10 / 10
第3章:沈黙の鐘
第10話: 情報屋カイルの誘惑
しおりを挟む
浮遊都市の朝は、本来であれば、中央大聖堂の『福音の鐘』によって幕を開ける。
その鐘の音は、魔導拡声術式によって都市の隅々まで均一な音量で届けられ、市民に一日の始まりを告げる神聖な律動(リズム)だった。しかし、その日の朝、都市を包み込んだのは静寂だった。予定された時刻を過ぎても、空を震わせるはずの重厚な金属音は響かなかった。
「……耳が痛いほどの静けさですね」
テオは鑑定所の奥で、分解された時計の歯車をピンセットで掴んだまま、独り言のように呟いた。
環境制御されたこの都市において、予定された音が鳴らないという事態は、物理的な不調というよりも、世界の法則そのものが歪んだかのような不気味な違和感を伴っていた。
その時、鑑定所の古びたドアが、遠慮という言葉を知らない勢いで蹴開けられた。
「おいテオ! 生きてるか、物理の亡霊!」
騒々しい声と共に飛び込んできたのは、使い古された情報端末を肩から下げた少年だった。テオと同じ十七歳。学園の情報管理局に所属しながら、魔力指数の低さゆえに「落ちこぼれ」の烙印を押されている少年、カイルである。
彼はテオの作業机に乱暴に身を乗り出すと、手垢のついた端末の画面を無理やりテオの目に近づけた。
「見たか、今朝のニュース。大聖堂の『福音の鐘』が沈黙した。魔導師どもは血相を変えて『精霊のストライキだ』とか『聖域の魔素不足だ』とか抜かしてるが、俺の勘が言ってる。これは最高の『失敗(エラー)』だぜ」
カイルは、他人の不幸や魔法の失敗を何よりも好む歪んだ情熱の持ち主だった。彼にとって、完璧な魔法社会が露呈する一瞬の「綻び」こそが、世界で最も価値のある情報だった。
「カイル、声が大きい。それに、依頼ならアイリスに。彼女が今のところ、この店の受付兼助手ですから」
テオが視線を向けると、店の隅で真剣な表情で床を掃いていたアイリスが、箒を抱えたまま上品に一礼した。
「おはよう、カイル。……テオ、掃き掃除は終わったわ。次は窓の『摩擦』を確認してもいいかしら?」
「アイリス様……!? なんで公爵令嬢がこんな埃っぽいところで丁稚奉公してるんだよ。世も末だな」
カイルは呆れたように肩をすくめたが、すぐに表情を「情報屋」のものへと戻した。
「まあいい、令嬢の趣味はさておきだ。テオ、この案件、お前ならどう見る? 現場の魔導師たちの報告書をハッキングして覗き見したが、奴らは『魔法回路は正常』だと断言してる。魔力は供給され、術式は起動し、鐘を叩くはずのハンマーには、確かに『運動の意思』が伝わっている。なのに、鐘は鳴らない。物理的にはハンマーが動いているはずなのに、音が一切出ないんだ」
テオはピンセットを置き、ようやくカイルの方を向いた。その半眼の奥に、わずかな熱が宿る。
「……魔法回路が正常で、物理的な音が出ない。それは矛盾していますね」
「だろう? 魔法は『鐘を鳴らせ』と命じている。だが、物理現象としての『音』という結果が拒絶されているんだ。これこそお前の大好物、魔法という嘘が物理という現実に弾き返された瞬間だと思わないか?」
カイルはニヤリと笑い、端末から一枚の図面をホログラムで投影した。
「大聖堂の鐘楼の設計図だ。といっても、魔法的な術式図じゃない。俺が過去の古文書から掘り起こした、五百年前の『純粋な構造図』だ。そこには、今の魔導師たちが『単なる飾り』だと思い込んでいる巨大な歯車と、軸受けの構造が描かれている」
テオは投影された図面をじっと見つめた。
魔法によって自動化される以前、その鐘は巨大な歯車を組み合わせ、重力のエネルギーを利用して鳴らされていた。今の魔導師たちは、その複雑な機械構造を理解せず、ただ表面的な術式を被せることで「鐘を鳴らす」という結果だけを維持している。
「鐘楼に登る許可は?」
「風紀維持局のヴァレリーが、原因不明の事態に頭を抱えて現場を封鎖してる。あいつ、真面目すぎて『魔法で解決できないはずがない』って自分を追い詰めてるぜ。……テオ、お前が行けば、あいつのプライドを粉々に砕いて、真実を引っ張り出せる」
カイルの言葉は誘惑だった。
テオにとって、好奇心は動機にならない。しかし、目の前に提示された「論理的矛盾」は、放置しておくと肌を粟立たせる不快なノイズだった。
「……物理的なハンマーが動いているのに、音が鳴らないはずがない。もし鳴らないのであれば、そこには魔法の観測から外れた『物理的な壁』が存在している」
テオは灰色の作業着の汚れを払い、工具袋を腰に巻いた。
「アイリス、店を閉めます。今日は、鐘の音の正体を探りに行きましょう」
「はい、テオ! 物理的な『響き』の正体、私もこの目で見たいわ」
アイリスは嬉々として箒を置き、テオの後に続いた。
カイルはそれを見て、満足げに端末を叩く。
「よし、役者は揃ったな。……この街に、本物の『音』を取り戻してやるよ。魔法の嘘っぱちじゃない、鼓膜を震わせる本物の衝撃をな」
三人は、沈黙に包まれた都市の中央へと歩き出した。
天空にそびえる大聖堂の鐘楼が、何も語らぬまま、冷たい秋の陽光を反射して立ちはだかっていた。その巨大な鐘の内部で、物理法則が静かに、しかし決定的に「沈黙」を命じている理由を、まだ誰も知らなかった。
その鐘の音は、魔導拡声術式によって都市の隅々まで均一な音量で届けられ、市民に一日の始まりを告げる神聖な律動(リズム)だった。しかし、その日の朝、都市を包み込んだのは静寂だった。予定された時刻を過ぎても、空を震わせるはずの重厚な金属音は響かなかった。
「……耳が痛いほどの静けさですね」
テオは鑑定所の奥で、分解された時計の歯車をピンセットで掴んだまま、独り言のように呟いた。
環境制御されたこの都市において、予定された音が鳴らないという事態は、物理的な不調というよりも、世界の法則そのものが歪んだかのような不気味な違和感を伴っていた。
その時、鑑定所の古びたドアが、遠慮という言葉を知らない勢いで蹴開けられた。
「おいテオ! 生きてるか、物理の亡霊!」
騒々しい声と共に飛び込んできたのは、使い古された情報端末を肩から下げた少年だった。テオと同じ十七歳。学園の情報管理局に所属しながら、魔力指数の低さゆえに「落ちこぼれ」の烙印を押されている少年、カイルである。
彼はテオの作業机に乱暴に身を乗り出すと、手垢のついた端末の画面を無理やりテオの目に近づけた。
「見たか、今朝のニュース。大聖堂の『福音の鐘』が沈黙した。魔導師どもは血相を変えて『精霊のストライキだ』とか『聖域の魔素不足だ』とか抜かしてるが、俺の勘が言ってる。これは最高の『失敗(エラー)』だぜ」
カイルは、他人の不幸や魔法の失敗を何よりも好む歪んだ情熱の持ち主だった。彼にとって、完璧な魔法社会が露呈する一瞬の「綻び」こそが、世界で最も価値のある情報だった。
「カイル、声が大きい。それに、依頼ならアイリスに。彼女が今のところ、この店の受付兼助手ですから」
テオが視線を向けると、店の隅で真剣な表情で床を掃いていたアイリスが、箒を抱えたまま上品に一礼した。
「おはよう、カイル。……テオ、掃き掃除は終わったわ。次は窓の『摩擦』を確認してもいいかしら?」
「アイリス様……!? なんで公爵令嬢がこんな埃っぽいところで丁稚奉公してるんだよ。世も末だな」
カイルは呆れたように肩をすくめたが、すぐに表情を「情報屋」のものへと戻した。
「まあいい、令嬢の趣味はさておきだ。テオ、この案件、お前ならどう見る? 現場の魔導師たちの報告書をハッキングして覗き見したが、奴らは『魔法回路は正常』だと断言してる。魔力は供給され、術式は起動し、鐘を叩くはずのハンマーには、確かに『運動の意思』が伝わっている。なのに、鐘は鳴らない。物理的にはハンマーが動いているはずなのに、音が一切出ないんだ」
テオはピンセットを置き、ようやくカイルの方を向いた。その半眼の奥に、わずかな熱が宿る。
「……魔法回路が正常で、物理的な音が出ない。それは矛盾していますね」
「だろう? 魔法は『鐘を鳴らせ』と命じている。だが、物理現象としての『音』という結果が拒絶されているんだ。これこそお前の大好物、魔法という嘘が物理という現実に弾き返された瞬間だと思わないか?」
カイルはニヤリと笑い、端末から一枚の図面をホログラムで投影した。
「大聖堂の鐘楼の設計図だ。といっても、魔法的な術式図じゃない。俺が過去の古文書から掘り起こした、五百年前の『純粋な構造図』だ。そこには、今の魔導師たちが『単なる飾り』だと思い込んでいる巨大な歯車と、軸受けの構造が描かれている」
テオは投影された図面をじっと見つめた。
魔法によって自動化される以前、その鐘は巨大な歯車を組み合わせ、重力のエネルギーを利用して鳴らされていた。今の魔導師たちは、その複雑な機械構造を理解せず、ただ表面的な術式を被せることで「鐘を鳴らす」という結果だけを維持している。
「鐘楼に登る許可は?」
「風紀維持局のヴァレリーが、原因不明の事態に頭を抱えて現場を封鎖してる。あいつ、真面目すぎて『魔法で解決できないはずがない』って自分を追い詰めてるぜ。……テオ、お前が行けば、あいつのプライドを粉々に砕いて、真実を引っ張り出せる」
カイルの言葉は誘惑だった。
テオにとって、好奇心は動機にならない。しかし、目の前に提示された「論理的矛盾」は、放置しておくと肌を粟立たせる不快なノイズだった。
「……物理的なハンマーが動いているのに、音が鳴らないはずがない。もし鳴らないのであれば、そこには魔法の観測から外れた『物理的な壁』が存在している」
テオは灰色の作業着の汚れを払い、工具袋を腰に巻いた。
「アイリス、店を閉めます。今日は、鐘の音の正体を探りに行きましょう」
「はい、テオ! 物理的な『響き』の正体、私もこの目で見たいわ」
アイリスは嬉々として箒を置き、テオの後に続いた。
カイルはそれを見て、満足げに端末を叩く。
「よし、役者は揃ったな。……この街に、本物の『音』を取り戻してやるよ。魔法の嘘っぱちじゃない、鼓膜を震わせる本物の衝撃をな」
三人は、沈黙に包まれた都市の中央へと歩き出した。
天空にそびえる大聖堂の鐘楼が、何も語らぬまま、冷たい秋の陽光を反射して立ちはだかっていた。その巨大な鐘の内部で、物理法則が静かに、しかし決定的に「沈黙」を命じている理由を、まだ誰も知らなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜
桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。
上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。
「私も……私も交配したい」
太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる