眩暈

Len

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「……それから、私は扉を開けました。薄暗く、長い廊下、シミだらけの白っぽい壁……。床板のいくつもの直線が、正面の扉へ向かって真っすぐに伸びています。それらはまるでレールのようで、私は自分が逃れる術のない道を、運命に従って進んでいくかのように感じました。祖母の部屋に手紙はなかったのだから、あるとすればその扉の先、かつて自分が暮らしていた部屋でしょう。今になって思えば、私はもうそのときから少しおかしくなっていたのかもしれません(おかしいというのは、弁護士さんやほかの人たちからすればの話であって、審判でそう証言したように、私は今でも自分がおかしくなっていたとは思っていません)。
 縁側の雨戸はすべて閉まっていたので、まだ夕方だというのに廊下は夜のように暗く、淡いオレンジ色がかった照明にぼんやりと照らされていました。ふと天井を見上げると、電球のシェードにこびりついた無数の黒い埃のかたまりが、明かりをよりいっそう頼りないものにしているのがわかりました。
 私は廊下を進み、床がまた不気味な音をたてて軋むのを聞きながら、幼い頃、夜中にこの廊下を通ってトイレへ行っていたときのことを思い出しました。怖くて怖くて、すぐにでも布団に戻りたかったけど、後には引けぬ思いで勇気をふり絞り、急ぎ足で廊下を進んでいった記憶です。そんなことを思い出したのが、その後の私の行動に影響を及ぼしたのかもしれません。事実、そのとき私は、怯えていました。手紙の内容を知ったとき、すべてがひっくり返ってしまうような、私が私でなくなってしまうような、そんな恐怖を漠然と抱いていたのです。きっと私は以前先生から指摘されたように、気分に流されやすい性質なのでしょう……」
 
 ……私は手紙をテーブルに置いて、眼鏡を外した。部屋のなかが少し暗くなってきている。目に疲れを感じたので、指で目頭をぎゅっと押さえつけてみる。それからぬるくなった茶をひと口すすり、再び眼鏡をかけて時計を見た。もう四時を回っている。近ごろは急に日が落ちるのが早くなった。また冬がやってくるのを想うと、うんざりしてしまう。
 私は明かりをつけ、以前なら買い物から帰ってきた妻が、どたばたと音をたてはじめる時間だな、と思った。
 彼女は買ってきたものを戸棚や冷蔵庫に押し込みながら、どこそこのスーパーでなにが特売されていたとか、今度は小麦粉が値上がりしたから、そのうちパンも高くなる、嫌になっちゃうわねとか、そんな話をするのが常だった。私が本や新聞を読んでいようが、なにか探し物をしていようが構わず話しかけてくるので、いつも生返事ばかりしていたものだ。妻が最初に入院したあと、真っ先に気づかされたのは、そんな会話でもいざなくなってみると、どれだけ家の中が空虚に感じられるかということだった。
 仏壇に置かれた妻の遺影を眺めながら、私は記憶について考えを巡らせる。その曖昧さ、恐ろしさについて。そのうち、部屋があまりにも静かすぎると感じはじめて、私はテレビのスイッチを入れた。リモコンの細かいくぼみに、よごれが目立ち始めている。妻がよくそうしていたように、私は少しのあいだ、綿棒でそれらのくぼみを拭ってやった。
 テレビの画面では、この時間帯の番組でおなじみの司会者が、派手なセットを背景にお決まりの表情を作ってなにやらコメントしている。どこか海外の動物園で、パンダの赤ちゃんが生まれたらしい。私はどうしてもこの男が好きになれない。
 チャンネルをあちこちに変えてみる。
 今日の株価、明日の天気、芸能人だか誰だかの結婚話。それから、つまらない政治家の些末なスキャンダル……。
 私はテレビを消した。
 そんなことはどうだっていい。彼がなぜ事件を起こしたのか、やはり私の責任が大きいのではないか、そして、記憶の糸が紡ぎだす悲劇について、私は改めて考えようとしている。だからこうしてまた、引き出しの奥にしまっていた彼からの手紙を、日付順に並べて読み返しているのだ。
 高校を中退したあと、彼がこの田舎町を出て東京へ行くと告げてきたときのことを、今でもよく覚えている。もう二年ちかく前のことだ。彼は「べつにそれになりたかったわけでもないけど」と前置きしてから、東京でアパート付きの工務店作業員の仕事をみつけたと伝えてきた。
 たった一年半だけだったが、東京での暮らしは彼にとって異様に長く、おそらくそれまでの人生を凝縮したような密度を備えていたのだろう。
 それは不安に満ちた到着から始まった。やがて彼にはお馴染みの孤独が訪れて、運命に抗うつもりが、結局は運命に導かれていたかのような帰郷に終わった。そして事件。
 彼は生まれ故郷であるこの町、かつて町の経済を支えていた林業が斜陽になってからというもの、まだわずかに稼働している集積場から木の香が漂うばかりで、長い冬のあいだは屋根まで積もる雪に閉ざされることもある、この町を出ていった。町の若者全員がそうするように。
 東京の高いビル群に囲まれて、彼は慄然としたこともあったはずだ。通り過ぎゆくおびただしい数の人の群れ、楽しげに会話をする恋人たちや、慌ただしく動き回るサラリーマンたちの姿を眺めながら、さざめく街の雑踏のなかで、突如として周囲の人たちがみな黒い影でしかなくなり、自分がたった独りきりでそこに立っているような、そんな感覚に襲われたこともあったに違いない。そして刹那、彼が愛読していたという本の言葉が、頭をよぎったことだろう。
「大きな街だろうが小さな街だろうが、どんな街も、この世界の縮図でしかないんだよ」
 そうして底冷えするほどの孤独を肌に感じ、故郷の寂れた駅前通りに想いを馳せるようになったのだろう。
 あの日も今日と同じく、乾いた風が冷たく吹きつける晩秋の日だった。駅前にそびえ立つカエデは葉がなくなりかけ、木枯らしが通りの隅で落ち葉をくるくると巻き上げていた。私は一時退院した友人の見舞いを終えて、日が暮れた駅のホームに降り立った。こんな時間に野焼きか、と思ったが、すぐにそう遠くないところで火事が起こっていることに気がついた。見ると商店街の先で、もうもうと黒煙が上がっている。私は煙のほうへ急いだ。野次馬をするつもりなどなかったが、現場にはすでに人が群がっていて、遠目からでも知った顔が多く見てとれた。
 私は言葉を失った。燃えているのが彼の実家だったからだ。消火活動は難航しているようで、町の消防団の小さなポンプ車では、火が隣家に燃え広がるのを防ぐのが精一杯に見えた。
 しばらく呆然としたまま、私はパチパチと音をたてながら闇を照らす炎を眺めていた。その炎の奥に、彼や、この家を建てた雄二の面影が浮かんできて、私の人生の重要な一部が、立ち昇る黒煙とともに失われてゆくのを感じずにはいられなかった。
「あら、校長先生」
 人だかりのなかから、近くに住む陽子さんの母親が声をかけてきた。定年した後もそう呼ばれることを普段は誇りに思うものだが、このときばかりは少し煩わしく感じられた。
 私の心境をよそに、母親は怪訝な顔を浮かべながら、まさに私が思っていた疑問を私にぶつけてきた。
「星川さんのお宅はもう長いこと空き家なのに、どうして火事になったのかしら……?」
 私が黙っていると、彼女は最初からそれが言いたかったのだというふうに「放火に違いないわ。でもこの辺りでそんなことをするひとなんて、いるはずないのに……」と言ってまた眉をひそめた。
 私はしかたなく口を開き、自然発火による火災も大いにあり得る、ましてやこれだけ空気が乾燥しているのだから……と言いつつ、いたたまれなくなって「失礼、ちょっと急いでおりますので」と言って足早にその場を離れた。
 消防団員の切羽詰まった叫び声を背後に聞きながら、私は彼女に陽子さんは元気にしていますか、たしか埼玉で美容師になって……などと訊ねるべきだったと思いながらも、やはり頭のなかを占めていたのは、彼がいまどこでなにをしているかということだった。ちょうどその数日前、長らく音信不通だった彼と連絡がとれるようになっていたので、私はすぐに彼に電話をした。この小さな町で彼の連絡先を知っている者など、私以外いないはずだから、私が伝えてやらねばならなかった。
 だが何度かけても、彼は電話にでなかった。
 実家が燃えていることなどつゆ知らず、いまごろ東京のどこかで疲れた体を横たえ、うたた寝でもしているのか……。私はそう考え、彼を不憫に思った。だが彼が中学生のとき、いまさら家に戻りたいとは思わない、祖母の負担にはなりたくないから、と言っていたことを思い出した。小学二年生から施設で暮らしていた彼にとって、実家はさほど思い入れのある場所ではないのかもしれない、ましてや初枝さんが介護施設に入所してからは、そこには誰も住んでいないのだから……とも思ったのを覚えている。
 しかしそのときにはもう、彼は東京で働いていなかった。東京に住んですらいなかった。わざわざ雪に閉ざされる冬を前にして、この片田舎に戻ってきていた。
 私はテーブルに並べられた、三通の手紙をまじまじと眺めた。
 手紙は右から日付順に並べてある。私は彼からの手紙を再読するにあたって、手っ取り早く事件当日のことが書かれたものから読みはじめた。だがそれはやはり拙速であっただろう。彼の東京での暮らし、そして別れを告げたはずの故郷に舞い戻ってきた経緯。それらをもう一度整理してみようと、私は日付を遡り、真ん中の手紙を読み直してみることにした。

「    拝啓
               
 このところようやく暖かくなってきました。先生はお変わりないでしょうか。
 前回の手紙に書いたとおり、とても一回ではまとめきれないので、続きを書かせて頂きます。
 東京駅に着いたときのことを、よく覚えています。人の多さ、ざわざわした音、埃となにかが混ざったような匂い。修学旅行で来たときと違って、いろんな方向へ歩いていく人たちの様子が、妙に冷たく感じられました。
 私は後ろの人たちに追い越されながら、八重洲中央口を目指して案内表示を探しました。工務店の社長と、そこで待ち合わせをしていたからです。
 私はさっそく迷いました。八重洲中央口と表示された階段が、どこにも見当たりません。重たいバッグを肩にかけ、新幹線の長いホームを端から端まで歩いているうちに、焦りを募らせたからか、私はだんだんと腹がたってきて、周りの人間全員が敵に見えるようになってきました。彼らの無関心な表情のひとつひとつが、ひどく憎たらしくて、片っ端からその顔に泥を投げつけてやりたいと感じるようになったのです。そんな感情を抱いたのは久しぶりだったので、なんだか懐かしい食べ物を口にしたときのような、そんな感覚を味わいました。
 私はずっと前から、いつか自分がこんなふうに、見知らぬ顔で埋め尽くされた人混みのなかを、行き場を失ったまま途方に暮れて歩くことがあるだろう……などと想像していたのですが、あの日まさにそのとおりになったのです。
 それはさておき、私は最後にはもう諦めて、当てずっぽうで近くの階段を降りていくことにしました。半ば投げやりになったのと、いくら東京駅が広いとはいえ、歩き続ければいつかは見つけることができるだろうとも思ったからです。
 階段を降りてすぐ、新幹線の改札口の上に、八重洲中央口の表示を見たときの安堵感は、一生忘れないでしょう。しかし同時に私は、いま自分がこの土地で頼りにできるものといえば、社長が教えてくれた電話番号と、その『八重洲中央口』という文字だけであることを悟り、なんとも情けない気持ちになりました。
 その後の東京での暮らしについては、弁護士さんや裁判所の方々にも、繰り返し話をさせられました。私は正直に、過不足のないよう語ったつもりです。つまり私は、仕事以外の時間を、基本的にずっとアパートの部屋で過ごしていたということです。東京の生活自体には、すぐ慣れました。東京といってもアパートは郊外に位置していましたが、それでも田舎にあって東京にないものなどありません。不便や不足を感じることはないのだから、私からすれば、逆はあっても田舎から東京に出て困ることなんてないはずだと思います。
 こういうとき、田舎には豊かな自然が……などというひともいますが、緑なら東京でも公園に行けばあります。たしかに故郷には、すぐ裏に大きな山だのきれいな川だのがあるものの、べつに私は毎日それらと戯れる生活をしていたわけでもないので、結局東京での暮らしはただひたすら便利になったというだけで、生まれ故郷から抜け出したかった私にとって、マイナスになることなど何もなかったのです。とはいえ、東京での私の行動範囲は、もっぱら近くのコンビニと最寄り駅の周辺、チェーンのカフェや古本屋、あとは図書館くらいで、知ったと言える場所はごく限られているのですが。こんなことを書いているのは、私が事件を起こしたのは、東京という土地に毒されたからなどといった理由ではない、と言いたいからです。
 金を貯めるのが目的になったのは、後からのことです。最初はべつにそんなつもりではありませんでした。なぜ誰とも交友関係を持たなかったのかと何度も聞かれましたが、あまり興味がなかったから、としか言いようがありません。職場の人たちは、いつも同じ話ばかりしていました。パチンコや競馬でいくら負けたとか、どこそこのキャバクラ嬢がキレイだとか、車やバイクの改造のこととか、そんな話です。不思議だったのは、ギャンブルで負けた額が大きければ大きいほど、彼らが得意げになることでした。特に、時おり日雇いのアルバイトに来る彼らの後輩だかが、日当を受け取った足ですぐにパチンコ屋へ行き、一日かけて稼いだ金をすべてスってしまったという話は、彼らが後日またアルバイトに来たとき、よく聞かされました。私にはまったく理解できなかったのですが、彼らにとってそれは一種の武勇伝のようで、嬉々として話をしていたのが印象に残っています。また、どこそこのキャバクラ嬢と寝たとかいう話もありましたが、大抵はなんだか嘘くさい内容ばかりで、それでも彼らはその話に真剣に聞き入り、決まって楽しそうに囃し立てるのでした。
 私は彼らとは違います。
 なにも自分のほうが崇高だとか、優れているとか、そういうつもりではありません。ある部分では、彼らのほうが私よりよっぽど優れていて、社会に適応していると言えるわけですし、羨ましいとさえ思う面もあります。彼らのようになにも考えずに生きていけたら、きっと幸せだろうと思いますから。
 彼らも私が職場に入った当初は、私に色々と構ってくれようとしていました。私が東北の田舎町から出てきたことを伝えると、「じゃあ俺が東京の遊びを教えてやるよ」などと言って、実際に飲みに連れていってくれたこともあります。彼らは基本的にいい人たちなのでしょう。私も最初のうちはなんとか調子を合わせていたのですが、やがて先に書いたとおりの、同じ話の繰り返しに飽き飽きしてしまい、徐々に距離を置くようになりました。そうするうちに、彼らも私に絡んでこなくなって、最後のほうは私を疎ましがっているだけでなく、憎んでさえいるように見えました。心配した社長が私を外食に連れ出して、ホームシックにかかっているのかなどと聞いてきましたが、あまりにも的外れなことばかり言ってくるので、適当にその場をやり過ごしました。
 一年半経って会社を辞めるとき、私は先輩たちにはなにも告げず、彼らのほうもまた、それに触れようとはしてこないままでした。アパートを出るときも私は一人きりで、誰の見送りもなかったのです。従って弁護士さんが言っていたように、私が彼らから悪い影響を受けたとか、そのようなことは一切ありません。彼らはいわゆる不良のようでしたが、事件を起こすような人たちではなかったので。また、私は彼らを恨んでもいません。私が彼らとうまくいかなかったのは、私が彼らと仲良くなろうとしなかったからで、当然の成り行きでしょう。それは学校や施設でも同じでした。周りの人たちは皆、やがて私から離れていきました」
 
 彼が私の小学校に来たときの光景を思い出す。そしてあのおんぼろのランドセルのことも。
 彼は小さいときからいつも鬱屈としていて、容易にひとを寄せつけない雰囲気を持っていた。例年よりもかなり早く桜が開花した年の四月、彼はひときわ小さな体にランドセルを背負って、入学式にやって来た。まるで幼稚園児が迷い込んできたかのように幼く見えたが、彼はそのときからすでにうつむきがちで、体育館の椅子に座っているあいだずっと、いまにも爆発しそうななにかを懸命に抑え込んでいるかのようにしていた。
 私にはわかっていた、彼が終始そんな様子だったのは、式に彼の母親がいないからだけでなく、おんぼろの黒いランドセルのせいもあったことを。知り合いの家から譲ってもらったというそのランドセルは、ところどころ色が剥げ落ちて茶色い下地が浮きあがっており、また、ランドセル特有のボリューム感も失われていて、ぴかぴかの新品を背負う子どもたちのなかで、明らかに異質だった。
 長く小学校の校長を務めた身として思うに、子どもにランドセルを買ってやらないということほど、残酷なものなどない。小学校の入学式といえば、子どもにとってはその日をずっと待ち詫びていた、短いながらもそれまでの人生最大の晴れ舞台なのだ。何度も家のなかで予行練習のように背負ってきた光り輝くランドセルを、ついに公然と背負って表を歩き、期待に胸を膨らませて意気揚々と自分の新たなステージへと向かっていく。式のあいだは、落ち着きなくきょろきょろと周りの同級生を見回して、彼らみんなと友達になれるだろうか、などと想像する。そしてふと、見知らぬ顔の多さに不安を感じたときは、後ろに居並ぶ父兄のなかから自分の母親を見つけ出し、小さく目くばせして、また行儀よく前を向く。子どもにとって小学校の入学式とは、そのようにあるべきものなのだ。
 彼はあの日のことを、どの程度覚えているだろうか。屈折した想いを抱え、私が壇上で話をしているあいだもずっと下を向いていた日のことを。ランドセルに関しては、彼の手紙のなかにも、短くだが触れられている。やはりそれも、忘れてしまったほうがいい記憶の一つだったのだろう。
 私はいつの間にか組んでいた腕をほどいて、手紙を読み進めた。

「アパートを出てネットカフェを転々としているあいだ、色々なことを考えました。もちろん、手持ちの金は減っていくいっぽうだったので、就職のことも考えてはいました。ただそれ以上に私が考えなければならなかったのは、なぜこうなってしまったのか、ということでした。
 自業自得とはいえ、ネットカフェでの生活は心を荒ませます。一日じゅう誰とも話をしないどころか、声を出すことすらないので、自分がどんな声をしていたか、一瞬わからなくなったこともあるくらいです。左右の薄い壁を通して聞こえてくる、他の客の咳やごそごそした物音を耳にしながら、私はずっとそれまでの人生を振り返っていました。いま思えば、あんな状況になってようやく、私は自分自身に対して、自分の人生に対して、真剣に向き合ってみたといえます。それまで自分がいかにいい加減に生きていたか、身に染みるようでした。
 私はべつに、働くのが嫌なわけではありません。ただ工務店の人たちとうまくやれなかったように、結局自分が周囲に馴染めないのが様々の原因だと思うようになりました。そしてそれについてまた、なぜなのだろう、と考えを巡らせていったのです。
 ずっと否定し続けていたものの、私はどうしてもそれが、自分が施設育ちであることと無関係ではないと認めざるを得ませんでした。それを言い訳にしたくなかったから、いつも否定していたのですが、私が施設で育ったのは紛れもない事実だし、施設と一般の家庭が全然違うのもまた事実でしょう。『あいつは施設の子だから』と嘲る同級生たちの薄笑いが、目に焼き付いています。些細なことで教師から叱られたとき、美術の時間に描いた絵が下手くそだったとき、後ろのほうからそんな声が聞こえたこともありました。私よりもずっと出来の悪いだっていたのに。また、もっと小さい頃でしたが、公園で友達と一緒に遊んでいたとき、その子の母親が『おやつがあるからもう帰ろう』と言ってその子を招き寄せ、『施設の子と遊んじゃだめよ』と耳打ちしていた声が頭から離れません。結局私はある意味、彼らが指し示し、ある種の期待をしたとおりの人間になったというわけです。
 しかし、それは抗えないものでしょうか? 
 他人から押された烙印のとおりにしか、人間は生きられないものでしょうか? 私は先に書いたとおり、あるときからずっと、自分が施設の人間であることを意識しないようにしていました。自分の負の部分を意識したところで、いいことなんてなにもないので。でも私はそうして周囲の視線から目を背けることで、却って自分が何者であるかを認識し、受け入れるのも避けていたように思います。周りの目に侵されないよう、自分の存在を消すように努めていた時期もあったくらいです。そしてそう思ったとき、私はまるで追い詰められたネズミがどんどん隅のほうへ、最後には小さな穴の中へと逃げ込むようにして、自分は生きてきたのだと気づかされました。『敵を知り己を知れば百戦殆うからず』といいますが、私は敵のことも、己のことも知ろうとしないままだったということです。もしかしたら、私がそういう人間なのは、先生や周りの目からは明らかだったかもしれませんが、それは私にとって大きな発見でした。
 私は自分自身について、とことん整理しなければならないと感じるようになりました。そしてそのためには、母が蒸発した理由について、また、できるなら父親のことについても、きちんと知っておく必要があると思いました。施設に入所せざるを得なかったことを含め、それが私の過去の根幹をなすものだからです。私は後悔しました、どうして祖母が認知症になる前に、知っていることをすべて話して欲しい、もう誤魔化されるのはうんざりだと、泣き叫びながらでも問い詰めようとしなかったのかと。もっとも、先生もご存知のとおり、頑固な性分の祖母のことですから、私がなにを言ってもすべてを打ち明けてくれたとは思えません。それを含めて、私は以前から自分や様々なことに対して、諦めに似た気持ちを抱いていたのでしょう」

 ――諦め。
 彼が中学生だった頃、施設へ面会に行ったときのことを覚えている。彼は職員を通して「具合が悪いから」と言って面会を謝絶してきた。その前、最後に面会した際、進路や将来について曖昧な返事しかしない彼に対し、次会うときにまた話しましょう、それまでに色々と考えておくように、と言い残しておいてから、何度かそんなことが続いていた。私はしかたなく「せっかく先生がいらしたんだから、ちょっとくらい顔を出せと言ったんですがねえ」と決まり悪そうにする職員と、昨今の児童福祉政策の変化について食堂で話をしていた。そのうちに、彼がひょっこりと姿を現して、無言のまま私の斜め前に座るなり「先生、もういいんです」と言ってきた。
「なにがもういいのですか?」
 挨拶もないことは敢えて咎めず、私がそう訊ねると、彼は「先生も、ここまで来るのはもう大変でしょう」と達観した笑みを浮かべ、「もういいんです」と繰り返した。
 施設へと続く坂道が年々辛くなっていたのは事実だったので、それまで月に一度、少なくとも二カ月に一度は彼のもとを訪れるようにしていた私も、以降は面会を三・四カ月に一度程度に控えるようにした。私は彼になにかを教えようとしていたわけでも、ましてや親代わりになろうとしていたわけでもなく、ただあなたを心配している大人がいる、という姿勢を示すために訪問していたので、彼が望まないのであれば、そのくらいの頻度で十分なのだろうと思ったからだ。
 その後、彼は県内で最低レベルの高校に入ったが、私の訪問を拒絶することはなくなった。器物損壊とバイクの窃盗容疑で、仲間とともに補導されたこともあったが、幸い彼は犯行に関わっていなかったとして、不処分に終わった。以降も悪い連中と付き合っているという噂を度々耳にしたものの、特段素行不良というべきものは見られなかった。そのころ彼とどんな話をしていたか、思い出せるほどのものはない。補導されたときも、澄ました顔で自分は無関係だと主張し、淡々と「でもまあ、反省してます」と語るだけだった。彼は大人びてきた顔に諦念とも、見せかけの余裕ともつかぬ落ち着きをまとわせるようになり、相変わらず多くを語らず、背景のなかに漂うように座っていた。手紙にあった彼の言葉を借りれば、それは話すほどのことなど特になく、母親が家を出て行ってからは、実際のところなにごともさほど重要ではなくなっていたと気づいてしまったから、ということなのだろう。そしてそう気づいてからというもの、きっとなにも変わらなかったのだろう、たとえ周りの同級生の面々が、通う学校の場所が、自分の身体が変わっていったとしても。
 だから彼が東京に行くと告げてきたとき、私は彼の生活が早々に行き詰り、またここへ戻ってくることになるのではないかと危惧した。それでも微力ながら彼を支えようと、ときどき彼に電話をして、励ましの声をかけてやるつもりだった。しかし彼が東京へ発った半月後、私が最初に電話をしたときには、もうすでに彼は電話番号を変えていた。私はひどく落胆したとともに、都会の人混みに埋もれていく彼の姿を思い浮かべ、このまま一生彼と連絡がとれなくなるのではないか、とまで覚悟した。
 再び彼と連絡がとれるようになるのは、この手紙に書かれている頃だ。

「あるとき、カフェの狭苦しい空間に閉じ籠っているのが嫌になったので、街をぶらぶら歩くことにしました。人混みを避けたくて、駅とは逆方向へ進んでいくうちに、遠くのほうに多摩川にかかる大きな橋を見つけ、そのふもとに腰を下ろせる場所があるだろうと思い、橋を目指して歩きました。肌寒い日で、淀んだ雲が橋の向こうまで空一面に重くのしかかっており、まるで自分の心の中の世界に迷い込んだような感覚でした。
 途中、近道のつもりでなんとなく脇道へ入っていくと、大昔からそこにあるらしい小さな商店街に通りかかりました。商店街といっても、とても短く、アーケードでもないただの通りで、私以外に通行人は誰もいませんでした。私はその商店街を見て、なんだか懐かしい気分になったのです。一番手前には「○○金物店」と太い字で書かれた店があって、大きさの違うたくさんの鍋が店先のワゴンに積まれており、その近くで店の奥さんらしい人が箒で道を掃いていました。奥さんはちらと私のほうを見ると、すぐに無関心な様子で顔をそむけ、またせっせと腕を動かしはじめました。
 その店の前を通り過ぎて、私は改めて商店街を見渡しました。
 セピアに色褪せたいくつのも看板、開け放たれた古くさい格子状のガラス戸、誰もいない軒先、それらの連なりと静かな夕べ……。
 突然、私は稲妻に打たれたかのように、強烈な既視感に襲われたのです。
 それは恐ろしいほどの現実感を伴った、かつて自分はこの場所に立ったことがある、という感覚でした。細部をいえば全く違うのに、まるで故郷の駅前商店街にいるような錯覚に陥ったのです。
 そのとき私は、絶望的な感情に包まれました。故郷から逃れるために遠い地までやって来たのに、結局その景色が私を追いかけてきて、また振り出しに戻されてしまう。いつまで経っても、どこまで行っても、同じ景色、同じ人たちが、繰り返し私の前に立ち現れる……。そんなふうに思い、なんだかめまいがしてきました。そしてどうしてかわかりませんが、ほんとうに久しぶりに、母親の腕に抱かれたい、故郷に漂う湿った木の匂いが恋しいと、強く感じたのです。
 過去の様々な記憶が、切々と迫りながら鮮やかに蘇ってくる……。私は自分に決着をつけるため、故郷に戻る決断をしました。先生や祖母、施設の職員と話をしたり、実家や通っていた学校などを見て回ったりすることで、過去を清算できると考えたのです。すぐにでも新幹線に飛び乗りたい気持ちでしたが、それを抑えて、まずは盛岡の近くで住み込みのアルバイトを探し、面接のアポをとってからチケットを予約しました。先生に電話をしたのはその後です。
 まとめるほどの荷物もなかったので、東京を発つ準備はあっという間に整い、そのあまりの早さに自分でも笑ってしまうくらいでした。翌日、私はなんの未練もなく、八重洲中央口から新幹線のホームへ登っていったのです。
 東京での出来事や、そこでの私の変化については、大体こんな感じです。都会の喧騒は過ぎ去り、私は一年半ぶりに故郷の地を踏みました。逃げ出してきた場所に、結局、時間を遡るようにして戻ったのです。
『記憶なんていうのはいい加減なものだから、そんなものに囚われてはいけない』という先生の言葉が、いまになって痛々しいほど強く思い出されます。
 ……また長くなってしまったので、続きは次の手紙に書かせて頂きます。
 正直、手紙を書くのに慣れておらず、考えをまとめるだけでも時間がかかり、様々な想いが交錯している状況です。でも書く勇気が私には必要だと思うので、なんとか頑張ってみようと思います。先生におかれましては、お体に十分お気をつけながら次の手紙をお待ち下さいますよう、お願い申し上げます。

                                  敬具

                                       五月八日  星川栄作  」

 彼は裁判官から出されたこの課題、事件に至るまでの人生を振り返り、手紙にまとめて私に送るという課題に対し、しっかりと取り組んでいた。書く勇気とはよくいったもので、私は彼が手紙を数回に分けて、しかもこれだけ真剣な文章を書くとは、思っていなかった。
 私は自分のしたことが正しかったのか、いまでもわからずにいる。今日、無事に保護観察を終えた彼を迎えるにあたって、彼との長い、不思議な縁を思い起こさずにはいられない。そしていくつかの不幸な出来事についても。
 それは彼が生まれるずっと前、私と雄二、それから初枝さんとの幼馴染の縁から始まっている。私が彼を見放せないのは、彼との縁が私の生涯を貫くものだからだろう。雄二のことは、ほんとうに残念でならない。あんな男ではなかったのだ。ガキ大将で、その頃からやや粗野なところもあったが、いじめられることが少なくなかった私を、いつもかばってくれる優しい男だった。
 初枝さんが私ではなく、そんな雄二を選んだのは当然だった。彼女は私に親しく接してくれたが、私は自分が彼女に恋心を抱いていると気づいたときから、彼女とまともに話すことすらできなくなっていたから。だがそれにしても、雄二が職を失って酒に溺れてしまい、彼らの一人娘である美恵子さんにあんな不幸が起こってしまったのは、いったいなんの因果なのだろうか。不幸は彼女が高校から帰宅する途中に起こった。娘が県外の全寮制の高校へ通うのを雄二が反対してなければ、起こらなかったものだろう。雄二は元来、度量の広い男だった。彼が反対したのは、娘が酒に溺れる自分を見捨てようとしていると、被害的な感情を抱いたからに違いない。私は何度も、初枝さんの結婚相手が雄二ではなく、私だったらと想像してみたことがある。それは彼女への未練や、妻に対する不満からではなく、美恵子さんと、美恵子さんから産まれた彼への同情からだ。彼が産まれる前の、父と娘、母と娘、それに夫婦間の、それぞれの相克……。私は彼らの諍いとは距離を保ちつつ、時おり彼らの家を訪ねては、美恵子さんを労わり、産まれたばかりの彼を祖父母に代わって可愛がるよう努めていた。それは正しいことだったと思う。
 その後雄二が癌で亡くなり、女と子どもしかいなくなったあの小さな家で、様々な苦労があったのは想像に難くない。彼女たちはこの田舎町で恰好の好奇心の的となり、色々な噂がされるようなっていた。「どうせわたしが全部悪いんでしょ!」という美恵子さんの金切り声が聞こえてきたとの話を耳にしたこともある。雄二がいなくなって口実を失った私は、それまでのようには足しげく彼の家へ通えなくなった。美恵子さんと彼のことをずっと気にかけていたが、娘が家を出て行ったと初枝さんから連絡を受けたときは、恐れていた以上のことが起きてしまったと忸怩たる思いをした。
 そしてしばらく経った後、娘から受け取ったという手紙を初枝さんから見せられたとき、私は再び大きな衝撃を受けた。告白と言えるその手紙の内容ももちろんだが、孫が就職したのち、望むのであれば、この手紙を読ませるつもりだという初枝さんの言葉に驚かされた。私はやめるよう強く主張した。妻は、その頃になったらまた考えてみるのはどうでしょう、と遠慮気味に言っていたものの、本心ではやはり反対していた。だが初枝さんは、あの子には知る権利があり、進んでそれを伝えることはしないものの、こういう手紙がある以上、誰もその権利を奪うことなどできない、と言い張った。静かな物言いのなかに、激情というべき力強さが込められていた。
 私は思わず「気は確かなのか、初枝さん、あなたもおかしくなっているとしか思えない!」と叫んだ。
 無理からぬことだが、あの頃あの家族は、母娘ともにノイローゼ状態にあっただろう。母娘の絆がとうに断絶された家のなかには、諍いと冷たい沈黙とがあるばかりだっただろう。
 私は彼が手紙を読んだときに受ける衝撃を想像し、眠れなくなる夜もあった。しかし近年の流行は、初枝さんの意見のほうへ傾いてきている。私には理解できぬ面が多々あり、それがいまも私を悩ませ続けている。やはり初枝さんの方針どおり、彼に伝えたのは正しかったのだろうか。
 やがて彼が私の学校の生徒になったので、私はまた時おり彼の家を訪ねるようになった。陰に日向に、家に残された初枝さんと、彼との関わりを保ち続けた。
 だからあの日、音信不通になっていた彼から電話がかかってきたとき、私は気づくべきだったのだ。いや、気づくのは不可能だったとしても、せめてもっと注意深くなるべきだった。仮に手紙のことを伝えたのは、間違いではなかったとしても。
 いずれにせよ、私は彼があんなにも早く帰ってくるとは思っていなかったし、彼もそんなことは言っていなかった。もちろん事件のことなど想像すらしていなかった。帰ってきたのであれば、その前に私と話をしてくれればよかったのだ。
 私は心が逸ってくるのを感じ、さらに時間を遡って、一番右に置かれた最初の手紙を手に取った。

「 拝啓

 まだ寒い日が続いていますが、先生はいかがお過ごしでしょうか。
 ご存知のとおり、事件までの人生を振り返り、先生に手紙を送るよう課題を与えられましたので、これを書いています。
 先生にはまず、身元引受人になって頂いたことについて、改めてお礼申し上げます。もしかしたら断られてしまうのでは、と危惧しておりましたので、先生に来て頂けるとわかったときは、心の底から救われた気がしました。
 私のほうは、あれからも変わらずやっております。アルバイトも変わってないですし、休むことなく続けています。保護観察中はとにかく注意深く、おとなしくして過ごすようにと再三弁護士さんから念押しされていますが、私の場合は特に注意などしなくても、普段どおりにしていれば、素行が悪いなどと見られることもないと思っています。昔の友人たちとは、東京に出る前から一切連絡をとってないですし。
 あれからまた、事件やそれまでの人生を何度も振り返っています。やはり様々なことがあって、些細な出来事を含め、それらすべてが私という人間に影響を及ぼしたと痛感させられます。先生にこんなことを言うは心苦しいのですが、たとえば私は昔から教師というものに対して不信感を抱いており、それが大人全般への不信感にも結びついていたと考えます。小学校では、担任の教師がプリントを配る際、よく『これは大事なプリントだから、みんなちゃんとお母さんに見せるように』などと言っていました。担任は私が施設で暮らしていて、母親がいないことを知っているはずだったのですが。もちろん、ほとんどの生徒は家に母親がいるわけで、そういう言い方になるのもしかたないと当時から理解していましたが、それでも私は、そのたびに嫌な思いをしてきました。
 施設での生活を経て思うのは、やはり子どもには大人の助けが必要だということです。親はいうに及ばず、教師でも知り合いの大人でも、その人たちから“力を借りる力”次第で、人生は大きく変わるのだと思います。
 先生はまだ母が家にいた頃から、ときどき私の家に来てくれていましたね。当時は先生のことを『おじさん』と呼んでいましたが、私はもう少し大きくなるまで、先生をほんとうに親戚の叔父さんだと思っていました。懐かしい思い出です。
 母が家を出た日のことを思い出すと、今でも胸が痛くなります。祖母は慌てた様子であちこちに電話をかけていました。『そのうち帰ってくるから、心配しなくていい』などと言われましたが、私はそのときから、二度と戻ってこない気がしていました。祖母と言い争い、母が泣くのを何度も目にしていたからでしょう。 
 母を失った喪失感は、言葉では表せません。母はふさぎこむことが多かったものの、私には常にやさしくしてくれていましたから。突然母親がいなくなって、私はわけがわからず、ただ途方に暮れるだけでした。運命というのは、ときに自分が統制できる範囲を超えて、大きく変わってしまうものだと思います。
 しかし改めて事件のことに焦点を当ててみると、やはり先生に関する記憶も重要な位置を占めていることに気づかされます。たとえば事件の直前にも思い出した、校長室でのやりとりがそうです。その日先生は私を校長室に呼び出して、祖母が階段で転んで入院したこと、従って祖母はしばらく家に帰れないだけでなく、帰ってからも私の世話をするのが難しくなったことを説明しました。そして祖母と話し合った結果、私は施設に入ることになったと伝えてきました。
 まだ二年生だった私には、先生の話す内容がよく理解できていませんでした。特に施設についてはまったくイメージが湧かなかったので、監獄みたいなところへ連れていかれるのだと、ひどく怖い思いをしました。そのあと先生と奥さんが私の家まで来て、祖母から預かったメモを頼りに、着替えなど荷造りをして私を施設まで送り届けてくれましたね。
 その日のことがまるで昨日のことのように思い出されます。なかでも強く印象に残っているのは、初めて施設の敷居を跨いだときの緊張以上に、私を呼び出したときの、校長室での先生の姿です。先生は窓から差し込む夕日を背に受けて、大きな黒い影となって私に語りかけていました。あとになってから少しずつ理解したところでは、黒い影の先生は私に施設行きを告げたあと、あなたは大変な困難に直面しているが、それでも世のなかにはもっと不幸なひとが大勢いて、自分が一番不幸だなどと思ってはいけない、嫌な思い出に囚われることなく、前向きに生きていくのだといったことを話されていました。そして最後に、声に威厳を込めて、こう言われました。
『みんな、そうしているんですよ』
 そのときはなんのことかよくわかりませんでしたが、当時から自分は他の人たちとどこか違う、と不思議に思っていた私にとって、そのひとことは『みんなと同じでなければならない』という、ある種強迫めいた言葉として、自分の永遠のテーマを突き付けられたような、そんな重い響きを持つようになったのです」

 私はため息をついた。この手紙を最初に読んだときもそうだったが、ひとの記憶の恐ろしさというものを改めて思い知らされる。私がその日話した内容に、大きな間違いはないと思う。しかし校長室の窓はソファの側面に位置していたので、私が背後から日差しを浴びることも、ましてやそれで黒い影となることもないはずなのだ。なぜ彼がそのように記憶しているのかはわからない。だがそうしてひどく不気味な、強すぎる印象となって歪められた彼の記憶が、最終的に事件の引き金となった可能性も否定できない。
 記憶というのはまるで生き物のように、ひとの奥深くでいつまでもひっそりと生息し、時間とともに姿形を変えながら、裏から組織を動かす黒幕のごとく、そのひとの人格や行動にまで作用するのをやめようとしない。
 あのとき彼は、何と言っていただろうか。
 私は彼に対して、記憶に囚われてはいけない、それは常に自分の都合のいいように書き換えられ、ときには創造すらされるものだと説いた。彼が思春期を迎えるにあたって、自らの境遇に思い悩み、思春期特有の病にかかるのを予防する意図を込めて、偽りの記憶の話をしたときのことだ。
「いいえ、知りません。どんな話ですか、それ?」
「海外の大学で行われた実験の話です。実験者は学生から被験者を募り、彼らの了承を得たうえで、あらかじめ実家のひとから彼らが幼かった頃の出来事をインタビューしておきました。そのあとで被験者と面談し、実家から聞いた話としていくつかの出来事を挙げ、『あなたは覚えていますか?』と訊ねたのです。そのなかには実際にあったものに加え、実験者側がでっちあげた架空の出来事も含まれていました。たとえば小さい頃、デパートや遊園地で迷子になったといった話です。学生たちは実話については『覚えています』と答え、嘘のものは当然、『いいえ、覚えていません。そんなことはなかったはずです』と答えました。しかし実験者が『これはあなたのご実家から聞いた話です。二週間後に再度面談するので、そのときまでによく思い出しておいてください』と伝えると、果たして次の面談で何人かの学生が『あの件ですが、思い出しました』と答えたのです」
 彼は話にあまり興味を示していなかったが、私は構わず続けた。
「二回、三回と面談を重ねるうちに、架空の出来事を思い出したと申告する被験者が増えていきました。つまり人間の記憶というのは、それだけ不確かで、外部からの影響などによって操作すらされ得るということです。また、『ストロベリーアイスを食べたあと、体調を崩した』という嘘の記憶を信じた学生たちは、その後ストロベリーアイスを避けるようになったそうで、これは誤認された記憶が、そのひとの行動にまで影響を及ぼすことを示しています。人間の記憶なんて、そんなものなのです。だから我々は、記憶に縛られることなく、未来を見つめていかなければならないのです。前向きに生きるというのは、つまりそういうことでしょう」
 話を聞いた彼がどんな感想を述べたか、やはり思い出せない。おそらくそのほかの話と同様、大した反応も示さなかったのだろう。少なくとも、わかりやすく感嘆の声をあげるようなことはなかった。しかし事件を起こすにあたって、彼はある意味私のこの言いつけを、私の意図や想像を超えた極限まで守ろうとしたとも言える。私としては、いずれ彼が成熟し、自らの過去をしっかりと受け止められるようになるまでのあいだ、彼の目を現在や未来に集中させるために伝えた話だったのだが。私は確かに彼の人格に、そしてあの事件に、大きく関与しているのだろう。
 彼が故郷に戻る決断をしたというあの日、久しぶりに家の電話が鳴り、ディスプレイに知らない番号が表示されているのを見た。私は電話にでるべきか悩んだが、職業柄、稀に旧知の学校関係者が突然電話をしてくることもあるので、「もしもし?」とこちらの警戒心が伝わるようにして受話器をあげた。
「もしもし?」
 相手がなにも言わないので、私は繰り返さなければならなかった。いまどき無言電話かと思って受話器を置こうとすると、「……先生、ご無沙汰してます。栄作です」と消え入りそうな声が聞こえてきた。
「栄作くんか!」私は思わず大声を出した。
 今となれば、事件の日にちや彼の手紙の日付から、正確には一年半経っていたとわかるのだが、当時はもっと長いあいだ音信不通になっている気がしていた。
 あなたが東京へ出たあとすぐに電話をした、番号を変えたのならなぜ伝えてくれなかったのか、心配していたのだと私がまくしたてると、彼はかすれた声で「すみません、お伝えしようと思っていたのですが。いろいろとありまして……」と言い、ところでお尋ねしたいことがあってお電話しました、と用件を切りだそうとしてきた。
 私はそれを遮り、まずは近況について彼に話をさせようと思ったが、彼が「母についてなんですが」と言ってきたので、つい黙ってしまった。
 なかなかその先を言おうとしない彼のため、私は努めて冷静に「お母さんのことで、どうしましたか?」と訊ねた。
「じつは……母のことをもっと知りたいと思いまして……。先生ならなにか、祖母から話を聞いていたりするかもしれないと思ったんです」
 私は心中穏やかではなかったが、引き続き落ち着いた調子で問い返した。
「お母さんのことというのは、つまりどういうことでしょう?」
「一番知りたいのは、母が失踪した理由です。祖母はずっと、なにもわからない、突然いなくなったと繰り返していましたが、なにか隠しているようにしか見えませんでした。僕はいま、本当のことをどうしても知らなきゃならないんです。それでどんなにショックを受けようとも……」
「栄作くん、その話なら以前もしたとおり……」  
 そこまで言ってから、私は息を止めた。
 彼が施設に入ってしばらく経ったころ、妻の体に癌が見つかり、市の病院で手術を受けた彼女の見舞いに週末の時間を奪われて、彼との面談が久しぶりだったときのことだ。話を終え、帰ろうとする私を引き留めるかのようにして、彼は小さな肩をすぼめながら言ったことがある。
「先生、お母さんはどうして出ていっちゃったのかな? やっぱりぼくのせいかな?」
 私は返事に窮した。安易な誤魔化しはすべきでないし、かといって真実を話すなどもってのほかだ。私は軽く咳払いをしてから、「さあ、どうしてでしょうか……。残念ながら、私にはわかりません。でも栄作くん、あなたのせいじゃないと思いますよ。さあ、わからないことを考えるより、明日の給食でレバーを残さず食べられるように頑張りましょう。そういう小さな積み重ねが大事です」と言ってその場を取り繕った。
 ……そのときと同じく「私にはわかりません」と応じようとしたのだが、それを待ちきれずに発せられた彼の言葉を聞いて、事態は思っていた以上に切迫していることを悟らされた。
「じつは、母を探そうと思ってます」
 額からいやな汗がにじみ出てくるのを感じた。しかし少し考えてみれば、彼の言葉は子どもじみた願望としか思えないものだったので、「探すといっても、どうやって探すつもりですか」と私は言った。
 だが彼はもう、単なる子どもではなかった。
「探偵を雇ってもいいと思ってます。貯めたお金がありますから。それに……」
「それに?」
「母親に会いたいと思うのは、当たり前のことですよね」
 心を鎮めようと、私は努力した。そして思った、もし手紙のことを伝える必要があるのだとしたら、今がそのときではないか。あの日の面談以降、母親の話をすることもなくなり、どちらかといえば過去に恬淡としすぎているようになっていた彼が、これほど強く過去に向き合おうとしている。鉄は熱いうちに打たなければならない。特に彼のケースでは。しかし、ほんとうに私が伝えていいものだろうか? 初枝さんが認知症になり、妻も帰らぬ人となったいま、手紙のことを伝えられるのは私しかいない。彼の実家だって、初枝さんの症状次第では、いつ取り壊しになってもおかしくないのだ。いま伝えなければならない、それが私の責務ではないか……。
 私はなおも迷いを拭い切れなかったが、半ば勢いに任せて言った。
「栄作くん、よく聞いて下さい。初枝さんが以前言っていたのですが、あなたのお母さんは家を出てから一度だけ、初枝さんと会っていたのです。そしてそのとき、お母さんはあなたに宛てた手紙を初枝さんに託したそうです。初枝さんは……あなたが就職し、社会人になったら、その手紙をあなたに見せるつもりだと言っていました。ただ初枝さんはもう……認知症になってしまわれたので、私が代わってそれを伝えさせて頂きます」
「手紙……ですか」
 彼の声がぱっと明るくなった。しかしそれは、余計に私の気持ちを重くした。
「その手紙はどこにあるんですか?」
「いえ……そこまではわかりません。初枝さんはそのときまで大切に保管しておく、としか言っていませんでしたから。実のところ、今もどこかに保管されているかさえ不確かなのですが……」
「そうですか、わかりました。大丈夫です。探してみます」
 そのまま電話を切りそうな勢いで彼は言ってから、慌てて付け足すように言葉を続けた。
「先生、ありがとうございました。また会いに伺います。僕は元気でやってるんで、先生もお体にはお気をつけて」
 受話器を置いてからもしばらくのあいだ、私は心を曇らせたままだった。彼が最後に「それでは、失礼します」と言って電話を切ったことに対し、その程度でも彼の口から社会人らしい言葉が聞けて、意外とも嬉しいとも感じたのだが、そんなことはなんの慰めにもならなかった。ほんとうに伝えてよかったのだろうか、私にそんな権利などあったのだろうかと思い悩み、初枝さんの顔を、それから妻の顔を思い浮かべて、どうか教えて欲しいと願った。いっそ手紙が見つからなければいい、とも思ったが、彼が事件を起こしたと知ったとき、私は瞬時に確信した。手紙は存在し、彼はそれを読んだのだと。あのときに感じたいたたまれなさは、いまでも私の心にこびり付いたまま、思い出すたびに口のなかを苦くさせる。
 そうして私の知らぬ間に、彼はこの町に戻ってきた。そして事件を起こした。駅前に漂う木の香を嗅いで、その先に続くうらぶれた商店街を通って、彼はいったいなにを感じ、なにを想っただろうか。警察署から、彼が身元引受人として私を指名しているとの連絡を受け、私は初めて彼が帰ってきていて、あろうことか事件を起こし、補導されたことを知った。
 彼は私の元生徒です、すぐに伺います、と相手に伝え、私は急いで出掛ける支度をしながら、きっと彼は私を憎んでいるだろうな、と思った。あれだけ重要な手紙の存在を隠していたこと、そしてそれを教えたことの両方について。だから彼が私を身元引受人に指名したのは、正直意外だった。だが考えてみれば、おそらく彼に選択の余地などなかったのだろう。私は警察署へ行く道すがら、彼に何と声をかけるべきか思案に暮れ、結局何も浮かばないまま、署に着いてしまった。
 警官に連れ添われて現れた彼は、髪が明るい茶色から黒に戻っていて、最後に会ったときよりもずいぶん長く伸びており、鼻頭にまで届きそうな前髪を垂らしながらうつむいていた。そしてあの鬱屈とした表情だけは変わらぬまま、ぼそりと「先生、すみません」と言い、私に対して攻撃的な様子を見せないどころか、心の底から申し訳ないと思っているように見えた。
「ひとの記憶なんてあてにならないのだから、そんなものに縛られてはいけません」
 うなだれる彼を見て、彼にそう伝えたときの光景が蘇ってきたが、私の口からは自然と、それとはまったく違う言葉が発せられた。
「帰りましょう。なにか食べたいものはありますか?」
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