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第3章 王女の不安に名前をつける
4、守られる側の沈黙
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それなら、私は怖いのだと申し上げてもよいのですね。
ヘレナのその言葉は、許しを乞うようでいて、同時に、自分の立つ場所を確かめる響きでもあった。
リディアは頷いた。
「はい。申し上げるべきです」
王女はしばらくこちらを見ていたが、やがて静かに息を吐いた。張りつめていたものが、少しだけほどける。けれど、それで何もかも軽くなったわけではない。言葉になったぶんだけ、今度はそれを外へ出したときの重みが現実になる。
机の端に控えていたセオドアが、低く言った。
「本日ここで伺った内容は、まず要点だけを整えます。すぐに正式な文書へ落とすのではなく、殿下のお考えとして何を先に守るべきかを――」
扉の向こうで、控えめなノックがした。
三人とも、そこで言葉を止める。
「ヘレナ殿下」
年を重ねた女の声だった。落ち着きがあり、しかし遠慮は薄い。
王女は表情をほとんど変えないまま、返事をした。
「どうぞ」
入ってきたのは、濃紺の衣に身を包んだ女官だった。背筋がまっすぐで、髪にはひとつの乱れもない。年の頃は四十をいくらか過ぎているだろうか。王家に長く仕える者特有の、静かな隙のなさがあった。
彼女はまずヘレナへ礼を取り、それからリディアとセオドアへも視線を向ける。
「失礼いたします。お時間が少し延びておりましたので、確認に参りました」
口調は柔らかい。だが、確認というより牽制に近いことはすぐにわかった。
「マルグリット」
ヘレナが名を呼ぶ。
やはり王女付きの上位の女官らしい。声に苛立ちはないが、歓迎しているわけでもない。
「もう少しだけ結構です」
「承知しております」
マルグリットはそう答えながら、机の上へ視線を落とした。広げられた記録、リディアが書きつけた紙、帰還や書簡に印をつけた抜き書き。その内容を一瞬で見て取ったらしく、まばたき一つの間を置いて言った。
「婚姻前には、どうしてもご不安が募るものですわね」
誰に向けた言葉ともつかない、やわらかな言い方だった。
「ですが、あまり細部に心を奪われますと、お気持ちが疲れてしまいます。殿下はまず、王家のご意向と先方の誠意をお信じになるのがよろしいかと」
ヘレナは返事をしなかった。
代わりに、セオドアが一歩だけ前へ出る。
「本日は、殿下ご本人のご懸念を整理する場としてお時間を頂いております」
「ええ、うかがっております」
マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「ですからこそ申し上げておりますの。婚姻というものは、始まる前から疑ってかかれば、どのようなご縁であっても息苦しいものになります。殿下はまだ先方にお会いになってもいないのですから」
その言い方には悪意がない。
だからこそ厄介だった。
疑ってかかるな。
信じるべきだ。
立場ある婚姻とはそういうものだ。
そうして並べられる正しさは、表面だけ見ればもっともらしい。王女を傷つけようとしているのではなく、むしろ穏やかに送り出そうとしているように聞こえる。だが実際には、その言葉のほうが先に当人の口を閉ざしてしまう。
ヘレナの指先が、机の上でかすかに止まったのを、リディアは見逃さなかった。
先ほどまで、自分の恐れをやっと言葉にしようとしていた手だ。
それが今、もう一度、引き戻されかけている。
マルグリットは続けた。
「帰還や書簡のことまで、あまりに細かく最初から定めようとすれば、先方のお心証にも関わります。王家の姫君に対して、そこまで申されるのかと受け取られれば、かえって」
「かえって、何でしょう」
リディアは口を開いていた。
女官の目が、穏やかなままこちらへ向く。
「何か問題でも?」
「いえ。ただ、曖昧にされたまま困るのは、誰かと思いまして」
一瞬、書庫の空気が変わった。
セオドアは何も言わない。止める必要がないと判断したのだろう。ヘレナもまた、目を伏せたままだが、耳を澄ませているのがわかる。
マルグリットは微笑を崩さなかった。
「エーヴェル令嬢。殿下のご心配を思ってくださるのはありがたいことです。ですが、王家の婚姻には、長年の慣例というものがございます」
「存じております」
「でしたら、あまりに個人のお気持ちを前へ出しすぎることが、かえって殿下のご負担になる場合もおわかりでしょう」
個人のお気持ち。
その言い換えの巧みさに、リディアは内心で舌打ちしたくなった。
帰れないことも、届かないことも、帯同者を削られることも、ただの感情に置き換えられてしまう。そうなれば、守るべき条件ではなく、なだめるべき不安になる。
「個人のお気持ちではありません」
リディアは静かに言った。
「今ここで話しているのは、起こり得る不利益についてです」
「起こり得る、と申されましても」
「過去の記録にも出ております」
机上の抜き書きを示すと、マルグリットの視線が一瞬だけ動いた。だが、彼女はすぐに落ち着いた声で返す。
「過去の例をそのまま当てはめることはできません。時代も違いますし、お相手も違いますわ」
「では、時代が違うから起こらないと?」
「そこまでは申しません。ただ、婚姻の前から最悪の形ばかりを数えては、殿下のお心が持ちません」
その言い方に、リディアはようやくはっきり理解した。
この人は、ヘレナを軽んじているわけではない。
むしろ守っているつもりなのだ。
ただしそれは、王女本人が不安を数えなくて済むようにする守り方であって、不安の中身を言葉にして支える守り方ではない。
だから彼女の前では、王女は“守られる側”でいるほうが都合がいい。
怖いと認め、自分の条件を口にする当事者になるよりも、周囲に整えられる側のほうが、ずっと扱いやすいのだ。
ヘレナが、そこで静かに言った。
「マルグリット」
女官はすぐに向き直る。
「はい、殿下」
「私は、疲れてはいません」
「ですが」
「今は、聞いております」
声を荒げたわけではない。王女らしく、音量も抑えられている。けれど、その一言で書庫の空気が止まった。
マルグリットは、ほんのわずかに目を伏せた。
「……差し出がましいことを申し上げました」
「いいえ。気づかってくれているのはわかっています」
ヘレナはそう言った。やわらかい。だが、そのやわらかさの中に、ここから先は自分が決めるという線が見えた。
それでもマルグリットは退かなかった。
「殿下がお心を決められるのはもちろん大切なことです。ただ、あまり強い言葉をそのまま外へお出しになると、殿下ご自身が頑なに見えてしまいます。王女の婚姻とは、個の意思だけで進めるものではございません」
それは忠告だった。
現実的で、しかも半分は正しい。
だからこそ、ヘレナは即答できなかった。
王女の婚姻とは、個の意思だけで進めるものではない。
そんなことは、当の本人が一番よく知っているだろう。国の娘として育ち、選択の多くを最初から私事として扱われてこなかったのだから。
ヘレナは目を伏せた。
先ほどまで自分の恐れを言葉にしていた人が、今はまた、沈黙の中へ半歩戻っている。
リディアはその変化を見て、胸の奥が冷えた。
これだ、と思った。
誰かが怒鳴るわけではない。
命じるわけでもない。
ただ、もっともな言葉で、穏やかに、王女の恐れを“言いすぎ”へ変えていく。
そうして当人の口から出るはずだった言葉は、気遣いと慣例の名の下に薄められる。
守られているはずの立場の者ほど、その沈黙を美徳として求められるのだ。
セオドアが低く言った。
「個の意思だけで進めるものでないからこそ、殿下ご本人の線を先に確かめる必要があります」
マルグリットが彼へ視線を向ける。
「法務局は、何でも紙にしておけば安心だとお考えになるのですね」
「安心ではありません」
セオドアの声は変わらない。
「責任の所在が見えるようになるだけです」
「婚姻に責任ばかりを持ち込めば、信が痩せますわ」
「信だけに預ければ、弱い側の退路が痩せます」
その応酬は短かったが、十分だった。
リディアはふと、昨夜自分が紙に書いた一文を思い出す。
守る条件がない婚姻は、愛の名を借りた拘束に変わりやすい。
目の前で起きているのは、まさにその入口だった。
誰も悪人ではない。
だが、悪意がなくても人は追い詰められる。
ヘレナはしばらく黙っていた。
やがて、机の上に置かれたリディアの紙へ視線を落とし、そっと言った。
「マルグリット。あなたの申すことはわかっています」
「殿下……」
「私は王女です。私の婚姻が私だけのものではないことも、承知しています」
その声音は静かで、先ほどより低かった。
「ですが、それでも、私が何を恐れているのかを、私自身が申し上げずに済ませてよいとは思えません」
書庫の中で、誰も動かなかった。
マルグリットの表情は乱れていない。だが目元だけがわずかに強張る。思っていたよりも、王女がはっきりと線を引いたのだろう。
「……かしこまりました」
しばしの後、女官はそう言った。
「ただ、殿下。お言葉の選び方については、どうか慎重に」
その一言を最後に、彼女は丁寧に一礼し、扉の外へ下がっていった。
扉が閉じると、書庫はふたたび静かになった。
だが最初の静けさとは違う。今の数分で、この場の輪郭がはっきり変わっていた。
ヘレナはすぐには顔を上げなかった。
自分の手元を見つめたまま、長く息を吐く。
「……今のが、特別きついわけではないのです」
ぽつりと言った。
「むしろ、ずいぶん穏やかなほうでしょう。怒られたことも、黙るよう命じられたこともありません。ただ、いつも、あのように言われます」
リディアは黙って聞いた。
「殿下のお気持ちはわかります。でも。まだ先方を知らないのですから。王女の婚姻とはそういうものですから。あまりに細かく申せば、頑なに見えますよ、と」
ヘレナはそこでようやく顔を上げた。
「そう言われるたびに、自分の怖さが、少しずつ幼いもののように思えてくるのです」
その言葉には、先ほどまでよりも深い疲れがあった。
怒りではない。諦めに近い疲れだ。
リディアは机の上の紙を引き寄せた。
そして、余白に短く書いた。
沈黙の強要。
ペン先が紙を擦る音を、ヘレナが見ている。
「それは、守るための言葉ではありません」
リディアは言った。
「少なくとも、殿下ご本人を守るためのものでは」
ヘレナの睫毛が、わずかに揺れる。
「周囲は、私を守ろうとしているつもりなのだと思います」
「でしょうね」
「それでも、守られている気がしないときがあります」
その一言は、小さかった。
けれどこの場で、いちばん重い言葉だったかもしれない。
守ると言いながら、口を閉ざさせる。
気づかうと言いながら、判断の外へ置く。
その形を、ヘレナはずっと受けてきたのだ。
リディアは静かに頷いた。
「殿下が守られていないからです」
王女は息を止めたように見えた。
「……そこまで、言い切られますか」
「はい。少なくとも、殿下の言葉が削られる形での保護は、保護ではありません」
セオドアもまた、低く続けた。
「殿下ご本人の不安が、殿下のいないところで丸められていく。それが続けば、条項も同じように削られます」
ヘレナは黙り込んだ。
けれど、その沈黙は先ほどまでのものとは違う。押し戻された沈黙ではなく、何かを自分の中で組み替えている沈黙だった。
しばらくして、王女はゆっくりとリディアの紙へ目を向けた。
帰還条件。
書簡の独立。
帯同者の維持。
子の扱い。
孤立の防止。
そして、その下に増えた新しい一行。
沈黙の強要。
ヘレナはその文字を見つめたまま、小さく言った。
「私、今まで、自分が黙っているのは慎みだと思っておりました」
リディアは何も挟まない。
「王女として、余計なことを言わぬのが務めなのだと。周囲に恥をかかせず、不安を騒ぎにせず、穏やかに受け入えるのが正しいのだと」
王女はそこで目を上げた。
「けれど違うのですね」
それは問いかけの形をしていたが、半分はもう答えに届いていた。
リディアは静かに言う。
「黙ることで守られる場面もあります。ですが今の殿下の沈黙は、殿下を守るためではなく、周囲が扱いやすくするための沈黙です」
ヘレナは、まっすぐにその言葉を受けた。
傷ついたようには見えない。
ただ、長く曖昧だったものが、またひとつ形を持った顔をしていた。
やがて王女は、自分の手を見下ろし、そっと指先を解いた。
「……少しだけ」
声が落ちる。
「少しだけ、楽になりました」
その言葉に、書庫の空気がほんのわずかにほどけた。
楽になったからといって、事が簡単になったわけではない。むしろ逆だ。ここから先は、王家の内側にも、先方にも、はっきりと線を引く話になる。だが、自分が何に押し黙らされてきたのかを知るだけで、人は呼吸の仕方をひとつ取り戻せるのかもしれなかった。
ヘレナは視線をリディアへ向けた。
「先ほどの方は、私に害をなそうとしていたわけではありません」
「ええ」
「それでも、私はあの方の前では、怖いと申してはいけない気がしていました」
リディアは短く頷く。
「それが、空気というものです」
王女はその言葉を聞いて、わずかに目を細めた。
「人ではなく」
「はい。人をひとり退けても、また別の口から同じことを言われるでしょう」
そこへ、セオドアが低く補う。
「ですから、個人を責めるだけでは足りません。殿下が怖いとおっしゃったとき、それを未熟さへ置き換えられないよう、先に言葉を整えておく必要があります」
ヘレナはゆっくりと頷いた。
そして机の上の紙へ、今度は自分から手を伸ばした。
「では」
声はまだ静かだが、最初にこの書庫へいたときより、はっきりしている。
「次は、私が何を望んでいるのかを申したほうがよいのですね」
その言葉に、リディアは目を上げた。
不安を言えるようになることと、望みを言えるようになることは、似ていて少し違う。
だが確かに、今の王女はそこへ進もうとしている。
「はい」
リディアは答えた。
「怖いと認めるだけでは、守りは半分です。殿下がどういう形なら受け入れられるのか、そこまで言葉にできて初めて、条件になります」
ヘレナは紙の端を指で押さえ、静かに頷いた。
その仕草には、もう先ほどのためらいだけではない意志が混じっていた。
ヘレナのその言葉は、許しを乞うようでいて、同時に、自分の立つ場所を確かめる響きでもあった。
リディアは頷いた。
「はい。申し上げるべきです」
王女はしばらくこちらを見ていたが、やがて静かに息を吐いた。張りつめていたものが、少しだけほどける。けれど、それで何もかも軽くなったわけではない。言葉になったぶんだけ、今度はそれを外へ出したときの重みが現実になる。
机の端に控えていたセオドアが、低く言った。
「本日ここで伺った内容は、まず要点だけを整えます。すぐに正式な文書へ落とすのではなく、殿下のお考えとして何を先に守るべきかを――」
扉の向こうで、控えめなノックがした。
三人とも、そこで言葉を止める。
「ヘレナ殿下」
年を重ねた女の声だった。落ち着きがあり、しかし遠慮は薄い。
王女は表情をほとんど変えないまま、返事をした。
「どうぞ」
入ってきたのは、濃紺の衣に身を包んだ女官だった。背筋がまっすぐで、髪にはひとつの乱れもない。年の頃は四十をいくらか過ぎているだろうか。王家に長く仕える者特有の、静かな隙のなさがあった。
彼女はまずヘレナへ礼を取り、それからリディアとセオドアへも視線を向ける。
「失礼いたします。お時間が少し延びておりましたので、確認に参りました」
口調は柔らかい。だが、確認というより牽制に近いことはすぐにわかった。
「マルグリット」
ヘレナが名を呼ぶ。
やはり王女付きの上位の女官らしい。声に苛立ちはないが、歓迎しているわけでもない。
「もう少しだけ結構です」
「承知しております」
マルグリットはそう答えながら、机の上へ視線を落とした。広げられた記録、リディアが書きつけた紙、帰還や書簡に印をつけた抜き書き。その内容を一瞬で見て取ったらしく、まばたき一つの間を置いて言った。
「婚姻前には、どうしてもご不安が募るものですわね」
誰に向けた言葉ともつかない、やわらかな言い方だった。
「ですが、あまり細部に心を奪われますと、お気持ちが疲れてしまいます。殿下はまず、王家のご意向と先方の誠意をお信じになるのがよろしいかと」
ヘレナは返事をしなかった。
代わりに、セオドアが一歩だけ前へ出る。
「本日は、殿下ご本人のご懸念を整理する場としてお時間を頂いております」
「ええ、うかがっております」
マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「ですからこそ申し上げておりますの。婚姻というものは、始まる前から疑ってかかれば、どのようなご縁であっても息苦しいものになります。殿下はまだ先方にお会いになってもいないのですから」
その言い方には悪意がない。
だからこそ厄介だった。
疑ってかかるな。
信じるべきだ。
立場ある婚姻とはそういうものだ。
そうして並べられる正しさは、表面だけ見ればもっともらしい。王女を傷つけようとしているのではなく、むしろ穏やかに送り出そうとしているように聞こえる。だが実際には、その言葉のほうが先に当人の口を閉ざしてしまう。
ヘレナの指先が、机の上でかすかに止まったのを、リディアは見逃さなかった。
先ほどまで、自分の恐れをやっと言葉にしようとしていた手だ。
それが今、もう一度、引き戻されかけている。
マルグリットは続けた。
「帰還や書簡のことまで、あまりに細かく最初から定めようとすれば、先方のお心証にも関わります。王家の姫君に対して、そこまで申されるのかと受け取られれば、かえって」
「かえって、何でしょう」
リディアは口を開いていた。
女官の目が、穏やかなままこちらへ向く。
「何か問題でも?」
「いえ。ただ、曖昧にされたまま困るのは、誰かと思いまして」
一瞬、書庫の空気が変わった。
セオドアは何も言わない。止める必要がないと判断したのだろう。ヘレナもまた、目を伏せたままだが、耳を澄ませているのがわかる。
マルグリットは微笑を崩さなかった。
「エーヴェル令嬢。殿下のご心配を思ってくださるのはありがたいことです。ですが、王家の婚姻には、長年の慣例というものがございます」
「存じております」
「でしたら、あまりに個人のお気持ちを前へ出しすぎることが、かえって殿下のご負担になる場合もおわかりでしょう」
個人のお気持ち。
その言い換えの巧みさに、リディアは内心で舌打ちしたくなった。
帰れないことも、届かないことも、帯同者を削られることも、ただの感情に置き換えられてしまう。そうなれば、守るべき条件ではなく、なだめるべき不安になる。
「個人のお気持ちではありません」
リディアは静かに言った。
「今ここで話しているのは、起こり得る不利益についてです」
「起こり得る、と申されましても」
「過去の記録にも出ております」
机上の抜き書きを示すと、マルグリットの視線が一瞬だけ動いた。だが、彼女はすぐに落ち着いた声で返す。
「過去の例をそのまま当てはめることはできません。時代も違いますし、お相手も違いますわ」
「では、時代が違うから起こらないと?」
「そこまでは申しません。ただ、婚姻の前から最悪の形ばかりを数えては、殿下のお心が持ちません」
その言い方に、リディアはようやくはっきり理解した。
この人は、ヘレナを軽んじているわけではない。
むしろ守っているつもりなのだ。
ただしそれは、王女本人が不安を数えなくて済むようにする守り方であって、不安の中身を言葉にして支える守り方ではない。
だから彼女の前では、王女は“守られる側”でいるほうが都合がいい。
怖いと認め、自分の条件を口にする当事者になるよりも、周囲に整えられる側のほうが、ずっと扱いやすいのだ。
ヘレナが、そこで静かに言った。
「マルグリット」
女官はすぐに向き直る。
「はい、殿下」
「私は、疲れてはいません」
「ですが」
「今は、聞いております」
声を荒げたわけではない。王女らしく、音量も抑えられている。けれど、その一言で書庫の空気が止まった。
マルグリットは、ほんのわずかに目を伏せた。
「……差し出がましいことを申し上げました」
「いいえ。気づかってくれているのはわかっています」
ヘレナはそう言った。やわらかい。だが、そのやわらかさの中に、ここから先は自分が決めるという線が見えた。
それでもマルグリットは退かなかった。
「殿下がお心を決められるのはもちろん大切なことです。ただ、あまり強い言葉をそのまま外へお出しになると、殿下ご自身が頑なに見えてしまいます。王女の婚姻とは、個の意思だけで進めるものではございません」
それは忠告だった。
現実的で、しかも半分は正しい。
だからこそ、ヘレナは即答できなかった。
王女の婚姻とは、個の意思だけで進めるものではない。
そんなことは、当の本人が一番よく知っているだろう。国の娘として育ち、選択の多くを最初から私事として扱われてこなかったのだから。
ヘレナは目を伏せた。
先ほどまで自分の恐れを言葉にしていた人が、今はまた、沈黙の中へ半歩戻っている。
リディアはその変化を見て、胸の奥が冷えた。
これだ、と思った。
誰かが怒鳴るわけではない。
命じるわけでもない。
ただ、もっともな言葉で、穏やかに、王女の恐れを“言いすぎ”へ変えていく。
そうして当人の口から出るはずだった言葉は、気遣いと慣例の名の下に薄められる。
守られているはずの立場の者ほど、その沈黙を美徳として求められるのだ。
セオドアが低く言った。
「個の意思だけで進めるものでないからこそ、殿下ご本人の線を先に確かめる必要があります」
マルグリットが彼へ視線を向ける。
「法務局は、何でも紙にしておけば安心だとお考えになるのですね」
「安心ではありません」
セオドアの声は変わらない。
「責任の所在が見えるようになるだけです」
「婚姻に責任ばかりを持ち込めば、信が痩せますわ」
「信だけに預ければ、弱い側の退路が痩せます」
その応酬は短かったが、十分だった。
リディアはふと、昨夜自分が紙に書いた一文を思い出す。
守る条件がない婚姻は、愛の名を借りた拘束に変わりやすい。
目の前で起きているのは、まさにその入口だった。
誰も悪人ではない。
だが、悪意がなくても人は追い詰められる。
ヘレナはしばらく黙っていた。
やがて、机の上に置かれたリディアの紙へ視線を落とし、そっと言った。
「マルグリット。あなたの申すことはわかっています」
「殿下……」
「私は王女です。私の婚姻が私だけのものではないことも、承知しています」
その声音は静かで、先ほどより低かった。
「ですが、それでも、私が何を恐れているのかを、私自身が申し上げずに済ませてよいとは思えません」
書庫の中で、誰も動かなかった。
マルグリットの表情は乱れていない。だが目元だけがわずかに強張る。思っていたよりも、王女がはっきりと線を引いたのだろう。
「……かしこまりました」
しばしの後、女官はそう言った。
「ただ、殿下。お言葉の選び方については、どうか慎重に」
その一言を最後に、彼女は丁寧に一礼し、扉の外へ下がっていった。
扉が閉じると、書庫はふたたび静かになった。
だが最初の静けさとは違う。今の数分で、この場の輪郭がはっきり変わっていた。
ヘレナはすぐには顔を上げなかった。
自分の手元を見つめたまま、長く息を吐く。
「……今のが、特別きついわけではないのです」
ぽつりと言った。
「むしろ、ずいぶん穏やかなほうでしょう。怒られたことも、黙るよう命じられたこともありません。ただ、いつも、あのように言われます」
リディアは黙って聞いた。
「殿下のお気持ちはわかります。でも。まだ先方を知らないのですから。王女の婚姻とはそういうものですから。あまりに細かく申せば、頑なに見えますよ、と」
ヘレナはそこでようやく顔を上げた。
「そう言われるたびに、自分の怖さが、少しずつ幼いもののように思えてくるのです」
その言葉には、先ほどまでよりも深い疲れがあった。
怒りではない。諦めに近い疲れだ。
リディアは机の上の紙を引き寄せた。
そして、余白に短く書いた。
沈黙の強要。
ペン先が紙を擦る音を、ヘレナが見ている。
「それは、守るための言葉ではありません」
リディアは言った。
「少なくとも、殿下ご本人を守るためのものでは」
ヘレナの睫毛が、わずかに揺れる。
「周囲は、私を守ろうとしているつもりなのだと思います」
「でしょうね」
「それでも、守られている気がしないときがあります」
その一言は、小さかった。
けれどこの場で、いちばん重い言葉だったかもしれない。
守ると言いながら、口を閉ざさせる。
気づかうと言いながら、判断の外へ置く。
その形を、ヘレナはずっと受けてきたのだ。
リディアは静かに頷いた。
「殿下が守られていないからです」
王女は息を止めたように見えた。
「……そこまで、言い切られますか」
「はい。少なくとも、殿下の言葉が削られる形での保護は、保護ではありません」
セオドアもまた、低く続けた。
「殿下ご本人の不安が、殿下のいないところで丸められていく。それが続けば、条項も同じように削られます」
ヘレナは黙り込んだ。
けれど、その沈黙は先ほどまでのものとは違う。押し戻された沈黙ではなく、何かを自分の中で組み替えている沈黙だった。
しばらくして、王女はゆっくりとリディアの紙へ目を向けた。
帰還条件。
書簡の独立。
帯同者の維持。
子の扱い。
孤立の防止。
そして、その下に増えた新しい一行。
沈黙の強要。
ヘレナはその文字を見つめたまま、小さく言った。
「私、今まで、自分が黙っているのは慎みだと思っておりました」
リディアは何も挟まない。
「王女として、余計なことを言わぬのが務めなのだと。周囲に恥をかかせず、不安を騒ぎにせず、穏やかに受け入えるのが正しいのだと」
王女はそこで目を上げた。
「けれど違うのですね」
それは問いかけの形をしていたが、半分はもう答えに届いていた。
リディアは静かに言う。
「黙ることで守られる場面もあります。ですが今の殿下の沈黙は、殿下を守るためではなく、周囲が扱いやすくするための沈黙です」
ヘレナは、まっすぐにその言葉を受けた。
傷ついたようには見えない。
ただ、長く曖昧だったものが、またひとつ形を持った顔をしていた。
やがて王女は、自分の手を見下ろし、そっと指先を解いた。
「……少しだけ」
声が落ちる。
「少しだけ、楽になりました」
その言葉に、書庫の空気がほんのわずかにほどけた。
楽になったからといって、事が簡単になったわけではない。むしろ逆だ。ここから先は、王家の内側にも、先方にも、はっきりと線を引く話になる。だが、自分が何に押し黙らされてきたのかを知るだけで、人は呼吸の仕方をひとつ取り戻せるのかもしれなかった。
ヘレナは視線をリディアへ向けた。
「先ほどの方は、私に害をなそうとしていたわけではありません」
「ええ」
「それでも、私はあの方の前では、怖いと申してはいけない気がしていました」
リディアは短く頷く。
「それが、空気というものです」
王女はその言葉を聞いて、わずかに目を細めた。
「人ではなく」
「はい。人をひとり退けても、また別の口から同じことを言われるでしょう」
そこへ、セオドアが低く補う。
「ですから、個人を責めるだけでは足りません。殿下が怖いとおっしゃったとき、それを未熟さへ置き換えられないよう、先に言葉を整えておく必要があります」
ヘレナはゆっくりと頷いた。
そして机の上の紙へ、今度は自分から手を伸ばした。
「では」
声はまだ静かだが、最初にこの書庫へいたときより、はっきりしている。
「次は、私が何を望んでいるのかを申したほうがよいのですね」
その言葉に、リディアは目を上げた。
不安を言えるようになることと、望みを言えるようになることは、似ていて少し違う。
だが確かに、今の王女はそこへ進もうとしている。
「はい」
リディアは答えた。
「怖いと認めるだけでは、守りは半分です。殿下がどういう形なら受け入れられるのか、そこまで言葉にできて初めて、条件になります」
ヘレナは紙の端を指で押さえ、静かに頷いた。
その仕草には、もう先ほどのためらいだけではない意志が混じっていた。
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