2 / 2
Ⅱ
Ⅱ
しおりを挟む
五時を告げるアラームが鳴って、我にかえった。毎日のこととはいえ、いつもこの音には驚かされる。私は荒っぽくアラームを止めると、立ち上がって上着を羽織り、下駄箱からリードを取り出した。
「あなた、ソラを散歩に連れていく時間ですよ」
いつも私にそう教えてくれていた妻の声が、また思い出された。彼女はいつも同じ、穏やかな調子でそう声をかけてくれた。いまはその役目を、電子時計のアラーム音が担っている。
しばらく前から、散歩の時間を忘れてしまうことが多くなっていた。ぼんやりともの想いに耽ることが増えているからだろう。このところは頻繁に教員時代の苦労を思い起こす。若いうちはよかった。気力、体力とも子どもたちに負けていなかったし、青くさい情熱に燃えてもいた。だが中年に差し掛かった頃、急に子どもたちのことがわからなくなった時期があった。現代っ子と呼ばれた世代、彼らの考え方や情緒が理解できなかった。上級生のクラスを受け持ったときには、教室に入るのが怖くなり、そんな自分を隠そうとして、必要以上に生徒たちに厳しく接してしまっていたこともある。最近の教師と比べると、あの頃の私たちは教室の絶対君主というべき存在だったから、自分の気分次第で自由に振る舞うことができていたのだ。のちに児童心理学などを学びなおしてから思ったのは、当時の私はただ教員の資格を持っているだけで、子どもたちのことなど何も理解していなかったということだ。
私は庭に出て、ソラの名を呼んだ。白い息を吐いてこちらを見上げる彼の首にリードをかけながら、私は自分でも気づかぬうちに、どれだけの生徒を傷つけてきただろうかと考えた。教育的見地からではなく、私的な感情にまかせて子どもと接し、ずいぶんと嫌な思いもさせてしまっていたに違いない。いま、彼らはみな立派な社会人に、夫に、妻になっているだろうが、何人かの生徒の顔が頭に浮かんできて、私は彼らに謝りたいと思った。彼らは私のことなどもう忘れているかもしれないし、そのほうが好都合だが、嫌な思い出だけはいつまでも心に刻まれていてもおかしくない。記憶というのはそういうものだ。もしかしたら彼らのなかで、私は黒い影ではなくても、鬼の姿や、または血の通わぬ人間の姿になって、生き続けているかもしれない。
小学校の前を通り過ぎ、私とソラは駅前の商店街に差しかかった。通りは風が吹き抜けるだけで、相変わらず誰もいない。彼の実家の燃え跡を眺めているうち、反対側の通りに元教え子の母親を見かけたが、彼女は私に軽く会釈しただけで、なにも声をかけてこなかった。彼女の息子が私の生徒だったのは、もうとうに昔のことなのだから、それも仕方ないのだろう。近頃はこの田舎町でも、人間関係が希薄になってきているように思う。昔は日々、もっと色々なひとと顔を合わせ、何度もちょっとした世間話をしていたものだ。もっとも、隣近所の噂など、聞きたくもない話や悪口めいた話をされることも少なくなかったが。そもそも人が少なくなってきているうえ、みな年をとり、外に出なくもなってきているから、「いまどきは都会のほうがよっぽど地域交流がある」というのもあながち大袈裟ではないのだろう。私にしたって、いつまでソラを散歩に連れていけるかわかったものではない。妻のいない家でたった独り、外にも出られない生活とは、いったいどんなものだろうか……?
私は嫌な想像を急いで頭から追い出し、ソラを促してまた歩きはじめた。
ソラのために、私は歩くペースを緩めてやらねばならなかった。しばらく前から、彼はあまり活発に歩かなくなってきている。以前は気の向いた場所へ私を無理やり引っ張っていっては、小便をしたり、なにかを嗅ぎまわったりしていたものだが。力なく四肢を動かし、周りの景色にもあまり関心を向けなくなった彼を見ていると、きっと彼も妻がいなくなって寂しいのだろう、と思ってしまう。散歩をするのも、エサを与えるのも私の役目だったが、彼はなぜか私より妻のほうに懐いていた。妻には動物や子どもに親しまれる、不思議な力があった。
時おり妻も散歩を共にした。そんなとき彼女は、電柱に立ち止まりこそしないものの、ソラに先駆けて空き地のなかへ入っていき、何々が小さな花を咲かせているとか、何々に代わってなんとか科の草が茂ってきているとか、嬉しそうに声を出すのだった。草花のことなどなにも知らない私には、妻の言葉が奇妙な呪文のように聞こえていた。
私は当時から空き地のままである草むらに入り、「あなたは幸せに暮らせましたか」と妻に向かって心のなかでつぶやいた。
妻は病院で亡くなった。入院が長くなり、日に日に痩せ衰えていく彼女に対し、私はせめて病室を花で飾ってやろうと心を砕いていた。ある日、新しい花束を抱えて病室へ向かっていると、担当医から話があると呼び止められた。長い冬が終わり、生暖かな光が雪を溶かしている頃だった。狭い面談室に入ると、もう先は長くないから、そろそろ家に帰る選択肢も視野に入れてはどうか、と言われた。覚悟していたこととはいえ、それを聞いたとき、私は奇妙なほどぼんやりとしてしまい、事務的に話を済ませた医師が立ち去ったあとも、独りで部屋の白い壁を見つめ続けていた。ショックを受けたのもあるが、部屋が暖かすぎたせいもあっただろう。
可能な限り平静を装いながら、それとなく妻に訊ねてみたところ、彼女もできれば帰りたいと言ったので、私は病院の人間などを交えて在宅看護の手筈を整えはじめた。背の低いベッドが家に運び込まれ、他にも必要と思われる物を揃えて大体の準備を終えた矢先、彼女の容態が急変した。
「今日明日が山場でしょう」という医師の見立てどおり、翌日の未明に妻は息をひきとった。
妻には末期であることを告げていなかったが、彼女は早い段階で気づいていたと思う。それでも彼女は長い入院生活のあいだ、最期まで私に愚痴をこぼすことも、何かを要求してくることもなかった。ただ一つ、私がその日買ってきた花を花瓶に挿し終えたとき、「あなた、ガーベラをもっとこっちに向けてちょうだい。その一番鮮やかなオレンジのやつ」と言ってきたことがあっただけだ。
お互いいつまでも元気でいられるわけではないと、重々承知していたつもりだったが、あんなにも急激に生活が変わってしまうとは思ってもいなかった。もっと妻にしてあげられることはなかったか、自分は良い夫であったか、私はいまも問い続けている。
妻とのあいだに共通する趣味は唯一、旅行だけだった。北海道へ行ったとき、幸せそうに寿司を頬張りながら「こんな贅沢、していいのかしら」と満面の笑みを浮かべる彼女の様子が、今も思い出される。私としては、懇親会と謳って週末を学校関係者とのゴルフに明け暮れ、ずっと妻をほったらかしにしていた罪滅ぼしのつもりだった。ゴルフを終えて家に帰ったときだけでなく、日々仕事から帰宅したときも、温かいお茶を用意してくれていた感謝の意も込めていた。私が定年を迎えたのち、彼女がボランティアや地域活動に精を出して忙しく過ごすようになったのは、幸いだった。私は旅行に連れていく以外、妻と時間を共にする方法を知らなかったから。彼女は毎夜、食事が終わったあとも洗いものをするだけでなく、いつもどこかの掃除や片付けをしていた。
臨終まで妻との生活をまっとうした私からすると、知り合いや芸能人など他人の離婚話を聞くにつれ、改めて結婚は見合い婚に限るとの考えを強くする。長い人生を共にする伴侶選びに、恋愛感情など目が曇って邪魔になるだけだ。子宝にこそ恵まれなかったが、私の人生はまあ充実していたといえるし、それは彼女の献身なしに語れるものではない。
だが妻が亡くなったあとになってから、ふと思ったことがある。私がゴルフに行っているあいだ、彼女は誰もいない家のなかで、週末をどのように過ごしていたのだろうかと。当時はそんなこと考えもしなかった。質素倹約に努め、自分のことに金を使おうとしなかった妻。彼女はボランティア活動に出会うまで、いったい何を生きがいにしていたのだろう。
定年を迎えてゆっくりと流れる時間を持つようになると、自分の人生をその当事者としてではなく、あたかも第三者のように客観的に振り返ることが可能になる。すると自分はその時々に自負していたほど、良い教師でも、良い夫でもなかったと認めざるを得なくなる。私は自分自身を生きるのに必死で、周囲への理解や思いやりが足らなかったのだろう。今なら私がかつて怒りや不満を覚えたいちいちの場面について、冷静に状況を理解し、受け入れることができる。思い出は波のように訪れ、良かったことやそうでもなかったことをないまぜにして、最後にほろ苦い感情を乾いた砂地に残していく。定年後の様々な回想を経て、私は確かに以前よりも良い人間になったと思う。だが残念なことに、私にはもう、妻も生徒もいない。
私は座ったきり動かなくなったソラを見下ろしながら、繰り返しつぶやいた。
「あなたは幸せでしたか……?」
それから私は、散歩のコースを途中で切り上げ、ソラを抱えて家路についた。ソラが歩きたがらなかったのに加え、彼が来る前に、いろいろと考える時間を長くしたかったからだ。ソラのペースに合わせる必要がなくなったので、私は少し急いで歩いた。佐藤さんのご主人が、介護職員に連れ添われて玄関から出てくるところに出くわしたが、私は会釈をするにとどめて歩き続けた。
リードを付け替えてやるとすぐ、ソラはとぼとぼと犬小屋のなかへ戻っていった。私は洗面所で手洗いを済ませてから、テーブルの前に戻り、読みかけのままだった左右二通の手紙をそれぞれの手に取った。
どちらを先に読み直そうかと思案したが、彼の実家の燃え跡からまだかすかに漂う焦げた匂いが蘇ってきて、私は左の手紙を引き寄せ、続きの段落を探しはじめた。
「……きっと私は以前先生に指摘されたように、気分に流されやすい性質なのでしょう……。
私は次第に、自分の部屋へ進むことにためらいが生じてくるのを感じはじめました。いっそこのまま家を出てしまおうかとさえ思ったのですが、そのとき、壁の右側、ちょうど目線の高さに、ウスバカゲロウがとまっているのを見つけたのです。
無意識のうちに、私はそれに近づき、手を伸ばしました。先生は覚えているかわかりませんが、私が低学年の頃、近ごろは寺の高床式の境内の下にもぐりこんで、一日じゅうアリジゴクの巣で遊んでいると話したことがあります。蟻を捕まえては巣に落として観察していると伝えると、先生は『蟻が可哀想ではないですか?』と言いました。私はすぐにはピンときませんでしたが、やはり先生の言うとおりだと思ったので、以降アリジゴクで遊ぶのをやめたのです。そんな思い出があるので、私は久しぶりに見たウスバカゲロウを懐かしく感じ、手を伸ばしたのでしょう。カゲロウはその場からふわりと飛び立ち、ゆらゆらと頼りない軌道を描きながら、暗がりに紛れていきました。
私はカゲロウのあとを追うように、また廊下を進みはじめました。床が軋む音を聞きながら、扉の前に立ち、丸いドアノブに触れました。そのひんやりとした感触が、今でも手のひらに残っています。
私は扉を開けました。
部屋の窓はなぜか雨戸もカーテンも開け放たれており、西日が部屋全体に強く差し込んでいました。少し黴っぽい匂いと、ほんのりとした暖かさが漂っています。私は後ろ手で扉を閉め、部屋のなかを見回しました。そこには勉強机と箪笥がひとつ置かれているだけで、全体のあらゆる平面が、夕焼けと影の色に浸されていました。東京へ出る前、最後に訪れたときと、なにも変わっていません。椅子の背もたれにランドセルがかけられているのも、同じでした。
私はすぐに手紙を探そうとはせず、しばらく部屋の感触を確かめていました。染み渡る静けさと夕日が、幼いころにそこでひとり、母の帰りを待ち続けていた日々を思い起こさせました。まるですべてが当時のまま、幼い自分の姿だけが、部屋に欠けているかのように。
私は思い浮かべました。絨毯のうえに四つ這いになって、ミニカーで遊ぶ幼い自分の姿を。今は私の背丈よりも低い箪笥が、とても大きなものに映っていた頃です。私はそうやってひとり遊びをしながら、母がいた頃は、よく時計を眺めていました。六時になると母がパートから帰ってくるので、それを待ちわびていたのです。ご存知のように、祖母はその頃から腰を悪くしていて、滅多に部屋から出なくなっており、私は家にひとりでいるのも同然でした。
夕暮れ時は、私の好きな時間でした。それは母の帰宅を喚起させ、一日のなかで最も私の心を躍らせたのです。そんなとききっと幼い私は、母の笑顔を思い浮かべて、無意識のうちに、自分も笑顔になっていたことでしょう。ただ当時から私は、いつか母が帰ってこなくなる日が来るのではないか、という漠然とした不安を持っていたので、母の帰宅が少しでも遅れると、何度も時計を見返しては、嫌な胸騒ぎに顔を曇らせることも少なくありませんでした。
ミニカー遊びは、二台を競争させて遊ぶものでした。まず一台をぎゅっと、勢いよく前に進ませて、次にもう一台を同様に動かし、あとを追わせる。白いスポーツカーと、黒いラリーカーの、よくできた二台のミニカーを使って、そんな遊びを飽かずやっていました。私にはそれらを買ってもらった記憶がないので、きっと近所の誰かからの貰い物だったのでしょう。ひょっとしたら先生が買ってくれたのでは、と思ったときがあって、それとなく先生に訊ねてみたことがあります。先生は知らないと仰っていました。私はその二台を何時間でも競争させて、そうしているあいだは、漠然とした――たぶん母親に関する――不安を忘れることができていたのだと思います。時間が経つのも忘れてしまうくらいでしたから。
私はその場にしゃがんで、当時の男の子の目線になってみました。レースでは頭のなかに架空のサーキットを描き、自分にしか見えないコーナーを走らせていくうち、ミニカーの軌道がいくつも絨毯のうえに残って、まるで本物のサーキットのように記されていくのを楽しんでいました。
レースはいつも黒いラリーカーが先導し、徐々に白いスポーツカーが差を詰めて、最終的には白が僅差で差し切るという、そんな単純な展開でした。
私は立ちあがって、ジーンズの右ポケットに手を突っ込み、その中で手を軽く握りしめました。ポケットの中に、当時の白いスポーツカーを入れておいたのです。いつだったか、整理していたガラクタ箱の中から偶然見つかり、なぜか捨てられずにとっておいたのです。私はそれを握りしめているうちに、この部屋で単純なレースごっこに夢中になっていた男の子が、ひどく哀れに思えてきました。
ここから先は、弁護士さんや調査官の方にも詳しく話していない内容が含まれています。私にとっては重要なことだったので話そうとしたのですが、さわりの部分を聞いただけで、調査官がきょとんとした顔をしたり、弁護士さんが「つまりあなたは、心神耗弱に近い状態だった、と言えますか?」などと言ってきたりして、私はなにも自分の頭がおかしくなっていたと主張したかったわけではないので、話さなかったことです。
私はその哀れな男の子に、なにか声をかけてやりたいと思いました。腰をかがめて、迷子に接する親切な警察官のように、たとえばこう言ってみたいと思ったのです。
「なにして遊んでるの?」
すると男の子は顔を上げ、目を輝かせて、こうこたえるでしょう。
「レースだよ!」
誰かがそう聞いてくれるのをずっと待っていたかのように、男の子は少し声を上ずらせてそう言います。私は男の子との対話に没頭していきました。
彼は私の反応を窺いつつ、少しもじもじする様子を見せてから、もう一度「レースだよ!」と同じ言葉を繰り返します。
私が興味を示してやると、男の子はレースがいまどんな状況なのかを、得意げに説明しはじめます。最初は黒いやつがぶっちぎってたんだ。白いやつはエンジンの調子が悪くって、全然本気で走れなかったんだけど、いま一生懸命追いつこうとしてるところなんだよ、と。
しかし私は、いや違う、とそれを打ち消しました。
そうではなく、男の子はきっと、それとはまったく異なる反応を示したでしょう。絨毯のほうに目を向けたまま、ぶっきらぼうに「ミニカーで遊んでるんだよ」とだけつぶやく。そしてこちらの視線に怯えながらも、努力して一人だけの遊びを続けようとする。自分はそういう子どもだった、と私は思いなおしました。
そんな男の子に、どんな言葉をかけてやればいいのでしょう。
私はとりあえず、思いついたことを口にしてみました。
「楽しい?」
「うん……まあね」
男の子はこちらを見ずに、順番に従ってミニカーを動かし続けます。
もうなにを言えばいいのかわからなくなり、私は腰を起こして言いました。
「お母さん、早く帰ってくるといいね」
そのあと、私はようやく手紙を探しはじめました。机の前に移動して、椅子を手前に引き、その机で最も大きなものである、横長の引き出しを最初に開けてみました。
ゆっくりと、四角い空間が現れて、中にはなにも入っていないのが確認できました。がらんとしていて、隅のところに消しゴムのカスがたまっていただけです。
それを開け放したまま、次に私は、隣の引き出しに手を伸ばしました。この机で唯一、鍵のついたその引き出しは、強い抵抗があって開きませんでした。鍵がかけられていると知り、咄嗟に私は、鍵のありかについて考えを巡らせました。しかしまったく心当たりなどありません。乱暴に残り二つの引き出しを開けてみましたが、いずれもただ空洞が現れるだけで、中にはなにも残されていませんでした。
しばらくその場に立ったまま、私は次にどこを探すべきか考えました。箪笥や押入れよりも、机の中のほうがはるかに可能性が高いだろうと、秘密の扉を開けてみたいというような欲求も交えて直感しました。でもそれにはまず鍵を見つけなければならないので、結局箪笥と押入れの中をくまなく見てみたのですが、手紙も鍵も、手がかりとなりそうなものすら見つかりませんでした。
手紙なんてもう保管されてないのではないか、もしあるとしたら、施設の祖母の部屋を探したほうがよかったのではないか、という考えが頭をよぎりましたが、私は最後に、鍵を壊して引き出しをこじ開けてみようと思いました。
なにか叩く道具はないかと辺りを見回すと(そんなものがあるはずないのですが)、ふと、椅子に掛けられたランドセルが視界に入りました。そしてまた、それが秘密の扉であるかのように、その中を見てみたいという衝動が私をとらえたのです。すぐに、それが無意味な、馬鹿馬鹿しい思いつきでしかないと感じましたが、そのあいだに私の手は、もう色褪せたランドセルの留め金を触っていました。
二本の指で底面の留め金を半回転させると、カチッという、ただそれだけですが、ひどく懐かしくて、馴染みある音がしました。
――このランドセルは古すぎる。
留め金の音の余韻に浸りつつ、私はそう思いました。近所の家から貰った中古品だから、古いのも当然なのですが。カチッという懐かしい、機械的な音が、新品のランドセルを背負うクラスメイトたちに抱いた、羨望と劣等感を私の心に蘇らせました。
留め金に指をかけたまま、ぼーっとしていたことに気づいて、私はランドセルのかぶせ部分をめくりあげました。中を覗いてみましたが、予期していたとおり、なにも入っていません。しかし別の角度からランドセルを見てみると、側面に取り付けられた留め具に、小さな鍵がぶら下がっているのを見つけたのです。それが机の鍵であるとすぐに認識し、同時に、特に理由などなかったはずですが、鍵をいつもそこに付けていたことを思い出しました。私は丁寧にかぶせ部分を元に戻しました。カチッという音を、もう一度聞きたかったのです。
簡素で小さな銀色の鍵を取り外し、私はそれをいったん目の前で凝視してから、引き出しの鍵穴に差し込んで、一回転させました。なんの音もせず、指にちょっとした手応えすら感じませんでしたが、これはそういう鍵だったとすぐに了解しました。引き出しを開けると、中から薄茶色く変色した、一通の白い封筒が現れたのです。
私はしばらくのあいだ、その封筒を見つめ続けました。部分的に変色している以外、なんの変哲もない、郵便局で売られているような、ごく普通の封筒でした。封が切られてあるのが見てとれたので、祖母が中身を見たうえで、私に黙っていたのだと理解しました。
ためらいを感じながらも、私は引き出しの中へ手を伸ばしていきました。手が封筒に近づいていくほど、ためらいはより大きなものになっていき、動作がよりゆっくりとなっていったのを覚えています。
私は封筒を取り上げました。郵便番号を記入する四角い枠があるだけで、ほかには裏面にもなにも記されていません。子どもに宛てた手紙のわりには、あまりにも無味乾燥としていて、果たしてこれがほんとうにその手紙なのだろうかと、一瞬訝りました。
恐る恐る、触れれば壊れてしまうものを扱うかのように、私は封筒のなかから手紙を抜き出しました。三つ折りにされた便箋が二枚、重なっていただけです。心なしか、便箋はわずかに湿っぽく感じられました。
私は手紙をひろげ、大きく息をしてから、その内容を読みはじめました。栄くんへ、と書きはじめられた文字を見て、ようやくこれがその手紙であると確信できました。しかしそれが母からのメッセージだという実感は、まるで湧いてきませんでした。母がどんな字を書くひとなのか、よく知らなかったからでしょう。
手紙は長いものではなかったので、すぐに読み終えました。
そのとき受けたショックのことは、弁護士さんなど色んなひとに話をしてきたので、ここで改めて書くつもりはありません。ただ事実として、しばらくのあいだ、手の震えが止まりませんでした。私は全てを知り、そして祖母が口をつぐんでいた理由も悟りました。お前はお前の母を犯した強姦魔の子である、なんて普通は言えなくて当然でしょう。ただ、一度だけ祖母と怒鳴り合いの大喧嘩をしたとき、激高した彼女が『お前は悪魔だ』と言ってきたことがあったのを思い出しました。
……私は長いあいだ、その場から動けずにいました。周りの一切のものが完全に停止して、窓から差し込む夕日も、凍りついてしまったかのようでした。
やがて私は、手紙を机のうえに置き、窓の外を眺めました。夕焼けに彩られた小さな裏庭で、目に映るものがみな、輪郭をおぼろげにしながら闇へ没していく様子を、ただじっと見つめていたのです。夕暮れ時があんなにも哀しいものだなんて、そのときまで知りませんでした。手紙を読んだ私は、却って自分がこれからなにをすべきか、わからなくなっていました。
そのとき、夕日を背にした先生の姿が浮かび上がってきたのです。そして最後に言われた言葉が、重い響きをもって、脳内にこだましてきました。
『みんな、そうしているんですよ』
呪縛から解き放たれたように、私はポケットからミニカーを取り出し、手紙の上、ちょうどその真ん中の辺りに乗せました。白いスポーツカーは、左側のドアが失われており、わりと細かく作りこまれた車内の赤い座席がむき出しになっています。いつだったか、母が帰ってこなくなってからしばらくあと、いつものようにレースごっこをしていたとき、衝動的にそれを壁に投げつけて壊してしまったからです。壁から勢いよくはね返り、ドアを失くして床に転がったスポーツカーを、私は死んでしまった小鳥を拾い上げるかのように両手に乗せ、どこか見えない場所にしまいました。そしてそれ以降、二度とミニカーで遊ぶことはありませんでした。
私はふと、あの哀れな、小さな男の子にかけるべき言葉がまだあったと、気づきました。
「大切なものは、もっと大事に扱わなきゃいけないよ」
声に出してそう言うと、頭のなかに先ほどよりもはっきりと、男の子の姿が見えてきました。おかっぱ頭にくりくりした目、ちょこんと盛られた小さな鼻と、そのきめ細かい肌の感触までもが鮮明に伝わってきたのです。男の子は顔を上げ、ミニカーをいじっていた手を休めて、私に言いました。
「大切なものって、なんのこと?」
「そのミニカーのことだよ」と私は言い、さらに付け足しました。
「あと、それだけじゃなくて……」
男の子は、黙って私の次の言葉を待っています。
私は徐々に顔がひきつってくるのを感じ、そして吐き出すようにして言いました。
「大切なものっていうのは……」
まぶしい日差しに照らされた、近所の公園。子どもたちのはしゃぐ声がし、小さな子たちのグループが、砂場で協力してトンネルを作っています。そのなかにいる、最も古い記憶の私。むき出しの足に、湿った砂粒を無数にこびりつかせ、懸命に砂をかいています。
私の役割は、トンネルから続く道を掘り進め、その先に大きな池を作ること。池は、大きければ大きいほどいい。バケツを抱えた子が戻ってきて、スタート地点に勢いよく水を流し込みました。透明な水は、すぐに濁流となり、トンネルの下をくぐってぐんぐんと進んでいきます。そして氾濫する河川のように、私が作った溝から溢れながらも、池に到達して大きな水たまりとなりました。子どもたちの歓声があがり、私は近くにいた母のもとへ駆け寄って、自分たちの成果を見せつけます。母は目を細めて、私と、子どもたち全員を褒め称えました。
同じ公園で、少し大きくなった私が、ブランコで遊んでいます。空が急に曇ってきて、雨がぽつぽつと降りはじめました。まだ遊び足りない私は、構わずブランコをこぎ続けます。しばらくすると、遠くのほうから母の声が聞こえてきました。母が傘を持って迎えに来たのです。私はブランコから飛び降り、母を見上げて、不思議そうに訊ねました。
「どうしてここにいるってわかったの?」
雨粒とともに、母のやさしい声が降りかかってきました。
「だって、公園に遊びに行くって言ってたじゃない」
私は受け取った傘をさし、母と並んで家路につきました。足を高くあげ、靴を踏み鳴らすようにして歩き、上機嫌になって歌をうたう……。そのメロディが、いまも私の脳裏に焼き付いています。
ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらん、らん、らん
「母さん……」
記憶を駆け巡った私の口から、そんな言葉が漏れました。
窓の外で、最初の街灯が明かりを灯しました。ぼろぼろの生垣とその周辺はもう、ほの暗い影に覆われています。
私は机に置かれたミニカーと手紙に、視線を移しました。
そしてまた、ポケットのなかに手を突っ込みました。白いスポーツカーが納められていたそのポケットには、もうなにも入っていません。すぐに反対側のポケットをまさぐると、確かな感触があって、私はそこからライターを取り出しました。ドラム型のヤスリを二回まわしたとき、ライターに火が灯り、私はそれを便箋に近づけました。
火は素早く紙の上に燃えひろがりました。黒く細い煙があがって、ごめんなさい、ほんとうにごめんねと書かれた箇所が焦げていくのが見えました。火はさらに弧を描くようにひろがって、白いスポーツカーが炎に包まれました。
私はそのまま踵を返し、扉へ向かったのです。火のことは、なぜかまったく気になりませんでした。すると扉の前で、小さな男の子が行く手を遮るように、机を指さして言ってきました。
「ねえ、机のうえが火事だよ」
私が黙っていると、彼は同じトーン、同じ声量で、さらに言ました。
「あと、大切なものって、なんのこと?」
不思議そうな顔をしている男の子を見下ろしながら、私は静かに、今度は諭すようにして応じました。
「大切なものっていうのは……」
「きみのお母さんは……」
私の右手がまっすぐ伸びていき、男の子の細い首を捉えました。男の子は表情を変えずに、じっと私を見つめています。かすかに腕を震わせる私の耳にまた、重々しく、まるで鐘の音のように、先生の声が響いてきました。
「みんな、そうしているんですよ」
私は右手に力を込めました。一心不乱に、握り潰すようにして、男の子の首を絞めつけました。男の子はそれでも表情を変えずに、大きな目で私を見つめ返しています。あまり言いたくないのですが、そのとき私は、泣いていました。手のひらが熱くなるほど右手に力を込め続け、実際にはドアノブを握りながら、泣いていたのです。
どのくらいの間そうしていたでしょう。全身の力を緩めたとき、私はうつむいたままで、頭に浮かぶものはもう何もありませんでした。ただ一刻も早く、この部屋から出たいという欲求があっただけでした。
私はドアノブを回し、薄暗い廊下を通り抜け、そのまま振り返ることなく家をあとにしました。
それから先のことは、先生もご存知のとおりです。私はすぐに寮へ戻り、なにを食べたか覚えていませんが、食事をとって早い時間に寝ました。そして翌日のニュースで家が燃えてしまったことを知り、警察署に出頭しました。先生には身元引受人になって頂き、改めて感謝致します。
審判のことや、その前の警察や調査官からの聞き取りについては、もうあまり印象に残っていません。裁判官を含めて、みんな丁寧に接してくれましたし、審判はいくつか聞かれたことに答えただけで、あっけなく終わった感じです。火がカーテンに燃え移ったことで、あれほどの火災になったようだと聞かされたときは、正直運が悪かったなと思いましたが。それでも隣の家に燃え広がらなかったのは、不幸中の幸いでした。
最後にもうひとつ、審判でも話したことを改めて申し上げたいのですが、私は母を恨んではいません。
高校生だった母が周囲の反対を押し切り、葛藤のなかで最終的に私を産む決断をしたこと、それでも現実に耐えられなくなって、結局私を置いて家を出てしまったことは、手紙を読み終えた直後でも心情として理解できました。母がどれだけ苦しかったかを想像すると、責める気にはなれないのです。もう母を探そうとは思いません。どこかで幸せに暮らしていることを願っています。
私がお伝えすることは以上です。ここまで長々と書き連ね、乱文につき先生にどれだけご理解頂けたか覚束ないのですが、正直に自分の気持ちを書いてきました。
追ってまたご挨拶に伺わせて頂きます。その際はよろしくお願いします。
敬具
六月三日 星川栄作 」
この手紙をもう何度も読み返しているが、母を恨んではいないという彼の言葉には、毎回心を揺さぶられる。私が彼だったらどうだろうかと考えようとしても、私の乏しい想像力では、たとえ仮にでも自分が母親から捨てられた、強姦魔の子であるという立場になってみることすらできないのだ。
もう一つ、この手紙を読んでもわからないのは、彼が真実を知ったことをどうとらえているのか、ということだ。果たして彼はよかったと思っているのだろうか。そして手紙の存在を伝えた私のことを、どう思っているかについても同様である。
彼は自身の言葉でいうところの「自らに決着」をつけることができたのだろうか。私に対する印象も、要はそれ次第であろう。私は今日、彼の口からそれを聞いてみるつもりでいる。彼を迎えに行った日以降、保護観察中のあいだ、私は事件やそれに関する一切に触れようとしなかったし、彼もまた同じだった。彼からの手紙への返信も、ねぎらいと励ましの言葉を並べたうえで、近いうちにまた会おうといっただけの内容にとどめていた。今日彼にそれを聞いてみようと思うのは、彼のことだから、いつまたぷっつりと連絡がとれなくなっても不思議ではなく、今日を逃したら永遠に聞く機会を失ってしまうかもしれないからだ。
私は気が重くなるのを感じながらも、テーブルに残された読みかけのもう一通、最初に送られてきた手紙を手元に引き寄せた。たしかこの手紙の残りの部分には、施設での暮らしや、初枝さんとの葛藤、そして彼にとって唯一の親友だった、拓矢との思い出が綴られていたはずだ。拓矢のことについても、いずれまた考えなければならない。ある日突然施設に帰ってこなくなり、今も行方不明のままだ。噂では、暴力団の抗争に巻き込まれたとされている。
ざっと文字を追って、続きの段落を探していると、家の電話が鳴った。
こんな時間に電話が鳴るのは珍しい。町のひとたちは皆、この時間に私がソラの散歩をしていることを知っている。
私は手紙を持ったまま立ち上がり、電話機のディスプレイを確認した。彼の番号が表示されている。急用で行けなくなった、などといってキャンセルするつもりだろうかと訝りながら、私は受話器をあげた。
「あ、先生、栄作です。よかった、家におられるんですね。じつはお伺いする時間を少し早められないかと思いまして……」
キャンセルではなかったことに安堵しつつも、私はやや困惑した。
「ええ、それは構いませんが……何時にしますか?」
「じつはもう、駅に着いてまして……。突然で申し訳ありませんが、今から伺ってもよろしいでしょうか?」
まだ予定の時間より一時間ちかく早い。だが断るほどの理由もないので、私は了承して電話を切り、すぐに手紙を片付けはじめた。彼の予想外の行動には、相変わらず困らせられる。電車に乗る前にだって、連絡できただろうに。
手紙をすべて読み返すこともできなかったと思いながら、私は慌ただしく電気ポットのスイッチを入れ、台所の隅の扉から茶葉を取り出した。妻がいつも来客用の茶菓子を保管していた場所だ。それから以前、彼との面会のときに持っていっていたものと同じチョコレート菓子を、籠のうえに無造作に広げた。
そうして簡単な準備を整えつつ、彼に聞かねばならないことを思い起こしているうちに、玄関のチャイムが鳴って、扉の先に彼が姿を現した。
「お久しぶりです。突然すみませんでした」
髪がやや短くなっているものの、全体的には最後に会ったときとさほど変わっていない印象を受けた。表情は暗くない。
彼は靴をきちんと揃えて框を上がった。薄いグレーのジャケットといい、上下ともすらっとした服を着こなしていて、市内で見かける若者とはどこか雰囲気が違っている。警察署へ迎えに行った日にはそんなふうに思わなかったが、ああいう生活をしていても、一応東京でセンスが磨かれたということだろうか。
形式的な挨拶を済ませて応接間に入り、楽に座るよう伝えると、彼はどさりと座布団に尻をついてあぐらをかいた。私は外から来た彼のために、ストーブの設定温度を一度上げてやった。
「いやあ、今日はほんとうに寒いですね」と言いながら彼は上着を脱いだ。そしてなにを喋るわけでも、なにを喋るか考えているふうでもなく、鷹揚に部屋の中をあちこち見回しはじめた。
私は彼が照れ隠しにそうしているのだろうと思い、しっかりと彼の目を見据えて言った。
「変わりありませんか」
「ええ、風邪をひくこともなく、元気にしてます」
彼の表情からは鬱屈としたものが消えていて、私の視線をごく自然に受け止めながら、リラックスしているのが見てとれた。
「先生はお元気でしたか?」
「相変わらずです。近ごろは膝の痛みがひどくなってきててね。アルバイトは続けていますか?」
「はい。べつに楽しいわけじゃないけど、ちゃんと続けてます」
短い沈黙が訪れた。すると彼はまた、部屋を無遠慮に見回しはじめ、独りつぶやくように言った。
「奥さんのお葬式でお邪魔したときから、あまり変わってないですね」
なぜ彼が急にそんなことを言ってきたのかはさておき、それは事実だった。応接間のなかはもちろん、台所の食器の配置に至るまで、なるべく妻がいた頃と変わらないようにしている。彼女が買ってきた造花も、小さな飾り絵も、私の趣味ではなかったがそのままにしてある。変わったことといえば、部屋の角に彼女の仏壇が置かれたくらいだろう。
「ええ、特に変える必要もないですからね」
「そういえば先生、お葬式のときにした話、覚えてますか?」
なんのことだろうと思った。葬儀には旧知の学校関係者も多く訪れていて、なかにはひどく懐かしい顔もあり、私は忙しく立ち回っていた。彼が来たのはもちろん覚えているが、話などしただろうか。あのときなにか彼に伝えようとしていたことがあったものの、彼が人前では私と話すのを避けているように見えたのもあり、結局話ができなかったと記憶している。
「ええと……どんな話でしたか」
「エミと付き合いはじめたって話ですよ。あの場で言うべきか悩みましたが、エミも同じ小学校だったから、一応先生にお伝えしとこうと思ったんです。先生はエミのことも覚えていると仰ってました」
「ああ、ええ、そうでしたね……」
記憶違いではないですか? という言葉を飲み込み、まったく思い出せないまま返事をしたのだが、彼はそんな私の様子を見ても頓着せずに続けた。
「それで、彼女とまた付き合うことになったんです」
そうでしたか、それは結構ですねと私が応じると、彼は近々そのエミという子と同棲をはじめる予定で、もう物件もほぼ決めており、いまは必要なものを買い揃えるため、あちこちの店を二人で物色しているところだと語りはじめた。家具や家電製品から、茶碗や箸などの細々としたものまで、リストを作って安いところを見て回っているという。
「それにしても女って、どうしてあんなに雑貨を見るのが好きなんですかね。百円ショッブになんか行ったら、何時間でも店から離れようとしないですし。こっちが疲れちゃって『もうどれでもいいから早く決めよう』なんて言おうものなら、やたらと不機嫌になったりして」
ここに至って、私は彼の印象がすっかり変わっていることに気づかされた。これほど自然に、淀みなく喋る彼の姿を見るのは初めてだ。表情にやや疲れのようなものが残っているが、その目にはかつてない、年齢相応の活力が見てとれる。
私の驚きをよそに、その後も彼は楽しげに、延々とエミに関する話をした。料理が得意で、パスタを使ったレシピが豊富だとか、二人の休みを合わせるために、いま勤めている居酒屋を辞めることになっており、そうしたら旅行に行くつもりだとか。終始上機嫌で、のろけ話をしに来たのかと思うほどだったが、そのうち私は、きっと彼なりに自分の今後について話を聞かせようとしているのだろう、と思うようになり、真剣に耳を傾ける努力を続けた。
「じつはこのあとも、エミと会う約束になってまして。それで先生の家に、ちょっと早く来てしまいました」
ひとしきり喋ると彼はそう言って、また雑貨屋に連れていかれなければいいんですが、と自嘲気味に笑った。
私はその場のペースを取り戻そうと、聞くべきことを訊ねた。
「それで……実家の解体の件はどうなりましたか?」
「ああ、それなら祖母の後見人のひとが紹介してくれた業者に頼んで、もう手配してあります。無理を聞いてもらえたので、貯金に少し足が出るくらいで済みそうです」
「そうでしたか。それならよかったですね。近所の方々が、いつまで放置するのかと騒いでいると聞いていましたから。それと、初枝さんには会いに行っていますか?」
「ええ、たまにですけど。体は問題ないみたいですが、このところはもう僕のこともわからなくなってきてますね」
初枝さんの状態については、私もだいたい知っていたので驚きはなかった。私は「それは残念ですね……」と言いながら、手紙を読んだことに対する心情について、話を切り出す機会をうかがいはじめた。
体にやや緊張が走るのを感じつつ、具体的な言葉を思案していると、彼はどこか他人事のように初枝さんの状態をさらに報告したあと、もっとゆっくりしたいけど、そろそろ行かなきゃ、と言って膝の上に乗せた上着を広げはじめた。
私は呆気にとられた。まだそれほど時間も経っていなかったし、もっと話すべきことがあるのではないか。
少し引き留めようとしかけたが、私はすぐに思い直して、快く見送ることにした。
考えてみれば、彼から改めて感謝だの謝罪だのの言葉を聞きたかったわけでもないし、きっと彼はもう、彼なりに自分の新しい人生を生きているのだろうと思ったからだ。未来を思い描いて今日を生きる。それは彼にとって、初めての作業なのかもしれない。そんな彼に、過ぎたことを無理やり語らせ、手紙についてどう思うかなどと訊ねるのも、無粋であろうと考えるようにした。
待ち合わせに遅れそうだ、と言って足早に玄関へ出て、靴を履こうとしている彼の背中が、心なしか頼もしく見えた。私はわざとらしいほど明るく「それじゃあ、これからはうまくやっていけそうですか」と声をかけた。
「ええ、なにも問題ありません」
彼は立ち上がってドアを開けると、外の冷たい空気を浴びても怯むことなく、「先生、今度はエミを連れてきますよ。それでは、失礼します」と快活に言って木枯らしのなかへ消えていった。
ドアが閉まり、玄関に残された私は、鍵をかけて応接間へ戻った。
部屋を開けっぱなしにしていたので、仏壇の脇でガスストーブがうなりをあげている。
椅子に座って茶をすすり、まだ彼のぬくもりが残っているであろう対面の座布団を眺めながら、私は彼の未来を想像してみた。彼がエミという子を連れて来ることは、たぶんないだろう。人生がうまくいっているあいだは、若者がわざわざ年寄りの家を訪ねようとなんてしないものだ。もしかすると、彼の生活が順風満帆なら、大袈裟でなく次に彼が私と対面するのは、私の葬式のときかもしれない。今日、彼の様子を見て、なんとなくそんな気がした。
静けさが戻った部屋で、私は残っていた茶を飲み干し、妻の遺影に目を移した。そして、もっと急いで人生の清算を済ませなければならない、と考えた。
仏前の白や黄色の菊が、しおれはじめている。あれほど花を愛していた妻に、一番好きな花はなにかと聞いておかなかったことへの後悔がまたこみ上げてきて、私は茶碗に手をかけたまま、そっと両目を閉じた。
「あなた、ソラを散歩に連れていく時間ですよ」
いつも私にそう教えてくれていた妻の声が、また思い出された。彼女はいつも同じ、穏やかな調子でそう声をかけてくれた。いまはその役目を、電子時計のアラーム音が担っている。
しばらく前から、散歩の時間を忘れてしまうことが多くなっていた。ぼんやりともの想いに耽ることが増えているからだろう。このところは頻繁に教員時代の苦労を思い起こす。若いうちはよかった。気力、体力とも子どもたちに負けていなかったし、青くさい情熱に燃えてもいた。だが中年に差し掛かった頃、急に子どもたちのことがわからなくなった時期があった。現代っ子と呼ばれた世代、彼らの考え方や情緒が理解できなかった。上級生のクラスを受け持ったときには、教室に入るのが怖くなり、そんな自分を隠そうとして、必要以上に生徒たちに厳しく接してしまっていたこともある。最近の教師と比べると、あの頃の私たちは教室の絶対君主というべき存在だったから、自分の気分次第で自由に振る舞うことができていたのだ。のちに児童心理学などを学びなおしてから思ったのは、当時の私はただ教員の資格を持っているだけで、子どもたちのことなど何も理解していなかったということだ。
私は庭に出て、ソラの名を呼んだ。白い息を吐いてこちらを見上げる彼の首にリードをかけながら、私は自分でも気づかぬうちに、どれだけの生徒を傷つけてきただろうかと考えた。教育的見地からではなく、私的な感情にまかせて子どもと接し、ずいぶんと嫌な思いもさせてしまっていたに違いない。いま、彼らはみな立派な社会人に、夫に、妻になっているだろうが、何人かの生徒の顔が頭に浮かんできて、私は彼らに謝りたいと思った。彼らは私のことなどもう忘れているかもしれないし、そのほうが好都合だが、嫌な思い出だけはいつまでも心に刻まれていてもおかしくない。記憶というのはそういうものだ。もしかしたら彼らのなかで、私は黒い影ではなくても、鬼の姿や、または血の通わぬ人間の姿になって、生き続けているかもしれない。
小学校の前を通り過ぎ、私とソラは駅前の商店街に差しかかった。通りは風が吹き抜けるだけで、相変わらず誰もいない。彼の実家の燃え跡を眺めているうち、反対側の通りに元教え子の母親を見かけたが、彼女は私に軽く会釈しただけで、なにも声をかけてこなかった。彼女の息子が私の生徒だったのは、もうとうに昔のことなのだから、それも仕方ないのだろう。近頃はこの田舎町でも、人間関係が希薄になってきているように思う。昔は日々、もっと色々なひとと顔を合わせ、何度もちょっとした世間話をしていたものだ。もっとも、隣近所の噂など、聞きたくもない話や悪口めいた話をされることも少なくなかったが。そもそも人が少なくなってきているうえ、みな年をとり、外に出なくもなってきているから、「いまどきは都会のほうがよっぽど地域交流がある」というのもあながち大袈裟ではないのだろう。私にしたって、いつまでソラを散歩に連れていけるかわかったものではない。妻のいない家でたった独り、外にも出られない生活とは、いったいどんなものだろうか……?
私は嫌な想像を急いで頭から追い出し、ソラを促してまた歩きはじめた。
ソラのために、私は歩くペースを緩めてやらねばならなかった。しばらく前から、彼はあまり活発に歩かなくなってきている。以前は気の向いた場所へ私を無理やり引っ張っていっては、小便をしたり、なにかを嗅ぎまわったりしていたものだが。力なく四肢を動かし、周りの景色にもあまり関心を向けなくなった彼を見ていると、きっと彼も妻がいなくなって寂しいのだろう、と思ってしまう。散歩をするのも、エサを与えるのも私の役目だったが、彼はなぜか私より妻のほうに懐いていた。妻には動物や子どもに親しまれる、不思議な力があった。
時おり妻も散歩を共にした。そんなとき彼女は、電柱に立ち止まりこそしないものの、ソラに先駆けて空き地のなかへ入っていき、何々が小さな花を咲かせているとか、何々に代わってなんとか科の草が茂ってきているとか、嬉しそうに声を出すのだった。草花のことなどなにも知らない私には、妻の言葉が奇妙な呪文のように聞こえていた。
私は当時から空き地のままである草むらに入り、「あなたは幸せに暮らせましたか」と妻に向かって心のなかでつぶやいた。
妻は病院で亡くなった。入院が長くなり、日に日に痩せ衰えていく彼女に対し、私はせめて病室を花で飾ってやろうと心を砕いていた。ある日、新しい花束を抱えて病室へ向かっていると、担当医から話があると呼び止められた。長い冬が終わり、生暖かな光が雪を溶かしている頃だった。狭い面談室に入ると、もう先は長くないから、そろそろ家に帰る選択肢も視野に入れてはどうか、と言われた。覚悟していたこととはいえ、それを聞いたとき、私は奇妙なほどぼんやりとしてしまい、事務的に話を済ませた医師が立ち去ったあとも、独りで部屋の白い壁を見つめ続けていた。ショックを受けたのもあるが、部屋が暖かすぎたせいもあっただろう。
可能な限り平静を装いながら、それとなく妻に訊ねてみたところ、彼女もできれば帰りたいと言ったので、私は病院の人間などを交えて在宅看護の手筈を整えはじめた。背の低いベッドが家に運び込まれ、他にも必要と思われる物を揃えて大体の準備を終えた矢先、彼女の容態が急変した。
「今日明日が山場でしょう」という医師の見立てどおり、翌日の未明に妻は息をひきとった。
妻には末期であることを告げていなかったが、彼女は早い段階で気づいていたと思う。それでも彼女は長い入院生活のあいだ、最期まで私に愚痴をこぼすことも、何かを要求してくることもなかった。ただ一つ、私がその日買ってきた花を花瓶に挿し終えたとき、「あなた、ガーベラをもっとこっちに向けてちょうだい。その一番鮮やかなオレンジのやつ」と言ってきたことがあっただけだ。
お互いいつまでも元気でいられるわけではないと、重々承知していたつもりだったが、あんなにも急激に生活が変わってしまうとは思ってもいなかった。もっと妻にしてあげられることはなかったか、自分は良い夫であったか、私はいまも問い続けている。
妻とのあいだに共通する趣味は唯一、旅行だけだった。北海道へ行ったとき、幸せそうに寿司を頬張りながら「こんな贅沢、していいのかしら」と満面の笑みを浮かべる彼女の様子が、今も思い出される。私としては、懇親会と謳って週末を学校関係者とのゴルフに明け暮れ、ずっと妻をほったらかしにしていた罪滅ぼしのつもりだった。ゴルフを終えて家に帰ったときだけでなく、日々仕事から帰宅したときも、温かいお茶を用意してくれていた感謝の意も込めていた。私が定年を迎えたのち、彼女がボランティアや地域活動に精を出して忙しく過ごすようになったのは、幸いだった。私は旅行に連れていく以外、妻と時間を共にする方法を知らなかったから。彼女は毎夜、食事が終わったあとも洗いものをするだけでなく、いつもどこかの掃除や片付けをしていた。
臨終まで妻との生活をまっとうした私からすると、知り合いや芸能人など他人の離婚話を聞くにつれ、改めて結婚は見合い婚に限るとの考えを強くする。長い人生を共にする伴侶選びに、恋愛感情など目が曇って邪魔になるだけだ。子宝にこそ恵まれなかったが、私の人生はまあ充実していたといえるし、それは彼女の献身なしに語れるものではない。
だが妻が亡くなったあとになってから、ふと思ったことがある。私がゴルフに行っているあいだ、彼女は誰もいない家のなかで、週末をどのように過ごしていたのだろうかと。当時はそんなこと考えもしなかった。質素倹約に努め、自分のことに金を使おうとしなかった妻。彼女はボランティア活動に出会うまで、いったい何を生きがいにしていたのだろう。
定年を迎えてゆっくりと流れる時間を持つようになると、自分の人生をその当事者としてではなく、あたかも第三者のように客観的に振り返ることが可能になる。すると自分はその時々に自負していたほど、良い教師でも、良い夫でもなかったと認めざるを得なくなる。私は自分自身を生きるのに必死で、周囲への理解や思いやりが足らなかったのだろう。今なら私がかつて怒りや不満を覚えたいちいちの場面について、冷静に状況を理解し、受け入れることができる。思い出は波のように訪れ、良かったことやそうでもなかったことをないまぜにして、最後にほろ苦い感情を乾いた砂地に残していく。定年後の様々な回想を経て、私は確かに以前よりも良い人間になったと思う。だが残念なことに、私にはもう、妻も生徒もいない。
私は座ったきり動かなくなったソラを見下ろしながら、繰り返しつぶやいた。
「あなたは幸せでしたか……?」
それから私は、散歩のコースを途中で切り上げ、ソラを抱えて家路についた。ソラが歩きたがらなかったのに加え、彼が来る前に、いろいろと考える時間を長くしたかったからだ。ソラのペースに合わせる必要がなくなったので、私は少し急いで歩いた。佐藤さんのご主人が、介護職員に連れ添われて玄関から出てくるところに出くわしたが、私は会釈をするにとどめて歩き続けた。
リードを付け替えてやるとすぐ、ソラはとぼとぼと犬小屋のなかへ戻っていった。私は洗面所で手洗いを済ませてから、テーブルの前に戻り、読みかけのままだった左右二通の手紙をそれぞれの手に取った。
どちらを先に読み直そうかと思案したが、彼の実家の燃え跡からまだかすかに漂う焦げた匂いが蘇ってきて、私は左の手紙を引き寄せ、続きの段落を探しはじめた。
「……きっと私は以前先生に指摘されたように、気分に流されやすい性質なのでしょう……。
私は次第に、自分の部屋へ進むことにためらいが生じてくるのを感じはじめました。いっそこのまま家を出てしまおうかとさえ思ったのですが、そのとき、壁の右側、ちょうど目線の高さに、ウスバカゲロウがとまっているのを見つけたのです。
無意識のうちに、私はそれに近づき、手を伸ばしました。先生は覚えているかわかりませんが、私が低学年の頃、近ごろは寺の高床式の境内の下にもぐりこんで、一日じゅうアリジゴクの巣で遊んでいると話したことがあります。蟻を捕まえては巣に落として観察していると伝えると、先生は『蟻が可哀想ではないですか?』と言いました。私はすぐにはピンときませんでしたが、やはり先生の言うとおりだと思ったので、以降アリジゴクで遊ぶのをやめたのです。そんな思い出があるので、私は久しぶりに見たウスバカゲロウを懐かしく感じ、手を伸ばしたのでしょう。カゲロウはその場からふわりと飛び立ち、ゆらゆらと頼りない軌道を描きながら、暗がりに紛れていきました。
私はカゲロウのあとを追うように、また廊下を進みはじめました。床が軋む音を聞きながら、扉の前に立ち、丸いドアノブに触れました。そのひんやりとした感触が、今でも手のひらに残っています。
私は扉を開けました。
部屋の窓はなぜか雨戸もカーテンも開け放たれており、西日が部屋全体に強く差し込んでいました。少し黴っぽい匂いと、ほんのりとした暖かさが漂っています。私は後ろ手で扉を閉め、部屋のなかを見回しました。そこには勉強机と箪笥がひとつ置かれているだけで、全体のあらゆる平面が、夕焼けと影の色に浸されていました。東京へ出る前、最後に訪れたときと、なにも変わっていません。椅子の背もたれにランドセルがかけられているのも、同じでした。
私はすぐに手紙を探そうとはせず、しばらく部屋の感触を確かめていました。染み渡る静けさと夕日が、幼いころにそこでひとり、母の帰りを待ち続けていた日々を思い起こさせました。まるですべてが当時のまま、幼い自分の姿だけが、部屋に欠けているかのように。
私は思い浮かべました。絨毯のうえに四つ這いになって、ミニカーで遊ぶ幼い自分の姿を。今は私の背丈よりも低い箪笥が、とても大きなものに映っていた頃です。私はそうやってひとり遊びをしながら、母がいた頃は、よく時計を眺めていました。六時になると母がパートから帰ってくるので、それを待ちわびていたのです。ご存知のように、祖母はその頃から腰を悪くしていて、滅多に部屋から出なくなっており、私は家にひとりでいるのも同然でした。
夕暮れ時は、私の好きな時間でした。それは母の帰宅を喚起させ、一日のなかで最も私の心を躍らせたのです。そんなとききっと幼い私は、母の笑顔を思い浮かべて、無意識のうちに、自分も笑顔になっていたことでしょう。ただ当時から私は、いつか母が帰ってこなくなる日が来るのではないか、という漠然とした不安を持っていたので、母の帰宅が少しでも遅れると、何度も時計を見返しては、嫌な胸騒ぎに顔を曇らせることも少なくありませんでした。
ミニカー遊びは、二台を競争させて遊ぶものでした。まず一台をぎゅっと、勢いよく前に進ませて、次にもう一台を同様に動かし、あとを追わせる。白いスポーツカーと、黒いラリーカーの、よくできた二台のミニカーを使って、そんな遊びを飽かずやっていました。私にはそれらを買ってもらった記憶がないので、きっと近所の誰かからの貰い物だったのでしょう。ひょっとしたら先生が買ってくれたのでは、と思ったときがあって、それとなく先生に訊ねてみたことがあります。先生は知らないと仰っていました。私はその二台を何時間でも競争させて、そうしているあいだは、漠然とした――たぶん母親に関する――不安を忘れることができていたのだと思います。時間が経つのも忘れてしまうくらいでしたから。
私はその場にしゃがんで、当時の男の子の目線になってみました。レースでは頭のなかに架空のサーキットを描き、自分にしか見えないコーナーを走らせていくうち、ミニカーの軌道がいくつも絨毯のうえに残って、まるで本物のサーキットのように記されていくのを楽しんでいました。
レースはいつも黒いラリーカーが先導し、徐々に白いスポーツカーが差を詰めて、最終的には白が僅差で差し切るという、そんな単純な展開でした。
私は立ちあがって、ジーンズの右ポケットに手を突っ込み、その中で手を軽く握りしめました。ポケットの中に、当時の白いスポーツカーを入れておいたのです。いつだったか、整理していたガラクタ箱の中から偶然見つかり、なぜか捨てられずにとっておいたのです。私はそれを握りしめているうちに、この部屋で単純なレースごっこに夢中になっていた男の子が、ひどく哀れに思えてきました。
ここから先は、弁護士さんや調査官の方にも詳しく話していない内容が含まれています。私にとっては重要なことだったので話そうとしたのですが、さわりの部分を聞いただけで、調査官がきょとんとした顔をしたり、弁護士さんが「つまりあなたは、心神耗弱に近い状態だった、と言えますか?」などと言ってきたりして、私はなにも自分の頭がおかしくなっていたと主張したかったわけではないので、話さなかったことです。
私はその哀れな男の子に、なにか声をかけてやりたいと思いました。腰をかがめて、迷子に接する親切な警察官のように、たとえばこう言ってみたいと思ったのです。
「なにして遊んでるの?」
すると男の子は顔を上げ、目を輝かせて、こうこたえるでしょう。
「レースだよ!」
誰かがそう聞いてくれるのをずっと待っていたかのように、男の子は少し声を上ずらせてそう言います。私は男の子との対話に没頭していきました。
彼は私の反応を窺いつつ、少しもじもじする様子を見せてから、もう一度「レースだよ!」と同じ言葉を繰り返します。
私が興味を示してやると、男の子はレースがいまどんな状況なのかを、得意げに説明しはじめます。最初は黒いやつがぶっちぎってたんだ。白いやつはエンジンの調子が悪くって、全然本気で走れなかったんだけど、いま一生懸命追いつこうとしてるところなんだよ、と。
しかし私は、いや違う、とそれを打ち消しました。
そうではなく、男の子はきっと、それとはまったく異なる反応を示したでしょう。絨毯のほうに目を向けたまま、ぶっきらぼうに「ミニカーで遊んでるんだよ」とだけつぶやく。そしてこちらの視線に怯えながらも、努力して一人だけの遊びを続けようとする。自分はそういう子どもだった、と私は思いなおしました。
そんな男の子に、どんな言葉をかけてやればいいのでしょう。
私はとりあえず、思いついたことを口にしてみました。
「楽しい?」
「うん……まあね」
男の子はこちらを見ずに、順番に従ってミニカーを動かし続けます。
もうなにを言えばいいのかわからなくなり、私は腰を起こして言いました。
「お母さん、早く帰ってくるといいね」
そのあと、私はようやく手紙を探しはじめました。机の前に移動して、椅子を手前に引き、その机で最も大きなものである、横長の引き出しを最初に開けてみました。
ゆっくりと、四角い空間が現れて、中にはなにも入っていないのが確認できました。がらんとしていて、隅のところに消しゴムのカスがたまっていただけです。
それを開け放したまま、次に私は、隣の引き出しに手を伸ばしました。この机で唯一、鍵のついたその引き出しは、強い抵抗があって開きませんでした。鍵がかけられていると知り、咄嗟に私は、鍵のありかについて考えを巡らせました。しかしまったく心当たりなどありません。乱暴に残り二つの引き出しを開けてみましたが、いずれもただ空洞が現れるだけで、中にはなにも残されていませんでした。
しばらくその場に立ったまま、私は次にどこを探すべきか考えました。箪笥や押入れよりも、机の中のほうがはるかに可能性が高いだろうと、秘密の扉を開けてみたいというような欲求も交えて直感しました。でもそれにはまず鍵を見つけなければならないので、結局箪笥と押入れの中をくまなく見てみたのですが、手紙も鍵も、手がかりとなりそうなものすら見つかりませんでした。
手紙なんてもう保管されてないのではないか、もしあるとしたら、施設の祖母の部屋を探したほうがよかったのではないか、という考えが頭をよぎりましたが、私は最後に、鍵を壊して引き出しをこじ開けてみようと思いました。
なにか叩く道具はないかと辺りを見回すと(そんなものがあるはずないのですが)、ふと、椅子に掛けられたランドセルが視界に入りました。そしてまた、それが秘密の扉であるかのように、その中を見てみたいという衝動が私をとらえたのです。すぐに、それが無意味な、馬鹿馬鹿しい思いつきでしかないと感じましたが、そのあいだに私の手は、もう色褪せたランドセルの留め金を触っていました。
二本の指で底面の留め金を半回転させると、カチッという、ただそれだけですが、ひどく懐かしくて、馴染みある音がしました。
――このランドセルは古すぎる。
留め金の音の余韻に浸りつつ、私はそう思いました。近所の家から貰った中古品だから、古いのも当然なのですが。カチッという懐かしい、機械的な音が、新品のランドセルを背負うクラスメイトたちに抱いた、羨望と劣等感を私の心に蘇らせました。
留め金に指をかけたまま、ぼーっとしていたことに気づいて、私はランドセルのかぶせ部分をめくりあげました。中を覗いてみましたが、予期していたとおり、なにも入っていません。しかし別の角度からランドセルを見てみると、側面に取り付けられた留め具に、小さな鍵がぶら下がっているのを見つけたのです。それが机の鍵であるとすぐに認識し、同時に、特に理由などなかったはずですが、鍵をいつもそこに付けていたことを思い出しました。私は丁寧にかぶせ部分を元に戻しました。カチッという音を、もう一度聞きたかったのです。
簡素で小さな銀色の鍵を取り外し、私はそれをいったん目の前で凝視してから、引き出しの鍵穴に差し込んで、一回転させました。なんの音もせず、指にちょっとした手応えすら感じませんでしたが、これはそういう鍵だったとすぐに了解しました。引き出しを開けると、中から薄茶色く変色した、一通の白い封筒が現れたのです。
私はしばらくのあいだ、その封筒を見つめ続けました。部分的に変色している以外、なんの変哲もない、郵便局で売られているような、ごく普通の封筒でした。封が切られてあるのが見てとれたので、祖母が中身を見たうえで、私に黙っていたのだと理解しました。
ためらいを感じながらも、私は引き出しの中へ手を伸ばしていきました。手が封筒に近づいていくほど、ためらいはより大きなものになっていき、動作がよりゆっくりとなっていったのを覚えています。
私は封筒を取り上げました。郵便番号を記入する四角い枠があるだけで、ほかには裏面にもなにも記されていません。子どもに宛てた手紙のわりには、あまりにも無味乾燥としていて、果たしてこれがほんとうにその手紙なのだろうかと、一瞬訝りました。
恐る恐る、触れれば壊れてしまうものを扱うかのように、私は封筒のなかから手紙を抜き出しました。三つ折りにされた便箋が二枚、重なっていただけです。心なしか、便箋はわずかに湿っぽく感じられました。
私は手紙をひろげ、大きく息をしてから、その内容を読みはじめました。栄くんへ、と書きはじめられた文字を見て、ようやくこれがその手紙であると確信できました。しかしそれが母からのメッセージだという実感は、まるで湧いてきませんでした。母がどんな字を書くひとなのか、よく知らなかったからでしょう。
手紙は長いものではなかったので、すぐに読み終えました。
そのとき受けたショックのことは、弁護士さんなど色んなひとに話をしてきたので、ここで改めて書くつもりはありません。ただ事実として、しばらくのあいだ、手の震えが止まりませんでした。私は全てを知り、そして祖母が口をつぐんでいた理由も悟りました。お前はお前の母を犯した強姦魔の子である、なんて普通は言えなくて当然でしょう。ただ、一度だけ祖母と怒鳴り合いの大喧嘩をしたとき、激高した彼女が『お前は悪魔だ』と言ってきたことがあったのを思い出しました。
……私は長いあいだ、その場から動けずにいました。周りの一切のものが完全に停止して、窓から差し込む夕日も、凍りついてしまったかのようでした。
やがて私は、手紙を机のうえに置き、窓の外を眺めました。夕焼けに彩られた小さな裏庭で、目に映るものがみな、輪郭をおぼろげにしながら闇へ没していく様子を、ただじっと見つめていたのです。夕暮れ時があんなにも哀しいものだなんて、そのときまで知りませんでした。手紙を読んだ私は、却って自分がこれからなにをすべきか、わからなくなっていました。
そのとき、夕日を背にした先生の姿が浮かび上がってきたのです。そして最後に言われた言葉が、重い響きをもって、脳内にこだましてきました。
『みんな、そうしているんですよ』
呪縛から解き放たれたように、私はポケットからミニカーを取り出し、手紙の上、ちょうどその真ん中の辺りに乗せました。白いスポーツカーは、左側のドアが失われており、わりと細かく作りこまれた車内の赤い座席がむき出しになっています。いつだったか、母が帰ってこなくなってからしばらくあと、いつものようにレースごっこをしていたとき、衝動的にそれを壁に投げつけて壊してしまったからです。壁から勢いよくはね返り、ドアを失くして床に転がったスポーツカーを、私は死んでしまった小鳥を拾い上げるかのように両手に乗せ、どこか見えない場所にしまいました。そしてそれ以降、二度とミニカーで遊ぶことはありませんでした。
私はふと、あの哀れな、小さな男の子にかけるべき言葉がまだあったと、気づきました。
「大切なものは、もっと大事に扱わなきゃいけないよ」
声に出してそう言うと、頭のなかに先ほどよりもはっきりと、男の子の姿が見えてきました。おかっぱ頭にくりくりした目、ちょこんと盛られた小さな鼻と、そのきめ細かい肌の感触までもが鮮明に伝わってきたのです。男の子は顔を上げ、ミニカーをいじっていた手を休めて、私に言いました。
「大切なものって、なんのこと?」
「そのミニカーのことだよ」と私は言い、さらに付け足しました。
「あと、それだけじゃなくて……」
男の子は、黙って私の次の言葉を待っています。
私は徐々に顔がひきつってくるのを感じ、そして吐き出すようにして言いました。
「大切なものっていうのは……」
まぶしい日差しに照らされた、近所の公園。子どもたちのはしゃぐ声がし、小さな子たちのグループが、砂場で協力してトンネルを作っています。そのなかにいる、最も古い記憶の私。むき出しの足に、湿った砂粒を無数にこびりつかせ、懸命に砂をかいています。
私の役割は、トンネルから続く道を掘り進め、その先に大きな池を作ること。池は、大きければ大きいほどいい。バケツを抱えた子が戻ってきて、スタート地点に勢いよく水を流し込みました。透明な水は、すぐに濁流となり、トンネルの下をくぐってぐんぐんと進んでいきます。そして氾濫する河川のように、私が作った溝から溢れながらも、池に到達して大きな水たまりとなりました。子どもたちの歓声があがり、私は近くにいた母のもとへ駆け寄って、自分たちの成果を見せつけます。母は目を細めて、私と、子どもたち全員を褒め称えました。
同じ公園で、少し大きくなった私が、ブランコで遊んでいます。空が急に曇ってきて、雨がぽつぽつと降りはじめました。まだ遊び足りない私は、構わずブランコをこぎ続けます。しばらくすると、遠くのほうから母の声が聞こえてきました。母が傘を持って迎えに来たのです。私はブランコから飛び降り、母を見上げて、不思議そうに訊ねました。
「どうしてここにいるってわかったの?」
雨粒とともに、母のやさしい声が降りかかってきました。
「だって、公園に遊びに行くって言ってたじゃない」
私は受け取った傘をさし、母と並んで家路につきました。足を高くあげ、靴を踏み鳴らすようにして歩き、上機嫌になって歌をうたう……。そのメロディが、いまも私の脳裏に焼き付いています。
ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらん、らん、らん
「母さん……」
記憶を駆け巡った私の口から、そんな言葉が漏れました。
窓の外で、最初の街灯が明かりを灯しました。ぼろぼろの生垣とその周辺はもう、ほの暗い影に覆われています。
私は机に置かれたミニカーと手紙に、視線を移しました。
そしてまた、ポケットのなかに手を突っ込みました。白いスポーツカーが納められていたそのポケットには、もうなにも入っていません。すぐに反対側のポケットをまさぐると、確かな感触があって、私はそこからライターを取り出しました。ドラム型のヤスリを二回まわしたとき、ライターに火が灯り、私はそれを便箋に近づけました。
火は素早く紙の上に燃えひろがりました。黒く細い煙があがって、ごめんなさい、ほんとうにごめんねと書かれた箇所が焦げていくのが見えました。火はさらに弧を描くようにひろがって、白いスポーツカーが炎に包まれました。
私はそのまま踵を返し、扉へ向かったのです。火のことは、なぜかまったく気になりませんでした。すると扉の前で、小さな男の子が行く手を遮るように、机を指さして言ってきました。
「ねえ、机のうえが火事だよ」
私が黙っていると、彼は同じトーン、同じ声量で、さらに言ました。
「あと、大切なものって、なんのこと?」
不思議そうな顔をしている男の子を見下ろしながら、私は静かに、今度は諭すようにして応じました。
「大切なものっていうのは……」
「きみのお母さんは……」
私の右手がまっすぐ伸びていき、男の子の細い首を捉えました。男の子は表情を変えずに、じっと私を見つめています。かすかに腕を震わせる私の耳にまた、重々しく、まるで鐘の音のように、先生の声が響いてきました。
「みんな、そうしているんですよ」
私は右手に力を込めました。一心不乱に、握り潰すようにして、男の子の首を絞めつけました。男の子はそれでも表情を変えずに、大きな目で私を見つめ返しています。あまり言いたくないのですが、そのとき私は、泣いていました。手のひらが熱くなるほど右手に力を込め続け、実際にはドアノブを握りながら、泣いていたのです。
どのくらいの間そうしていたでしょう。全身の力を緩めたとき、私はうつむいたままで、頭に浮かぶものはもう何もありませんでした。ただ一刻も早く、この部屋から出たいという欲求があっただけでした。
私はドアノブを回し、薄暗い廊下を通り抜け、そのまま振り返ることなく家をあとにしました。
それから先のことは、先生もご存知のとおりです。私はすぐに寮へ戻り、なにを食べたか覚えていませんが、食事をとって早い時間に寝ました。そして翌日のニュースで家が燃えてしまったことを知り、警察署に出頭しました。先生には身元引受人になって頂き、改めて感謝致します。
審判のことや、その前の警察や調査官からの聞き取りについては、もうあまり印象に残っていません。裁判官を含めて、みんな丁寧に接してくれましたし、審判はいくつか聞かれたことに答えただけで、あっけなく終わった感じです。火がカーテンに燃え移ったことで、あれほどの火災になったようだと聞かされたときは、正直運が悪かったなと思いましたが。それでも隣の家に燃え広がらなかったのは、不幸中の幸いでした。
最後にもうひとつ、審判でも話したことを改めて申し上げたいのですが、私は母を恨んではいません。
高校生だった母が周囲の反対を押し切り、葛藤のなかで最終的に私を産む決断をしたこと、それでも現実に耐えられなくなって、結局私を置いて家を出てしまったことは、手紙を読み終えた直後でも心情として理解できました。母がどれだけ苦しかったかを想像すると、責める気にはなれないのです。もう母を探そうとは思いません。どこかで幸せに暮らしていることを願っています。
私がお伝えすることは以上です。ここまで長々と書き連ね、乱文につき先生にどれだけご理解頂けたか覚束ないのですが、正直に自分の気持ちを書いてきました。
追ってまたご挨拶に伺わせて頂きます。その際はよろしくお願いします。
敬具
六月三日 星川栄作 」
この手紙をもう何度も読み返しているが、母を恨んではいないという彼の言葉には、毎回心を揺さぶられる。私が彼だったらどうだろうかと考えようとしても、私の乏しい想像力では、たとえ仮にでも自分が母親から捨てられた、強姦魔の子であるという立場になってみることすらできないのだ。
もう一つ、この手紙を読んでもわからないのは、彼が真実を知ったことをどうとらえているのか、ということだ。果たして彼はよかったと思っているのだろうか。そして手紙の存在を伝えた私のことを、どう思っているかについても同様である。
彼は自身の言葉でいうところの「自らに決着」をつけることができたのだろうか。私に対する印象も、要はそれ次第であろう。私は今日、彼の口からそれを聞いてみるつもりでいる。彼を迎えに行った日以降、保護観察中のあいだ、私は事件やそれに関する一切に触れようとしなかったし、彼もまた同じだった。彼からの手紙への返信も、ねぎらいと励ましの言葉を並べたうえで、近いうちにまた会おうといっただけの内容にとどめていた。今日彼にそれを聞いてみようと思うのは、彼のことだから、いつまたぷっつりと連絡がとれなくなっても不思議ではなく、今日を逃したら永遠に聞く機会を失ってしまうかもしれないからだ。
私は気が重くなるのを感じながらも、テーブルに残された読みかけのもう一通、最初に送られてきた手紙を手元に引き寄せた。たしかこの手紙の残りの部分には、施設での暮らしや、初枝さんとの葛藤、そして彼にとって唯一の親友だった、拓矢との思い出が綴られていたはずだ。拓矢のことについても、いずれまた考えなければならない。ある日突然施設に帰ってこなくなり、今も行方不明のままだ。噂では、暴力団の抗争に巻き込まれたとされている。
ざっと文字を追って、続きの段落を探していると、家の電話が鳴った。
こんな時間に電話が鳴るのは珍しい。町のひとたちは皆、この時間に私がソラの散歩をしていることを知っている。
私は手紙を持ったまま立ち上がり、電話機のディスプレイを確認した。彼の番号が表示されている。急用で行けなくなった、などといってキャンセルするつもりだろうかと訝りながら、私は受話器をあげた。
「あ、先生、栄作です。よかった、家におられるんですね。じつはお伺いする時間を少し早められないかと思いまして……」
キャンセルではなかったことに安堵しつつも、私はやや困惑した。
「ええ、それは構いませんが……何時にしますか?」
「じつはもう、駅に着いてまして……。突然で申し訳ありませんが、今から伺ってもよろしいでしょうか?」
まだ予定の時間より一時間ちかく早い。だが断るほどの理由もないので、私は了承して電話を切り、すぐに手紙を片付けはじめた。彼の予想外の行動には、相変わらず困らせられる。電車に乗る前にだって、連絡できただろうに。
手紙をすべて読み返すこともできなかったと思いながら、私は慌ただしく電気ポットのスイッチを入れ、台所の隅の扉から茶葉を取り出した。妻がいつも来客用の茶菓子を保管していた場所だ。それから以前、彼との面会のときに持っていっていたものと同じチョコレート菓子を、籠のうえに無造作に広げた。
そうして簡単な準備を整えつつ、彼に聞かねばならないことを思い起こしているうちに、玄関のチャイムが鳴って、扉の先に彼が姿を現した。
「お久しぶりです。突然すみませんでした」
髪がやや短くなっているものの、全体的には最後に会ったときとさほど変わっていない印象を受けた。表情は暗くない。
彼は靴をきちんと揃えて框を上がった。薄いグレーのジャケットといい、上下ともすらっとした服を着こなしていて、市内で見かける若者とはどこか雰囲気が違っている。警察署へ迎えに行った日にはそんなふうに思わなかったが、ああいう生活をしていても、一応東京でセンスが磨かれたということだろうか。
形式的な挨拶を済ませて応接間に入り、楽に座るよう伝えると、彼はどさりと座布団に尻をついてあぐらをかいた。私は外から来た彼のために、ストーブの設定温度を一度上げてやった。
「いやあ、今日はほんとうに寒いですね」と言いながら彼は上着を脱いだ。そしてなにを喋るわけでも、なにを喋るか考えているふうでもなく、鷹揚に部屋の中をあちこち見回しはじめた。
私は彼が照れ隠しにそうしているのだろうと思い、しっかりと彼の目を見据えて言った。
「変わりありませんか」
「ええ、風邪をひくこともなく、元気にしてます」
彼の表情からは鬱屈としたものが消えていて、私の視線をごく自然に受け止めながら、リラックスしているのが見てとれた。
「先生はお元気でしたか?」
「相変わらずです。近ごろは膝の痛みがひどくなってきててね。アルバイトは続けていますか?」
「はい。べつに楽しいわけじゃないけど、ちゃんと続けてます」
短い沈黙が訪れた。すると彼はまた、部屋を無遠慮に見回しはじめ、独りつぶやくように言った。
「奥さんのお葬式でお邪魔したときから、あまり変わってないですね」
なぜ彼が急にそんなことを言ってきたのかはさておき、それは事実だった。応接間のなかはもちろん、台所の食器の配置に至るまで、なるべく妻がいた頃と変わらないようにしている。彼女が買ってきた造花も、小さな飾り絵も、私の趣味ではなかったがそのままにしてある。変わったことといえば、部屋の角に彼女の仏壇が置かれたくらいだろう。
「ええ、特に変える必要もないですからね」
「そういえば先生、お葬式のときにした話、覚えてますか?」
なんのことだろうと思った。葬儀には旧知の学校関係者も多く訪れていて、なかにはひどく懐かしい顔もあり、私は忙しく立ち回っていた。彼が来たのはもちろん覚えているが、話などしただろうか。あのときなにか彼に伝えようとしていたことがあったものの、彼が人前では私と話すのを避けているように見えたのもあり、結局話ができなかったと記憶している。
「ええと……どんな話でしたか」
「エミと付き合いはじめたって話ですよ。あの場で言うべきか悩みましたが、エミも同じ小学校だったから、一応先生にお伝えしとこうと思ったんです。先生はエミのことも覚えていると仰ってました」
「ああ、ええ、そうでしたね……」
記憶違いではないですか? という言葉を飲み込み、まったく思い出せないまま返事をしたのだが、彼はそんな私の様子を見ても頓着せずに続けた。
「それで、彼女とまた付き合うことになったんです」
そうでしたか、それは結構ですねと私が応じると、彼は近々そのエミという子と同棲をはじめる予定で、もう物件もほぼ決めており、いまは必要なものを買い揃えるため、あちこちの店を二人で物色しているところだと語りはじめた。家具や家電製品から、茶碗や箸などの細々としたものまで、リストを作って安いところを見て回っているという。
「それにしても女って、どうしてあんなに雑貨を見るのが好きなんですかね。百円ショッブになんか行ったら、何時間でも店から離れようとしないですし。こっちが疲れちゃって『もうどれでもいいから早く決めよう』なんて言おうものなら、やたらと不機嫌になったりして」
ここに至って、私は彼の印象がすっかり変わっていることに気づかされた。これほど自然に、淀みなく喋る彼の姿を見るのは初めてだ。表情にやや疲れのようなものが残っているが、その目にはかつてない、年齢相応の活力が見てとれる。
私の驚きをよそに、その後も彼は楽しげに、延々とエミに関する話をした。料理が得意で、パスタを使ったレシピが豊富だとか、二人の休みを合わせるために、いま勤めている居酒屋を辞めることになっており、そうしたら旅行に行くつもりだとか。終始上機嫌で、のろけ話をしに来たのかと思うほどだったが、そのうち私は、きっと彼なりに自分の今後について話を聞かせようとしているのだろう、と思うようになり、真剣に耳を傾ける努力を続けた。
「じつはこのあとも、エミと会う約束になってまして。それで先生の家に、ちょっと早く来てしまいました」
ひとしきり喋ると彼はそう言って、また雑貨屋に連れていかれなければいいんですが、と自嘲気味に笑った。
私はその場のペースを取り戻そうと、聞くべきことを訊ねた。
「それで……実家の解体の件はどうなりましたか?」
「ああ、それなら祖母の後見人のひとが紹介してくれた業者に頼んで、もう手配してあります。無理を聞いてもらえたので、貯金に少し足が出るくらいで済みそうです」
「そうでしたか。それならよかったですね。近所の方々が、いつまで放置するのかと騒いでいると聞いていましたから。それと、初枝さんには会いに行っていますか?」
「ええ、たまにですけど。体は問題ないみたいですが、このところはもう僕のこともわからなくなってきてますね」
初枝さんの状態については、私もだいたい知っていたので驚きはなかった。私は「それは残念ですね……」と言いながら、手紙を読んだことに対する心情について、話を切り出す機会をうかがいはじめた。
体にやや緊張が走るのを感じつつ、具体的な言葉を思案していると、彼はどこか他人事のように初枝さんの状態をさらに報告したあと、もっとゆっくりしたいけど、そろそろ行かなきゃ、と言って膝の上に乗せた上着を広げはじめた。
私は呆気にとられた。まだそれほど時間も経っていなかったし、もっと話すべきことがあるのではないか。
少し引き留めようとしかけたが、私はすぐに思い直して、快く見送ることにした。
考えてみれば、彼から改めて感謝だの謝罪だのの言葉を聞きたかったわけでもないし、きっと彼はもう、彼なりに自分の新しい人生を生きているのだろうと思ったからだ。未来を思い描いて今日を生きる。それは彼にとって、初めての作業なのかもしれない。そんな彼に、過ぎたことを無理やり語らせ、手紙についてどう思うかなどと訊ねるのも、無粋であろうと考えるようにした。
待ち合わせに遅れそうだ、と言って足早に玄関へ出て、靴を履こうとしている彼の背中が、心なしか頼もしく見えた。私はわざとらしいほど明るく「それじゃあ、これからはうまくやっていけそうですか」と声をかけた。
「ええ、なにも問題ありません」
彼は立ち上がってドアを開けると、外の冷たい空気を浴びても怯むことなく、「先生、今度はエミを連れてきますよ。それでは、失礼します」と快活に言って木枯らしのなかへ消えていった。
ドアが閉まり、玄関に残された私は、鍵をかけて応接間へ戻った。
部屋を開けっぱなしにしていたので、仏壇の脇でガスストーブがうなりをあげている。
椅子に座って茶をすすり、まだ彼のぬくもりが残っているであろう対面の座布団を眺めながら、私は彼の未来を想像してみた。彼がエミという子を連れて来ることは、たぶんないだろう。人生がうまくいっているあいだは、若者がわざわざ年寄りの家を訪ねようとなんてしないものだ。もしかすると、彼の生活が順風満帆なら、大袈裟でなく次に彼が私と対面するのは、私の葬式のときかもしれない。今日、彼の様子を見て、なんとなくそんな気がした。
静けさが戻った部屋で、私は残っていた茶を飲み干し、妻の遺影に目を移した。そして、もっと急いで人生の清算を済ませなければならない、と考えた。
仏前の白や黄色の菊が、しおれはじめている。あれほど花を愛していた妻に、一番好きな花はなにかと聞いておかなかったことへの後悔がまたこみ上げてきて、私は茶碗に手をかけたまま、そっと両目を閉じた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
麗しき未亡人
石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。
そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。
他サイトにも掲載しております。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる