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番外編
清々しい朝〈前〉
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こんばんは、餡玉です。
昨日に引き続き、番外編をアップします。
今回は、マッサ×忍のお話です。
ちょっと涼しくなったあたりから猛然と書きたくなり、あっという間に書き上がったものです。
『マッサと若森を……』というお声が多かったので公開する予定はありませんでしたが、せっかくなので読んでいただきたく……! ちょっとドキドキしていますが、楽しんでいただける方がおられたら嬉しいなと思います。
全三話です、よろしくお願い致します。
˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚
「なぁ、あのオッサン、最近やたらよく来るよな。誰?」
フロアとバックヤードをつなぐ廊下、そのカーテン越しに客の動きを眺めていた彩人に呼び止められた。さぁこれから新人ホストの教育だと気合を入れていたところではあったが、ここ最近しばしば『sanctuary』に顔を出すあの男のことは、マッサも気になっていた。
「あぁ……うーん、誰やろな」
「今日はVIPルームに引きこもりだっていうじゃん? なあ、マッサなんか聞いてねーの?」
「聞いてへんよ。っていうか、別に俺、忍さんの客全部把握しとるわけちゃうし」
「そーだろーけどさぁ。お前忍さんのボディガードだろ? あ違うか、番犬?」
「誰が犬やねん」
とツッコミつつも、マッサは彩人の横からそっとフロアを覗き見る。入り口のあたりで黒服と何やら言葉を交わしているのは、シャープなブラックスーツに身を包んだ、背の高い男だ。知的そうでありながらも、同時に狡猾さを滲ませるような尖った容姿に、鋭い目つき。ホストクラブにはまるで不似合いな空気を身にまとっているため、他の女性客たちもその男の存在を気にしているのが分かる。
「……誰か分かれへんけど、目立つなぁ。せやからVIPルーム使うんか」
「そーらしいわ。あいつが入ってくると、店の雰囲気がピリピリするっつーか」
「せやな」
年嵩の黒服がブラックスーツの男をVIPルームに通すと、若いボーイが忍のもとへとすすす……と近づいてゆく。にこやかに女性客の相手をしていた忍だが、ボーイのささやきを耳した瞬間、すう……と笑顔の温度が冷えるのが分かった。
忍は演技派だ。接客に入っているときに、あんな顔をすることなどまずあり得ない。マッサはいよいよ気になって、彩人を押しのけてフロアの様子を盗み見る。
——忍さんにとって大歓迎、って客じゃないみたいやな……。
マッサは眉を寄せ、店の最奥にある革張りの扉のほうへ視線をやる。そしてもう一度忍のほうを見た後、意を決した。
「……俺、忍さんとこヘルプ入るわ」
「えっ!? いやでも、呼ばれてもないのに」
「若手が酒作りに行くくらい普通のことやん。お前も気になるんやろ? 俺が探り入れて来たる」
「そう……? んー、まあ、そーだな。頼むわ」
若干瞳に迷いを浮かべたものの、彩人はすぐに深く頷き、バシバシとマッサの腕を叩いてきた。「痛いねん」と悪態を吐きつつも、彩人の心配そうな眼差しをしっかりと受け止め、フロアのほうへと足を踏み出す。
だが、新人ホストの教育も立派な仕事だ。忍がVIPルームへ入っていくのを見届けた後、マッサはしばらく新人ホストと若い女性客の橋渡しを行った。ある程度場があたたまった頃、レイヤに後を任せて席を立つ。
そして、つかつかとVIPルームの前へと足を運んだ。ちょっと耳をそば立ててみるも、ここの部屋の扉は厚い。何も声は聞こえなかった。
——忍さん、怒らはるか……? いや、そうなったらそうなったでしゃーない。忍さんがあんな顔するなんてよっぽどや。
タイミングよく、先ほどの黒服が追加の酒を持って来た。マッサは無言でそれをスッと手にすると、黒服に向かって頷いて見せた。マッサの言わんとすることが伝わったのだろう、黒服は黙礼だけ残して、再びフロアに戻っていく。
「失礼致します」
そしてノックもなしに、さっと勢いよく扉を開く。すると、突然入って来たマッサの方へ、二人が同時に顔を向けた。
まさかマッサがやってくるとは思いもしていなかったのか、忍は目を丸くしてこちらを見ている。だがスーツの男は、銀色の盆に乗せられたボトルにちらりと目をやるだけで、まるで気に留める様子もない。ただ、酒を運んできた若いホストだと思っているのだろう。
マッサを気にも留めない男に対して、忍はどこか気まずげな表情になり、「とっとと出ていけ」と言わんばかりの目線で圧を送ってくる。が、マッサはそしらぬ顔で水割りを作り始めた。
隣り合ってソファに座っている二人だが、スーツの男は明らかに前のめりだし忍は引き気味だ。パッと見たところ、年齢は四十代前半あたりだろうか。綺麗に撫でつけられた黒髪や、眉間に刻まれた深いしわのせいか、おそらく年齢よりも老けて見えるタイプの男だろう。
「……だから頼むよ。お前だけが頼りなんだ」
「そう言われても……なぁ」
「金は払う。悪いようにはしないから。な?」
「……んー」
——なんの話やろ……。忍さん、めっちゃ怖い顔してはるけど……。
何やらよほど重大な頼み事なのか、スーツの男はぐいぐいと忍に迫っている。だが、忍は渋面を浮かべて足を組み、男の方を一瞥さえしようとしない。
あえて時間をかけまくって作った水割りが完成し、男の方へとスッと差し出す。だが、男は食い入るように忍を見つめたままだ。ヘルプに入ったホストなど、空気のようなものなのだろう。接客の邪魔をしない、という訓練がここでこんなにも活きるとは、とマッサは思った。
「久世。俺を見てくれ」
「……何だよ」
「前も、あんなに上手くいったじゃないか。お前の有能さは俺が一番よく知ってる。次も同じようにしてくれたらそれでいい」
そう言って、スーツ男はたまりかねたように忍の手をぎゅっと握った。細く長い指にきらめくリングが、控えめな照明の中できらりと揺れる。マドラーを使うマッサの手も、思わず止まった。
「考え直してくれないか。俺はもう、絶対にお前を見捨てない」
「……今更、何を」
「お前が二課を辞めて、もう何年かな。俺は出世した、力を持ってる。今ならお前を守ってやれる。だから」
「だから……!! しつこいって言ってんだろ、僕に触るな!」
ばっ、と男から手を引き抜き、忍は苛立ちの滲むため息をついた。そして、元から置いてあった水をぐいと一気飲みし、ハァ~~~と深い息を吐く。すると、スーツ男はさっきよりも荒々しい手つきで忍の手首を掴むではないか。
「お前、久世……っ。じゃあ、いくらだ!? いくら払えば、お前は俺の言うことを聞くんだ!」
「だから……!! 何回も言わせるなよ!! 僕はもう……」
いよいよ気色ばみ始めた男に危機感を抱いたマッサは、水割りを作る手を止めて立ち上がった。するとようやく、スーツの男はマッサに目を留め、忌々しげな目つきでこちらを睨みつけている。
「……何だお前は」
「すみません、うちのナンバー1に何の用です?」
「は? 君には関係ないことだ。用事が済んだなら、とっととここから出ていきなさい」
「そうもいきませんよ」
マッサはテーブルを跨ぎ超えて二人の間に割って入ると、忍の前に立ちはだかった。「ちょ、おい。お前何してんだよ!」と背後で忍が文句を言っているが無視だ。マッサは、意のままにならない相手に向かって声を荒げる男が大嫌いなのだ。
現に、立ち上がった男の顔は苛立ちで赤黒くなり始めている。放っておけば、忍に手を上げないとも限らない剣幕だ。ここで見過ごすわけにはいかない。
「俺は今、久世と大事な話をしているんだ」
「ほな、俺も同席させてもらいます。忍さんは、うちの大事な看板なんで」
「なっ……! でしゃばった真似をするんじゃない!! ちゃらついたホスト風情が、俺たちの関係に首を突っ込むな!!」
ばしゃ、と結構な勢いで酒をぶっかけられた。
カ~~~と怒りのボルテージが一気に上昇し、拳を硬く握りかけたマッサである。だが、ここで自分が熱くなっても仕方がない。目を閉じ、深呼吸をして、男を追い出すべく手を伸ばしかけたとき——
ぐい、とタイを引かれ、視界が塞がる。……なぜか、忍の唇と自分の唇が、ゼロ距離で重なっているではないか。
突然のことで頭が真っ白になり、マッサはフリーズしてしまった。
「……ちゃらついたホスト風情、ね。今の僕だってそうさ。チャラついたホストだよ」
たっぷり二十秒ほどマッサにキスをしていた忍はゆっくりと唇を離し、男の方を挑発的に見つめながらそう言った。突然目の前で濃密なキスを見せつけられたせいか、男もわなわなと口を震わせている。そんな男を見て、忍は嘲笑うように唇を吊りあげた。
「僕はね、弓削。もう今後一切、お前とは関わりたくない。捜査協力も、しない」
「っ……久世……!!」
「口ではいくらだって都合のいいことは言える。だけど、お前はいつだって僕を裏切る嘘つき野郎だ。とっとと出て行け」
これまでに聞いたことがないくらい、凄みのある声だった。
忍はいつだって穏やかで、飄々としていて、つかみどころのない男だ。だが今は、剥き出しの感情もあらわにして、弓削と呼ばれた男を睨みつけている。
氷のように冷え切った眼差しに、弓削も怯んだ表情を見せている。ごく、と固唾を飲む音が聞こえてくる。
「……後悔するぞ。こんな店で終わりたいのか、お前は」
「こんな店? いい店じゃないか。ここで終われるなら本望だね」
「……バカが。酒にやられて、重要な選択肢を見誤るなんてな。見損なったぞ」
「あいにくだね、僕は下戸だよ」
忍が吐き捨てるようにそう言うと、静かにVIPルームの扉が開き、体格のいい黒服が四人入って来た。それを見た弓削は一瞬狼狽えていたけれど、フンと鼻を鳴らして鞄を掴み、靴音もやかましく部屋を出ていく。
黒服に伴われて消えていった弓削の背中を睨みつけていた忍が、小さく舌打ちをするのが聞こえた。マッサは、そっと忍の横顔を盗み見る。
すると忍は、「はぁ……」と疲れたようにため息をつき、ぎこちない表情でマッサを見上げた。おそらく、忍は笑おうとしているのだろう。だが、まるで上手く笑えていない。マッサは忍に向き直った。
「忍さん」
「……ごめんね、冷たかったろ」
「いや、それは全然……それに、忍さんが謝るとこちゃうし」
「ふふ。お前が来てくれてよかったよ」
忍は力なくそう言って、テーブルの上に置いてあったクロスでマッサの顔を拭ってくれた。マッサは無意識のうちにそんな忍の手首に触れていた。
「何があったんすか」
「ん~~~~まぁ、話すと長いし複雑なんだけどねぇ」
「聞かしてくださいよ。あんなん見てしもたら、気になってしゃーないやん」
「ま、そりゃそっか」
いつしか、普段通りの忍の調子に戻っている。その様子に安堵もするが、あの男との関係も気がかりだ。それに……。
「ていうか……俺、何年ぶりのキスやろ。びっくりしたんですけど」
「え? そーなの? ごめん、僕を庇うお前が健気に見えて、なんかつい」
「健気て。……いやまぁ、それはいいんすけど」
「そういや僕も、いつぶりだろ、キスなんて」
そう言って、忍はまじまじと改めてのようにマッサを見上げてくる。
何となく気まずい雰囲気になりそうな場面だが、忍はヘラっと笑って、「覚えてないくらい昔かも。泣きそう」と言った。
「……すまんせんね、久々の相手が俺で」
「何言ってんの、そりゃこっちのセリフだよ。……けど、お前の唇、柔らかくてびっくりだな。気持ちよかったよ」
「そ……そっすか」
色気もへったくれもない忍の微笑みに、マッサはため息をつくしかない。正直、忍と同じ感想を抱いていたところだ。久方ぶりの、しかも唐突なぬくもりに、忘れかけていた何かが揺さぶられている。
「仕事終わったら、うちにおいで」
「…………へっ!? な、何で!?」
「何でって、事情が聞きたいって言ったのはお前だろ?」
「あ、ああ~~せやんな。……分かりました。あ、彩人は……」
「お前に話してみてから、言うかどうか決めるよ。そんなに楽しい話じゃないからね」
そう言って、忍はちょっと傷ついたような微笑みを浮かべた。
『裏切り』『嘘つき野郎』などという耳慣れない言葉を口にしていた忍のきつい表情が、蘇る。
「……なるほど。分かりました」
「じゃ、僕は戻るよ。お前はシャワー浴びたほうがいいね」
「あ……せやんな」
「じゃ、また後で」
ひら、と手を振り、忍は飄々とフロアに戻っていく。
そのときにはもう、忍はいつも通りの甘い笑みを、その唇に乗せていた。
昨日に引き続き、番外編をアップします。
今回は、マッサ×忍のお話です。
ちょっと涼しくなったあたりから猛然と書きたくなり、あっという間に書き上がったものです。
『マッサと若森を……』というお声が多かったので公開する予定はありませんでしたが、せっかくなので読んでいただきたく……! ちょっとドキドキしていますが、楽しんでいただける方がおられたら嬉しいなと思います。
全三話です、よろしくお願い致します。
˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚
「なぁ、あのオッサン、最近やたらよく来るよな。誰?」
フロアとバックヤードをつなぐ廊下、そのカーテン越しに客の動きを眺めていた彩人に呼び止められた。さぁこれから新人ホストの教育だと気合を入れていたところではあったが、ここ最近しばしば『sanctuary』に顔を出すあの男のことは、マッサも気になっていた。
「あぁ……うーん、誰やろな」
「今日はVIPルームに引きこもりだっていうじゃん? なあ、マッサなんか聞いてねーの?」
「聞いてへんよ。っていうか、別に俺、忍さんの客全部把握しとるわけちゃうし」
「そーだろーけどさぁ。お前忍さんのボディガードだろ? あ違うか、番犬?」
「誰が犬やねん」
とツッコミつつも、マッサは彩人の横からそっとフロアを覗き見る。入り口のあたりで黒服と何やら言葉を交わしているのは、シャープなブラックスーツに身を包んだ、背の高い男だ。知的そうでありながらも、同時に狡猾さを滲ませるような尖った容姿に、鋭い目つき。ホストクラブにはまるで不似合いな空気を身にまとっているため、他の女性客たちもその男の存在を気にしているのが分かる。
「……誰か分かれへんけど、目立つなぁ。せやからVIPルーム使うんか」
「そーらしいわ。あいつが入ってくると、店の雰囲気がピリピリするっつーか」
「せやな」
年嵩の黒服がブラックスーツの男をVIPルームに通すと、若いボーイが忍のもとへとすすす……と近づいてゆく。にこやかに女性客の相手をしていた忍だが、ボーイのささやきを耳した瞬間、すう……と笑顔の温度が冷えるのが分かった。
忍は演技派だ。接客に入っているときに、あんな顔をすることなどまずあり得ない。マッサはいよいよ気になって、彩人を押しのけてフロアの様子を盗み見る。
——忍さんにとって大歓迎、って客じゃないみたいやな……。
マッサは眉を寄せ、店の最奥にある革張りの扉のほうへ視線をやる。そしてもう一度忍のほうを見た後、意を決した。
「……俺、忍さんとこヘルプ入るわ」
「えっ!? いやでも、呼ばれてもないのに」
「若手が酒作りに行くくらい普通のことやん。お前も気になるんやろ? 俺が探り入れて来たる」
「そう……? んー、まあ、そーだな。頼むわ」
若干瞳に迷いを浮かべたものの、彩人はすぐに深く頷き、バシバシとマッサの腕を叩いてきた。「痛いねん」と悪態を吐きつつも、彩人の心配そうな眼差しをしっかりと受け止め、フロアのほうへと足を踏み出す。
だが、新人ホストの教育も立派な仕事だ。忍がVIPルームへ入っていくのを見届けた後、マッサはしばらく新人ホストと若い女性客の橋渡しを行った。ある程度場があたたまった頃、レイヤに後を任せて席を立つ。
そして、つかつかとVIPルームの前へと足を運んだ。ちょっと耳をそば立ててみるも、ここの部屋の扉は厚い。何も声は聞こえなかった。
——忍さん、怒らはるか……? いや、そうなったらそうなったでしゃーない。忍さんがあんな顔するなんてよっぽどや。
タイミングよく、先ほどの黒服が追加の酒を持って来た。マッサは無言でそれをスッと手にすると、黒服に向かって頷いて見せた。マッサの言わんとすることが伝わったのだろう、黒服は黙礼だけ残して、再びフロアに戻っていく。
「失礼致します」
そしてノックもなしに、さっと勢いよく扉を開く。すると、突然入って来たマッサの方へ、二人が同時に顔を向けた。
まさかマッサがやってくるとは思いもしていなかったのか、忍は目を丸くしてこちらを見ている。だがスーツの男は、銀色の盆に乗せられたボトルにちらりと目をやるだけで、まるで気に留める様子もない。ただ、酒を運んできた若いホストだと思っているのだろう。
マッサを気にも留めない男に対して、忍はどこか気まずげな表情になり、「とっとと出ていけ」と言わんばかりの目線で圧を送ってくる。が、マッサはそしらぬ顔で水割りを作り始めた。
隣り合ってソファに座っている二人だが、スーツの男は明らかに前のめりだし忍は引き気味だ。パッと見たところ、年齢は四十代前半あたりだろうか。綺麗に撫でつけられた黒髪や、眉間に刻まれた深いしわのせいか、おそらく年齢よりも老けて見えるタイプの男だろう。
「……だから頼むよ。お前だけが頼りなんだ」
「そう言われても……なぁ」
「金は払う。悪いようにはしないから。な?」
「……んー」
——なんの話やろ……。忍さん、めっちゃ怖い顔してはるけど……。
何やらよほど重大な頼み事なのか、スーツの男はぐいぐいと忍に迫っている。だが、忍は渋面を浮かべて足を組み、男の方を一瞥さえしようとしない。
あえて時間をかけまくって作った水割りが完成し、男の方へとスッと差し出す。だが、男は食い入るように忍を見つめたままだ。ヘルプに入ったホストなど、空気のようなものなのだろう。接客の邪魔をしない、という訓練がここでこんなにも活きるとは、とマッサは思った。
「久世。俺を見てくれ」
「……何だよ」
「前も、あんなに上手くいったじゃないか。お前の有能さは俺が一番よく知ってる。次も同じようにしてくれたらそれでいい」
そう言って、スーツ男はたまりかねたように忍の手をぎゅっと握った。細く長い指にきらめくリングが、控えめな照明の中できらりと揺れる。マドラーを使うマッサの手も、思わず止まった。
「考え直してくれないか。俺はもう、絶対にお前を見捨てない」
「……今更、何を」
「お前が二課を辞めて、もう何年かな。俺は出世した、力を持ってる。今ならお前を守ってやれる。だから」
「だから……!! しつこいって言ってんだろ、僕に触るな!」
ばっ、と男から手を引き抜き、忍は苛立ちの滲むため息をついた。そして、元から置いてあった水をぐいと一気飲みし、ハァ~~~と深い息を吐く。すると、スーツ男はさっきよりも荒々しい手つきで忍の手首を掴むではないか。
「お前、久世……っ。じゃあ、いくらだ!? いくら払えば、お前は俺の言うことを聞くんだ!」
「だから……!! 何回も言わせるなよ!! 僕はもう……」
いよいよ気色ばみ始めた男に危機感を抱いたマッサは、水割りを作る手を止めて立ち上がった。するとようやく、スーツの男はマッサに目を留め、忌々しげな目つきでこちらを睨みつけている。
「……何だお前は」
「すみません、うちのナンバー1に何の用です?」
「は? 君には関係ないことだ。用事が済んだなら、とっととここから出ていきなさい」
「そうもいきませんよ」
マッサはテーブルを跨ぎ超えて二人の間に割って入ると、忍の前に立ちはだかった。「ちょ、おい。お前何してんだよ!」と背後で忍が文句を言っているが無視だ。マッサは、意のままにならない相手に向かって声を荒げる男が大嫌いなのだ。
現に、立ち上がった男の顔は苛立ちで赤黒くなり始めている。放っておけば、忍に手を上げないとも限らない剣幕だ。ここで見過ごすわけにはいかない。
「俺は今、久世と大事な話をしているんだ」
「ほな、俺も同席させてもらいます。忍さんは、うちの大事な看板なんで」
「なっ……! でしゃばった真似をするんじゃない!! ちゃらついたホスト風情が、俺たちの関係に首を突っ込むな!!」
ばしゃ、と結構な勢いで酒をぶっかけられた。
カ~~~と怒りのボルテージが一気に上昇し、拳を硬く握りかけたマッサである。だが、ここで自分が熱くなっても仕方がない。目を閉じ、深呼吸をして、男を追い出すべく手を伸ばしかけたとき——
ぐい、とタイを引かれ、視界が塞がる。……なぜか、忍の唇と自分の唇が、ゼロ距離で重なっているではないか。
突然のことで頭が真っ白になり、マッサはフリーズしてしまった。
「……ちゃらついたホスト風情、ね。今の僕だってそうさ。チャラついたホストだよ」
たっぷり二十秒ほどマッサにキスをしていた忍はゆっくりと唇を離し、男の方を挑発的に見つめながらそう言った。突然目の前で濃密なキスを見せつけられたせいか、男もわなわなと口を震わせている。そんな男を見て、忍は嘲笑うように唇を吊りあげた。
「僕はね、弓削。もう今後一切、お前とは関わりたくない。捜査協力も、しない」
「っ……久世……!!」
「口ではいくらだって都合のいいことは言える。だけど、お前はいつだって僕を裏切る嘘つき野郎だ。とっとと出て行け」
これまでに聞いたことがないくらい、凄みのある声だった。
忍はいつだって穏やかで、飄々としていて、つかみどころのない男だ。だが今は、剥き出しの感情もあらわにして、弓削と呼ばれた男を睨みつけている。
氷のように冷え切った眼差しに、弓削も怯んだ表情を見せている。ごく、と固唾を飲む音が聞こえてくる。
「……後悔するぞ。こんな店で終わりたいのか、お前は」
「こんな店? いい店じゃないか。ここで終われるなら本望だね」
「……バカが。酒にやられて、重要な選択肢を見誤るなんてな。見損なったぞ」
「あいにくだね、僕は下戸だよ」
忍が吐き捨てるようにそう言うと、静かにVIPルームの扉が開き、体格のいい黒服が四人入って来た。それを見た弓削は一瞬狼狽えていたけれど、フンと鼻を鳴らして鞄を掴み、靴音もやかましく部屋を出ていく。
黒服に伴われて消えていった弓削の背中を睨みつけていた忍が、小さく舌打ちをするのが聞こえた。マッサは、そっと忍の横顔を盗み見る。
すると忍は、「はぁ……」と疲れたようにため息をつき、ぎこちない表情でマッサを見上げた。おそらく、忍は笑おうとしているのだろう。だが、まるで上手く笑えていない。マッサは忍に向き直った。
「忍さん」
「……ごめんね、冷たかったろ」
「いや、それは全然……それに、忍さんが謝るとこちゃうし」
「ふふ。お前が来てくれてよかったよ」
忍は力なくそう言って、テーブルの上に置いてあったクロスでマッサの顔を拭ってくれた。マッサは無意識のうちにそんな忍の手首に触れていた。
「何があったんすか」
「ん~~~~まぁ、話すと長いし複雑なんだけどねぇ」
「聞かしてくださいよ。あんなん見てしもたら、気になってしゃーないやん」
「ま、そりゃそっか」
いつしか、普段通りの忍の調子に戻っている。その様子に安堵もするが、あの男との関係も気がかりだ。それに……。
「ていうか……俺、何年ぶりのキスやろ。びっくりしたんですけど」
「え? そーなの? ごめん、僕を庇うお前が健気に見えて、なんかつい」
「健気て。……いやまぁ、それはいいんすけど」
「そういや僕も、いつぶりだろ、キスなんて」
そう言って、忍はまじまじと改めてのようにマッサを見上げてくる。
何となく気まずい雰囲気になりそうな場面だが、忍はヘラっと笑って、「覚えてないくらい昔かも。泣きそう」と言った。
「……すまんせんね、久々の相手が俺で」
「何言ってんの、そりゃこっちのセリフだよ。……けど、お前の唇、柔らかくてびっくりだな。気持ちよかったよ」
「そ……そっすか」
色気もへったくれもない忍の微笑みに、マッサはため息をつくしかない。正直、忍と同じ感想を抱いていたところだ。久方ぶりの、しかも唐突なぬくもりに、忘れかけていた何かが揺さぶられている。
「仕事終わったら、うちにおいで」
「…………へっ!? な、何で!?」
「何でって、事情が聞きたいって言ったのはお前だろ?」
「あ、ああ~~せやんな。……分かりました。あ、彩人は……」
「お前に話してみてから、言うかどうか決めるよ。そんなに楽しい話じゃないからね」
そう言って、忍はちょっと傷ついたような微笑みを浮かべた。
『裏切り』『嘘つき野郎』などという耳慣れない言葉を口にしていた忍のきつい表情が、蘇る。
「……なるほど。分かりました」
「じゃ、僕は戻るよ。お前はシャワー浴びたほうがいいね」
「あ……せやんな」
「じゃ、また後で」
ひら、と手を振り、忍は飄々とフロアに戻っていく。
そのときにはもう、忍はいつも通りの甘い笑みを、その唇に乗せていた。
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