「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第1章 婚約破棄と清算

6、彼女が抜けた穴

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翌朝、目を覚ましたとき、リディアは一瞬だけ、自分がどこにいるのかわからなかった。

薄いレース越しに差し込む朝の光。見慣れた天蓋。見慣れた静けさ。

なのに胸の奥に残る鈍い痛みだけが、昨夜が夢ではなかったことをすぐに思い出させる。

婚約は終わった。
しかも、王都じゅうの視線の前で。

リディアは目を閉じたまま、浅く息を整えた。

眠れたのかと問われれば、曖昧だった。だが少なくとも、朝は来ている。

「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか」

扉の向こうから、控えめな侍女の声がする。

「ええ」

返事をすると、ほどなく湯と着替えが運ばれてきた。侍女たちの手つきは普段と変わらない。変に労わりすぎもしないし、妙に明るくも振る舞わない。その抑えた気遣いが、今朝のリディアにはありがたかった。

身支度を整え、机へ向かう。

昨夜書き出した確認事項の紙は、朝の光の下ではいっそう乾いて見えた。項目は増え、通達文面の叩き台も半ばまで仕上がっている。途中で眠気ではなく頭痛に負けて筆を置いた記憶があるが、そこまでたどり着いただけでも上出来だろう。

机上にはすでに、三通の書状が整然と並べられていた。

嫌な予感がする。

一通目は、宝飾商から。
婚約成立に伴いエーヴェル家側で準備されていた品の一部について、昨夜の噂を聞きつけたため、今後の扱いをどうすべきか確認したいという内容。

二通目は、仕立屋から。
グランツ家側から急ぎで依頼されていた礼装の一部について、婚約解消が事実であれば請求先と納品先の確認を願いたい、とある。

三通目は、カルヴァン伯爵家の夫人から。
来週予定している娘の顔合わせの席順について、「以前、リディア様よりいただいたご助言を今一度確認したく」と記されていた。

リディアは三通を読み終え、しばらく黙った。

まだ朝だ。
王都の本格的な一日はこれから始まる。なのに、もうこうだ。

「お嬢様」

老執事が静かな足取りで入ってきた。

「ご朝食の前に、いくつかご報告を」

「お願い」

「まず、グランツ家より正式な使者はまだ参っておりません。ただ、先方の従者から“昨夜の記録の控えを確認したい”との口頭の打診がございました」

リディアは小さく頷く。

やはり、朝になって困り始めたのだろう。昨夜の場では勢いで頷いたことも、家へ戻れば説明を求められる。

「それから」

執事は続けた。

「西区のカルヴァン伯爵家より、来週の顔合わせに用いる紹介順について至急確認したいとのことです。リディア様のお返事待ちで、案内状の発送を止めているそうで」

リディアは思わず顔を上げた。

「私の返事待ちで?」

「はい。先月、伯爵夫人より非公式にご相談を受けておられたとか」

記憶を辿る。

たしかにあった。長女が年上の再婚貴族へ嫁ぐ件で、前妻の子との順列や、顔合わせの席で誰を先に紹介すべきかを夫人が気にしていた。正式な依頼というほどではなかったから、夜会の帰りに簡単なメモだけ渡しておいたはずだ。

それが、まだ発送前だった。

「他には」

「東方商会とアストル子爵家の婚資調達について、会計窓口の認識に食い違いが生じております。先方は“いつもならエーヴェル嬢が順序を整えてくださるので”と」

執事はそこで一拍置いた。

「……王都では思った以上に、リディア様のお手が入っていたようです」

苦笑する気にもなれなかった。

そうなのだろう。
けれど自分でも、どこまでを“ついで”として拾っていたのか、全部は数えられない。正式な役職があったわけでもない。ただ、見えてしまったから整えていただけだ。

そのうえで「条件ばかり」と言われるのだから、少しばかり報われない。

「父は?」

「書斎に。お嬢様がお目覚めになったら一度顔を見せてほしいと」

「ええ」

リディアは手元の書状を揃えた。

「朝食のあとに伺うと伝えて」

執事が一礼して下がる。

静かになった部屋で、リディアはもう一度三通の書状を見た。

まだ大した混乱ではない。

請求先、紹介順、目録の確認。どれも、今すぐ王都がひっくり返るような話ではない。

だが逆に言えば、誰もまだ“こういう小さなこと”が積み重なる重さを理解していないのだ。大騒ぎにはならないが、放っておけば少しずつ人間関係と家の体面を削る。その種を、昨夜だけで何個も撒いてしまったのがユリウスだった。

朝食を半ばほど取ったところで、リディアは父の書斎を訪ねた。

エーヴェル伯は机の向こうで書面を広げていた。娘の姿を見ると立ち上がりこそしなかったが、その視線には普段以上の注意深さがあった。

「体調はどうだ」

「問題ありません」

「そうか」

父は短く頷く。それ以上、気分はとは訊かなかった。その距離感がありがたい。

「昨夜の記録は読んだ」

伯は指先で紙束を揃えながら言った。

「お前の判断でよかったと思う」

その言葉に、リディアは少しだけ肩の力が抜けた。

「ありがとうございます」

「グランツ家は甘く見たな。婚約破棄そのものより、あの場で公言したことがまずい。しかも整理もなく」

父は眉間を軽く押さえる。

「朝から問い合わせが二件来た。あの場にいた者たちが、グランツ家はどこまで把握していたのか探ってきている」

「やはり」

「お前が昨夜のうちに最低限の確認を取っておいて正解だった。でなければ今朝の時点で、うちが一方的に捨てられた上に、何も備えていなかった家だと見られていただろう」

言葉は冷静だったが、父が家の体面だけでなく娘の名誉も守られたと理解していることは伝わった。

「ただ」

伯は続けた。

「お前がいなくなった影響は、どうやら婚約一件では済まないようだな」

リディアは黙っていた。

自分の働きを誇示したいわけではない。だが実際に王都のあちこちで小さな綻びが出始めている以上、否定もしにくかった。

「カルヴァン家、アストル家、東方商会……今朝だけでこれだ。夜までにはもっと増えるぞ」

父は紙束の端を揃える。

「お前はどこまで無償で拾っていた?」

「……拾える範囲で」

「それが問題だ」

厳しく聞こえる口調だった。だが叱責ではない。むしろ、今まで見過ごしていたことへの父自身の反省が混じっているように思えた。

「見える者が黙っていられない性分なのは知っていた。だが、王都の連中がお前を“便利な相談役”として使いすぎていたなら話は別だ」

便利な相談役。

昨夜、社交界が自分へ向けていた視線とぴたりと重なって、リディアはほんの少しだけ息を詰めた。

「しばらくは、すべてに応じなくていい」

父は言った。

「今優先すべきはグランツ家との正式な整理と、お前自身の立て直しだ」

“お前自身の立て直し”という言い方に、リディアは目を伏せる。

父なりの精一杯なのだろう。

「……はい」

書斎を辞して自室へ戻るころには、問い合わせはさらに増えていた。

昼前には四通。
午後には六通。

婚約披露の席次をどうするべきか。
離縁寸前の親族間交渉に一言もらえないか。
娘の持参金の見せ方について助言を願えないか。

中には露骨に図々しいものもある。まるで昨夜の婚約破棄など些末な事故にすぎなかったかのように、変わらず便利な相談役を求めてくる。

だが、その紙束を見下ろしていると、妙な感覚が湧いてきた。

腹立たしさだけではない。
呆れとも、優越感とも違う。

――ああ、これほどか。

自分が抜けた穴は、思っていたよりずっと広かったのだ。

そのことに今さら驚いている自分も、おかしかった。

拾っていたのは自分自身なのだから。本当なら一番知っていていいはずなのに、いつの間にか“自分が拾うのは当然”という感覚に慣れてしまっていた。

午後の終わり近く、執事が再び部屋を訪れた。

「法務局より使いの者が」

リディアは顔を上げる。

「グランツ家の件で?」

「いえ。裁定官補佐セオドア・ヴァレント様より、リディア様へ直接面会の打診が」

胸の奥で、何かがわずかに動く。

驚きというほどではない。だが朝から届いたどの書状とも違う重さがあった。

「ご用件は」

「“昨夜の件も含め、至急お伝えしたいことがある”とのみ」

執事は一枚の名刺を差し出した。

簡潔な法務局の紋章。無駄のない筆致。社交辞令だけでは終わらなそうな硬さ。

リディアはそれを受け取る。

昨夜、彼は一度も自分を慰めなかった。
だが必要なことを必要だと言った。
たったそれだけのことが、なぜだか妙に印象へ残っている。

「お通しして」

「かしこまりました」

執事が下がる。

リディアは手元の紙束へ目を落とした。

婚約披露、持参金、席次、顔合わせ、通達文面。自分が少し手を離しただけで、王都はこうして小さく軋み始める。

ユリウスはまだ、その意味を十分には理解していないだろう。
けれど理解する日は来る。嫌でも。

そのとき自分が何を感じるのかは、まだわからない。

ただ一つ言えるのは、昨夜終わったのは婚約だけではないということだ。

黙って整えてくれる誰かがいるという前提ごと、少しずつ崩れ始めている。

その崩れを、最初から当然のように見ていた男がいる。

リディアは書状の束をきれいに揃え、机の端へ寄せた。

遠くで、廊下を近づいてくる規則正しい足音が聞こえる。
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