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第1章 婚約破棄と清算
7、理解している男
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廊下を近づいてくる足音は、妙に規則正しかった。
急いでもいない。
気取ってもいない。
ただ一定の速度で、まっすぐこちらへ向かってくる。
リディアは机の上へ広げていた書状をまとめ、端へ寄せた。散らかっていたわけではない。むしろ整然としている。だが今は、その整然とした紙束そのものが、昨夜から今朝にかけて何が起きていたのかを雄弁に物語っていた。
婚約披露の席次。
持参金の扱い。
離縁寸前の親族間交渉。
顔合わせの順序確認。
自分が少し手を離しただけで、王都はこうして小さく軋み始める。
ノックが二度、控えめに響いた。
「どうぞ」
入ってきたのは、まず執事、その後ろにセオドア・ヴァレントだった。
昨夜の夜会では、壁際の陰のように見えた男だ。だが昼の光の下で見ると、その印象は少し違う。黒髪も、感情の読みにくい灰色の目も同じなのに、夜会のきらびやかさを削ぎ落としたぶん、輪郭の端正さがはっきりしている。法務局の礼装は飾り気がない。なのに彼が着ると、それが不足ではなく意図のように見えた。
美しい、というより、整いすぎていて近寄りがたい。
ユリウスのような華やかさとは、まるで別の種類の男だった。
「お忙しいところ失礼いたします」
セオドアは過不足のない礼を取った。
「いえ」
リディアも礼を返し、向かいの椅子を示す。
「こちらへ。お茶をお持ちします」
「お気遣いなく」
「お気遣いではありません」
思ったより早く言葉が出た。
「客人に茶をお出しするのは、この家の手順です」
セオドアは一瞬だけリディアを見た。
次いで、ほんのわずかに口元を緩める。笑ったというほどではない。ただ、その言葉を受け入れたとわかる程度の変化だった。
「では、ご厚意に甘えます」
執事が茶器を用意し、静かに退室する。
扉が閉まると、応接間には落ち着いた静けさだけが残った。
セオドアはすぐには口を開かなかった。
その代わり、卓の端へ寄せられた書状の束へ視線を落とす。
「ずいぶん届いているようですね」
問いというより、確認の調子だった。
リディアは隠すつもりもなく頷く。
「朝から少しずつ」
「少し、ですか」
その言い方に、リディアは思わず彼を見た。
皮肉ではない。
だが、その“少し”を本気で信じてはいない声音だった。
「問い合わせばかりです」
彼女は淡々と答える。
「今すぐ王都が倒れるような話ではありません」
「今すぐは、でしょう」
セオドアは静かに言った。
その一言で、机上の紙束の意味が少し変わる。
ただの煩わしい問い合わせではなく、これから先の綻びの予兆として並べ直される。
「カルヴァン伯爵家、アストル子爵家、東方商会」
彼は続けた。
「こちらにも同様の話が回っています」
リディアの指先がかすかに止まる。
「法務局にまで?」
「家同士の取り決めが曖昧になりそうな案件は、最終的にどこかでこちらへ来ます」
セオドアは膝の上で手を組んだ。
「まだ表立って騒ぎになる段階ではありません。ですが、すでに何件かは『いつもならエーヴェル令嬢が順序を整えていた』という前提で話が進んでいました」
その言葉に、リディアは小さく息を吸う。
父の口から聞いたときよりも、他人の言葉として突きつけられるほうが、輪郭は鮮明だった。
いつの間にか王都は、自分をそこにいて当然の調整役として扱っていたのだ。
「私が抜けたところで」
言いながら、自分の声が少し硬いのがわかる。
「いずれ、誰かが拾います」
「ええ」
セオドアはあっさり頷いた。
「いずれは」
その“いずれ”に含まれる意味を、リディアは嫌でも理解した。
いずれ、誰かが拾う。
だが今すぐではない。
そして、その“今すぐではない”あいだにこぼれ落ちるものがある。
セオドアは彼女をまっすぐ見た。
「あなたが抜けた穴を、王都はまだ理解していません」
その言葉に、リディアは返事を忘れた。
昨夜、大広間のざわめきの中でも聞いた言葉だ。
けれど今、昼の光の下の静かな応接間で聞くと、重みはまるで違った。
慰めではない。
追従でもない。
ただ事実として告げられているだけだ。
だからこそ、かえって否定しにくい。
「過大評価です」
ようやくそれだけ答えると、セオドアはほとんど間を置かずに首を振った。
「そうは思いません」
即答だった。
その速さに、リディアは思わず目を上げる。
セオドアの表情は変わらない。だが、その変わらなさの中に珍しく迷いのなさがあった。
「過大評価なら、法務局まで余波は来ません。昨夜の婚約解消一件だけでなく、そこから派生する他の案件までほころび始めている時点で、あなたが単なる婚約者ではなかったことは明らかです」
単なる婚約者ではなかった。
奇妙な表現だった。
だが、ひどく正しいとも思えた。
婚約者であり、相談役であり、裏方であり、都合のよい調整者であり。
そのどれにも当てはまり、そのどれにも収まりきらない。
「ですが」
リディアは低く言った。
「それを理解していた方は、ほとんどいませんでした」
「理解していない者ほど、便利に使います」
セオドアはさらりと言う。
容赦のない言い方なのに、不思議と刺々しくは響かなかった。
相手の痛みを避けるために輪郭まで曖昧にするより、必要な形をそのまま差し出すほうを選ぶ人間なのだろう。
だから、雑に哀れまれない。
それが今のリディアには妙にありがたかった。
「昨夜の件もそうです」
彼は続けた。
「あなたの確認を可愛げがないで処理しようとする者が多かった」
リディアの喉がわずかに詰まる。
思っていた以上に、彼は見ていたらしい。
「ですが、必要事項の整理を怠った場合に誰が損をするかまで考えていた者は、ほとんどいなかった」
「……ええ」
それしか言えなかった。
ローデン侯爵夫人の笑み。
令嬢たちの囁き。
ユリウスの、穏便にというもっともらしい声。
どれもまだ、肌のすぐ近くに残っている。
「ご不快でしたら失礼を承知で申し上げますが」
セオドアが少し声を落とした。
「昨夜のあなたは、冷たいのではありませんでした」
リディアは、返事を忘れた。
「壊れたあとに、誰がどこまで沈むかを知っている方の動き方でした」
静かな声だった。
低く、平板で、聞きようによってはただの分析にも思える。
けれどその言葉は、昨夜からずっと胸に刺さっていた別の言葉――可愛げがない、正しいだけだ、息が詰まる――とは正反対の場所へ落ちた。
理解された、と感じるにはまだ怖い。
だが少なくとも、見当違いには見られていない。
それだけで、胸の奥のどこかが少し緩む。
「……あなたは」
リディアは自分でも珍しく、少し言葉を選んだ。
「ずいぶん、よく見ていらっしゃるのですね」
「職業柄です」
セオドアはそう言って、ほんのわずかに間を置く。
「それに、昨夜の件は見落とすには大きすぎました。あなたの動きも、周囲の反応も」
その付け足しが、妙な余韻を残した。
リディアは視線を落とし、茶器へ手を伸ばす。
温度を確かめるように指先を添え、ひと口だけ口をつけた。温かい。今朝も同じことを思った気がする。
「それで」
彼女はようやく話を進める。
「急ぎでお伝えしたいこと、とは何でしょう」
セオドアの目が、少しだけ仕事の色へ戻る。
「王家筋の案件です」
予想していたような、していなかったような言葉だった。
法務局の裁定官補佐が私的な慰問に来るはずもない。わかっていた。だが、いざ口にされると空気はやはり変わる。
「婚姻条件の精査が必要な件があります。しかも、あまり表立って扱えない」
「私に?」
「はい」
彼はためらわない。
「正確には、あなたの判断を借りたい」
借りたい。
従えでもなく、協力しろでもなく。
その言い回しを、リディアは静かに受け止めた。
「正式な依頼ではありません」
セオドアは続ける。
「まだ、そういう形にはできない段階です。ですが現状の条件案には明らかな穴がある」
「相手は?」
「北方大公家」
王家筋。北方大公家。婚姻条件。
頭の中で、情報が素早く位置を変え始める。
「……王女殿下ですか」
問いかけると、セオドアは即答しなかった。
その沈黙で十分だった。
ヘレナ王女。
昨夜、上段からこちらを見ていた静かな眼差し。
哀れみでも面白がりでもない、切実な何かを含んだ視線。
「まだ詳細はここでは」
「結構です」
リディアは短く遮る。
今ここで名前を明言させる必要はない。必要なのは、その案件が本物で、自分に声がかかった理由が“昨夜の同情”ではないと確認できれば十分だった。
セオドアは彼女の反応を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「資料の抜粋をお持ちしました」
彼は内ポケットから薄い封筒を取り出し、卓上へ置く。
「正式な契約案そのものではありません。確認いただきたい条項の概要だけです」
リディアは、すぐには手を伸ばさなかった。
昨夜、婚約を失った。
今朝、王都の小さな綻びが自分の不在で表面化した。
そして今、王家筋の婚姻案件の穴を見てほしいと持ち込まれている。
あまりにも、休ませる気がない流れだ。
「断ることもできます」
セオドアが言った。
その一言が、予想外に胸へ落ちる。
「私はあなたに働けと命じに来たわけではありません。昨夜の今朝です。無理に引き受けていただくつもりはない」
そこで彼はほんの少しだけ言葉を探したように間を置いた。
「ですが、あなたなら見落とさないと思いました」
リディアは封筒を見る。
断れる。
たしかに、断っていいのだろう。今の自分は婚約解消の整理だけでも十分に重い。王家の案件まで抱える義務はない。
だが同時に、その封筒の向こう側にある“穴”の輪郭を、もう想像し始めている自分がいる。
何が曖昧なのか。
誰が損をするのか。
どの条項が人を無防備にするのか。
見えてしまえば、見なかったことにしにくい。
厄介な性分だと、少しだけ自嘲したくなる。
「……中身を確認するだけなら」
そう口にした時点で、半ば答えは決まっていた。
「承知します」
「それで十分です」
セオドアは深く頷きすぎもしない。
ただ、ごく自然に受け止めた。
その押しつけがましくなさが、また少しだけありがたい。
リディアは封筒へ手を伸ばした。
中から折り畳まれた紙を取り出し、目を落とす。
最初の数行を追っただけで、呼吸が変わる。
居住権の扱い。
帰還条件の曖昧さ。
随行人数の制限。
私的書簡の検閲に関する文言の広さ。
そして、解除条件の不在。
リディアは一枚目を最後まで読み切る前に、顔を上げた。
「……これは」
声が低くなる。
感情ではなく、判断が先に立ったときの声だった。
セオドアは黙って待っている。
リディアは紙へ視線を戻し、今度はより速く目を走らせた。
読み終えたときには、もう迷いはなかった。
「これは婚姻ではありません」
昨夜の痛みも、今朝の疲れも、一瞬だけどこかへ押しやられるほど明確な確信だった。
彼女は紙を卓上へ置く。
「人質の引き渡しです」
急いでもいない。
気取ってもいない。
ただ一定の速度で、まっすぐこちらへ向かってくる。
リディアは机の上へ広げていた書状をまとめ、端へ寄せた。散らかっていたわけではない。むしろ整然としている。だが今は、その整然とした紙束そのものが、昨夜から今朝にかけて何が起きていたのかを雄弁に物語っていた。
婚約披露の席次。
持参金の扱い。
離縁寸前の親族間交渉。
顔合わせの順序確認。
自分が少し手を離しただけで、王都はこうして小さく軋み始める。
ノックが二度、控えめに響いた。
「どうぞ」
入ってきたのは、まず執事、その後ろにセオドア・ヴァレントだった。
昨夜の夜会では、壁際の陰のように見えた男だ。だが昼の光の下で見ると、その印象は少し違う。黒髪も、感情の読みにくい灰色の目も同じなのに、夜会のきらびやかさを削ぎ落としたぶん、輪郭の端正さがはっきりしている。法務局の礼装は飾り気がない。なのに彼が着ると、それが不足ではなく意図のように見えた。
美しい、というより、整いすぎていて近寄りがたい。
ユリウスのような華やかさとは、まるで別の種類の男だった。
「お忙しいところ失礼いたします」
セオドアは過不足のない礼を取った。
「いえ」
リディアも礼を返し、向かいの椅子を示す。
「こちらへ。お茶をお持ちします」
「お気遣いなく」
「お気遣いではありません」
思ったより早く言葉が出た。
「客人に茶をお出しするのは、この家の手順です」
セオドアは一瞬だけリディアを見た。
次いで、ほんのわずかに口元を緩める。笑ったというほどではない。ただ、その言葉を受け入れたとわかる程度の変化だった。
「では、ご厚意に甘えます」
執事が茶器を用意し、静かに退室する。
扉が閉まると、応接間には落ち着いた静けさだけが残った。
セオドアはすぐには口を開かなかった。
その代わり、卓の端へ寄せられた書状の束へ視線を落とす。
「ずいぶん届いているようですね」
問いというより、確認の調子だった。
リディアは隠すつもりもなく頷く。
「朝から少しずつ」
「少し、ですか」
その言い方に、リディアは思わず彼を見た。
皮肉ではない。
だが、その“少し”を本気で信じてはいない声音だった。
「問い合わせばかりです」
彼女は淡々と答える。
「今すぐ王都が倒れるような話ではありません」
「今すぐは、でしょう」
セオドアは静かに言った。
その一言で、机上の紙束の意味が少し変わる。
ただの煩わしい問い合わせではなく、これから先の綻びの予兆として並べ直される。
「カルヴァン伯爵家、アストル子爵家、東方商会」
彼は続けた。
「こちらにも同様の話が回っています」
リディアの指先がかすかに止まる。
「法務局にまで?」
「家同士の取り決めが曖昧になりそうな案件は、最終的にどこかでこちらへ来ます」
セオドアは膝の上で手を組んだ。
「まだ表立って騒ぎになる段階ではありません。ですが、すでに何件かは『いつもならエーヴェル令嬢が順序を整えていた』という前提で話が進んでいました」
その言葉に、リディアは小さく息を吸う。
父の口から聞いたときよりも、他人の言葉として突きつけられるほうが、輪郭は鮮明だった。
いつの間にか王都は、自分をそこにいて当然の調整役として扱っていたのだ。
「私が抜けたところで」
言いながら、自分の声が少し硬いのがわかる。
「いずれ、誰かが拾います」
「ええ」
セオドアはあっさり頷いた。
「いずれは」
その“いずれ”に含まれる意味を、リディアは嫌でも理解した。
いずれ、誰かが拾う。
だが今すぐではない。
そして、その“今すぐではない”あいだにこぼれ落ちるものがある。
セオドアは彼女をまっすぐ見た。
「あなたが抜けた穴を、王都はまだ理解していません」
その言葉に、リディアは返事を忘れた。
昨夜、大広間のざわめきの中でも聞いた言葉だ。
けれど今、昼の光の下の静かな応接間で聞くと、重みはまるで違った。
慰めではない。
追従でもない。
ただ事実として告げられているだけだ。
だからこそ、かえって否定しにくい。
「過大評価です」
ようやくそれだけ答えると、セオドアはほとんど間を置かずに首を振った。
「そうは思いません」
即答だった。
その速さに、リディアは思わず目を上げる。
セオドアの表情は変わらない。だが、その変わらなさの中に珍しく迷いのなさがあった。
「過大評価なら、法務局まで余波は来ません。昨夜の婚約解消一件だけでなく、そこから派生する他の案件までほころび始めている時点で、あなたが単なる婚約者ではなかったことは明らかです」
単なる婚約者ではなかった。
奇妙な表現だった。
だが、ひどく正しいとも思えた。
婚約者であり、相談役であり、裏方であり、都合のよい調整者であり。
そのどれにも当てはまり、そのどれにも収まりきらない。
「ですが」
リディアは低く言った。
「それを理解していた方は、ほとんどいませんでした」
「理解していない者ほど、便利に使います」
セオドアはさらりと言う。
容赦のない言い方なのに、不思議と刺々しくは響かなかった。
相手の痛みを避けるために輪郭まで曖昧にするより、必要な形をそのまま差し出すほうを選ぶ人間なのだろう。
だから、雑に哀れまれない。
それが今のリディアには妙にありがたかった。
「昨夜の件もそうです」
彼は続けた。
「あなたの確認を可愛げがないで処理しようとする者が多かった」
リディアの喉がわずかに詰まる。
思っていた以上に、彼は見ていたらしい。
「ですが、必要事項の整理を怠った場合に誰が損をするかまで考えていた者は、ほとんどいなかった」
「……ええ」
それしか言えなかった。
ローデン侯爵夫人の笑み。
令嬢たちの囁き。
ユリウスの、穏便にというもっともらしい声。
どれもまだ、肌のすぐ近くに残っている。
「ご不快でしたら失礼を承知で申し上げますが」
セオドアが少し声を落とした。
「昨夜のあなたは、冷たいのではありませんでした」
リディアは、返事を忘れた。
「壊れたあとに、誰がどこまで沈むかを知っている方の動き方でした」
静かな声だった。
低く、平板で、聞きようによってはただの分析にも思える。
けれどその言葉は、昨夜からずっと胸に刺さっていた別の言葉――可愛げがない、正しいだけだ、息が詰まる――とは正反対の場所へ落ちた。
理解された、と感じるにはまだ怖い。
だが少なくとも、見当違いには見られていない。
それだけで、胸の奥のどこかが少し緩む。
「……あなたは」
リディアは自分でも珍しく、少し言葉を選んだ。
「ずいぶん、よく見ていらっしゃるのですね」
「職業柄です」
セオドアはそう言って、ほんのわずかに間を置く。
「それに、昨夜の件は見落とすには大きすぎました。あなたの動きも、周囲の反応も」
その付け足しが、妙な余韻を残した。
リディアは視線を落とし、茶器へ手を伸ばす。
温度を確かめるように指先を添え、ひと口だけ口をつけた。温かい。今朝も同じことを思った気がする。
「それで」
彼女はようやく話を進める。
「急ぎでお伝えしたいこと、とは何でしょう」
セオドアの目が、少しだけ仕事の色へ戻る。
「王家筋の案件です」
予想していたような、していなかったような言葉だった。
法務局の裁定官補佐が私的な慰問に来るはずもない。わかっていた。だが、いざ口にされると空気はやはり変わる。
「婚姻条件の精査が必要な件があります。しかも、あまり表立って扱えない」
「私に?」
「はい」
彼はためらわない。
「正確には、あなたの判断を借りたい」
借りたい。
従えでもなく、協力しろでもなく。
その言い回しを、リディアは静かに受け止めた。
「正式な依頼ではありません」
セオドアは続ける。
「まだ、そういう形にはできない段階です。ですが現状の条件案には明らかな穴がある」
「相手は?」
「北方大公家」
王家筋。北方大公家。婚姻条件。
頭の中で、情報が素早く位置を変え始める。
「……王女殿下ですか」
問いかけると、セオドアは即答しなかった。
その沈黙で十分だった。
ヘレナ王女。
昨夜、上段からこちらを見ていた静かな眼差し。
哀れみでも面白がりでもない、切実な何かを含んだ視線。
「まだ詳細はここでは」
「結構です」
リディアは短く遮る。
今ここで名前を明言させる必要はない。必要なのは、その案件が本物で、自分に声がかかった理由が“昨夜の同情”ではないと確認できれば十分だった。
セオドアは彼女の反応を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「資料の抜粋をお持ちしました」
彼は内ポケットから薄い封筒を取り出し、卓上へ置く。
「正式な契約案そのものではありません。確認いただきたい条項の概要だけです」
リディアは、すぐには手を伸ばさなかった。
昨夜、婚約を失った。
今朝、王都の小さな綻びが自分の不在で表面化した。
そして今、王家筋の婚姻案件の穴を見てほしいと持ち込まれている。
あまりにも、休ませる気がない流れだ。
「断ることもできます」
セオドアが言った。
その一言が、予想外に胸へ落ちる。
「私はあなたに働けと命じに来たわけではありません。昨夜の今朝です。無理に引き受けていただくつもりはない」
そこで彼はほんの少しだけ言葉を探したように間を置いた。
「ですが、あなたなら見落とさないと思いました」
リディアは封筒を見る。
断れる。
たしかに、断っていいのだろう。今の自分は婚約解消の整理だけでも十分に重い。王家の案件まで抱える義務はない。
だが同時に、その封筒の向こう側にある“穴”の輪郭を、もう想像し始めている自分がいる。
何が曖昧なのか。
誰が損をするのか。
どの条項が人を無防備にするのか。
見えてしまえば、見なかったことにしにくい。
厄介な性分だと、少しだけ自嘲したくなる。
「……中身を確認するだけなら」
そう口にした時点で、半ば答えは決まっていた。
「承知します」
「それで十分です」
セオドアは深く頷きすぎもしない。
ただ、ごく自然に受け止めた。
その押しつけがましくなさが、また少しだけありがたい。
リディアは封筒へ手を伸ばした。
中から折り畳まれた紙を取り出し、目を落とす。
最初の数行を追っただけで、呼吸が変わる。
居住権の扱い。
帰還条件の曖昧さ。
随行人数の制限。
私的書簡の検閲に関する文言の広さ。
そして、解除条件の不在。
リディアは一枚目を最後まで読み切る前に、顔を上げた。
「……これは」
声が低くなる。
感情ではなく、判断が先に立ったときの声だった。
セオドアは黙って待っている。
リディアは紙へ視線を戻し、今度はより速く目を走らせた。
読み終えたときには、もう迷いはなかった。
「これは婚姻ではありません」
昨夜の痛みも、今朝の疲れも、一瞬だけどこかへ押しやられるほど明確な確信だった。
彼女は紙を卓上へ置く。
「人質の引き渡しです」
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