「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

文字の大きさ
22 / 32
第3章 王女の不安に名前をつける

5、セオドアの立場

しおりを挟む
「では、次は、私が何を望んでいるのかを申したほうがよいのですね」

ヘレナのその言葉に、リディアは頷いた。

「はい。殿下が何を恐れておられるかは見えてきました。次は、どういう形なら受け入えられるのかです」

王女は机上の紙へ目を落としたまま、小さく息をつく。

「怖いと口にするより、そちらのほうが難しい気がいたします」

「そうでしょうね」

リディアは率直に言った。

「恐れは、すでに胸の中にあるものですから。けれど望みは、自分で線を引かねばなりません」

ヘレナはその言葉を反芻するように黙った。

先ほどまでの沈黙とは違う。押し込められているのではなく、選ぼうとしている沈黙だった。

やがて王女は、机の上の記録を閉じた。

「今日は、そこまでにいたしましょう」

セオドアが顔を上げる。
リディアもまた、異論はなかった。ここまでで十分進んだ。これ以上は、焦って言葉を重ねるより、一度持ち帰って整えたほうがよい。

ヘレナは二人を見た。

「怖いと申し上げてよいのだとわかっただけでも、今日は来ていただいた意味がありました。次は、私のほうでも考えてまいります」

「承知いたしました」

リディアがそう答えると、王女はわずかに表情を和らげた。

「ただ」

その声で、二人はもう一度顔を上げる。

「次も、できれば同じ形でお願いしたいのです。大きな場ではなく、今日のように、まだ言葉を整えるための場として」

セオドアが答えた。

「調整いたします」

「ありがとうございます」

ヘレナは立ち上がった。

「本日は助かりました、リディア嬢」

「こちらこそ」

「……昨夜、あなたをお呼びしたいと申し上げたとき、半分は勘でした」

王女は少しだけ言いよどみ、それでも続けた。

「ですが、間違ってはいなかったように思います」

それだけ言うと、ヘレナはマルグリットではない若い侍女を呼び、奥の扉から控えの間へ下がっていった。

書庫に残ったのは、リディアとセオドアの二人だけだった。

先ほどまで三人の間に張っていた緊張が少しずつほどける。けれど静けさはそのままで、むしろ王女が去ったぶんだけ、紙をめくる音さえ立てにくいような空気が残っていた。

セオドアは机上の紙へ目を落とした。

「思っていたより、はっきりお話しくださいました」

「いいえ」

リディアは首を振った。

「ようやく入り口に立てた、という程度でしょう」

「それでも十分です。入り口にも立てないまま話が進むことのほうが多い」

その言い方には、見てきたものの重みがあった。

リディアは紙を整えながら問う。

「あなたは、最初からそこまで見越していたのですか」

「何をです」

「王女殿下が、ああいう形で押し戻されることを」

セオドアはすぐには答えなかった。
机の端に置かれた記録集を閉じ、窓際へ半歩だけ視線をやってから、静かに言う。

「見越していた、というより、珍しくないと思っていました」

それはひどく乾いた言い方だった。
感情がないのではない。ただ、感情より前に事実として積み上がってきたものを口にする声音だ。

「婚姻に限りません。立場のある方の案件ではよくあります。ご本人の不安や違和感は、周囲の気遣いで丸くされる。揉める前に穏当な形へ整えたつもりでも、あとで崩れたときには、その方だけが何も持っていない」

リディアは彼を見た。

「……それで、あの場を作ったのですか」

「ええ」

「王女殿下のために」

セオドアは一瞬だけ目を細めた。

「殿下のためでもありますが、それだけではありません」

その言い方が妙に彼らしかった。
優しさを前に出すために言葉を選ばない。必要なら、少し冷たく聞こえることもそのまま言う。

「王族の婚姻は前例になります」

彼は続けた。

「一度、守る文言のないまま通れば、次も同じでよいという話になる。今回が穏便に収まったとしても、その次で誰かが沈むかもしれない。私はそういうものを、見過ごしたいと思えません」

書庫の中で、その言葉だけがはっきり響いた。

リディアは答えず、手元の紙を見た。
帰還条件。書簡の独立。帯同者の維持。子の扱い。孤立の防止。沈黙の強要。

確かにこれは、ヘレナひとりの問題ではない。
王女の婚姻という大きな案件だからこそ、ここで曖昧なまま通れば、以後もそれが“普通”として残る。

「あなたらしい理由ですね」

そう言うと、セオドアは少しだけ眉を上げた。

「褒められているのかは判断に迷います」

「褒めているつもりはありません」

リディアは紙を重ねながら言った。

「納得しただけです」

その返しに、彼はかすかに口元を動かした。
笑ったというほどでもない。けれど、否定もしなかった。

「あなたは」

リディアは手を止めずに言葉を継いだ。

「人のために動くのだとしても、その人そのものへ酔ってはいませんね」

「酔っていては、判断を誤ります」

「だから、王女殿下にも甘い慰めは言わない」

「必要がないので」

その短さが、かえって妙に正確だった。

今日の書庫で、セオドアは一度もヘレナを憐れんではいなかった。弱い立場だから守ってやる、という顔もしない。ただ、守る文言が欠けていることを欠けていると言い、最低限は最低限だと扱った。

それは冷たくも見える。
だが実際には、そのやり方のほうがよほど相手を当事者として扱っている。

「不思議な方ですね」

思わず口にすると、セオドアは紙束を整える手を止めた。

「そうでしょうか」

「ええ」

リディアは顔を上げた。

「多くの方は、私がこういう話をすると、正しさか冷たさかのどちらかでしか見ません。役に立つ、厳しい、面倒だ、可愛げがない。だいたいそのあたりです」

セオドアは黙って聞いている。

「けれどあなたは、どれでもないところを見ている」

「どれでもない、ですか」

「壊れたときに、どちらが先に沈むかを数えていると」

その一文を口にしたとき、書庫の静けさが少しだけ変わった気がした。

昨夜も思ったことだが、あの言葉はまだ胸の奥のどこかに引っかかっている。正しいとも、厳しいとも、冷たいとも違うところに触れた言葉だった。

セオドアはしばらく何も言わなかった。

それから、窓から差し込む光を半分だけ受けたまま、静かに答える。

「そう見えたのなら、間違ってはいません」

「珍しいですね。否定なさらないのは」

「否定する理由がありませんので」

相変わらず素っ気ない。
だが、以前ほどその素っ気なさが壁には見えなかった。

リディアは紙を揃え終え、端を軽く整えた。

「ではひとつ、こちらも率直に伺ってよろしいですか」

「どうぞ」

「なぜ、私を呼んだのです」

セオドアは目を伏せた。

意外そうな顔ではない。いずれ来る問いだと思っていたのだろう。

「答えは単純です」

「単純には聞こえませんでしたが」

「それでも単純です」

彼はリディアをまっすぐ見た。

「あなたなら、殿下の不安を気分の問題として片づけないと思ったからです」

その答えは、あまりに飾りがなかった。

慰めでも持ち上げでもない。ただ判断として、必要だったから呼んだ。
なのに、その事実が妙に軽くなかった。

リディアは視線を逸らし、机の上の紙へ落とした。

「便利そうだから、ではなく」

「それで済むなら、最初から法務局の中だけで整えます」

きっぱりと返される。

「ですが今回は、それでは足りない。条項の理屈だけなら私でも並べられます。けれど、息が詰まる側の言葉へ落とすには、別の目が要ると思いました」

その一言に、リディアは胸の奥がわずかに熱を持つのを感じた。

便利だからではない。
よくできるからでもない。
必要な仕事をさせるために使うのでもない。

判断そのものを見て、そこを必要だとされた。
それは婚約中、一度も与えられなかった扱いだった。

ユリウスは、彼女がよく見えていることを好んだ。
けれどそれは、間違えずに整えてくれるからでしかなかったのかもしれない。
今、その輪郭が、また少しだけはっきりする。

「……そうですか」

それだけ答えると、セオドアはそれ以上追わなかった。
反応を確かめようとも、余計な言葉を添えようともしない。

むしろ彼は、机の上の別紙を手に取り、事務的な声色へ戻った。

「本日の要点は私のほうでもまとめます。ですが、殿下に関してはあなたの見立てを優先したい」

「ずいぶん任せますね」

「任せる価値があると判断しています」

即答だった。

そのあまりの迷いのなさに、リディアは少しだけ目を細める。

「そういうところです」

「何がでしょう」

「人を持ち上げる気配がないのに、必要なところだけまっすぐ言うところが」

セオドアは一瞬考えるような間を置いたあと、淡々と返した。

「不快でしたか」

「まさか」

リディアは小さく首を振る。

「その逆です。少なくとも、扱いやすいように言葉を選ばれている感じはしません」

「扱いやすくする必要がないので」

本当に可愛げのない男だ、と一瞬思う。
けれど不思議と、その可愛げのなさが嫌ではなかった。

書庫の外で、控えの足音がひとつ通り過ぎる。
そろそろ長居はできない時間なのだろう。

セオドアは紙をまとめ、薄い革表紙の挟みへ収めた。

「お送りします」

「出口までで十分です」

「承知しました」

並んで書庫を出ると、回廊には午後の光が細く差していた。
王家の離れは来たときと変わらず静かで、人の気配も遠い。けれど先ほどまでの書庫の中よりは、少しだけ呼吸がしやすい気がした。

数歩進んだところで、リディアはふと口を開く。

「先ほどのマルグリット殿のような方は、これからも出てくるでしょうね」

「ええ」

「しかも、おそらく善意で」

「そのほうが厄介です」

セオドアは即座に言った。

「悪意ならまだ線を引きやすい。善意と慣例で削られるほうが、後から見えにくい」

その言葉に、リディアは小さく頷いた。
やはりこの男は、自分と同じものを見ている。まったく同じではないにせよ、少なくとも、綺麗事だけで覆われた表面ではないところを。

出口の手前で、セオドアが足を止めた。

「今日は、ありがとうございました」

法務局の人間らしい、きちんとした礼だった。

リディアは少しだけ驚く。
彼なら、必要な会合でした、程度で済ませるかと思っていた。

「まだ一日目です」

「一日目で、ここまで進めば十分です」

そう言ってから、彼はわずかに言葉を継ぎ足した。

「殿下がご自分の恐れを、あの場であそこまで言葉にできたのは、あなたがいたからでしょう」

それは、おそらく事実として言っているだけなのだろう。
だが、事実として言われるからこそ、妙に胸に残る。

リディアはほんの少しだけ視線を逸らし、外気の差し込む扉のほうを見た。

「……そうであればよいのですが」

「願望ではなく、観察です」

その返答に、思わず笑いそうになる。

本当に、この人は余計な飾りをつけない。

「では、その観察を外さないよう、次も働きます」

そう言うと、セオドアはごく短く頷いた。

「期待しています」

その二文字が、妙に軽く聞こえなかった。

大げさな励ましでも、甘い慰めでもない。
ただ、こちらの判断を見た上で差し出された言葉だった。

リディアは回廊の先へ歩き出しながら、ふと気づく。

この男は、自分を使うために評価しているのではない。
便利だからではなく、判断を見ている。
その違いは小さいようでいて、思っていた以上に大きかった。

外へ出ると、午後の空はまだ明るい。

冷たい風が頬に触れ、閉ざされた書庫の空気が少しだけほどけていく。
それでも胸の内には、今日の言葉がいくつも残っていた。

私は、切り離されるのが怖いのです。
それなら、私は怖いのだと申し上げてもよいのですね。
そして、任せる価値があると判断しています。

リディアは足を止めずに前を向いた。

王女案件は、ここからさらに厄介になるだろう。
今日のように、穏やかな顔をした圧が何度も現れるはずだ。
それでも、書庫でようやく言葉になったものを、もう一度曖昧さへ戻すつもりはなかった。

そしてたぶん、セオドアも同じなのだと、今は確信できた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました

歩人
ファンタジー
エレナは公爵家に嫁いで10年、夫は愛人に入れ込み、義母には「家政婦代わり」と 罵られた。だが領地の財務も、商会との交渉も、使用人の管理も、全部エレナが やっていた。ある日、義母から「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言われ、 エレナは静かに離縁届を出した。「では、代わりの方にお任せください」 辺境の町で小さな商会を開いたエレナ。10年間の実務経験は伊達ではなかった。 商会はたちまち繁盛する。一方、エレナがいなくなった公爵家は3ヶ月で経営破綻。 元夫が「戻ってこい」と泣きつくが—— 「お断りです。あと、10年分の未払い給金を請求いたしますね」

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

これが普通なら、獣人と結婚したくないわ~王女様は復讐を始める~

黒鴉そら
ファンタジー
「私には心から愛するテレサがいる。君のような偽りの愛とは違う、魂で繋がった番なのだ。君との婚約は破棄させていただこう!」 自身の成人を祝う誕生パーティーで婚約破棄を申し出た王子と婚約者と番と、それを見ていた第三者である他国の姫のお話。 全然関係ない第三者がおこなっていく復讐? そこまでざまぁ要素は強くないです。 最後まで書いているので更新をお待ちください。6話で完結の短編です。

何かと「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢は

だましだまし
ファンタジー
何でもかんでも「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢にその取り巻きの侯爵令息。 私、男爵令嬢ライラの従妹で親友の子爵令嬢ルフィナはそんな二人にしょうちゅう絡まれ楽しい学園生活は段々とつまらなくなっていった。 そのまま卒業と思いきや…? 「ひどいわ」ばっかり言ってるからよ(笑) 全10話+エピローグとなります。

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―

Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。

ちゃんと忠告をしましたよ?

柚木ゆず
ファンタジー
 ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。 「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」  アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。  アゼット様。まだ間に合います。  今なら、引き返せますよ? ※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。

【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?

ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。 世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。 ざまぁ必須、微ファンタジーです。

処理中です...