「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第3章 王女の不安に名前をつける

7、条件の草案

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ここからは草案の仕事です。

そう口にしたあと、書庫の空気は少しだけ変わった。

これまでは、ヘレナの不安に形を与えるための時間だった。けれど、いったん言葉になってしまえば、次は選ばなければならない。何を守るのか。どこまでを最低限とするのか。どの言い回しなら後で削られにくいのか。

机の上に、紙が広げ直された。

古い記録は脇へ寄せられ、代わりに、白紙と補足メモと法務局の定型書式が並ぶ。前例を見る場から、作る場へ移ったのだと、それだけでわかる。

セオドアが薄い書面を開いた。

「まず、骨組みだけ先に置きます。細部は後から詰められますが、順番を誤ると全体が甘くなる」

「お願いします」

ヘレナが頷く。

リディアは筆を取り、別紙へ見出しを書きつけた。

帰還条件。
書簡管理。
帯同者の維持。
個人財産の扱い。
解除条項。

そこまで書いてから、少し考え、さらに一行を足す。

王家との定期確認。

ヘレナがその文字列を見て、静かに問うた。

「解除条項、まで入れるのですね」

「入れます」

リディアはためらわなかった。

「婚姻を壊すための言葉ではありません。壊れたときに、壊れたことを認めるための言葉です」

王女は少しのあいだ黙っていたが、やがて小さく頷いた。

嫌ではあるのだろう。婚姻の前から、終わりの可能性を紙に載せるのだから。けれど、嫌だという感情だけで外してよい箇所ではないことも、今のヘレナならもうわかっている。

セオドアが紙面へ目を落としたまま言う。

「最初に確認したいのは、帰還条件です。ここは象徴ではなく実効が要ります。曖昧な文言では意味がない」

「具体的には」

ヘレナが問い、セオドアは簡潔に答えた。

「病、王家の近親者の危急、婚姻時の取り決めへの重大な違反、そして殿下ご本人からの帰還請求。この四つを柱にしたい」

「本人からの請求も、ですか」

「必要です」

そう答えたのはリディアだった。

「周囲が見て明らかな事情だけでは足りません。明らかになる頃には、外へ届く声そのものが痩せているかもしれませんので」

ヘレナは目を伏せて考えた。

「本人からの請求、という形にすると、軽率だと思われないでしょうか」

「思う方はいるでしょう」

リディアは率直に言う。

「ですが、それを恐れて落とせば、殿下の退路は他人の判断に預けられます」

セオドアも補った。

「請求があれば即帰還、という書き方にする必要はありません。王家側が正式に協議を起動し、一定期間内に返答を要する形にすれば、恣意的に握りつぶされにくくなる」

そこまで聞いて、ヘレナはゆっくりと息を吐いた。

「……その形なら、受け入えやすい気がいたします」

「では、それで行きましょう」

リディアは帰還条件の項へ、短く要点を書き込んだ。

殿下本人からの請求により協議開始。
返答期限を明記。
重大違反時の臨時帰還を可能とする。

紙の上に線が引かれていくたび、曖昧だったものが現実の輪郭を持ち始める。

次に、書簡の項へ移る。

ここではヘレナ自身が、先に口を開いた。

「王家への定期報告だけでは足りない、というお話でしたね」

「はい」

「でしたら、私個人の書簡が、王家への公的な報告とは別に扱われることを入れていただきたいのです」

その言葉に、リディアは筆を止めて王女を見た。

ヘレナは前回よりもまっすぐにこちらを見返している。

「表向きの報告だけが残れば、私は元気で役目を果たしております、という文面しか送れなくなる気がします」

「そうでしょうね」

「それでは、足りません」

その一言には、もう迷いがほとんどなかった。

リディアは静かに頷いた。

「では、公的報告とは別に、殿下個人の書簡の往復を妨げないこと。封緘の保持。王家側の指定便を一定頻度で認めること。この三つは入れましょう」

セオドアがすぐに言葉を補正する。

「妨げない、では弱いですね。留め置きや選別を行わないこと、としたほうがよい」

「たしかに」

リディアは書き換える。

留め置き及び選別の禁止。
個人書簡の封緘保持。
王家指定便による定期往復。

ヘレナは、その文言を見ながら小さく言った。

「ここまで書けるのですね」

「書けます」

「通るかは別として」

「ええ」

リディアは顔を上げた。

「ですが、最初にここまで書いておかなければ、どこを削られたのかさえ見えません」

王女は頷いた。その表情には緊張もあるが、もう“そんなことまで望んでよいのか”というためらいは前ほど濃くない。

続いて帯同者の項へ移る。

ここはヘレナが最も考え込んだ。

「人数を決めても、病や婚姻や異動を理由に減らされるのですよね」

「ええ。だから人数だけでは足りません」

リディアは答える。

「役目を定めます。侍女何名、会計担当何名、文書補佐何名、医師一名。少なくとも、殿下の側近機能が向こうの都合だけで入れ替わらないように」

セオドアが書面を見ながら続けた。

「さらに、欠員が出た場合の補充権も必要です。補充候補を王家側が出せるか、少なくとも承認権を持てる形にしたい」

ヘレナはそこで初めて、少し強い声を出した。

「医師は落としたくありません」

二人の目が向く。

王女は少しだけ息を整えてから、言い直した。

「向こうの医師を信用しない、という意味ではないのです。ですが、私の体調や状態が、向こうの判断だけで外へ伝わる形になるのは避けたいのです」

「ええ」

リディアはすぐに応じた。

「その感覚は正しいと思います」

「でしたら」

ヘレナは、机上の紙にそっと指を置いた。

「医師と文書補佐、この二つは数を減らされても補充されるよう、明記したいのです。侍女の人数ももちろん大切ですが、この二つは落ちたときに、すぐ孤立へつながる気がいたします」

その選び方に、リディアは心の中で小さく感心した。

ただ大勢を望むのではない。何が切られると危ういのかを、もう自分で見分け始めている。

「では、その二つは優先項目として立てます」

リディアは書きつける。

医師及び文書補佐は常置。
欠員時は速やかに補充。
補充人選に王家側の承認を要する。

セオドアが頷いた。

「よいと思います。削られるなら、まずここを守る」

「ここを」

ヘレナが繰り返す。

「はい」

彼は淡々と答えた。

「すべてを通せるとは限りません。だからこそ、落としてよいものと、落としてはならないものを先に分けます」

その現実的な言い方に、ヘレナは一瞬だけ目を伏せた。だが不満そうではなかった。むしろ、願いをきれいなまま掲げるのではなく、守る順番まで含めて考えることが、この場の誠実さなのだと理解し始めているように見える。

「個人財産についてはどうなさいますか」

セオドアが問う。

ヘレナは少し考えた。

「持参金そのものは、国同士の取り決めもありますから、私個人の意向だけでは難しいでしょう」

「ええ」

「ですが、婚姻後に私へ属するものまで、向こうの家の管理へ一括される形は避けたいのです。贈答品も、手元の書付も、侍女たちの支度金も」

そのあたりは、さすが王女だった。見ている範囲が広い。自分の装身具だけではなく、周囲の者がどのように削られていくかまで視野に入っている。

「では、個人所有物と個人裁量金の区分を入れましょう」

リディアは言う。

「王家から殿下個人に付されたもの、婚姻後に殿下個人へ贈られたもの、それから随員の支度に関わる費用。このあたりは家の共有財と分けておくべきです」

セオドアが短く補足した。

「監査権も必要です。王家側が帳簿を確認できる形なら、使い込みや取り上げが起きにくい」

「そこまで」

ヘレナは少し驚いたように言った。

「入れますか」

「入れたほうがよろしいかと」

リディアは答えた。

「財の話は、軽く見られがちなようでいて、実際には退路を支える土台です。戻るにも、連絡を維持するにも、私的な裁量が一切ない形では立ちゆきません」

王女はゆっくりと頷いた。

そしてしばし黙ったのち、小さく言う。

「……私、今まで、婚姻の条件というと、相手方に失礼にならない範囲で整えるものだと思っておりました」

リディアは筆を置いて顔を上げた。

「今は違いますか」

「はい。今は、失礼かどうかより先に、壊れたときに何が残るかを見なければならないのだと思っています」

その言葉に、セオドアがごくわずかに視線を上げた。

ヘレナ自身の中で、原理が少しずつ根を下ろしているのがわかる。

最後に、解除条項の話へ進んだ。

ここだけは、三人とも最初に少し沈黙した。

婚姻の前に終わりの条項を置くのは、やはり重い。必要だとわかっていても、軽々しく始められる話ではなかった。

それでも、ヘレナが先に口を開いた。

「これは、入れてください」

その言い方は静かだったが、はっきりしていた。

「婚姻の継続が明らかに困難な場合。取り決めに重大な違反が繰り返された場合。殿下の身の安全が脅かされた場合。少なくとも、この三つでしょうか」

セオドアが列挙する。

「……はい」

ヘレナは頷いた。

「ただ」

少し迷ってから、王女は続けた。

「私の側が一方的に婚姻を軽んじているように読まれる形にはしたくありません」

リディアはその懸念をもっともだと思った。

「でしたら、“解除”より先に、“保全のための協議及び別居”を一段入れましょう」

「別居」

「ええ。いきなり断ち切るのではなく、重大な違反があった際、王家側と相手方が協議を行い、その間、殿下の身柄を中立的に保全する措置です」

セオドアが頷く。

「悪くありません。最終手段の前に一段階あると、反発も和らぐ」

「その間、殿下が向こうの家の管理から外れる形にできれば、なおよいですね」

リディアが言うと、ヘレナはその文言を繰り返すように唇を動かした。

「管理から外れる形……」

「はい。そこが曖昧だと、協議と言いながら実際には何も変わらないことがあります」

王女は少し考え、やがて静かに言った。

「それも、入れてください」

そうして、紙の上に少しずつ項目が並んでいった。

帰還条件。
書簡管理。
帯同者の維持。
個人財産の区分。
王家との定期確認。
重大違反時の保全措置。
解除条項。

ただの不安だったものが、いまや複数の条として机の上に置かれている。

書庫の窓から差し込む午後の光が、書きかけの文面を淡く照らしていた。誰もすぐには喋らない。三人とも、それがどれほど重い束になったのかを、それぞれの形で噛みしめていた。

最初に口を開いたのはヘレナだった。

「……ずいぶん、多くなりましたね」

「多いでしょうか」

リディアが問うと、王女は紙を見たままかすかに笑った。

「いいえ。必要なことばかりだと思います。ただ、最初にこの数を見せられていたら、私はきっと怯んでいました」

「今は」

「まだ怯みます」

その答えに、リディアも少しだけ口元を和らげる。

「それでよろしいかと。怯まないほど軽い話ではありませんので」

セオドアが束ねた紙の端を揃えながら言った。

「問題は数ではありません。ここから先です」

その一言で、空気がわずかに締まる。

ヘレナは彼を見る。

「ここから先、というのは」

「この草案を誰に見せ、どの順で上げるかです。内容も争われますが、それ以上に、誰が最初に知るかで揉め方が変わる」

王女は静かに紙へ目を落とした。

もうわかっているのだろう。この束が、ただの相談や覚え書きのままで済むものではないことを。

リディアもまた、同じ思いで紙を見ていた。

これを出せば、王家の中で必ず声が上がる。
王女の婚姻にそこまで求めるのか。
先方に対して強硬すぎるのではないか。
婚姻前から退路だの解除だのと、不穏ではないか。

そうした言葉が、もう目に見えるようだった。

けれど、それでも外す気にはなれない。

ヘレナが、ゆっくりと紙の一番上に手を置いた。

「これだけは」

声は小さくない。前よりも、ずっと定まっていた。

「これだけは、落としたくありません」

リディアはその手元を見た。
王女が押さえているのは、帰還条件と書簡管理、そして帯同者の維持が並ぶ箇所だった。

やはりそこなのだ。
戻れること。届くこと。側にいる者を奪われないこと。
この三つが切れた瞬間、ヘレナは孤立する。

「承知しました」

リディアははっきり答えた。

「そこを芯に組みます」

セオドアもまた、短く言った。

「この三つを落とすくらいなら、草案全体の立て方を変えたほうがましでしょう」

その厳しい言い方に、ヘレナは少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。

もう、誰も綺麗事だけでは話していない。
それがかえって、この場の信を支えている気がした。

書き上がったばかりの草案の束は、まだ粗い。文言も順序も、さらに磨く必要がある。けれど、それでももう、ただの思いつきや感傷ではない。王女の恐れと願いから組み上げられた、守るための形になっていた。

書庫の奥で、古い時計がひとつ時を打つ。

面会の時間は、そろそろ限界だろう。

セオドアが紙を整え、革挟みに収めた。

「本日はここまでにいたしましょう。私のほうで法務局の形式へ一度落とします。その上で、次に殿下へ戻します」

「お願いします」

ヘレナは答え、それからリディアへ視線を向けた。

「ありがとうございました。……ここまで来られるとは、数日前には思っておりませんでした」

「私もです」

リディアは正直に言った。

王女は、その返答に少しだけ目を細めた。

そして、机の上から最後の一枚を取り上げ、自分で書き付けた短い文を見下ろす。

戻れること。
王都とつながり続けること。
私の側に、私の言葉を知る者がいること。
向こうの家の一員になっても、王家の娘でなくならないこと。

その四行は、もう最初の覚え書きとは違って見えた。
願いというより、守るべき中身として定まっている。

ヘレナはその紙をそっと畳んだ。

「これを出せば」

小さく漏れたその声に、二人は顔を上げる。

王女は少しだけ苦く笑った。

「……黙っては済まないのでしょうね」

セオドアが即答した。

「ええ」

リディアもまた、静かに言った。

「ですが、黙って済まないものを黙って済ませれば、もっと悪くなります」

ヘレナは、その言葉を聞いてしばらく何も言わなかった。

やがて、ゆっくりと頷く。

もう最初の書庫の王女ではなかった。
怖いのかどうかも口にしてよいかわからず、自分の不安を幼さと呼び替えられかけていた人ではない。

反発されると知りながら、それでも落としたくないものを自分で指し示した人の顔をしていた。
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