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第3章 王女の不安に名前をつける
5、セオドアの立場
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「では、次は、私が何を望んでいるのかを申したほうがよいのですね」
ヘレナのその言葉に、リディアは頷いた。
「はい。殿下が何を恐れておられるかは見えてきました。次は、どういう形なら受け入えられるのかです」
王女は机上の紙へ目を落としたまま、小さく息をつく。
「怖いと口にするより、そちらのほうが難しい気がいたします」
「そうでしょうね」
リディアは率直に言った。
「恐れは、すでに胸の中にあるものですから。けれど望みは、自分で線を引かねばなりません」
ヘレナはその言葉を反芻するように黙った。
先ほどまでの沈黙とは違う。押し込められているのではなく、選ぼうとしている沈黙だった。
やがて王女は、机の上の記録を閉じた。
「今日は、そこまでにいたしましょう」
セオドアが顔を上げる。
リディアもまた、異論はなかった。ここまでで十分進んだ。これ以上は、焦って言葉を重ねるより、一度持ち帰って整えたほうがよい。
ヘレナは二人を見た。
「怖いと申し上げてよいのだとわかっただけでも、今日は来ていただいた意味がありました。次は、私のほうでも考えてまいります」
「承知いたしました」
リディアがそう答えると、王女はわずかに表情を和らげた。
「ただ」
その声で、二人はもう一度顔を上げる。
「次も、できれば同じ形でお願いしたいのです。大きな場ではなく、今日のように、まだ言葉を整えるための場として」
セオドアが答えた。
「調整いたします」
「ありがとうございます」
ヘレナは立ち上がった。
「本日は助かりました、リディア嬢」
「こちらこそ」
「……昨夜、あなたをお呼びしたいと申し上げたとき、半分は勘でした」
王女は少しだけ言いよどみ、それでも続けた。
「ですが、間違ってはいなかったように思います」
それだけ言うと、ヘレナはマルグリットではない若い侍女を呼び、奥の扉から控えの間へ下がっていった。
書庫に残ったのは、リディアとセオドアの二人だけだった。
先ほどまで三人の間に張っていた緊張が少しずつほどける。けれど静けさはそのままで、むしろ王女が去ったぶんだけ、紙をめくる音さえ立てにくいような空気が残っていた。
セオドアは机上の紙へ目を落とした。
「思っていたより、はっきりお話しくださいました」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「ようやく入り口に立てた、という程度でしょう」
「それでも十分です。入り口にも立てないまま話が進むことのほうが多い」
その言い方には、見てきたものの重みがあった。
リディアは紙を整えながら問う。
「あなたは、最初からそこまで見越していたのですか」
「何をです」
「王女殿下が、ああいう形で押し戻されることを」
セオドアはすぐには答えなかった。
机の端に置かれた記録集を閉じ、窓際へ半歩だけ視線をやってから、静かに言う。
「見越していた、というより、珍しくないと思っていました」
それはひどく乾いた言い方だった。
感情がないのではない。ただ、感情より前に事実として積み上がってきたものを口にする声音だ。
「婚姻に限りません。立場のある方の案件ではよくあります。ご本人の不安や違和感は、周囲の気遣いで丸くされる。揉める前に穏当な形へ整えたつもりでも、あとで崩れたときには、その方だけが何も持っていない」
リディアは彼を見た。
「……それで、あの場を作ったのですか」
「ええ」
「王女殿下のために」
セオドアは一瞬だけ目を細めた。
「殿下のためでもありますが、それだけではありません」
その言い方が妙に彼らしかった。
優しさを前に出すために言葉を選ばない。必要なら、少し冷たく聞こえることもそのまま言う。
「王族の婚姻は前例になります」
彼は続けた。
「一度、守る文言のないまま通れば、次も同じでよいという話になる。今回が穏便に収まったとしても、その次で誰かが沈むかもしれない。私はそういうものを、見過ごしたいと思えません」
書庫の中で、その言葉だけがはっきり響いた。
リディアは答えず、手元の紙を見た。
帰還条件。書簡の独立。帯同者の維持。子の扱い。孤立の防止。沈黙の強要。
確かにこれは、ヘレナひとりの問題ではない。
王女の婚姻という大きな案件だからこそ、ここで曖昧なまま通れば、以後もそれが“普通”として残る。
「あなたらしい理由ですね」
そう言うと、セオドアは少しだけ眉を上げた。
「褒められているのかは判断に迷います」
「褒めているつもりはありません」
リディアは紙を重ねながら言った。
「納得しただけです」
その返しに、彼はかすかに口元を動かした。
笑ったというほどでもない。けれど、否定もしなかった。
「あなたは」
リディアは手を止めずに言葉を継いだ。
「人のために動くのだとしても、その人そのものへ酔ってはいませんね」
「酔っていては、判断を誤ります」
「だから、王女殿下にも甘い慰めは言わない」
「必要がないので」
その短さが、かえって妙に正確だった。
今日の書庫で、セオドアは一度もヘレナを憐れんではいなかった。弱い立場だから守ってやる、という顔もしない。ただ、守る文言が欠けていることを欠けていると言い、最低限は最低限だと扱った。
それは冷たくも見える。
だが実際には、そのやり方のほうがよほど相手を当事者として扱っている。
「不思議な方ですね」
思わず口にすると、セオドアは紙束を整える手を止めた。
「そうでしょうか」
「ええ」
リディアは顔を上げた。
「多くの方は、私がこういう話をすると、正しさか冷たさかのどちらかでしか見ません。役に立つ、厳しい、面倒だ、可愛げがない。だいたいそのあたりです」
セオドアは黙って聞いている。
「けれどあなたは、どれでもないところを見ている」
「どれでもない、ですか」
「壊れたときに、どちらが先に沈むかを数えていると」
その一文を口にしたとき、書庫の静けさが少しだけ変わった気がした。
昨夜も思ったことだが、あの言葉はまだ胸の奥のどこかに引っかかっている。正しいとも、厳しいとも、冷たいとも違うところに触れた言葉だった。
セオドアはしばらく何も言わなかった。
それから、窓から差し込む光を半分だけ受けたまま、静かに答える。
「そう見えたのなら、間違ってはいません」
「珍しいですね。否定なさらないのは」
「否定する理由がありませんので」
相変わらず素っ気ない。
だが、以前ほどその素っ気なさが壁には見えなかった。
リディアは紙を揃え終え、端を軽く整えた。
「ではひとつ、こちらも率直に伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ、私を呼んだのです」
セオドアは目を伏せた。
意外そうな顔ではない。いずれ来る問いだと思っていたのだろう。
「答えは単純です」
「単純には聞こえませんでしたが」
「それでも単純です」
彼はリディアをまっすぐ見た。
「あなたなら、殿下の不安を気分の問題として片づけないと思ったからです」
その答えは、あまりに飾りがなかった。
慰めでも持ち上げでもない。ただ判断として、必要だったから呼んだ。
なのに、その事実が妙に軽くなかった。
リディアは視線を逸らし、机の上の紙へ落とした。
「便利そうだから、ではなく」
「それで済むなら、最初から法務局の中だけで整えます」
きっぱりと返される。
「ですが今回は、それでは足りない。条項の理屈だけなら私でも並べられます。けれど、息が詰まる側の言葉へ落とすには、別の目が要ると思いました」
その一言に、リディアは胸の奥がわずかに熱を持つのを感じた。
便利だからではない。
よくできるからでもない。
必要な仕事をさせるために使うのでもない。
判断そのものを見て、そこを必要だとされた。
それは婚約中、一度も与えられなかった扱いだった。
ユリウスは、彼女がよく見えていることを好んだ。
けれどそれは、間違えずに整えてくれるからでしかなかったのかもしれない。
今、その輪郭が、また少しだけはっきりする。
「……そうですか」
それだけ答えると、セオドアはそれ以上追わなかった。
反応を確かめようとも、余計な言葉を添えようともしない。
むしろ彼は、机の上の別紙を手に取り、事務的な声色へ戻った。
「本日の要点は私のほうでもまとめます。ですが、殿下に関してはあなたの見立てを優先したい」
「ずいぶん任せますね」
「任せる価値があると判断しています」
即答だった。
そのあまりの迷いのなさに、リディアは少しだけ目を細める。
「そういうところです」
「何がでしょう」
「人を持ち上げる気配がないのに、必要なところだけまっすぐ言うところが」
セオドアは一瞬考えるような間を置いたあと、淡々と返した。
「不快でしたか」
「まさか」
リディアは小さく首を振る。
「その逆です。少なくとも、扱いやすいように言葉を選ばれている感じはしません」
「扱いやすくする必要がないので」
本当に可愛げのない男だ、と一瞬思う。
けれど不思議と、その可愛げのなさが嫌ではなかった。
書庫の外で、控えの足音がひとつ通り過ぎる。
そろそろ長居はできない時間なのだろう。
セオドアは紙をまとめ、薄い革表紙の挟みへ収めた。
「お送りします」
「出口までで十分です」
「承知しました」
並んで書庫を出ると、回廊には午後の光が細く差していた。
王家の離れは来たときと変わらず静かで、人の気配も遠い。けれど先ほどまでの書庫の中よりは、少しだけ呼吸がしやすい気がした。
数歩進んだところで、リディアはふと口を開く。
「先ほどのマルグリット殿のような方は、これからも出てくるでしょうね」
「ええ」
「しかも、おそらく善意で」
「そのほうが厄介です」
セオドアは即座に言った。
「悪意ならまだ線を引きやすい。善意と慣例で削られるほうが、後から見えにくい」
その言葉に、リディアは小さく頷いた。
やはりこの男は、自分と同じものを見ている。まったく同じではないにせよ、少なくとも、綺麗事だけで覆われた表面ではないところを。
出口の手前で、セオドアが足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
法務局の人間らしい、きちんとした礼だった。
リディアは少しだけ驚く。
彼なら、必要な会合でした、程度で済ませるかと思っていた。
「まだ一日目です」
「一日目で、ここまで進めば十分です」
そう言ってから、彼はわずかに言葉を継ぎ足した。
「殿下がご自分の恐れを、あの場であそこまで言葉にできたのは、あなたがいたからでしょう」
それは、おそらく事実として言っているだけなのだろう。
だが、事実として言われるからこそ、妙に胸に残る。
リディアはほんの少しだけ視線を逸らし、外気の差し込む扉のほうを見た。
「……そうであればよいのですが」
「願望ではなく、観察です」
その返答に、思わず笑いそうになる。
本当に、この人は余計な飾りをつけない。
「では、その観察を外さないよう、次も働きます」
そう言うと、セオドアはごく短く頷いた。
「期待しています」
その二文字が、妙に軽く聞こえなかった。
大げさな励ましでも、甘い慰めでもない。
ただ、こちらの判断を見た上で差し出された言葉だった。
リディアは回廊の先へ歩き出しながら、ふと気づく。
この男は、自分を使うために評価しているのではない。
便利だからではなく、判断を見ている。
その違いは小さいようでいて、思っていた以上に大きかった。
外へ出ると、午後の空はまだ明るい。
冷たい風が頬に触れ、閉ざされた書庫の空気が少しだけほどけていく。
それでも胸の内には、今日の言葉がいくつも残っていた。
私は、切り離されるのが怖いのです。
それなら、私は怖いのだと申し上げてもよいのですね。
そして、任せる価値があると判断しています。
リディアは足を止めずに前を向いた。
王女案件は、ここからさらに厄介になるだろう。
今日のように、穏やかな顔をした圧が何度も現れるはずだ。
それでも、書庫でようやく言葉になったものを、もう一度曖昧さへ戻すつもりはなかった。
そしてたぶん、セオドアも同じなのだと、今は確信できた。
ヘレナのその言葉に、リディアは頷いた。
「はい。殿下が何を恐れておられるかは見えてきました。次は、どういう形なら受け入えられるのかです」
王女は机上の紙へ目を落としたまま、小さく息をつく。
「怖いと口にするより、そちらのほうが難しい気がいたします」
「そうでしょうね」
リディアは率直に言った。
「恐れは、すでに胸の中にあるものですから。けれど望みは、自分で線を引かねばなりません」
ヘレナはその言葉を反芻するように黙った。
先ほどまでの沈黙とは違う。押し込められているのではなく、選ぼうとしている沈黙だった。
やがて王女は、机の上の記録を閉じた。
「今日は、そこまでにいたしましょう」
セオドアが顔を上げる。
リディアもまた、異論はなかった。ここまでで十分進んだ。これ以上は、焦って言葉を重ねるより、一度持ち帰って整えたほうがよい。
ヘレナは二人を見た。
「怖いと申し上げてよいのだとわかっただけでも、今日は来ていただいた意味がありました。次は、私のほうでも考えてまいります」
「承知いたしました」
リディアがそう答えると、王女はわずかに表情を和らげた。
「ただ」
その声で、二人はもう一度顔を上げる。
「次も、できれば同じ形でお願いしたいのです。大きな場ではなく、今日のように、まだ言葉を整えるための場として」
セオドアが答えた。
「調整いたします」
「ありがとうございます」
ヘレナは立ち上がった。
「本日は助かりました、リディア嬢」
「こちらこそ」
「……昨夜、あなたをお呼びしたいと申し上げたとき、半分は勘でした」
王女は少しだけ言いよどみ、それでも続けた。
「ですが、間違ってはいなかったように思います」
それだけ言うと、ヘレナはマルグリットではない若い侍女を呼び、奥の扉から控えの間へ下がっていった。
書庫に残ったのは、リディアとセオドアの二人だけだった。
先ほどまで三人の間に張っていた緊張が少しずつほどける。けれど静けさはそのままで、むしろ王女が去ったぶんだけ、紙をめくる音さえ立てにくいような空気が残っていた。
セオドアは机上の紙へ目を落とした。
「思っていたより、はっきりお話しくださいました」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「ようやく入り口に立てた、という程度でしょう」
「それでも十分です。入り口にも立てないまま話が進むことのほうが多い」
その言い方には、見てきたものの重みがあった。
リディアは紙を整えながら問う。
「あなたは、最初からそこまで見越していたのですか」
「何をです」
「王女殿下が、ああいう形で押し戻されることを」
セオドアはすぐには答えなかった。
机の端に置かれた記録集を閉じ、窓際へ半歩だけ視線をやってから、静かに言う。
「見越していた、というより、珍しくないと思っていました」
それはひどく乾いた言い方だった。
感情がないのではない。ただ、感情より前に事実として積み上がってきたものを口にする声音だ。
「婚姻に限りません。立場のある方の案件ではよくあります。ご本人の不安や違和感は、周囲の気遣いで丸くされる。揉める前に穏当な形へ整えたつもりでも、あとで崩れたときには、その方だけが何も持っていない」
リディアは彼を見た。
「……それで、あの場を作ったのですか」
「ええ」
「王女殿下のために」
セオドアは一瞬だけ目を細めた。
「殿下のためでもありますが、それだけではありません」
その言い方が妙に彼らしかった。
優しさを前に出すために言葉を選ばない。必要なら、少し冷たく聞こえることもそのまま言う。
「王族の婚姻は前例になります」
彼は続けた。
「一度、守る文言のないまま通れば、次も同じでよいという話になる。今回が穏便に収まったとしても、その次で誰かが沈むかもしれない。私はそういうものを、見過ごしたいと思えません」
書庫の中で、その言葉だけがはっきり響いた。
リディアは答えず、手元の紙を見た。
帰還条件。書簡の独立。帯同者の維持。子の扱い。孤立の防止。沈黙の強要。
確かにこれは、ヘレナひとりの問題ではない。
王女の婚姻という大きな案件だからこそ、ここで曖昧なまま通れば、以後もそれが“普通”として残る。
「あなたらしい理由ですね」
そう言うと、セオドアは少しだけ眉を上げた。
「褒められているのかは判断に迷います」
「褒めているつもりはありません」
リディアは紙を重ねながら言った。
「納得しただけです」
その返しに、彼はかすかに口元を動かした。
笑ったというほどでもない。けれど、否定もしなかった。
「あなたは」
リディアは手を止めずに言葉を継いだ。
「人のために動くのだとしても、その人そのものへ酔ってはいませんね」
「酔っていては、判断を誤ります」
「だから、王女殿下にも甘い慰めは言わない」
「必要がないので」
その短さが、かえって妙に正確だった。
今日の書庫で、セオドアは一度もヘレナを憐れんではいなかった。弱い立場だから守ってやる、という顔もしない。ただ、守る文言が欠けていることを欠けていると言い、最低限は最低限だと扱った。
それは冷たくも見える。
だが実際には、そのやり方のほうがよほど相手を当事者として扱っている。
「不思議な方ですね」
思わず口にすると、セオドアは紙束を整える手を止めた。
「そうでしょうか」
「ええ」
リディアは顔を上げた。
「多くの方は、私がこういう話をすると、正しさか冷たさかのどちらかでしか見ません。役に立つ、厳しい、面倒だ、可愛げがない。だいたいそのあたりです」
セオドアは黙って聞いている。
「けれどあなたは、どれでもないところを見ている」
「どれでもない、ですか」
「壊れたときに、どちらが先に沈むかを数えていると」
その一文を口にしたとき、書庫の静けさが少しだけ変わった気がした。
昨夜も思ったことだが、あの言葉はまだ胸の奥のどこかに引っかかっている。正しいとも、厳しいとも、冷たいとも違うところに触れた言葉だった。
セオドアはしばらく何も言わなかった。
それから、窓から差し込む光を半分だけ受けたまま、静かに答える。
「そう見えたのなら、間違ってはいません」
「珍しいですね。否定なさらないのは」
「否定する理由がありませんので」
相変わらず素っ気ない。
だが、以前ほどその素っ気なさが壁には見えなかった。
リディアは紙を揃え終え、端を軽く整えた。
「ではひとつ、こちらも率直に伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ、私を呼んだのです」
セオドアは目を伏せた。
意外そうな顔ではない。いずれ来る問いだと思っていたのだろう。
「答えは単純です」
「単純には聞こえませんでしたが」
「それでも単純です」
彼はリディアをまっすぐ見た。
「あなたなら、殿下の不安を気分の問題として片づけないと思ったからです」
その答えは、あまりに飾りがなかった。
慰めでも持ち上げでもない。ただ判断として、必要だったから呼んだ。
なのに、その事実が妙に軽くなかった。
リディアは視線を逸らし、机の上の紙へ落とした。
「便利そうだから、ではなく」
「それで済むなら、最初から法務局の中だけで整えます」
きっぱりと返される。
「ですが今回は、それでは足りない。条項の理屈だけなら私でも並べられます。けれど、息が詰まる側の言葉へ落とすには、別の目が要ると思いました」
その一言に、リディアは胸の奥がわずかに熱を持つのを感じた。
便利だからではない。
よくできるからでもない。
必要な仕事をさせるために使うのでもない。
判断そのものを見て、そこを必要だとされた。
それは婚約中、一度も与えられなかった扱いだった。
ユリウスは、彼女がよく見えていることを好んだ。
けれどそれは、間違えずに整えてくれるからでしかなかったのかもしれない。
今、その輪郭が、また少しだけはっきりする。
「……そうですか」
それだけ答えると、セオドアはそれ以上追わなかった。
反応を確かめようとも、余計な言葉を添えようともしない。
むしろ彼は、机の上の別紙を手に取り、事務的な声色へ戻った。
「本日の要点は私のほうでもまとめます。ですが、殿下に関してはあなたの見立てを優先したい」
「ずいぶん任せますね」
「任せる価値があると判断しています」
即答だった。
そのあまりの迷いのなさに、リディアは少しだけ目を細める。
「そういうところです」
「何がでしょう」
「人を持ち上げる気配がないのに、必要なところだけまっすぐ言うところが」
セオドアは一瞬考えるような間を置いたあと、淡々と返した。
「不快でしたか」
「まさか」
リディアは小さく首を振る。
「その逆です。少なくとも、扱いやすいように言葉を選ばれている感じはしません」
「扱いやすくする必要がないので」
本当に可愛げのない男だ、と一瞬思う。
けれど不思議と、その可愛げのなさが嫌ではなかった。
書庫の外で、控えの足音がひとつ通り過ぎる。
そろそろ長居はできない時間なのだろう。
セオドアは紙をまとめ、薄い革表紙の挟みへ収めた。
「お送りします」
「出口までで十分です」
「承知しました」
並んで書庫を出ると、回廊には午後の光が細く差していた。
王家の離れは来たときと変わらず静かで、人の気配も遠い。けれど先ほどまでの書庫の中よりは、少しだけ呼吸がしやすい気がした。
数歩進んだところで、リディアはふと口を開く。
「先ほどのマルグリット殿のような方は、これからも出てくるでしょうね」
「ええ」
「しかも、おそらく善意で」
「そのほうが厄介です」
セオドアは即座に言った。
「悪意ならまだ線を引きやすい。善意と慣例で削られるほうが、後から見えにくい」
その言葉に、リディアは小さく頷いた。
やはりこの男は、自分と同じものを見ている。まったく同じではないにせよ、少なくとも、綺麗事だけで覆われた表面ではないところを。
出口の手前で、セオドアが足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
法務局の人間らしい、きちんとした礼だった。
リディアは少しだけ驚く。
彼なら、必要な会合でした、程度で済ませるかと思っていた。
「まだ一日目です」
「一日目で、ここまで進めば十分です」
そう言ってから、彼はわずかに言葉を継ぎ足した。
「殿下がご自分の恐れを、あの場であそこまで言葉にできたのは、あなたがいたからでしょう」
それは、おそらく事実として言っているだけなのだろう。
だが、事実として言われるからこそ、妙に胸に残る。
リディアはほんの少しだけ視線を逸らし、外気の差し込む扉のほうを見た。
「……そうであればよいのですが」
「願望ではなく、観察です」
その返答に、思わず笑いそうになる。
本当に、この人は余計な飾りをつけない。
「では、その観察を外さないよう、次も働きます」
そう言うと、セオドアはごく短く頷いた。
「期待しています」
その二文字が、妙に軽く聞こえなかった。
大げさな励ましでも、甘い慰めでもない。
ただ、こちらの判断を見た上で差し出された言葉だった。
リディアは回廊の先へ歩き出しながら、ふと気づく。
この男は、自分を使うために評価しているのではない。
便利だからではなく、判断を見ている。
その違いは小さいようでいて、思っていた以上に大きかった。
外へ出ると、午後の空はまだ明るい。
冷たい風が頬に触れ、閉ざされた書庫の空気が少しだけほどけていく。
それでも胸の内には、今日の言葉がいくつも残っていた。
私は、切り離されるのが怖いのです。
それなら、私は怖いのだと申し上げてもよいのですね。
そして、任せる価値があると判断しています。
リディアは足を止めずに前を向いた。
王女案件は、ここからさらに厄介になるだろう。
今日のように、穏やかな顔をした圧が何度も現れるはずだ。
それでも、書庫でようやく言葉になったものを、もう一度曖昧さへ戻すつもりはなかった。
そしてたぶん、セオドアも同じなのだと、今は確信できた。
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