロたちの協力なしでは生まれなかった。
 自分の部屋に戻ると、出たときより少し閑散としている。わたしも早く仕事を切り上げて帰ってしまおう。
「あ、彩夏ちゃん。定時後に悪いんだけど、今少しだけ大丈夫?」
 パソコンをスリープから解除したところで、書類を抱えて部屋に戻ってきた香織先輩に声を掛けられた。
「大丈夫ですよ。どうしました?」
「この前、綾乃ちゃんのこと助けてあげたんだよね?」
「えっ?」
 どうして香織先輩がそのことを。綾乃があの日の出来事を簡単に誰かに話すようには思えなかったけど、仲がいい香織先輩には話さずにはいられなかったのかもしれない。
 でも、そうだとして、それがどうしたのだろう。
「ちょっとその力を見込んで、私が担当してるお客さんの話を聞いてくれないかなーって」
「お客さんの話、ですか? でも、仕事の話ならわたしより香織先輩の方がずっとできると思いますけど……」
 ぽやんとした雰囲気とは裏腹に、香織先輩の仕事の成績は凄かった。わたしなんてまだまだ先輩から学ばなきゃいけないことが多い。頼ってもらえることは嬉しかったけど、先輩以上のいい案が思い浮かぶとは思えなかった。
「わあ、うれしい。でもね、これは半分仕事で半分それ以外みたいな話でね。彩夏ちゃんの方が得意じゃないかなと思うの」
 ニコッと笑う香織先輩。まあ、いつもお世話になっている先輩の頼みを話も聞かずに断るという選択肢は、もとから無い。
「お役に立てるかわからないですけど、まずは話を聞くくらいなら……」
「さすが彩夏ちゃん! じゃあ、こっちついて来てくれる?」
 香織先輩の後ろについて部屋を出ると、連れていかれたのは一つ上のフロアの打ち合わせスペースだった。外部の人との小規模な打ち合わせにつかえる会議室がいくつも並んでいる。そのうちの一つの部屋に香織先輩が入っていき、わたしも後ろに続く。
 部屋の中で待っていたのは、30歳くらいの男性だった。スーツ姿だけど、あまり着慣れている感じがしない。もしかしたら、普段は仕事でスーツを着ることはないのかもしれないなんて当たりをつける。
「和田さん、さっき話した三浦です。もしかしたら、お力になれるかもしれません」
 香織先輩が和田さんと呼びかけた男性はパッと立ち上がると、わたしにも頭を下げる。律儀で人がよさそうな雰囲気だった。
「すみません、業務外のことをお願いしてしまって。樺澤さんに起業のことでお世話になっている和田といいます」
 わたしたちの部署はベンチャーなどの起業にあたって手続き面のサポートや、データや他の事例から運営面の助言をするアドバイザーのような業務をしている。さっきまで打ち合わせをしていたのか、和田さんの前には香織先輩が作ったと思われる資料がいくつか並んでいた。
「樺澤の部下の三浦です。それで、お話というのは……?」
 香織先輩に促されて和田さんの正面に腰を下ろす。香織先輩は資料を開く様子はないから、本当に仕事の話ではないのだろう。
「実は、この写真の場所を探しているんです」
 和田さんが一枚の写真を取り出して渡してくれる。現像されてからだいぶ時間が経っているのか写真には少し傷みもあったけど、それだけにずっと大切にされてきたのだとわかる。
 その写真には、小学生くらいの男女が紅白に彩られた櫓のようなものの前で笑っていた。写真には浴衣を着たような人々も写り込んでいて、祭りの最中のようだ。
「実は隣に写っているのは妻でして、これは僕と妻が初めて会った時の写真なんです」
 思わず写真と和田さんを交互にまじまじと見てしまう。写真の男女は小学3年生くらいだと思う。その頃に知り合った二人が結婚するなんて、まるでおとぎ話みたい。
「だからここは思い出の場所なんですけど、当時僕は親が知り合いのところに遊びに行くのについてきただけなので、この場所がどこかわからないんです」
「なるほど……。あれ、でも、そしたら奥さんに聞かれればわかるんじゃないですか?」
「それが、じつは今度妻と結婚式を挙げるんですけど、その時にこの場所から改めてメッセージを伝えたいんです」
 和田さんは照れたように頭をかく。その仕草にこちらまであてられてしまいそうになってしまう。とにかく、サプライズだから奥さんに聞くわけにはいかないということか。
「小学生時代に撮られたんですよね。奥さんの小学校を調べれば、大体の場所がわかりませんかね?」
「私もそう思って、彼女が家にいない隙に色々と調べてみたんですけど、出身の小学校がわかるようなものはなさそうで。彼女のご両親に聞いてみようとも思ったんですけど、彼女とご両親は本当に仲がよくて、彼女に対しては少し口が軽いところがあって……」
 なるほど。奥さんの友達なんかに聞けないのも同じ理由だろうか。何としてもサプライズを成功させたい、と。
 改めて写真を眺める。祭り中とあってか人が多く、そういった人の姿に遮られて、手がかりとなる様なものはほとんど写り込んでいない。
「他に何か覚えていることはありますか?」
「微かですけど、祭りの会場に行く前、団地のような場所にいった記憶があります。妻も東京出身なので、都内であることは間違いないと思うのですが……」
 都内に団地ってどれくらいあったっけ、と手元でスマホを操作すると、二桁で収まるか怪しそうだ。結婚式までに時間も限られそうだし、総当たりするわけにもいかないだろう。
 写真を吟味すればまた何かわかるかもしれないけど、今のわたしではこの辺りが限界だった。
「この写真、コピーをとらせていただいてもいいですか。それから……」
 せっかく香織先輩が頼ってくれたのだ。それに、和田さんの話を聞いているうちに、少し裏技を使ってでもこの場所を見つけてあげたい気持ちが強くなった。
「この写真、ちょっとネットの人たちに見せても大丈夫ですか?」
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