「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

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第4章 王女の婚姻に条件を

3、やわらかな反対

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中身の話をいたしましょう、とヘレナが言ったあと、会議は一度そこで切られた。

次席官と記録管理官は、それぞれ文面を持ち帰り、翌日の午後に改めて見直しの場が設けられた。今度は前日よりも机の上が整っていた。草案の脇に細かな注記を入れた別紙が添えられ、どこをどう直したいのかが一目でわかるようになっている。

整っているぶんだけ、かえって息苦しかった。

前日のような「これは殿下ご本人のお考えなのですか」という問いは、もうない。ヘレナが自分の意思として草案を認めた時点で、その段階は終わっている。だから今日から始まるのは、もっと静かで、もっと厄介な話だった。

どう削るか。
どこを和らげるか。
何を曖昧に戻すか。

向かいに座る次席官は、前日と変わらず穏やかな顔をしていた。記録管理官も、声を荒げる気配はない。だが机の上に置かれた別紙には、すでに赤い線がいくつも引かれていた。

「まず、全体の方向から申し上げます」

次席官が口を開く。

「草案の趣旨そのものを否定するつもりはございません。殿下のお立場上、一定の保護と確認の仕組みが必要であることは、我々も理解しております」

そこまでは、前向きな言葉に聞こえる。

「ただし」

やはりその言葉は続いた。

「現状の文面は、保護よりも警戒が前へ出ております。婚姻前からここまで疑義を並べる形は、先方に過度な緊張を与えかねません」

ヘレナは何も言わない。
セオドアも、まだ口を開かなかった。

記録管理官が別紙を一枚、草案の上に重ねる。

「たとえば、帰還請求の箇所です。現行案では『殿下本人からの請求により、王家側は協議を開始する』となっておりますが、ここは『王家と先方の協議により、適宜判断する』程度に留めたほうが穏当かと」

リディアは、別紙を見た。

適宜判断する。

便利な言葉だった。何も壊さず、何も約束しない。後からどうとでも読める文言の典型だ。

次席官は続ける。

「殿下ご本人からの請求という形にしてしまいますと、どうしても先方からは『王女殿下が一存で帰還を求め得る』ように見えてしまいます。婚姻後の家の秩序を思えば、ここは慎重にしたい」

「一存ではありません」

ヘレナが静かに言った。

次席官が目を上げる。

「私が求めているのは、私の言葉で協議を始められることです」

「承知しております」

「でしたら、『適宜判断する』では足りません」

その返答は落ち着いていた。だが、昨日よりもはっきりしている。相手がやわらかい言い方をしているからといって、こちらまで曖昧にする必要はないと、もう知っている声だった。

次席官はわずかに頷いたが、譲らない。

「では、表現を変えましょう。殿下のご事情も含め、王家側が必要と認めた場合に協議を開始する、という形であれば」

「それでは、必要と認める側が私以外になります」

ヘレナはそう返した。

その短いやり取りの中に、争点がそのまま浮き上がる。
本人の言葉を起点にするか。
周囲の判断に預けるか。

次席官は、そこでいったん視線を落とした。正面から押しても、ヘレナが退かないことはもうわかっているのだろう。彼は次の注記へ話を移した。

「では、書簡についてです」

記録管理官が、別紙の二つ目の赤線を指で押さえる。

「『留め置き及び選別を禁ずる』という文言は、少々強すぎます。先方にも当然、家としての規律がございますし、宮廷内の安全確認もありましょう。個人書簡まで完全に独立と見なすのは、現実的ではない」

「公的な報告経路が整うのであれば」

次席官が補う。

「殿下ご個人の書簡については、そこまで明記せずともよいのではありませんか。王家への正式な便があるなら、必要なことは届きましょう」

そこで初めて、リディアは口を開いた。

「必要なことだけが届く形になるからこそ、明記が要るのです」

記録管理官がこちらを見る。

「必要なこと、ですか」

「はい」

リディアは落ち着いて答えた。

「王家が知りたいことと、殿下ご本人が伝えたいことは、必ずしも一致いたしません。公的な報告だけが残れば、外へ出る言葉は整えられたものだけになります」

「それのどこが問題なのでしょう」

記録管理官の問いは、責める調子ではなかった。
だからこそ、その一言には価値観がよく出ていた。

整えられた言葉だけが外へ出れば、それで足りる。
その前提に立っている。

「問題です」

リディアは言った。

「当人の言葉が、当人のものとして届かなくなりますので」

次席官が穏やかに笑う。

「エーヴェル令嬢は、ずいぶん個人の自由を重くお考えになるのですね」

その言い方は軽くなかった。だが、ほんの少しだけ場所をずらす響きがあった。王女の婚姻という公の話を、個人の自由の好みへと小さく置き換えようとする言い方だった。

リディアは返そうとしたが、それより早くセオドアが口を開いた。

「自由の話ではありません」

声は低く、平板だった。

「連絡経路の独立性の話です。王家への公的報告が残っても、殿下ご本人の私的な発信が相手家の裁量で留められるなら、実際には片側の管理下に置かれるのと変わりません」

次席官はそちらへ目を向ける。

「言い方の問題でしょう。管理下とは少々強い」

「現象としては同じです」

セオドアは言った。

「選別の権限を誰が持つか、というだけの話ですので」

短い沈黙が落ちた。

それは論破されたからというより、はっきり言い切られたせいだった。会議というものは、不思議なほどやわらかな表現に守られている。だから、言葉を真ん中まで押し戻されると、一瞬だけ誰も次を継ぎにくくなる。

やがて記録管理官が咳払いひとつ分の間を置いて、話を進めた。

「帯同者についても、見直しを提案しております。人数の確保は結構ですが、医師、文書補佐、会計補佐まで役目ごとに常置を明記するのは、先方の宮中運営に口を差し挟みすぎるとの印象を与えかねません」

「印象の問題ではありません」

今度はヘレナが言った。

「私が向こうで何を失えば困るかの問題です」

その一言に、リディアはヘレナを見た。

王女の顔は静かだった。だが、書庫で会ったころとは違う。もう、自分の不安をわかりやすく翻訳してもらうのを待ってはいない。

ヘレナは草案の該当箇所を開いた。

「侍女の数だけを置いても、意味が薄いと思っております。私が必要としているのは、身の回りの世話だけではありません。文書を扱う者、体調を診る者、王都とのやり取りを支える者がいなければ、結局は向こうの家の判断だけで日々が閉じます」

次席官が穏やかに返す。

「しかし殿下、婚姻後は先方の家の一員となられるのです。いつまでも王都の延長のような形を保つことは難しいでしょう」

「延長を求めているのではありません」

ヘレナは視線を上げた。

「切り離されぬようにしたいのです」

その言葉は、部屋の中央へ静かに置かれた。

次席官も記録管理官も、すぐには続けなかった。
その一言のあとでは、「しかし」と返すにも、一拍必要だった。

切り離されぬようにしたい。
それは感情の訴えのようでいて、実際にはかなり具体的だ。帰還、書簡、帯同者。どれもそこへ繋がっている。

記録管理官が、別紙を閉じた。

「殿下のご懸念は理解いたしました。ただ」

やはりその言葉は来る。

「このままでは、先方へ差し出した時点で文面が硬すぎます。最初の草案とはいえ、もう少し、信義に寄せた立て方が必要ではないでしょうか」

「信義、ですか」

リディアが小さく繰り返すと、次席官が頷いた。

「ええ。婚姻は契約であると同時に、両家の信義の上に成り立つものです。最初から違反や解除や保全ばかりを前へ出せば、先方に対して『あなた方をそこまで信じておりません』と述べるようなものになる」

たしかに、言い方としてはもっともだった。

もっともだからこそ、厄介だった。

信義という言葉は美しい。誰もそれを軽んじたいとは思わない。けれど、その美しさの陰に置かれるのは、たいてい紙を持たない側だ。

リディアは、次席官の穏やかな顔を見ながら、ようやくはっきり理解した。

この人たちは、条件そのものを嫌っているのではない。
条件によって、誰がどこまで責任を持つのかが見えることを嫌っている。

曖昧なまま結ばれれば、あとで何が起きても、「そういうこともあります」で流せる。信義に委ねたのだからと、美しく済ませられる。だが線が引かれてしまえば、どこを誰が破ったのかが残る。

だから嫌なのだ。

「信義があるなら」

リディアは静かに言った。

「なおさら、どこに責任があるかを曖昧にしないほうがよろしいかと」

次席官の目がわずかに細くなる。

「令嬢は、責任という言葉をお好みのようだ」

そのとき記録管理官が、ふと別の方向から口を挟んだ。

「エーヴェル令嬢は、ご自身の婚約の件もございますから、こうした文言に敏感でいらっしゃるのでしょうな」

部屋の空気が、ほんの一瞬だけ変わった。

言い方は穏やかだった。
気遣いの顔すらしていた。
だが論点は明らかにずれている。

王女の婚姻条件ではなく、リディア個人の事情へ話を寄せる。
それだけで、この場にあるはずの文言の重みは少し軽く見える。女の感情、最近の傷、敏感になっている事情。そういうものへ落とし込めてしまうからだ。

リディアは顔色を変えなかったが、返答を選ぶ一拍は必要だった。

その一拍の前に、セオドアが口を開いた。

「本件において、エーヴェル令嬢の私的事情は関係ありません」

声は静かだった。
だが部屋の中で、それだけが妙に明瞭に響いた。

「草案の中身の妥当性について議論しているのであって、作成に関わった者の個別事情を量る場ではないはずです」

記録管理官はすぐに表情を整えた。

「無論、そのつもりで申し上げたのでは」

「でしょうね」

セオドアは遮らずに続けた。

「ですから、論点を戻しましょう。帰還、書簡、帯同者。この三点が実効を持つかどうかだけを問題にすべきです」

それ以上は誰も言わなかった。

かばうような言い方ではない。
慰めでもない。
ただ、ずれたものをずれたと言って、元の場所へ戻しただけだ。

それだけのことなのに、リディアは胸の奥で小さく息をついた。助けられた、とは思わない。けれど、軽く扱われかけたものを、そのまま軽くさせなかったことは確かだった。

次席官は、机上の紙を整え直した。

「……よろしい。では、論点を絞りましょう」

彼は別紙の赤線を、指で順にたどる。

「ひとつ。本人請求による帰還協議の開始」
「ひとつ。個人書簡の独立」
「ひとつ。帯同医師及び文書補佐の常置」

その三つを読み上げてから、視線を上げた。

「ここが、もっとも争点になる」

ヘレナは静かに頷いた。

「承知しております」

「承知の上で、なお残すと」

「はい」

王女の返答は迷いなかった。

次席官は、そこでようやく草案を閉じた。

「では、本日はここまでにいたしましょう。次回、この三点について、どの表現ならなお実効を保ちうるか、そこを詰めます」

会議はそれで終わった。

退出のために椅子を引く音が、今日初めてはっきり部屋に響いた気がした。記録管理官は最後まで穏やかな顔を崩さなかったし、次席官も礼を欠かなかった。けれど机上に残された赤い注記の線は、そのどちらより雄弁だった。

扉が閉まると、室内にはリディアとセオドア、それにヘレナだけが残った。

王女はしばらく机の上の別紙を見つめていたが、やがて、静かに言った。

「やはり、言い方の問題では済まぬのですね」

「ええ」

セオドアが答える。

「言い方で済ませたいのでしょう。そうすれば、中身を触らずに済みますので」

ヘレナは、苦くも笑わずに息をついた。

「信義、という言葉は便利なのですね」

「便利です」

リディアが答えた。

「立派に聞こえますし、反対を反対らしく見せずに済みます」

王女はそれを聞いて、机上の三つの注記へ目を落とした。

本人請求。
個人書簡。
帯同医師及び文書補佐。

もう争点ははっきりしていた。

セオドアが草案と別紙を重ね、端を揃える。

「次は、具体的に削ってきます」

その一言に、部屋の空気がまた少し硬くなった。

もう、考えを確かめる段階ではない。
どこを残し、どこに別の言い方を与え、それでも空洞にしないかを決める段階に入る。

ヘレナは、その三つの語を見つめたまま、小さく言った。

「では、次こそ、守る順を決めねばなりませんね」

リディアは王女の横顔を見た。

守りたいものは多い。けれど、すべてを同じ強さで守ることはできない。交渉とは、たいていそういう形で迫ってくる。何を差し出すかではなく、何を落としてはならないかを先に選ばせる。

そして、今まさにその段階へ来ていた。
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