「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう

師走

文字の大きさ
29 / 32
第4章 王女の婚姻に条件を

4、削られる条項

しおりを挟む
翌日の午後、机の上には二種類の草案が並んでいた。

ひとつは、ヘレナの確認印が入った原案。
もうひとつは、内廷局と記録管理側が修正を入れた対案だった。

見た目の違いは大きくない。字面も整っている。だが、並べて見れば、どこが削られたかは一目でわかった。

本人請求による帰還協議の開始。
個人書簡の独立。
帯同医師及び文書補佐の常置。

昨日、争点として読み上げられた三つに、揃って細い線が引かれている。

「まず、帰還請求の項です」

次席官が対案を開いた。

「現行案では、殿下ご本人からの請求により王家側は協議を開始する、とあります。これを、王家側が必要と認めた場合に協議を開始する、へ改めたい」

リディアは視線を落としたまま、その一行を追った。

必要と認めた場合。

昨日と同じ言葉だったが、紙の上に置かれると、なおさらはっきりする。本人の意思は起点ではなく、参考に落とされる。そういう文言だった。

ヘレナはすぐには口を開かなかった。
代わりに、修正箇所をもう一度見返し、それから静かに問う。

「私が求めても、王家側が必要と認めなければ始まらない、ということでしょうか」

「そのように強くは申しません」

次席官は穏やかに答えた。

「殿下のお言葉を含め、総合的に判断するという意味です。婚姻後の帰還に関わることは、どうしても一人のご意思だけで動かすには重すぎますので」

「重いことは承知しております」

ヘレナは言った。

「ですからこそ、私の言葉が起点にならねば困ります」

次席官は返さず、視線を別紙へ移した。

「では、書簡についてです」

記録管理官が、対案の二頁目を示す。

「原案では、殿下個人の書簡について留め置き及び選別を禁ずる、とあります。ここは、公的な報告経路を優先し、私的書簡については先方の宮中規律に従う、という形に改めたい」

紙の上の文言は、よく整っていた。

公的な報告経路を優先し、私的書簡については先方の宮中規律に従う。

乱暴な削り方ではない。むしろ配慮ある書きぶりに見える。
だが中身は明白だった。ヘレナ個人の言葉は、向こう側の裁量の中へ戻される。

「それでは、私の手紙は私のものではなくなります」

ヘレナが言うと、記録管理官は少しだけ困ったように眉を寄せた。

「殿下、そのような極端なことでは」

「極端ではありません」

ヘレナは対案へ手を置いた。

「先方の規律に従う、と書けば、選ばれるのは私ではなく向こうです」

その一言に、部屋は小さく静まった。

昨日までは、ヘレナの言葉を周囲が受け止めている印象がまだあった。だが今日は違う。王女はすでに、紙のどこがどう変われば意味が変わるかを見ている。

次席官はひとつ息をついた。

「では、帯同者の項です。ここは人数の維持までは認めやすい。しかし、医師や文書補佐を役目ごとに常置するとなると、先方の家の内政へ踏み込みすぎるとの反発が予想されます」

「予想される、ではなく、そう申し上げたいのでしょう」

セオドアが口を開いた。

次席官は彼を見たが、咎めはしなかった。

「そのとおりです。少なくとも、原案のままでは強い」

「人数だけ残して、役目を消せば空洞になります」

セオドアは淡々と言った。

「侍女が何名いるかではなく、その中に誰が含まれるかが問題なのでしょう」

「理屈はわかります」

次席官の声はまだ落ち着いている。

「ですが、理屈どおりに書けば通るものでもない。婚姻草案は、正しさだけで成立する文書ではありません」

「ですから、見せ方の話をしておりました」

セオドアは返した。

「中身を抜く話ではなく」

その応酬のあいだ、リディアは原案と対案を見比べ続けていた。

帰還請求。
書簡。
帯同者。

三つとも、削り方は違う。
だが向かっている先は同じだった。

本人の意思を弱める。
本人の言葉を管理へ戻す。
本人の周囲を“人数”へ薄める。

結局、切ろうとしているのは一本だ。
ヘレナが、婚姻後もなお自分の声と退路を持ち続けるための線。それを細くしようとしている。

「殿下」

リディアは顔を上げた。

「確認させてください」

ヘレナもまた、すぐにこちらを見た。

「この三つのうち、順をつけるならどれですか」

次席官がわずかに目を細める。
記録管理官も、黙って耳を向けた。

唐突に見えたかもしれない。だがここで必要なのは、きれいな反論ではない。落とせぬものの順番を、当人が持つことだった。

ヘレナはしばらく答えなかった。

机上の三箇所へ視線を移す。
帰還請求。
個人書簡。
帯同医師及び文書補佐。

それから王女は、静かに言った。

「帰還です」

その答えに、リディアは頷いた。

「次は」

「書簡」

「三つ目は」

「帯同者」

短いやり取りだった。
けれど、その順が決まっただけで、草案の見え方が変わる。

次席官がその変化を感じ取ったのか、慎重に問い返した。

「そこまで明確にお考えでしたか」

ヘレナは小さく首を振った。

「明確ではありませんでした。ですが、今は、そうだと思います」

王女は対案へ指先を置いた。

「帰ることができねば、あとの二つも遅れます。書簡が届かねば、帰還も求めにくくなります。帯同者は、その二つを支えるために必要です」

順番にしたことで、三つの関係がはっきりした。

ばらばらの不安ではない。
帰還があり、書簡があり、それを支える帯同者がいる。そうして初めて、切り離されぬまま婚姻へ入れる。

「では、帯同者の項は少し形を変えられます」

リディアは言った。

次席官がこちらを見る。

「どう変えると」

「人数と役目を並列で置くのではなく、帰還請求と書簡の実効を支える補助体制として書き換えるのです。医師と文書補佐だけを前へ出せば、侍女全体の常置よりは通しやすくなります」

次席官はすぐには頷かなかったが、露骨に否定もしなかった。
記録管理官が紙へ目を落とす。

「帯同者全体の維持、ではなく」

「帰還及び連絡体制を保つために必要な補助者の帯同」

セオドアが引き取るように言う。

「そう書けば、見せ方は少し変わります」

次席官が、そこでようやく小さく息をついた。

「なるほど。そこは工夫の余地があるかもしれませんな」

少しだけ、場が動いた。

全部を守るのではなく、芯を守るために周辺の見せ方を変える。
ようやく、その話へ入れたのだ。

だが、帰還請求と書簡はそうはいかなかった。

「本人請求は、なお強い」

次席官は紙を軽く叩いた。

「先方がもっとも構えるのはここでしょう。王女殿下が婚姻後も、王家へ直接動きを求め得ると見える」

「見えるのではなく、そのとおりです」

ヘレナが静かに言う。

次席官は返答を止めた。
ほんの一瞬だけだったが、その沈黙には、さきほどよりはっきりした重さがあった。

「私は、王家の娘でなくなるわけではありません」

ヘレナは続けた。

「向こうの家へ入ったあとも、私が私の名で帰還を求められぬ形には同意できません」

部屋の空気が変わる。

昨日までは、必要だと思う、困るのは私だ、という言い方だった。
今日は違う。同意できない、と王女は言った。

記録管理官が口を開きかけたが、その前にセオドアが言った。

「そこは落とせません」

言葉は短く、余計な熱もない。

「表現の検討はできます。ですが、本人の意思を起点から外す修正には応じられません」

次席官は視線をヘレナへ戻した。

王女は、今度は目を伏せない。

やがて彼は、諦めたというより、争点を認めるような息をついた。

「……では、そこは次案でも残しましょう。ただし、協議開始後の手続きには一定の期限と段階を入れます。即時帰還請求と読まれぬように」

「それで結構です」

ヘレナは答えた。

「私が求めているのは、私の言葉で始められることです」

そのやり取りのあいだ、リディアはようやく自分の肩が少し強張っていたことに気づいた。
ひとつ通っただけなのに、思っていた以上に息が詰まっていたらしい。

その瞬間、隣から低い声がした。

「少し休まれたほうがいい」

セオドアだった。

声量は抑えられている。向かいの二人には届かぬ程度だった。
リディアはほんの一瞬だけ彼を見た。

「まだ終わっておりません」

「書簡の項に入る前に一度切ったほうがいいと言っています」

言い方は事務的だった。
だが、彼が見ているのは机上の紙だけではないとわかる。

次席官も、ちょうどそこで筆を置いた。

「こちらも、書簡の文言は少し持ち帰って整理したい。ひとまず今日はここまでにいたしましょう」

会議は、そこで区切られた。

退出の準備が始まり、紙が重ねられる。
記録管理官は最後に書簡の項へもう一度視線を落とし、それから静かに草案を閉じた。まだそこは通っていない。むしろ次に最も削られる箇所として残っている。

扉が閉まったあと、部屋には三人だけが残った。

ヘレナは椅子の背へ軽く身を預け、机の上の草案と対案を見下ろした。

「帯同者は、見せ方を変えれば残せるかもしれない」

「はい」

リディアは答えた。

「ですが書簡は、まだ厳しいでしょうね」

「ええ」

セオドアが短く言う。

「向こうもこちらも、そこを最も軽く扱いたいはずです」

ヘレナは黙っていたが、やがて、原案の三箇所へ順に指を置いた。

帰還請求。
個人書簡。
帯同医師及び文書補佐。

その順に触れてから、王女は静かに息を吐く。

「帰還が一つ目。書簡が二つ目。帯同が三つ目」

自分に言い聞かせるような声だった。

「はい」

リディアは答える。

ヘレナは顔を上げた。

「では、次は書簡ですね」

それは弱音ではなかった。
どこが次の山かを、正しく見定めた人の声だった。

机の上に残された対案には、まだいくつもの赤線が引かれている。
だがもう、何を先に守るべきかは見えていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました

歩人
ファンタジー
エレナは公爵家に嫁いで10年、夫は愛人に入れ込み、義母には「家政婦代わり」と 罵られた。だが領地の財務も、商会との交渉も、使用人の管理も、全部エレナが やっていた。ある日、義母から「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言われ、 エレナは静かに離縁届を出した。「では、代わりの方にお任せください」 辺境の町で小さな商会を開いたエレナ。10年間の実務経験は伊達ではなかった。 商会はたちまち繁盛する。一方、エレナがいなくなった公爵家は3ヶ月で経営破綻。 元夫が「戻ってこい」と泣きつくが—— 「お断りです。あと、10年分の未払い給金を請求いたしますね」

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

これが普通なら、獣人と結婚したくないわ~王女様は復讐を始める~

黒鴉そら
ファンタジー
「私には心から愛するテレサがいる。君のような偽りの愛とは違う、魂で繋がった番なのだ。君との婚約は破棄させていただこう!」 自身の成人を祝う誕生パーティーで婚約破棄を申し出た王子と婚約者と番と、それを見ていた第三者である他国の姫のお話。 全然関係ない第三者がおこなっていく復讐? そこまでざまぁ要素は強くないです。 最後まで書いているので更新をお待ちください。6話で完結の短編です。

婚約破棄をされるのですね、そのお相手は誰ですの?

恋愛
フリュー王国で公爵の地位を授かるノースン家の次女であるハルメノア・ノースン公爵令嬢が開いていた茶会に乗り込み突如婚約破棄を申し出たフリュー王国第二王子エザーノ・フリューに戸惑うハルメノア公爵令嬢 この婚約破棄はどうなる? ザッ思いつき作品 恋愛要素は薄めです、ごめんなさい。

何かと「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢は

だましだまし
ファンタジー
何でもかんでも「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢にその取り巻きの侯爵令息。 私、男爵令嬢ライラの従妹で親友の子爵令嬢ルフィナはそんな二人にしょうちゅう絡まれ楽しい学園生活は段々とつまらなくなっていった。 そのまま卒業と思いきや…? 「ひどいわ」ばっかり言ってるからよ(笑) 全10話+エピローグとなります。

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―

Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。

ちゃんと忠告をしましたよ?

柚木ゆず
ファンタジー
 ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。 「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」  アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。  アゼット様。まだ間に合います。  今なら、引き返せますよ? ※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。

処理中です...