「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第3章 王女の不安に名前をつける

6、王女の願い

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次に書庫を訪れたのは、三日後の午後だった。

前回と同じ離れの回廊は静かで、表向きにはただの資料確認の続きとして扱われているらしい。けれど実際には、前回とは少し空気が違っていた。

ヘレナはすでに席についていたが、今回は机の上に古い記録集だけでなく、薄い紙が数枚、きちんと重ねて置かれていた。

リディアが腰を下ろすと、王女はその紙へ一度だけ視線を落とした。

「前回のあと、自分でも考えてみました」

声は落ち着いている。だが、書きつけたものを見せる前の人間らしい硬さが、わずかに混じっていた。

「怖いと思っていることを認めるだけでは足りないと、あの日に教えていただきましたので」

「お考えはまとまりましたか」

「半分ほどは」

ヘレナはそう言って、少しだけ苦く笑った。

「望みの形にするのは、予想以上に難しいものですね。怖いことなら、いくらでも挙げられますのに」

「それが普通です」

リディアは答えた。

「失いたくないものは、失う場面を想像すると見えやすい。ですが、どう在りたいかは、自分で線を引かなければ形になりません」

ヘレナは頷き、それから、机の上の紙のいちばん上をこちらへ向けた。

箇条書きに近い、短い書き付けだった。
だがそこに並んでいる言葉は、前回までとは明らかに違っている。

戻れること。
王都とつながり続けること。
私の側に、私の言葉を知る者がいること。
向こうの家の一員になっても、王家の娘でなくならないこと。

リディアは、最後の一行で目を止めた。

向こうの家の一員になっても、王家の娘でなくならないこと。

それは立場の確認であり、願いでもある。
そしておそらく、この婚姻の核にもっとも近い言葉だった。

「殿下」

リディアは紙から目を上げた。

「今日は、まず確認したいことがあります」

「はい」

「殿下は、この婚姻そのものを退けたいわけではないのですね」

ヘレナは即座には答えなかった。

前回のような、言ってよいのかわからない沈黙ではない。今度は、自分の答えに誤解が生じない形を探している沈黙だった。

「……退けたいと申し上げたことは、一度もありません」

やがて、王女は静かに言った。

「怖いとは思っております。向こうへ行くことも、慣れぬ地で務めを果たすことも、簡単だとは思えません。ですが、それだけで拒みたいわけではないのです」

「では、何が受け入えがたいのでしょう」

「差し出されるだけの形です」

その言葉に、書庫の空気が少し引き締まった。

セオドアは今日は前回より近く、机の端に座っていたが、やはり口は挟まない。必要なことはまず王女自身が言うべきだと考えているのだろう。

ヘレナは続けた。

「私は王女です。婚姻が役目のひとつであることも理解しています。国のために結ばれる縁があることも、私情だけでは決められないことも、幼い頃から教えられてきました」

それは恨みがましい言い方ではなかった。
事実として、受け入えてきた人間の声音だった。

「ですから、遠方へ嫁ぐことそのものを不幸だと申し上げるつもりはありません。先方と誠実に関わり、向こうでの役目を果たすことも、できるかぎりは努めたいと思っています」

そこで一度、王女は言葉を切った。

「けれど、それが、何も持たぬまま差し出されることと同じであってよいとは思えないのです」

リディアは静かに頷いた。

ここが大事だった。
ヘレナは婚姻を拒んでいるのではない。役目を放り出したいわけでもない。
だからこそ、単なる反抗ではなく、最低限の尊厳の話になる。

「私は、自由が欲しいのではないのだと思います」

ヘレナは自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと言った。

「好きなときに好きな場所へ行きたいわけではありません。誰の言葉も受けずに、私ひとりの考えだけを通したいわけでもない。ただ」

王女の指先が、書き付けの端をそっと押さえる。

「戻れる道だけは、失いたくないのです」

その一言は、前回の「切り離されるのが怖い」と地続きでありながら、もう少し前を向いていた。
怖さの告白ではなく、何を残したいかの表明になっている。

「戻れる道、ですか」

リディアが問うと、ヘレナは頷いた。

「はい。たとえ実際に戻ることがなくても、戻れるとわかっているのと、最初からどこにも戻れないのとでは、まったく違います」

「そのとおりです」

リディアはためらわずに言った。

「帰還条件は、使うためだけのものではありません。あることで、向こうが一線を越えにくくなる」

ヘレナはかすかに目を上げた。

「そういうものなのですね」

「ええ。紙に書かれた退路は、それ自体が抑止になります」

セオドアが、そこで短く補った。

「帰れない相手には、無理が通りやすい。帰る条件を持つ相手には、それが通りにくくなる」

淡々とした言い方だが、王女はそのほうが聞きやすいのかもしれない。感情に寄り添う言葉ではなく、仕組みの話として示されると、自分の願いをわがままと思わずに済む。

ヘレナはしばらく机の上の紙を見つめ、それから続けた。

「もうひとつ、考えたことがあります」

「何でしょう」

「私は向こうで、先方の家の一員になるのでしょう。それは避けられないことです。ですが、その瞬間に王家の娘でなくなるような形は、受け入えたくありません」

その言葉は、前回までの帰還や書簡の話より、ずっと身分に近い。
そして身分に近いぶんだけ、触れにくいところでもある。

「王女であることを、肩書きとして残したいのではありません」

ヘレナはすぐに続けた。

「そう聞こえてしまうのは本意ではないのですが……」

「違うことはわかります」

リディアは言った。

「殿下がおっしゃりたいのは、向こうの家に組み込まれたあとも、王家と殿下ご本人との関係が消えない形が必要だということでしょう」

王女は、目に見えて安堵した顔をした。

「ええ。まさに、それです」

その瞬間、リディアははっきりと感じた。
この王女は、自分の考えがないのではない。考えはある。ただ、それを受け取れる言葉へ置き換えてくれる相手が、これまでほとんどいなかったのだ。

「それなら、王家への定期的な報告だけでは足りませんね」

リディアは紙を引き寄せた。

「形式上の報告ではなく、殿下個人の書簡が独立して守られること。帯同者のうち何名かは、王家側の任であると明記すること。少なくともそのあたりがなければ、殿下と王家のつながりは、すぐに儀礼だけのものになります」

「儀礼だけのもの」

ヘレナが繰り返す。

「はい。祝いのときだけ使われる細い紐のようなものになります。切れはしなくても、支えにはなりません」

王女は、静かに息をついた。

「それでは、足りないのですね」

「足りません」

今度はセオドアが答えた。

「少なくとも、殿下が今おっしゃった形には届かないでしょう」

ヘレナは頷き、少しの間、黙った。

それから、意を決したように言う。

「私は、向こうで良い関係を築きたいと思っています」

リディアは目を上げる。

「それは、おそらく本心です。最初から疑いだけを抱えて入りたいわけではありません。できることなら誠実に関わり、信を結びたい。相手方にも、そのつもりでいてほしいと思っています」

そこまで言ってから、ヘレナは少しだけ口元を引き結んだ。

「けれど、信を結びたいと思うことと、何も持たずに委ねることは違いますよね」

「違います」

リディアは即答した。

「そこを同じにしてしまうと、信は片方だけの献身に変わります」

王女は、その言葉を黙って受け止めた。

きっとこれまで何度も、信じることを求められてきたのだろう。王家のために。婚姻のために。先方の誠意を疑わぬように。
だが信じることは、備えを捨てることではない。そこが曖昧にされると、弱い側だけが何も持たされずに送り出される。

「それから」

ヘレナの声が、少し低くなる。

「子についても、考えました」

リディアもセオドアも、すぐには口を挟まなかった。

「前回お話ししたあと、ずっとそれが頭から離れなかったのです。婚姻のあとに子が生まれれば、私の立場はさらに変わる。向こうの家の母として扱われ、帰還も連絡も、すべて子を理由に縛られるかもしれない」

王女はそこで一度、目を伏せた。

「ですが私は、子を置いて戻りたいと申し上げたいわけではありません」

それは、かなり強い言葉だった。
ここを誤れば、婚姻も母性も軽んじる者として扱われかねない。

「そうでしょうね」

リディアは静かに促す。

「ただ、子がいるから何も言えなくなる形を、最初から受け入えたくないのです」

ヘレナは続けた。

「何が起きても、母であるなら耐えるべきだと言われるかもしれない。子のために従うのが当然だと。けれど、それでは私は、最初から子を人質に取られるのと変わらない」

書庫は静まり返っていた。

重い言葉だった。だが、ここまで来たからこそ、ようやく口にできたのだろう。

セオドアが低く言う。

「その認識は正しいと思います」

王女は彼を見る。

「正しい、と」

「はい。表現を和らげる必要はあるでしょうが、構造としては同じです。お子を理由に殿下の退路を塞げる形なら、最初からその余地を作ってはならない」

ヘレナは目を伏せ、それから小さく頷いた。

リディアは、机の上の書き付けの余白に新しく書き加えた。

自由ではなく退路。
拒絶ではなく尊厳。

書きながら、胸の内で確信が固まっていく。

この婚姻は、守る条件さえ整えば、成立しうる。
ヘレナは国の役目を理解している。先方との関係を築く意思もある。むやみに逆らいたいわけでも、逃げたいわけでもない。
だが、今のままなら駄目だ。
今のまま進めば、役目の名を借りて一人の人間を壊す形になる。

「殿下」

リディアは筆を置いた。

「今日うかがったことで、はっきりいたしました」

ヘレナはまっすぐにこちらを見る。

「殿下は、この婚姻を退けたいのではありません。受け入れる形を、失いたくないだけです」

王女は何も言わない。
だがその沈黙は、否定ではなかった。

「戻れる道があり、王家とのつながりが守られ、殿下ご本人の声が消えないこと。そこが守られるなら、殿下はこの婚姻に向き合える」

「……はい」

ヘレナの返事は、短く、それでいて揺れていなかった。

リディアはさらに続ける。

「逆にそこが守られないなら、この婚姻は人を壊します」

その言葉が落ちたあと、書庫の空気は動かなかった。
誰もすぐには返さない。軽く受け流せる重さではないからだ。

けれど、王女はしばらくして、ゆっくりと息を吐いた。

「そう言っていただけると、自分が無理を申しているのではないのだとわかります」

「無理ではありません」

「皆がそう考えてくださるとは思いませんが」

「でしょうね」

リディアは率直に言った。

「ですが、皆がそう考える必要はありません。必要なのは、殿下の願いがどこにあるのかを曖昧にしないことです」

ヘレナはその言葉に、静かに頷いた。

前回までの王女なら、ここでまた「私が我慢すればよいのでしょう」と言いかねなかった。
だが今は違う。怖さを認め、その先で、自分が何を守りたいのかを言葉にし始めている。

王女は机上の紙へ手を伸ばした。

「それなら次は、これを形にしていくのですね」

その指先は、前回より迷いが少なかった。

リディアは頷く。

「はい。ここからは草案の仕事です」

セオドアもまた、短く言った。

「争われることを前提に、削らせない言葉を選びましょう」

ヘレナはその一言を聞いて、少しだけ目を細めた。

「穏やかな言い方ではありませんのね」

「穏やかに削られるよりはましです」

セオドアがそう返し、王女の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

その笑みは華やかではない。
けれど、最初にこの書庫で会ったときより、明らかに呼吸が深い人の顔だった。

リディアは机上の紙を見下ろしながら思う。

ここまで来れば、もう後戻りはできない。
曖昧な不安だったものは、恐れとして、そして願いとして、すでに言葉を持ってしまった。

ならば次は、それを守るための形に変えるだけだ。
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