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第2章 彼女が抜けた王都
6、誤算の始まり
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婚約を解消した翌日には、もう少し身軽になっていると思っていた。
少なくともユリウスは、そう思っていた。
窮屈だった婚約が終わり、周囲もやがて納得する。多少のざわめきはあっても、時が経てば「心の通う相手を選んだのだ」と理解される。あの場でリディアが少し意地を張ったところで、結局は家同士の整理にすぎない。そんなふうに、どこかで甘く考えていたのだ。
だが現実は違った。
「まだ決まっていないのか」
グランツ家の書斎で、父の低い声が落ちる。
机の上には、昨夜の婚約解消に関する控えと、朝から届き続けている問い合わせの書状が並んでいた。贈与品目録の確認、通達文面の草案、婚約解消の理由をどう記すのかという打診。内容は似ていても、角度が微妙に違う。ひとつ曖昧なまま返せば、次の紙ではそこを突かれる。
「文面くらいは整っていると思っていた」
父は一枚の書状を指先で弾いた。
「お前、まさか本当に、何も決めずにあの場で口にしたのではあるまいな」
ユリウスは反射的に眉を寄せた。
「家として反対はされていなかったでしょう」
「反対していないことと、整っていることは別だ」
淡々と返され、言葉が詰まる。
父に話は通していた。婚約を終えたいことも、リディアとはもう無理だと思っていることも、昨夜あの場で告げるつもりだということも。だが、その後に必要な整理の細部までは、正直そこまで大事になると思っていなかった。
婚約を解消する。
それが決まれば、あとは家同士で自然に進むものだと、どこかで考えていたのだ。
父は冷ややかに続ける。
「エーヴェル嬢が昨夜その場で確認を始めなければ、こちらはもっと不利だったぞ」
「不利、ですか」
「当たり前だ。あの場にいた者たちは皆、好きなように語る。こちらが文面も目録も整えていなければ、“軽率に婚約者を捨てた側”として話が固定される」
その言い方に、ユリウスは小さく息を吐いた。
軽率。
たしかに昨夜から、その気配は感じている。表立って責められはしない。だが空気が違うのだ。婚約を解消したことそのものより、その後の整理がエーヴェル家主導で進んでいることを、周囲は見ていた。
父は別の書状を差し出した。
「これは宝飾商だ。婚約成立に伴い準備していた品の扱いを確認したいとある。こちらは仕立屋。こっちは伯父筋からの探りだ。皆、お前の恋だの心だのには興味がない。どちらの家がどこまで整えているかを見ている」
そう言われると、書面の束が急に重く見えた。
心の通う相手を選びたい。
昨夜、自分はそう言った。間違っていたとは思わない。今も、リディアとの婚約を続けるべきだったとは思っていない。
ただ、そのあとに来るものを、ここまで具体的に想像していなかった。
「文面は」
父が短く問う。
「草案はございます」
ユリウスは机の端の紙を差し出した。昨夜から今朝にかけて、従者とともに何度も書き直したものだ。
父は目を通し、すぐに眉をひそめた。
「弱い」
「どこがです」
「全部だ。曖昧に整えようとしすぎている」
紙を置き、父は言った。
「“双方合意のうえ”とあるが、理由が薄すぎる。これでは何か隠していると思われる。かといって細かく書けば、お前の側の感情が軽く見える。中途半端だ」
中途半端。
その言葉が痛かった。昨夜から続く違和感の正体を、あまりに正確に言われた気がしたからだ。
綺麗に終えたかったのだと思う。
自分が悪人に見えず、相手も過度に傷つけず、周囲も「そういうこともある」と受け止める形で。
けれどリディアは、そこを全部現実へ引き戻した。
持参金。
贈与品。
文面。
発言。
証人。
昨夜、彼女が並べた言葉はどれも正しかった。正しいからこそ、腹が立った。正しさそのものより、その正しさが自分の想定していた幕引きを壊したからだ。
いや、とユリウスは思い直す。
壊したのではない。最初から、綺麗に終わるような話ではなかったのだろう。
「父上」
少し迷ってから口にする。
「……婚約の解消とは、皆こういうものなのですか」
父は意外そうにこちらを見た。
「皆、というほど軽いものではない。だが正式な婚約なら、整理は当然ついて回る」
「では、リディアは」
「当然のことをした」
その一言が、思いのほか冷たく刺さった。
当然のこと。
可愛げがないのでも、意地を張ったのでもなく。
父はさらに言う。
「お前はあの娘を、少し便利に使いすぎたな」
ユリウスは顔を上げた。
「便利、とは」
「お前の隣にいて、話が早く、先回りして整えてくれる。それに慣れたのだろう。だが慣れたことと、価値を理解していたことは別だ」
返す言葉が見つからなかった。
理解していたつもりだった。
リディアが聡いことも、頼りになることも、誰よりも間違えないことも。そういう彼女だからこそ、自分はずっと婚約者として尊重してきたつもりだった。
けれど、もし本当に理解していたなら、昨夜あの場であんな形で口にしただろうか。
そこまで考えたところで、書斎の扉が叩かれた。
入ってきたのは、昨夜ユリウスの隣にいた令嬢だった。今日は春色の薄い黄色をまとっている。それでも表情には、昨夜までの浮き立つような柔らかさがなかった。
「お呼びでしょうか」
控えめな声で問う。
父は一度だけ彼女を見て、露骨に嫌な顔はしなかったが、書面の束を隠しもしなかった。
「少し確認したいことがある」
そう言って退室を促されるだろうと思っていたのに、父はそのまま続けた。
「今後、君の名がどのように語られるかも無関係ではない。昨夜の件は、すでに一部で広がっている」
令嬢はわずかに顔色を変えた。
「私も、でしょうか」
「当然だ」
父の声は容赦がない。
「エーヴェル嬢と婚約がある男が、別の令嬢を伴って婚約解消を告げたのだ。君の名が全く出ないと思うほうが不自然だろう」
その現実味に、彼女は口元を強張らせた。
ユリウスは思わず言う。
「そこまで言わなくても」
「そこまで考えていなかったのはお前だ」
父に切り返され、また黙るしかなかった。
令嬢は小さく息を呑み、勇気を振り絞るように訊いた。
「……では、私はどうすれば」
どうすれば。
その問いに、ユリウスは一瞬だけ答えを失った。
愛を選んだのだと思っていた。心の通う相手を、窮屈な婚約から救い出したのだと。けれど今、目の前にいる彼女もまた、すでに「どう扱われるか」という現実の中へ立たされている。
父が代わりに答える。
「しばらくは静かにしていなさい。余計な言葉を足さないことだ」
令嬢は青ざめたまま頷いた。
退室していく背を見送りながら、ユリウスは妙な疲れを覚えた。
昨夜までは、もっと単純な話だったはずなのに。リディアとの婚約を解消し、自分が選びたい相手を選ぶ。それだけのことのはずだった。
なのに今、机の上には書面が積み上がり、父は苛立ち、彼女は不安げに立ち、屋敷じゅうが何かを説明し続けている。
書斎を出て、自室へ戻る廊下の途中で、従者が慌ただしく追いついてきた。
「ユリウス様、先方からもう一件」
「何だ」
「エーヴェル家より、婚約中贈与品目録の照合候補日が届きました。三案ございますが、どれも今週中で」
思わず立ち止まる。
「今週中?」
「はい。あわせて、通達文面の叩き台も」
従者は控えめに続けた。
「……すでにかなり整っております」
その言葉に、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
すでに整っている。
こちらがまだ文面の弱さを指摘され、贈与品の扱いで手間取り、父から説明を求められているあいだに、向こうはもう次の紙を出してくる。
効率がいい、というだけではない。
何が必要かを最初から見えている者の動きだ。
ユリウスは無言で紙を受け取った。
従者が去ったあとも、しばらく廊下に立ったままだった。
窓の外では午後の光が少し傾き始めている。
リディアなら、こうはならなかったのか。
その考えが、初めてはっきり頭をよぎった。
後悔というほどではない。
まだそこまでは行かない。
ただ、今自分の周囲で起きている混乱に、彼女がいたなら別の形があったのではないかと、ようやく想像できただけだ。
それだけなのに、ひどく重かった。
少なくともユリウスは、そう思っていた。
窮屈だった婚約が終わり、周囲もやがて納得する。多少のざわめきはあっても、時が経てば「心の通う相手を選んだのだ」と理解される。あの場でリディアが少し意地を張ったところで、結局は家同士の整理にすぎない。そんなふうに、どこかで甘く考えていたのだ。
だが現実は違った。
「まだ決まっていないのか」
グランツ家の書斎で、父の低い声が落ちる。
机の上には、昨夜の婚約解消に関する控えと、朝から届き続けている問い合わせの書状が並んでいた。贈与品目録の確認、通達文面の草案、婚約解消の理由をどう記すのかという打診。内容は似ていても、角度が微妙に違う。ひとつ曖昧なまま返せば、次の紙ではそこを突かれる。
「文面くらいは整っていると思っていた」
父は一枚の書状を指先で弾いた。
「お前、まさか本当に、何も決めずにあの場で口にしたのではあるまいな」
ユリウスは反射的に眉を寄せた。
「家として反対はされていなかったでしょう」
「反対していないことと、整っていることは別だ」
淡々と返され、言葉が詰まる。
父に話は通していた。婚約を終えたいことも、リディアとはもう無理だと思っていることも、昨夜あの場で告げるつもりだということも。だが、その後に必要な整理の細部までは、正直そこまで大事になると思っていなかった。
婚約を解消する。
それが決まれば、あとは家同士で自然に進むものだと、どこかで考えていたのだ。
父は冷ややかに続ける。
「エーヴェル嬢が昨夜その場で確認を始めなければ、こちらはもっと不利だったぞ」
「不利、ですか」
「当たり前だ。あの場にいた者たちは皆、好きなように語る。こちらが文面も目録も整えていなければ、“軽率に婚約者を捨てた側”として話が固定される」
その言い方に、ユリウスは小さく息を吐いた。
軽率。
たしかに昨夜から、その気配は感じている。表立って責められはしない。だが空気が違うのだ。婚約を解消したことそのものより、その後の整理がエーヴェル家主導で進んでいることを、周囲は見ていた。
父は別の書状を差し出した。
「これは宝飾商だ。婚約成立に伴い準備していた品の扱いを確認したいとある。こちらは仕立屋。こっちは伯父筋からの探りだ。皆、お前の恋だの心だのには興味がない。どちらの家がどこまで整えているかを見ている」
そう言われると、書面の束が急に重く見えた。
心の通う相手を選びたい。
昨夜、自分はそう言った。間違っていたとは思わない。今も、リディアとの婚約を続けるべきだったとは思っていない。
ただ、そのあとに来るものを、ここまで具体的に想像していなかった。
「文面は」
父が短く問う。
「草案はございます」
ユリウスは机の端の紙を差し出した。昨夜から今朝にかけて、従者とともに何度も書き直したものだ。
父は目を通し、すぐに眉をひそめた。
「弱い」
「どこがです」
「全部だ。曖昧に整えようとしすぎている」
紙を置き、父は言った。
「“双方合意のうえ”とあるが、理由が薄すぎる。これでは何か隠していると思われる。かといって細かく書けば、お前の側の感情が軽く見える。中途半端だ」
中途半端。
その言葉が痛かった。昨夜から続く違和感の正体を、あまりに正確に言われた気がしたからだ。
綺麗に終えたかったのだと思う。
自分が悪人に見えず、相手も過度に傷つけず、周囲も「そういうこともある」と受け止める形で。
けれどリディアは、そこを全部現実へ引き戻した。
持参金。
贈与品。
文面。
発言。
証人。
昨夜、彼女が並べた言葉はどれも正しかった。正しいからこそ、腹が立った。正しさそのものより、その正しさが自分の想定していた幕引きを壊したからだ。
いや、とユリウスは思い直す。
壊したのではない。最初から、綺麗に終わるような話ではなかったのだろう。
「父上」
少し迷ってから口にする。
「……婚約の解消とは、皆こういうものなのですか」
父は意外そうにこちらを見た。
「皆、というほど軽いものではない。だが正式な婚約なら、整理は当然ついて回る」
「では、リディアは」
「当然のことをした」
その一言が、思いのほか冷たく刺さった。
当然のこと。
可愛げがないのでも、意地を張ったのでもなく。
父はさらに言う。
「お前はあの娘を、少し便利に使いすぎたな」
ユリウスは顔を上げた。
「便利、とは」
「お前の隣にいて、話が早く、先回りして整えてくれる。それに慣れたのだろう。だが慣れたことと、価値を理解していたことは別だ」
返す言葉が見つからなかった。
理解していたつもりだった。
リディアが聡いことも、頼りになることも、誰よりも間違えないことも。そういう彼女だからこそ、自分はずっと婚約者として尊重してきたつもりだった。
けれど、もし本当に理解していたなら、昨夜あの場であんな形で口にしただろうか。
そこまで考えたところで、書斎の扉が叩かれた。
入ってきたのは、昨夜ユリウスの隣にいた令嬢だった。今日は春色の薄い黄色をまとっている。それでも表情には、昨夜までの浮き立つような柔らかさがなかった。
「お呼びでしょうか」
控えめな声で問う。
父は一度だけ彼女を見て、露骨に嫌な顔はしなかったが、書面の束を隠しもしなかった。
「少し確認したいことがある」
そう言って退室を促されるだろうと思っていたのに、父はそのまま続けた。
「今後、君の名がどのように語られるかも無関係ではない。昨夜の件は、すでに一部で広がっている」
令嬢はわずかに顔色を変えた。
「私も、でしょうか」
「当然だ」
父の声は容赦がない。
「エーヴェル嬢と婚約がある男が、別の令嬢を伴って婚約解消を告げたのだ。君の名が全く出ないと思うほうが不自然だろう」
その現実味に、彼女は口元を強張らせた。
ユリウスは思わず言う。
「そこまで言わなくても」
「そこまで考えていなかったのはお前だ」
父に切り返され、また黙るしかなかった。
令嬢は小さく息を呑み、勇気を振り絞るように訊いた。
「……では、私はどうすれば」
どうすれば。
その問いに、ユリウスは一瞬だけ答えを失った。
愛を選んだのだと思っていた。心の通う相手を、窮屈な婚約から救い出したのだと。けれど今、目の前にいる彼女もまた、すでに「どう扱われるか」という現実の中へ立たされている。
父が代わりに答える。
「しばらくは静かにしていなさい。余計な言葉を足さないことだ」
令嬢は青ざめたまま頷いた。
退室していく背を見送りながら、ユリウスは妙な疲れを覚えた。
昨夜までは、もっと単純な話だったはずなのに。リディアとの婚約を解消し、自分が選びたい相手を選ぶ。それだけのことのはずだった。
なのに今、机の上には書面が積み上がり、父は苛立ち、彼女は不安げに立ち、屋敷じゅうが何かを説明し続けている。
書斎を出て、自室へ戻る廊下の途中で、従者が慌ただしく追いついてきた。
「ユリウス様、先方からもう一件」
「何だ」
「エーヴェル家より、婚約中贈与品目録の照合候補日が届きました。三案ございますが、どれも今週中で」
思わず立ち止まる。
「今週中?」
「はい。あわせて、通達文面の叩き台も」
従者は控えめに続けた。
「……すでにかなり整っております」
その言葉に、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
すでに整っている。
こちらがまだ文面の弱さを指摘され、贈与品の扱いで手間取り、父から説明を求められているあいだに、向こうはもう次の紙を出してくる。
効率がいい、というだけではない。
何が必要かを最初から見えている者の動きだ。
ユリウスは無言で紙を受け取った。
従者が去ったあとも、しばらく廊下に立ったままだった。
窓の外では午後の光が少し傾き始めている。
リディアなら、こうはならなかったのか。
その考えが、初めてはっきり頭をよぎった。
後悔というほどではない。
まだそこまでは行かない。
ただ、今自分の周囲で起きている混乱に、彼女がいたなら別の形があったのではないかと、ようやく想像できただけだ。
それだけなのに、ひどく重かった。
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