「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第2章 彼女が抜けた王都

7、必要とされる意味

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ハルヴェン男爵家からの返事は、翌朝のうちに届いた。

封を切ると、エミリア本人の筆だった。前に読んだ手紙より、字のかたちはいくらか落ち着いて見える。

母が、先方と改めて話し合いの場を設けることに同意いたしました。
父も、最低限の条件は紙に残すべきだと考え直してくれたようです。
まだどうなるかはわかりませんが、怖いと思ったことを恥じなくてよいのだと知れただけで、少し息がしやすくなりました。

最後の一行を読み終えたあとも、リディアはしばらく便箋を閉じなかった。

婚約が守られるかどうかは、まだわからない。侯爵家がどこまで譲るかも、これからだ。けれど少なくとも、エミリアは「疑い深い娘」として一人で押し込められたままではなくなった。

それだけで十分だと思えた。

同じ朝のうちに、法務局からも短い返答が届いていた。

帯同人数と解除条項に関する補足は、王家側でもかなり重く受け取られているらしい。まだ正式な依頼文ではない。だが、もはや「一応見てもらった」という段階ではないことは、その簡潔な文面からでも伝わった。

小さな婚約からも。
王家案件からも。
必要とされている。

その事実そのものは、別に珍しくない。リディアはこれまでだって、何度も必要とされてきた。話が早いから。先回りが利くから。言われる前に整えてくれるから。そういう理由で人が寄ってくることには、もう慣れている。

なのに今日は、その慣れがひどく落ち着かなかった。

机の上へ並んだ紙へ目を落とす。

エミリアの礼状。王家側の補足確認。宝飾商からの照会。婚約披露の文面。どれも、見てほしい、整えてほしい、判断してほしいと差し出されたものだ。

必要とされる。

けれど、その中身は本当に同じなのだろうか。

そこまで考えたところで、控えめなノックがした。

「お嬢様」

執事だった。

「法務局より、セオドア・ヴァレント様がお見えです」

リディアは一拍だけ置いてから頷いた。

「応接間へ」

「かしこまりました」

立ち上がりかけて、机の上の礼状が目に入る。

息がしやすくなりました。

その一文だけが、妙に残った。

必要とされることと、誰かが息をつけるようになることは、同じではない。けれど、まったく無関係でもないのかもしれない。

応接間へ入ると、セオドアはすでに立っていた。

黒の礼装は相変わらず飾り気がない。夜会のきらびやかさの中にいたときよりも、こうして昼の光の中で見るほうが、むしろ目立つ人間なのかもしれないとリディアは思った。余計なものをまとわないぶんだけ、輪郭がはっきりする。

「急なお時間をいただき、ありがとうございます」

「いえ」

リディアは向かいへ腰を下ろした。

「王家側で、何か動きましたか」

「ええ」

セオドアは短く答え、持参した紙を卓上へ置いた。

「あなたの補足を受けて、現案の見直しが始まりました。まだ正式な協議に入る前の段階ですが、少なくとも“この程度で十分だろう”という空気は消えています」

「それは結構です」

そう言いながらも、リディアは紙へすぐには手を伸ばさなかった。

「ですが、それだけでお越しにはならないでしょう」

セオドアの目がわずかに細くなる。

笑ったわけではない。ただ、話が早いと認めたときの表情だった。

「ええ。いくつか確認したいことがあります」

「確認」

「あなたのご意見を、もう少し正確に言葉にしておきたい」

その言い方に、リディアは小さく息をついた。

整えてほしい、ではない。
まとめてほしい、でもない。
自分の側で立てるべき理屈を、より正確にしたいから聞きに来たのだ。

その違いが、今は思っていた以上に大きかった。

「たとえば」

セオドアは紙を開く。

「帰還条件について。王家側には“病気や服喪時の帰還は、さすがに認められるだろう”という見方もあります」

「認められるだろうでは足りません」

リディアは即座に言った。

「認められる前提で善意に預けるなら、条項にする意味がない。条項とは、相手の善意が足りない場合にも守れるように置くものです」

「そう主張した場合、“最初から大公家を疑っているのか”と返される可能性があります」

「疑っているのではありません」

リディアは静かに言う。

「疑わなくても、人は自分に都合のよい解釈をします。婚姻後の生活で優先されるのは、王女殿下の安心より相手家の秩序かもしれない。だから、最初に紙へ置くのです」

セオドアは言葉を挟まない。否定のための問いではなく、整理のための問いだとわかるので、話しやすかった。

「帯同人数についても同じです」

リディアは続けた。

「多いか少ないかという話ではありません。王女殿下の側に、王都の常識と記録を持った人間が何人いるか、その話です。王女殿下の言葉を見ている人間がいなければ、後で何も証明できません」

「証明」

「はい。病も、暴言も、孤立も、条項違反も」

そこまで言ってから、少し間を置いた。

「見ている人間がいないことは、それだけで弱さになります」

セオドアは短く頷く。

「やはり、そこですか」

その一言に、リディアはほんの少しだけ目を上げた。

この男は、自分に答えを丸投げしているわけではない。おおよその輪郭は見えていて、その輪郭をもっと確かな言葉にするために聞いているのだ。

「それに解除条項ですが」

セオドアは紙をめくる。

「“婚姻前から破綻を想定するのは縁起が悪い”という反応もあります」

「でしょうね」

リディアは淡々と返した。

「婚姻前の人間ほど、婚姻後を美しく考えますから」

「ですが、あなたは必要だと」

「必要です」

今度は迷わなかった。

「始まる前に壊れる話をしたいわけではありません。壊れたとき、片方だけが沈まないようにしたいだけです」

応接間が少し静かになる。

リディアはその沈黙の中で、自分の声が思いのほか強かったことに気づいた。

だが、言い過ぎたとは思わなかった。

「婚姻は、始まる前より始まってからのほうが人を傷つけます」

そう付け足す。

「だから、保護の条件を先に置く。信頼があるなら要らない、ではありません。信頼が壊れたときのために、信頼のあるうちに置くのです」

セオドアはしばらく何も言わなかった。

その沈黙は、簡単な同意で流さないぶんだけ誠実だった。

「……ありがとうございます」

ようやく出た言葉は短い。

「だいぶ整理できました」

その言い方が、不思議と胸へ残る。やってほしいことをやってくれた、という軽さではない。相手の言葉で、自分の考えも整ったという響きがあった。

必要とされる。
その意味が、昨日までと少し違って見える。

「小さな婚約案件のほうは」

セオドアがふいに話を変えた。

「どうなりましたか」

「完全には、まだ」

リディアは答える。

「ですが、少なくとも相手の言い分をそのまま良縁だと飲み込む話ではなくなりました」

「そうですか」

「若い令嬢が一人、自分の不安を臆病だと責められずに済みました」

言ってから、少しだけ言葉がやわらかすぎたかと思う。
だがセオドアはただ静かに聞いていた。

「それは、大きいですね」

その返答に、リディアはほんの少しだけ目を伏せる。

大きい。
そう言われると、たしかにそうだった。

婚約がまとまるかどうか。条件がどこまで通るか。結果はまだ出ていない。けれど、不安を口にした娘が「自分がおかしいわけではない」と知るだけで、一件の形は変わる。

「王女案件も、結局はそこです」

リディアは、気づけばそう言っていた。

「条項が足りないというより……王女殿下が、不安を不安として持てる形になっていない」

「持てる形」

「帰れない。書けない。連れていけない。解消もできない。そういう婚姻では、怖いと感じても、どこから先が危険なのか自分でも掴みにくくなるでしょう」

口にした瞬間、自分の中で何かがひとつ繋がった気がした。

エミリアの婚約。
王女の婚姻。
規模も立場も違う。

それでも、怖さを言葉にできないまま進まされる側がいるという点では同じだ。

セオドアが静かに言う。

「あなたは、いつもそこを見るのですね」

「そこ?」

「条項そのものではなく、その中で息ができなくなる側を」

リディアは、一瞬返答を失った。

そんなふうに言われたことはなかった。

正しいとか、隙がないとか、細かすぎるとか。そういう言われ方なら慣れている。けれど今の言葉は、どれとも違った。

息ができなくなる側。

エミリアの礼状を思い出す。

息がしやすくなりました。

たったそれだけの一文が、なぜあんなに残ったのか、ようやくわかった気がした。

「……そうかもしれません」

リディアは静かに言った。

認めるのは少し怖かった。
それを認めると、自分がこれまで何を見てきたのかも、何を見ないふりできなかったのかも、あまりにはっきりしてしまうからだ。

セオドアはそれ以上、言葉を重ねなかった。

その沈黙がありがたい。

慰めない。
急かさない。
ただ、言葉を置いて、相手が受け止めるのを待つ。

その距離感に、リディアは妙な落ち着きを覚えた。

「それと」

セオドアがようやく次の紙を取り出した。

「面会の件ですが」

リディアは顔を上げる。

「王女殿下から、非公式であればお会いしたいとのお言葉がありました。明後日の午後、王家の離れの書庫なら人目も少ない」

話が進んだ。
そう理解した瞬間、胸の奥が少しだけ固くなる。

「正式な依頼では、まだないのですね」

「ええ」

「ですが、王女殿下ご本人の意思で」

セオドアは頷いた。

「昨夜の件を見たうえで、あなたと話したいと」

その言葉が、予想より重く胸へ落ちた。

ヘレナ王女は、昨夜の婚約破棄を見ていた。
ただの醜聞としてではなく、条件と責任の話として。
そして今、その続きを話したいと望んでいる。

リディアは机上の紙へ視線を落とした。

エミリアの婚約。
王女の婚姻。
自分の婚約解消。

全部がばらばらのようでいて、どこかで繋がっている。

守る条件がないまま約束へ入ることの危うさ。
そして、その危うさはたいてい愛や信頼という綺麗な言葉の陰に隠れる。

「……承知しました」

リディアはゆっくり答えた。

「明後日、伺います」

セオドアはそれを聞いても、過剰に安堵したりはしなかった。

ただ、ごく短く頷くだけだ。

「助かります」

その二文字は、いつものように簡潔だった。

けれど今のリディアには、前より少し違って聞こえる。

都合がいいから助かる。
先回りしてくれるから助かる。
ではない。

あなたの判断が必要だから助かる。

その違いはまだ、胸の中でうまく言葉にならない。
だが確かに、違っていた。

彼が去ったあと、応接間には静けさだけが残った。

必要とされる、という同じ形をしていても、昨夜までの婚約で感じていたものとはどこか違う。
その違いを、まだうまく言葉にはできない。

けれど少なくとも、便利だから先回りを求められているのではなかった。

机の上の紙束へ手を伸ばす。

明後日、王女と会う。
その前に、まだ整えておくべき論点がある。

窓の外では、午後の光がゆっくり傾いていた。
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