「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第2章 彼女が抜けた王都

4、小さな婚約

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ハルヴェン男爵家からの返事は、その日のうちに届いた。

早いというより、待っていたのだろう。リディアの短い返答が届くのを、屋敷じゅうで息を潜めて待っていたに違いない。封を切ると、便箋は三枚に増えていた。最初の手紙では抑え込まれていた事情が、今度はほとんどこぼれるように書かれている。

相手はローディス侯爵家の次男。
婚約後は侯爵家の別邸で暮らす予定。
男爵家側の持参金は相場より高め。
婚約解消時の返還条件は未定。
婚約中に贈られる宝飾や衣装の扱いも未定。
そして先方は、文書化の必要はないと言っている。

愛し合っているのだから、細かな条件を紙に残す必要はない。

その一文を読んだところで、リディアは便箋を机へ置いた。

「見事なくらいに、危ないですね」

向かいに控えていた執事が、わずかに目を上げる。

「やはり、でございますか」

「ええ」

リディアは頷いた。

「婚約後の居住地は先方の裁量。持参金は高め。返還条件は決まっていない。贈与品も未整理。そのうえ、紙は要らないと言う」

そこまで並べると、かえってよくある話に見える。
そして実際、よくあるのだ。

若い二人の好意を盾にして、周囲の大人たちが急ぐ。急ぐ理由は単純で、紙に残せば責任がはっきりするからだ。責任を曖昧にしたい側ほど、愛だの信頼だのという言葉を前へ出す。

「お嬢様」

執事が言った。

「この件も、お引き受けになりますか」

リディアはすぐには答えなかった。

全部は拾わない。
そう決めたばかりだ。

けれど、放っておけば傷む側が見えている案件まで見過ごすつもりはない。しかも今回は、まだ婚約前だ。壊れたあとではなく、その前に手を入れられる。

「はい」

ようやく答える。

「この娘は、まだ間に合いますから」

執事は短く一礼した。

「では、お返事を」

「文だけでは足りません」

リディアは首を振る。

「直接お会いします。一度顔を見て話したい」

「かしこまりました」

その手配を任せると、執事は静かに部屋を出ていった。

翌日の午後、ハルヴェン男爵家の馬車は約束の刻限ぴたりにエーヴェル邸へ着いた。

通されたのは大きな応接間ではなく、小ぶりな談話室だった。若い令嬢が、父や兄の視線を気にせず話せる場所がよかった。壁際には淡い色の花が活けてあり、窓からはやわらかな午後の光が入っている。必要以上に緊張させないためには、それで十分だった。

男爵令嬢エミリアは、手紙の印象どおりの娘だった。落ち着いた目をしている。けれど、その落ち着きは平静とは少し違う。感情を表へ出しすぎないように、自分で押さえている人間の目だ。

今日は母親も同席していた。夫人は終始にこやかな表情を崩さなかったが、そのにこやかさの奥には、娘の不安を過剰な心配として片づけきれない迷いが見えた。

「お時間をいただき、ありがとうございます」

エミリアが頭を下げる。

「こちらこそ。詳しく書いてくださって助かりました」

リディアは向かいへ座り、侍女が茶器を整えて退くのを待ってから口を開いた。

「まず最初に申し上げます。あなたが怖いと思われたことは、間違っていません」

エミリアの睫毛がわずかに揺れた。

「ですが、皆は考えすぎだと」

「そうでしょうね」

リディアは穏やかに答える。

「愛があるのだから。信頼すべきだから。最初から疑うような条件を並べるのは無粋だと、たいていそう言われます」

その瞬間、エミリアの表情に小さな変化が走った。

自分の見ているものを、別の人間も見ている。そうわかった顔だった。

だが母親は、まだ困ったように微笑んでいた。

「もちろん、娘も先方を疑っているわけではないのです。ただ少し心配性で……。侯爵家とのご縁ですし、あまり細かなことを申し上げると、かえって感じが悪いのではないかと」

「感じの良し悪しと、守るべきことは別です」

リディアはやさしく言った。

「婚約条件を整えるのは、相手を疑うためではありません。婚約そのものを、不要な綻びで壊さないためです」

夫人は返事に詰まり、エミリアはますます真剣な顔でこちらを見た。

「お相手は、婚約後は侯爵家の別邸で暮らすのが自然だと?」

「はい」

エミリアが頷く。

「父も、侯爵家の格式を思えば当然だと申しております。ですが私は……婚約しただけで、すぐにあちらの家に入る形になるのが、どうにも怖くて」

「その感覚は自然です」

リディアは断言した。

「婚約後の居住地が一方的に相手家の裁量で決まるなら、それは婚約成立と同時に、あなたの行動範囲と発言権が狭まることを意味します」

「でも、妻になるならいずれは夫の家へ入るのでしょう?」

夫人が慎重に言う。

「婚姻後なら、そういう形もあります」

リディアは夫人へも視線を向けた。

「ですが今はまだ婚約です。婚約中から相手家の管理の内側へ入る形を当然視すると、解消になったとき、娘さんの側だけが著しく不利になります」

エミリアは小さく息を呑んだ。

そこまでの形では言葉にできていなかったのだろう。だが、似た怖さは最初から感じていたに違いない。

「持参金についても同じです」

リディアは続ける。

「相場より高い額を最初に積むなら、なおさら返還条件を紙に残すべきです」

「先方は、そのようなことを文にするのは冷たすぎると」

夫人が言った。

「冷たさではありません」

リディアの声は静かだった。

「額が大きいほど、揉めたときの傷も大きくなります。返還の基準を置かないのは、優しさではなく先送りです」

そこでエミリアが、ほんの少しだけ身を乗り出した。

「では、私は何を求めればよいのでしょう」

リディアは手元の紙を引き寄せた。

「最低限、四つです」

順に置いていく。

「ひとつ。婚約中の居住地と、その変更条件。
ふたつ。持参金の管理方法と、婚約解消時の返還基準。
みっつ。婚約中の贈与品の分類。婚約に伴うものと、通常の贈答は分けておくこと。
そして四つ目。婚約解消時の説明文面です。少なくとも、片方に重大な落ち度があったような噂を防ぐための条項は必要です」

夫人はもう、最初のような曖昧な笑みを浮かべてはいなかった。家格の高い相手に何を求めるかではなく、娘をどう守るかとして話を聞くようになると、言葉の重みが変わるのだ。

「……そんなことまで申し上げたら、先方の機嫌を損ねませんか」

なおも夫人が不安げに言う。

リディアは少しだけ考えてから答えた。

「損ねるかもしれません」

エミリアも夫人も、はっとした顔になる。

「ですが、機嫌を損ねることと、不利益を避けることは別です。婚約とは本来、双方の家が責任を持って整えるものです。条件の確認だけで腹を立てる相手なら、婚約後のほうがよほど危うい」

言葉が部屋へ落ちたあと、しばらく誰も口を開かなかった。

重い沈黙ではない。
誰も、そこまで明確な形で言葉にしてこなかったのだ。

やがてエミリアが、かすれた声で言った。

「では、私の怖さは……疑い深さではなかったのですね」

「ええ」

リディアは頷く。

「怖いと思われたのは、綻びが見えたからです」

その一言で、エミリアの肩から少しだけ力が抜けた。

夫人は目を伏せ、小さく息をつく。

「私たちは……侯爵家との縁談だというだけで、良縁だと思い込みすぎていたのかもしれません」

「良縁であることと、条件を整えることは両立します」

リディアは答えた。

「むしろ、整えられない婚約ほど、後で良縁ではなくなります」

そこから先は、具体的な確認になった。

居住開始の時期。
婚約中の滞在日数。
持参金の管理。
贈与品の目録。
婚約解消時の返還と文面。

完全な契約案にまでは至らない。
けれど何を曖昧にしてはいけないかだけは、はっきりした。

帰り際、エミリアは立ち上がって深く頭を下げた。

「ありがとうございました。……私、ずっと自分が臆病なのだと思っていました。好きだと言いながら条件を気にするのは、信じていないのと同じだと」

「違います」

リディアは静かに言った。

「好きだからこそ、条件を整えるべき婚約もあります」

エミリアは目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑んだ。
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