五十の手習い

赤羽律紀

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下町で育って

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 僕が小さい頃は、新潟市内の中でも下町の感じが残る関屋田町で過ごした。
 当時両親は、祖父が営む生花店を手伝っていた。そのため、年末年始のようなかき入れ時期は多忙を極めて、僕は母方の実家(西蒲原郡黒埼町、現在の新潟市西区)に預けられた。
 のちに両親や親戚から聞いたのだが、人見知りをして泣きだしたのだという。お恥ずかしい話だが、多忙だった両親を恋しがっていたのではないかと今でも思っている。
 僕にとって関屋田町は、今も心の故郷だと感じている。家の近くに豆腐屋があり、豆腐を毎日のように食べていたことも思い出の一つだ。
 転機となったのは、長嶋茂雄さんが巨人の選手を引退した1974年。妹が生まれて父が転職したことだ。僕たち家族は関屋田町を離れ、今の県庁やテレビ新潟の本社がある新光町の社宅に引っ越したのだ。
「ここを離れたくない…」
 そんな気持ちを抱いたことも確かだった。しかし、当時は父の仕事が決まって新天地にたどり着いたような感じになっていた。祖父には申し訳ない、と思いつつも新しい住所に行き着いた。
 こうして、新光町での暮らしが始まった。何より嬉しかったのが見られなかったテレビを見ることができたことだ。テレビから見るアニメに釘付けになったのもこの頃からだった。
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