「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第2章 彼女が抜けた王都

8、面会前夜

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夜は静かだった。

静かなのに、机の上だけが落ち着かない。

王女殿下との面会は明日の午後。

正式な謁見ではない。王家の離れにある書庫で、限られた人間だけが立ち会う。表向きには資料確認のひとつとして扱われるらしい。そう聞かされているからこそ、かえって重みがあった。

明日、自分はただ紙を見に行くのではない。
昨夜あの場を見ていた王女と、婚姻の条件について言葉を交わす。

その事実が、胸の奥へ静かに沈んでいた。

リディアは机へ向かい、広げた紙を順に見直した。

帰還条件。
書簡条項。
帯同人数。
解除条項。
財産の扱い。
子の身柄と継承。

どの頁にも、追記と修正の跡が残っている。昼のうちにセオドアへ渡した補足とは別に、今夜は明日の面会で直接確かめるべきことだけを抜き出していた。

相手家が本当に求めているものは何か。
王家側がどこまで譲るつもりでいるのか。
そしてヘレナ王女ご本人は、今の条件のどこにもっとも息苦しさを感じているのか。

そこが曖昧なままでは、どれほど条項を整えても半分しか意味がない。

リディアは余白へ、新たに一行書き加えた。

王女殿下ご本人が、何を失うことを最も恐れておられるか。

そこまで書いて、筆が止まる。

怖いと思うことを、怖いと認められるかどうか。
結局、守りはそこから始まる。

エミリアの婚約でも同じだった。侯爵家との良縁という言葉の前に、自分の不安を臆病として呑み込まされかけていた娘が、ようやく「怖いと思うのは間違いではない」と言葉にできた。その瞬間に初めて、守るべき条件が現実のものになった。

王女案件も、根はそこなのかもしれない。

王女だから違う。
王家の婚姻だから、もっと大きい。

もちろん、それは事実だ。

けれど、怖さを怖さとして持てるかどうかだけは、身分で変わらない。

リディアは椅子へ深く座り直した。

婚約を失った夜から、まだ数日しか経っていない。
それなのに自分は何をしているのだろうと、少し遅れて思う。

ユリウスの声も、ローデン侯爵夫人の笑みも、ときどき妙に鮮明に胸へ戻ってくる。可愛げがない。冷たい。息が詰まる。あの夜に浴びた言葉は、きれいには消えてくれない。

消えないまま、自分は今、別の婚姻を守ろうとしている。

滑稽だろうかと一瞬考え、すぐに首を振った。

違う。
守ろうとしているというより、見えてしまったから放っておけないだけだ。

それがたぶん、自分という人間の一番厄介なところで、一番変わりにくいところでもある。

控えめなノックがした。

「お嬢様」

執事だった。

「失礼いたします。法務局より、明日の時刻と入門経路の確認が届いております」

差し出された紙には、必要なことだけが簡潔に記されていた。

到着時間。
案内役の名。
同行者は最少人数に限ること。
書庫の利用理由は、資料確認として通すこと。

余計な言葉はない。

だが最後に一行だけ、セオドアの筆跡で付け足しがあった。

緊張なさらず、とは申しません。ですが、いつも通りで結構です。

それを見たとき、リディアはわずかに目を細めた。

いつも通り。
簡単そうで、難しい言葉だ。

婚約者だった男に捨てられた直後に、王女の婚姻条件を精査している女の「いつも通り」が何なのか、自分でもはっきりとはわからない。けれど、雑な励ましよりはずっとよかった。

「お返事は」

執事が問う。

「不要です」

リディアは紙を畳んだ。

「明日、定刻に伺うとだけ伝わっていれば十分でしょう」

「かしこまりました」

執事が退室し、再び静けさが戻る。

机の上の紙束へ視線を落とす。

王女案件の補足案。
エミリアとの面談の覚え書き。
王都の問い合わせに返した短い文面の控え。

ばらばらの案件のようでいて、どれも似たところへ行き着く。

誰が後で困るのか。
誰が先に沈むのか。
どこに紙がなくて、どこに言葉が足りないのか。

それを拾うことばかりに慣れていたのだと、今さら思う。

婚約中もそうだった。

夜会の席順。
贈答の順番。
親族への言い回し。

ユリウスは、それを「君はよく見えている」と笑って受け取った。だが結局、その見えていることが何を支えていたのかまでは、見ていなかったのだろう。

そこまで考えて、リディアはゆっくり息を吐いた。

もういい、とまではまだ言えない。

けれど、あの婚約の中で自分が何だったのかは、少しずつ輪郭を持ち始めている。

便利だった。
頼れた。
間違えなかった。

だがそれだけでは、人は残らない。

その事実が痛まないわけではないが、今夜はそこに沈み込むつもりもなかった。

明日は王女に会う。

相手は、自分を「便利な相談役」として呼んだのではない。少なくとも、そうであってほしいと願っている自分に、リディアは気づいていた。

それが少しだけ、怖い。

セオドアの言葉を思い出す。

条項そのものではなく、その中で息ができなくなる側を見ているのだ、と。

そんなふうに言われたのは初めてだった。

正しいとか、厳しいとか、冷たいとか、そういう輪郭なら何度も与えられてきた。けれどあの言葉だけは、少し違ったところへ触れた気がした。

触れたからこそ、明日を前にして妙に静かでいられないのかもしれない。

リディアは白紙を一枚引き寄せ、明日の面会で直接確かめるべきことを、短く三つだけ書き出した。

一、王女殿下ご本人のご意思。
二、もっとも不安に思われている条項。
三、王家側が譲れない線と、譲るつもりの線。

それだけで十分だった。

全部を今夜決める必要はない。
明日、ヘレナ王女ご本人の言葉を聞いて初めて、紙の上では見えなかったものが出てくるはずだ。

リディアは筆を置いた。

窓の外では、夜の色がゆっくり深くなっていく。

王都は静かだ。だがその静けさの下で、無数の小さな綻びが見えないまま広がっている。

自分の婚約もそうだった。
エミリアの婚約もそうだった。
そして王女の婚姻も、おそらく同じだ。

守る条件がない婚姻は、愛の名を借りた拘束に変わりやすい。

その考えはもう、リディアの中で揺らがなかった。

明日、自分は王女に会う。

その前に、最後に一度だけ資料を閉じて見直し、紙を揃える。

順番に重ね、端を合わせ、机の中央へ置く。

それでようやく、胸の奥のざわつきが少しだけ形を持った。

怖くないわけではない。
重くないわけでもない。

けれど、それでも向かうべきものだとわかっている。

リディアは立ち上がり、机上の紙束へもう一度視線を落とした。

「お会いしましょう、王女殿下に」

静かな部屋に、その声だけが落ちた。
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