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第4章 王女の婚姻に条件を
5、侯爵夫人は微笑む
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書簡の項が最も強く削られるだろうと見えた、その翌々日だった。
王宮から戻ったリディアは、屋敷へ入る前に馬車の中で一度だけ目を閉じた。疲れていないとは言えない。だが、疲れより先に残っているのは、じわじわとした息苦しさだった。
帰還請求は、ひとまず起点を残せた。
帯同者も、形を変えればまだ守れる余地がある。
だが書簡だけは違う。あれは向こうにも、こちらにも、軽く扱いたい者が多すぎる。
必要なことだけが届けばよい。
整った報告があれば足りる。
そう言う者にとって、当人の言葉は邪魔なのだ。
屋敷へ着くと、執事が外套を受け取りながら静かに告げた。
「ローデン侯爵夫人から、お茶会へのお招きが届いております」
リディアは、そこで初めて足を止めた。
「私に、ですか」
「はい。明後日の午後、侯爵家の離れの温室にて、少人数で、と」
執事が差し出した厚手の封筒には、香りの薄い便箋が収まっていた。文面は柔らかい。春の花が開き始めたので、親しい方々と穏やかな午後を過ごしたい、というそれだけの文だ。
親しい方々、という言葉に、リディアは心の中で冷たく笑いかけた。
親しい相手を選ぶような夫人ではない。
選ぶのは、そこへ呼ぶ意味のある相手だ。
「お断りいたしますか」
執事が問う。
リディアは封筒を机へ置いた。
「……いいえ、伺います」
断ることもできる。だが断れば、今度は別の形で話が動くだろう。王女案件が噂になり始めている今、ローデン侯爵夫人がわざわざ呼ぶ以上、行かぬほうがかえって面倒になる。
「承知いたしました」
執事が下がったあと、リディアはしばらく便箋を見下ろしていた。
この呼び出しは偶然ではない。
社交界にも、もう草案の匂いが漏れているのだ。
温室は、噂どおり見事だった。
明るいガラス張りの天井から春の光が落ち、白い花鉢と淡い色の薔薇が整然と並んでいる。席数は多くない。呼ばれたのは五、六人ほどだろう。顔ぶれを見れば、若い令嬢ばかりではなかった。王宮と縁の深い伯爵夫人、公爵家の縁戚、そして中央にローデン侯爵夫人が座っている。
夫人は、リディアを見ると穏やかに微笑んだ。
「ようこそ、リディア嬢。お忙しいでしょうに、よくいらしてくださいましたわ」
「お招きありがとうございます、侯爵夫人」
「まあ、お堅いこと」
夫人は軽く扇を閉じた。
「今日は難しいお話ではなく、春のお花を眺めながら、少し気持ちを和らげたかっただけですのよ」
その言葉に、その場の何人かがやわらかく笑う。
だが、それで本当に話が花や菓子だけで終わるとは、誰も思っていない顔だった。
最初のうちは、たしかに当たり障りのない話が続いた。
今年の春は少し冷えること。
王都の仕立て屋が新しい染め色を出したこと。
最近の夜会は以前より小ぶりなものが好まれていること。
だが茶が二巡したころ、夫人はごく自然な顔で言った。
「そういえば、王宮のほうもこのところ少し慌ただしいようですわね」
その場の視線が、はっきりとは向かなくても、じわりと寄るのがわかった。
「婚姻のご相談は、やはり気を遣うことが多いのでしょう」
公爵家の縁戚らしい年長の婦人が、同じく穏やかに応じる。
「王女殿下ともなれば、なおさらでしょうね」
ローデン侯爵夫人は、そこで初めてリディアのほうを見た。
「リディア嬢も、いろいろとお忙しいのでしょう?」
やわらかい問いだった。
だが断る余地のない問いでもあった。
「多少は」
「そうでしょうとも。あなたは昔から、細かなところまでよくお気づきになる方でしたもの」
昔から、という言い方に、微かな棘がある。
婚約していたころから、という意味を誰もが拾える言葉だった。
「ですから、王女殿下のようなお立場の方にとっては、頼もしいのでしょうね」
頼もしい。褒め言葉の形をしている。
けれどその実、どこかで“実務向きの女”として位置づけている響きが消えない。
リディアはカップを置いた。
「お役に立てることがあればと思っております」
「まあ、ご立派」
侯爵夫人は目元だけで笑った。
「ただ、婚姻というものは、理を立てすぎても息苦しくなりますでしょう?」
周囲は誰も口を挟まない。
止めるつもりがないのは明らかだった。
夫人は続ける。
「もちろん、確認すべきことはございますわ。けれど、あまりに細かく条件を並べ立てれば、どうしてもお相手には不信を向けているように映りますもの。ことに、女性の側から強く線を引きすぎますと」
そこで言葉を切り、夫人はティーカップの縁へ指を添えた。
「可愛げがないように見えてしまうこともございますでしょう?」
温室の中は明るいのに、その一言だけ妙に冷たかった。
言い返そうと思えば、いくらでも言える。
可愛げで守れるものではないことも、条件が疑いではなく保護であることも。
けれど社交の場で真正面から返せば、その瞬間に負ける。
感情的な令嬢という型へ押し込まれるだけだ。
リディアは静かに言った。
「可愛げの有無で決めるには、婚姻は重すぎることもございます」
夫人は笑みを崩さない。
「そういうお考えなのでしょうね。もっとも、男性方は必ずしもそのようには受け取りませんわ」
その場の婦人たちが、曖昧に目を伏せたり、薄く微笑んだりする。
賛同とも否定とも取れぬ顔だった。だが、その曖昧さ自体が、この場の空気を物語っている。
誰もはっきりと「違う」とは言わない。
けれど「そういうものですわね」と言えるだけの土壌は共有している。
侯爵夫人は、話題を変えるような気軽さで続けた。
「王女殿下のお話も、きっと同じですのよ。あまりに条件を増やせば、かえってご自分を苦しくなさるだけかもしれません。婚姻は、多少のことは飲み込んで、先方へ委ねるやわらかさも必要でしてよ」
その一言で、ようやくリディアははっきり悟った。
この人は、条件そのものを嫌っているのではない。
女性が、自分を守るための線を自分で引くことを嫌っているのだ。
飲み込むこと。
委ねること。
やわらかく受け入えること。
それが上品さの名で美徳にされる限り、守りを求める声はすぐに“頑なさ”へ置き換えられる。
「委ねる先が、常に善意であればよろしいのですけれど」
そう言ったのは、席の端にいた年若い伯爵夫人だった。思いがけない一言に、その場の空気がほんの少し揺れる。
だがローデン侯爵夫人は動じない。
「善意ばかりで世が動かぬことは、もちろん存じておりますわ。でも、最初から疑ってばかりでは、どのご縁も冷たくなってしまいますでしょう?」
「疑うのではなく」
リディアは口を開いた。
「後で困る側が、困らぬようにしておくだけです」
侯爵夫人は、そこで初めて笑みを少し深くした。
「そういうところですのよ、リディア嬢」
その声はあくまで優しい。
「あなたは昔から、後で困ることをよくおわかりになる。その慎重さは美徳ですわ。けれど、ときに女性は、すべてを先に数えすぎぬほうが愛されることもございますの」
婚約破棄されたばかりの令嬢に向けるには、ずいぶん整った言葉だった。
露骨な嘲りはない。慰めの顔すらしている。
だからなおさら、切れ味が悪い。
今ここで返すべきか、一瞬だけ考えた。
だが考えた時点で、もう答えは出ている。
この場で争っても、勝てない。
侯爵夫人は一人ではないからだ。
この温室の空気そのものが、彼女の側に立っている。
「覚えておきます」
リディアはそうだけ言った。
夫人は満足そうに頷いた。
それ以上は追わず、花の話へ戻る。
だが、そのあとどれだけ話題が変わっても、温室の空気はもう元には戻らなかった。
茶会を辞したとき、外の空気は思っていたより冷たかった。
侯爵家の門を出て馬車へ向かう途中、リディアはようやく長く息を吐いた。怒っているのか、疲れているのか、自分でも判然としない。ただ、無駄に力を使った感覚だけが残る。
「お疲れのようですね」
声をかけられ、リディアは足を止めた。
侯爵家の前庭に面した石畳の脇で、セオドアが立っていた。
偶然にしては出来すぎている場所だった。
「……どうしてこちらに」
「侯爵家の隣の区画に法務局の文書庫がございます」
彼は淡々と答えた。
「本当に偶然です。そう言っても信じていただけるかは別ですが」
少しだけ、リディアは肩の力が抜けた。
「半分だけ信じます」
「それで結構です」
セオドアはそう言って、リディアの顔を見た。
その視線が、いつものように妙に正確で、少しだけうんざりする。
「何でしょう」
「あなたは、ああいう場でご自分を削りすぎる」
言葉は短かった。
慰めでも、同情でもない。
ただ事実をそのまま置かれた。
それだけなのに、茶会の間じゅう張っていたものが、胸の内でわずかに緩む。
「見ておられたのですか」
「門前で少し」
「悪趣味ですね」
「否定はいたしません」
彼はそう答えたが、口元は少しも楽しそうではなかった。
リディアは視線を外した。
「ああいう場で、まともに返しても意味がありません」
「ええ。ですから返さなかったのでしょう」
「でしたら問題ないはずです」
「問題はあります」
セオドアは即答した。
「返さずに済ませるたび、あなたがご自分の側を少しずつ削っている」
その一言に、リディアは何も返せなかった。
正しいとも、間違っているとも、すぐには言えない。
ただ、自分でも見ないようにしていた箇所へ、あっさり触れられた気がした。
「……社交の場では、そういうものです」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「そうでしょうね」
「では」
「そういうものだから、削れてよいとも思いません」
夕方の薄い光が、石畳の端へ斜めに落ちている。
セオドアの声はいつもと変わらないのに、今だけは妙に静かに響いた。
リディアは少しだけ眉を寄せた。
「今日は、その話をしに来られたのですか」
「いいえ」
「では何を」
「書簡の項を、次にどう残すかを考えていました」
そこで彼はごく短く間を置いた。
「その前に、あなたがあの場から出てこられたので」
それは、気づいたから見た、ではなく、見ていたから言った、に近い言葉だった。
だがそこを問い返すほど、今のリディアには余裕がなかった。
代わりに、先ほどの温室の空気を思い出す。
条件が多い婚姻は愛を疑うように見える。
女性はすべてを先に数えすぎぬほうが愛される。
あれはローデン侯爵夫人個人の悪意ではない。
もっと広く、もっと丁寧に、昔から繰り返されてきた言葉だ。
「……侯爵夫人だけではないのですね」
ぽつりと漏らすと、セオドアは頷いた。
「ええ」
「わかってはおりましたが、あらためてよくわかりました」
リディアは馬車へ視線を向けたまま言う。
「敵は人ではありませんね」
セオドアは一拍置いて、静かに答えた。
「従順でいてほしい側の空気です」
その言葉に、リディアはようやく小さく息をついた。
温室で感じた息苦しさの正体が、ようやくきれいに輪郭を持った気がした。
人を責めれば済む話ではない。
だからこそ厄介で、だからこそ条件という形が要る。
「帰還と書簡と帯同者」
リディアは言った。
「やはり、あの三つですね」
「ええ」
「書簡はとくに嫌がられる」
「最も管理しやすい箇所ですから」
「だから軽く扱いたがる」
セオドアは黙って頷いた。
もう話は次へ進んでいる。
温室の空気を抜けたあとでも、結局はそこへ戻る。
そのことに、不思議と救われる気がした。
仕事の話だからではない。
同じものを見ている相手がいると、少なくとも自分だけが神経質なのではないと思えるからだ。
「明日、文案を詰めます」
セオドアが言う。
「書簡の項は、一段工夫が要るでしょう」
「ええ」
「来られますか」
その問いは、ごく普通の確認のはずだった。
だが、今のリディアには少しだけ違って聞こえた。
「行きます」
「では、明日の午後に」
それだけ言って、セオドアは一礼した。
引き留める理由もない。けれど立ち去る前に、ほんのわずかに言葉を足す。
「今日は、休まれたほうがいい」
リディアは思わず彼を見た。
「命令ですか」
「提案です」
「法務局の方は、提案まで職務に含まれるのですね」
「必要なら」
その返しに、ようやく少しだけ笑ってしまった。
セオドアはそれを見ても何も言わず、いつものように余計な追及をしないまま、隣の区画のほうへ歩いていく。
リディアはその背を見送り、それから馬車へ乗り込んだ。
車輪が静かに動き出す。
窓の外には、侯爵家の温室のガラスが夕暮れを薄く映していた。あの中にあった言葉は、きっとこれからも何度も形を変えて現れるのだろう。可愛げ、やわらかさ、信義、愛される女。そんな名前をつけて。
だがもう、正体は見えた。
敵はローデン侯爵夫人一人ではない。
従順でいてほしい側の空気そのものだ。
そしてその空気は、帰還と書簡と帯同者の三つを、何より嫌がる。
ならば次に守るべき場所も、もう迷わない。
リディアは膝の上で手を組み、閉じかけた目を開いた。
次は、書簡だ。
王宮から戻ったリディアは、屋敷へ入る前に馬車の中で一度だけ目を閉じた。疲れていないとは言えない。だが、疲れより先に残っているのは、じわじわとした息苦しさだった。
帰還請求は、ひとまず起点を残せた。
帯同者も、形を変えればまだ守れる余地がある。
だが書簡だけは違う。あれは向こうにも、こちらにも、軽く扱いたい者が多すぎる。
必要なことだけが届けばよい。
整った報告があれば足りる。
そう言う者にとって、当人の言葉は邪魔なのだ。
屋敷へ着くと、執事が外套を受け取りながら静かに告げた。
「ローデン侯爵夫人から、お茶会へのお招きが届いております」
リディアは、そこで初めて足を止めた。
「私に、ですか」
「はい。明後日の午後、侯爵家の離れの温室にて、少人数で、と」
執事が差し出した厚手の封筒には、香りの薄い便箋が収まっていた。文面は柔らかい。春の花が開き始めたので、親しい方々と穏やかな午後を過ごしたい、というそれだけの文だ。
親しい方々、という言葉に、リディアは心の中で冷たく笑いかけた。
親しい相手を選ぶような夫人ではない。
選ぶのは、そこへ呼ぶ意味のある相手だ。
「お断りいたしますか」
執事が問う。
リディアは封筒を机へ置いた。
「……いいえ、伺います」
断ることもできる。だが断れば、今度は別の形で話が動くだろう。王女案件が噂になり始めている今、ローデン侯爵夫人がわざわざ呼ぶ以上、行かぬほうがかえって面倒になる。
「承知いたしました」
執事が下がったあと、リディアはしばらく便箋を見下ろしていた。
この呼び出しは偶然ではない。
社交界にも、もう草案の匂いが漏れているのだ。
温室は、噂どおり見事だった。
明るいガラス張りの天井から春の光が落ち、白い花鉢と淡い色の薔薇が整然と並んでいる。席数は多くない。呼ばれたのは五、六人ほどだろう。顔ぶれを見れば、若い令嬢ばかりではなかった。王宮と縁の深い伯爵夫人、公爵家の縁戚、そして中央にローデン侯爵夫人が座っている。
夫人は、リディアを見ると穏やかに微笑んだ。
「ようこそ、リディア嬢。お忙しいでしょうに、よくいらしてくださいましたわ」
「お招きありがとうございます、侯爵夫人」
「まあ、お堅いこと」
夫人は軽く扇を閉じた。
「今日は難しいお話ではなく、春のお花を眺めながら、少し気持ちを和らげたかっただけですのよ」
その言葉に、その場の何人かがやわらかく笑う。
だが、それで本当に話が花や菓子だけで終わるとは、誰も思っていない顔だった。
最初のうちは、たしかに当たり障りのない話が続いた。
今年の春は少し冷えること。
王都の仕立て屋が新しい染め色を出したこと。
最近の夜会は以前より小ぶりなものが好まれていること。
だが茶が二巡したころ、夫人はごく自然な顔で言った。
「そういえば、王宮のほうもこのところ少し慌ただしいようですわね」
その場の視線が、はっきりとは向かなくても、じわりと寄るのがわかった。
「婚姻のご相談は、やはり気を遣うことが多いのでしょう」
公爵家の縁戚らしい年長の婦人が、同じく穏やかに応じる。
「王女殿下ともなれば、なおさらでしょうね」
ローデン侯爵夫人は、そこで初めてリディアのほうを見た。
「リディア嬢も、いろいろとお忙しいのでしょう?」
やわらかい問いだった。
だが断る余地のない問いでもあった。
「多少は」
「そうでしょうとも。あなたは昔から、細かなところまでよくお気づきになる方でしたもの」
昔から、という言い方に、微かな棘がある。
婚約していたころから、という意味を誰もが拾える言葉だった。
「ですから、王女殿下のようなお立場の方にとっては、頼もしいのでしょうね」
頼もしい。褒め言葉の形をしている。
けれどその実、どこかで“実務向きの女”として位置づけている響きが消えない。
リディアはカップを置いた。
「お役に立てることがあればと思っております」
「まあ、ご立派」
侯爵夫人は目元だけで笑った。
「ただ、婚姻というものは、理を立てすぎても息苦しくなりますでしょう?」
周囲は誰も口を挟まない。
止めるつもりがないのは明らかだった。
夫人は続ける。
「もちろん、確認すべきことはございますわ。けれど、あまりに細かく条件を並べ立てれば、どうしてもお相手には不信を向けているように映りますもの。ことに、女性の側から強く線を引きすぎますと」
そこで言葉を切り、夫人はティーカップの縁へ指を添えた。
「可愛げがないように見えてしまうこともございますでしょう?」
温室の中は明るいのに、その一言だけ妙に冷たかった。
言い返そうと思えば、いくらでも言える。
可愛げで守れるものではないことも、条件が疑いではなく保護であることも。
けれど社交の場で真正面から返せば、その瞬間に負ける。
感情的な令嬢という型へ押し込まれるだけだ。
リディアは静かに言った。
「可愛げの有無で決めるには、婚姻は重すぎることもございます」
夫人は笑みを崩さない。
「そういうお考えなのでしょうね。もっとも、男性方は必ずしもそのようには受け取りませんわ」
その場の婦人たちが、曖昧に目を伏せたり、薄く微笑んだりする。
賛同とも否定とも取れぬ顔だった。だが、その曖昧さ自体が、この場の空気を物語っている。
誰もはっきりと「違う」とは言わない。
けれど「そういうものですわね」と言えるだけの土壌は共有している。
侯爵夫人は、話題を変えるような気軽さで続けた。
「王女殿下のお話も、きっと同じですのよ。あまりに条件を増やせば、かえってご自分を苦しくなさるだけかもしれません。婚姻は、多少のことは飲み込んで、先方へ委ねるやわらかさも必要でしてよ」
その一言で、ようやくリディアははっきり悟った。
この人は、条件そのものを嫌っているのではない。
女性が、自分を守るための線を自分で引くことを嫌っているのだ。
飲み込むこと。
委ねること。
やわらかく受け入えること。
それが上品さの名で美徳にされる限り、守りを求める声はすぐに“頑なさ”へ置き換えられる。
「委ねる先が、常に善意であればよろしいのですけれど」
そう言ったのは、席の端にいた年若い伯爵夫人だった。思いがけない一言に、その場の空気がほんの少し揺れる。
だがローデン侯爵夫人は動じない。
「善意ばかりで世が動かぬことは、もちろん存じておりますわ。でも、最初から疑ってばかりでは、どのご縁も冷たくなってしまいますでしょう?」
「疑うのではなく」
リディアは口を開いた。
「後で困る側が、困らぬようにしておくだけです」
侯爵夫人は、そこで初めて笑みを少し深くした。
「そういうところですのよ、リディア嬢」
その声はあくまで優しい。
「あなたは昔から、後で困ることをよくおわかりになる。その慎重さは美徳ですわ。けれど、ときに女性は、すべてを先に数えすぎぬほうが愛されることもございますの」
婚約破棄されたばかりの令嬢に向けるには、ずいぶん整った言葉だった。
露骨な嘲りはない。慰めの顔すらしている。
だからなおさら、切れ味が悪い。
今ここで返すべきか、一瞬だけ考えた。
だが考えた時点で、もう答えは出ている。
この場で争っても、勝てない。
侯爵夫人は一人ではないからだ。
この温室の空気そのものが、彼女の側に立っている。
「覚えておきます」
リディアはそうだけ言った。
夫人は満足そうに頷いた。
それ以上は追わず、花の話へ戻る。
だが、そのあとどれだけ話題が変わっても、温室の空気はもう元には戻らなかった。
茶会を辞したとき、外の空気は思っていたより冷たかった。
侯爵家の門を出て馬車へ向かう途中、リディアはようやく長く息を吐いた。怒っているのか、疲れているのか、自分でも判然としない。ただ、無駄に力を使った感覚だけが残る。
「お疲れのようですね」
声をかけられ、リディアは足を止めた。
侯爵家の前庭に面した石畳の脇で、セオドアが立っていた。
偶然にしては出来すぎている場所だった。
「……どうしてこちらに」
「侯爵家の隣の区画に法務局の文書庫がございます」
彼は淡々と答えた。
「本当に偶然です。そう言っても信じていただけるかは別ですが」
少しだけ、リディアは肩の力が抜けた。
「半分だけ信じます」
「それで結構です」
セオドアはそう言って、リディアの顔を見た。
その視線が、いつものように妙に正確で、少しだけうんざりする。
「何でしょう」
「あなたは、ああいう場でご自分を削りすぎる」
言葉は短かった。
慰めでも、同情でもない。
ただ事実をそのまま置かれた。
それだけなのに、茶会の間じゅう張っていたものが、胸の内でわずかに緩む。
「見ておられたのですか」
「門前で少し」
「悪趣味ですね」
「否定はいたしません」
彼はそう答えたが、口元は少しも楽しそうではなかった。
リディアは視線を外した。
「ああいう場で、まともに返しても意味がありません」
「ええ。ですから返さなかったのでしょう」
「でしたら問題ないはずです」
「問題はあります」
セオドアは即答した。
「返さずに済ませるたび、あなたがご自分の側を少しずつ削っている」
その一言に、リディアは何も返せなかった。
正しいとも、間違っているとも、すぐには言えない。
ただ、自分でも見ないようにしていた箇所へ、あっさり触れられた気がした。
「……社交の場では、そういうものです」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「そうでしょうね」
「では」
「そういうものだから、削れてよいとも思いません」
夕方の薄い光が、石畳の端へ斜めに落ちている。
セオドアの声はいつもと変わらないのに、今だけは妙に静かに響いた。
リディアは少しだけ眉を寄せた。
「今日は、その話をしに来られたのですか」
「いいえ」
「では何を」
「書簡の項を、次にどう残すかを考えていました」
そこで彼はごく短く間を置いた。
「その前に、あなたがあの場から出てこられたので」
それは、気づいたから見た、ではなく、見ていたから言った、に近い言葉だった。
だがそこを問い返すほど、今のリディアには余裕がなかった。
代わりに、先ほどの温室の空気を思い出す。
条件が多い婚姻は愛を疑うように見える。
女性はすべてを先に数えすぎぬほうが愛される。
あれはローデン侯爵夫人個人の悪意ではない。
もっと広く、もっと丁寧に、昔から繰り返されてきた言葉だ。
「……侯爵夫人だけではないのですね」
ぽつりと漏らすと、セオドアは頷いた。
「ええ」
「わかってはおりましたが、あらためてよくわかりました」
リディアは馬車へ視線を向けたまま言う。
「敵は人ではありませんね」
セオドアは一拍置いて、静かに答えた。
「従順でいてほしい側の空気です」
その言葉に、リディアはようやく小さく息をついた。
温室で感じた息苦しさの正体が、ようやくきれいに輪郭を持った気がした。
人を責めれば済む話ではない。
だからこそ厄介で、だからこそ条件という形が要る。
「帰還と書簡と帯同者」
リディアは言った。
「やはり、あの三つですね」
「ええ」
「書簡はとくに嫌がられる」
「最も管理しやすい箇所ですから」
「だから軽く扱いたがる」
セオドアは黙って頷いた。
もう話は次へ進んでいる。
温室の空気を抜けたあとでも、結局はそこへ戻る。
そのことに、不思議と救われる気がした。
仕事の話だからではない。
同じものを見ている相手がいると、少なくとも自分だけが神経質なのではないと思えるからだ。
「明日、文案を詰めます」
セオドアが言う。
「書簡の項は、一段工夫が要るでしょう」
「ええ」
「来られますか」
その問いは、ごく普通の確認のはずだった。
だが、今のリディアには少しだけ違って聞こえた。
「行きます」
「では、明日の午後に」
それだけ言って、セオドアは一礼した。
引き留める理由もない。けれど立ち去る前に、ほんのわずかに言葉を足す。
「今日は、休まれたほうがいい」
リディアは思わず彼を見た。
「命令ですか」
「提案です」
「法務局の方は、提案まで職務に含まれるのですね」
「必要なら」
その返しに、ようやく少しだけ笑ってしまった。
セオドアはそれを見ても何も言わず、いつものように余計な追及をしないまま、隣の区画のほうへ歩いていく。
リディアはその背を見送り、それから馬車へ乗り込んだ。
車輪が静かに動き出す。
窓の外には、侯爵家の温室のガラスが夕暮れを薄く映していた。あの中にあった言葉は、きっとこれからも何度も形を変えて現れるのだろう。可愛げ、やわらかさ、信義、愛される女。そんな名前をつけて。
だがもう、正体は見えた。
敵はローデン侯爵夫人一人ではない。
従順でいてほしい側の空気そのものだ。
そしてその空気は、帰還と書簡と帯同者の三つを、何より嫌がる。
ならば次に守るべき場所も、もう迷わない。
リディアは膝の上で手を組み、閉じかけた目を開いた。
次は、書簡だ。
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ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。
世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。
ざまぁ必須、微ファンタジーです。
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