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第五幕 ー荒ぶる海神ー
八、波間に現るもの
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千珠、竜胆、柊は日が落ちてから安芸へと発った。
千珠は斥候として、一人先んじて安芸への道のりを駆けているところである。その後を柊と竜胆は早馬で追いかけてくる手筈だ。
一人、暗い夜の森を駆け抜けていると、まるで身体が自然の一部になったかのように感じる。鳥や、獣や、植物、そして自然と世界の中生まれては消え行く、力なき妖ものと同じように。
風の声や大地の呼吸が、闇の中に蠢く妖の微かな息吹とともに、自然の拍動の如く千珠の身体に伝わってくる。それはとても心地よく、このまま目を閉じてその一部として溶け込んでしまいたいような心地にさせられる。
しかし風景が一変したことで、千珠は意識を引き締めた。
急に視界が拓け、崖の上に出た。
その眼下には、瀬戸内海とそこに浮かぶ島々が、黒々と広がって見えた。
千珠は軽く息を整えると、じっと目を凝らして夜の海を見つめる。海岸でちらちらと火が焚かれているのは、起きて海を見張る者たちの灯りであろう。
そこからは何の怪しいものの気配は、感じ取れない。
千珠はひょいひょいと崖を伝って身軽に浜へと降りていくと、柔らかな砂に覆われた地面に降り立ち、暗い松林の中を進んだ。
足が砂に埋まる。すぐそこは波打つ浜辺だ。
安芸国・厳島が、波を隔てて黒く遠く、その姿を潜めるように浮かんでいる。
あそこに厳島神社がある。
千珠はふと人の気配を感じた。それと同時に、千珠の足元目掛けて何かが鋭く飛び掛ってくるのを察し、千珠は素早くそれを避けて砂浜に降り立つ。
海を背に身を低くして、じっと相手の気配を窺っていると、再び鋭い刃物の気配。千珠はふわりと飛び退いて波打ち際に立った。
見ると、さっきまで千珠が立っていた場所には、苦無が何本も突き立っている。
「この国の忍か? 俺は、青葉から来た者だ」
千珠はまっすぐに立つと、暗がりに向かってそう声をかけた。その声は暗闇に溶けながら、やがて何か動くものにぶつかった。
「……それは失礼を」
音もなく、暗闇から二人の男が現れた。
千珠たちの忍装束は、身体にぴったりとした形で無駄がないのに対し、彼らの身に付けている衣は裾が長く、すっぽりと全身を覆う外套のようだ。
「我々は、厳島を守護する者である」
暗がりで表情は見えず、低くくぐもった声だけが波の音と混じって聞こえて来る。
「何をしに来られた?」
「近頃海に現れるという、物の怪について調べに来た」
「ふむ……あれは民の戯言。大方海賊にでも襲われて恐怖を見たのであろう」
「隠し立てするのか? ならば真偽はこちらで確かめる」
千珠はそう言うと、そっと背に指す忍刀に手をかけた。
「他国がしゃしゃり出てくるとは……。その首、惜しいのならばさっさと引き揚げることだ」
外套の男は、更に低い声でそう言う。
「そうも行かない。これ以上被害が増やしたくないのでね」
千珠が忍刀を抜いて斬りかかるのと、男の一人が千珠に斬りかかるのは同時だった。暗闇の中、刃と刃がぶつかる火花が散る。
一度砂の上に立ち、さらに斬りかかろうとした時、若い男の鋭い声がそれを制した。
「やめぬか!」
外套男が、ぴたりと動くのを止めた。
千珠が声のした方に顔を向けると、ちょうど雲の切れ目から月明かりが辺りを照らし出す。
そこには背の高い、白い狩衣姿の男が立っていた。袖口に赤い糸で縫い取りが施され、履いている瑠璃紺の袴は高貴な紋が描かれている。
明らかに位のある人間だが、顔を見ると歳はまだ二十過ぎそこそこの青年にしか見えない。月明かりを受けて青白く光る狩衣を纏うその男は、二人の忍を手で制しながら千珠に歩み寄ってきた。
「お前たち、もう戻れ。こちらは私の客人だ」
男はそう言うと、二人の忍に一瞥をくれる。二つの影が素直に消えるのを見届けると、男は千珠をじっと見つめた。
「青葉から、とおっしゃいましたね。凄まじく強い男が来ると聞いているのですが」
「お前は誰だ」
千珠は刃を納めることなく、そう尋ねた。男は無表情のまま、千珠をじっと見ている。
「私は、厳島神社の宮司である」
「……宮司だと? 何故こんな所にいるのだ」
「詮なきこと。私は青葉の忍たちを安芸の守の所にではなく、直接厳島へ連れてゆくようにといいつかっている」
「主を通さず、直接か? 聞いていた話と違うな」
「安芸守は……」
男が何かを言おうとした瞬間、沖の方でどぉん……と低く響く音が辺りを揺さぶった。宮司ははたと険しい顔になると、海のほうを振り返り呟いた。
「……何故」
千珠も音のする方を見遣ると、沖のほうで青い光が蠢いているのが見えた。ざわざわと、あたりは強い風が吹き荒れ始める。潮の満ち引きが高くなり、波打ち際に立っていた千珠の足元を洗う。
見る間にその青光は大きなうねりを呼び、まるで自らの意思を持つかのように海水を吸い上げながら天空へと昇った。
オオオオオオオォン……!
低く、空気を直接震わせるかのような重い咆哮を上げ、海水と、青く光る気泡をその身に纏った巨大な龍が姿を現した。
身の丈五十尺(約十五メートル)はあるだろうか。千珠はあまりの光景に目を瞠った。
「何だ、あれは……!?」
龍は、もう一度耳をつんざくような咆哮をあげると、沖に出ている一艘の舟を追い始めた。龍が前進するたび、ざざざと大きな波が生まれ、津波のように浜辺へ押し寄せる。
「いけない!」
宮司は弾かれたように砂浜を走りだした。千珠も咄嗟にそれに続く。
千珠は斥候として、一人先んじて安芸への道のりを駆けているところである。その後を柊と竜胆は早馬で追いかけてくる手筈だ。
一人、暗い夜の森を駆け抜けていると、まるで身体が自然の一部になったかのように感じる。鳥や、獣や、植物、そして自然と世界の中生まれては消え行く、力なき妖ものと同じように。
風の声や大地の呼吸が、闇の中に蠢く妖の微かな息吹とともに、自然の拍動の如く千珠の身体に伝わってくる。それはとても心地よく、このまま目を閉じてその一部として溶け込んでしまいたいような心地にさせられる。
しかし風景が一変したことで、千珠は意識を引き締めた。
急に視界が拓け、崖の上に出た。
その眼下には、瀬戸内海とそこに浮かぶ島々が、黒々と広がって見えた。
千珠は軽く息を整えると、じっと目を凝らして夜の海を見つめる。海岸でちらちらと火が焚かれているのは、起きて海を見張る者たちの灯りであろう。
そこからは何の怪しいものの気配は、感じ取れない。
千珠はひょいひょいと崖を伝って身軽に浜へと降りていくと、柔らかな砂に覆われた地面に降り立ち、暗い松林の中を進んだ。
足が砂に埋まる。すぐそこは波打つ浜辺だ。
安芸国・厳島が、波を隔てて黒く遠く、その姿を潜めるように浮かんでいる。
あそこに厳島神社がある。
千珠はふと人の気配を感じた。それと同時に、千珠の足元目掛けて何かが鋭く飛び掛ってくるのを察し、千珠は素早くそれを避けて砂浜に降り立つ。
海を背に身を低くして、じっと相手の気配を窺っていると、再び鋭い刃物の気配。千珠はふわりと飛び退いて波打ち際に立った。
見ると、さっきまで千珠が立っていた場所には、苦無が何本も突き立っている。
「この国の忍か? 俺は、青葉から来た者だ」
千珠はまっすぐに立つと、暗がりに向かってそう声をかけた。その声は暗闇に溶けながら、やがて何か動くものにぶつかった。
「……それは失礼を」
音もなく、暗闇から二人の男が現れた。
千珠たちの忍装束は、身体にぴったりとした形で無駄がないのに対し、彼らの身に付けている衣は裾が長く、すっぽりと全身を覆う外套のようだ。
「我々は、厳島を守護する者である」
暗がりで表情は見えず、低くくぐもった声だけが波の音と混じって聞こえて来る。
「何をしに来られた?」
「近頃海に現れるという、物の怪について調べに来た」
「ふむ……あれは民の戯言。大方海賊にでも襲われて恐怖を見たのであろう」
「隠し立てするのか? ならば真偽はこちらで確かめる」
千珠はそう言うと、そっと背に指す忍刀に手をかけた。
「他国がしゃしゃり出てくるとは……。その首、惜しいのならばさっさと引き揚げることだ」
外套の男は、更に低い声でそう言う。
「そうも行かない。これ以上被害が増やしたくないのでね」
千珠が忍刀を抜いて斬りかかるのと、男の一人が千珠に斬りかかるのは同時だった。暗闇の中、刃と刃がぶつかる火花が散る。
一度砂の上に立ち、さらに斬りかかろうとした時、若い男の鋭い声がそれを制した。
「やめぬか!」
外套男が、ぴたりと動くのを止めた。
千珠が声のした方に顔を向けると、ちょうど雲の切れ目から月明かりが辺りを照らし出す。
そこには背の高い、白い狩衣姿の男が立っていた。袖口に赤い糸で縫い取りが施され、履いている瑠璃紺の袴は高貴な紋が描かれている。
明らかに位のある人間だが、顔を見ると歳はまだ二十過ぎそこそこの青年にしか見えない。月明かりを受けて青白く光る狩衣を纏うその男は、二人の忍を手で制しながら千珠に歩み寄ってきた。
「お前たち、もう戻れ。こちらは私の客人だ」
男はそう言うと、二人の忍に一瞥をくれる。二つの影が素直に消えるのを見届けると、男は千珠をじっと見つめた。
「青葉から、とおっしゃいましたね。凄まじく強い男が来ると聞いているのですが」
「お前は誰だ」
千珠は刃を納めることなく、そう尋ねた。男は無表情のまま、千珠をじっと見ている。
「私は、厳島神社の宮司である」
「……宮司だと? 何故こんな所にいるのだ」
「詮なきこと。私は青葉の忍たちを安芸の守の所にではなく、直接厳島へ連れてゆくようにといいつかっている」
「主を通さず、直接か? 聞いていた話と違うな」
「安芸守は……」
男が何かを言おうとした瞬間、沖の方でどぉん……と低く響く音が辺りを揺さぶった。宮司ははたと険しい顔になると、海のほうを振り返り呟いた。
「……何故」
千珠も音のする方を見遣ると、沖のほうで青い光が蠢いているのが見えた。ざわざわと、あたりは強い風が吹き荒れ始める。潮の満ち引きが高くなり、波打ち際に立っていた千珠の足元を洗う。
見る間にその青光は大きなうねりを呼び、まるで自らの意思を持つかのように海水を吸い上げながら天空へと昇った。
オオオオオオオォン……!
低く、空気を直接震わせるかのような重い咆哮を上げ、海水と、青く光る気泡をその身に纏った巨大な龍が姿を現した。
身の丈五十尺(約十五メートル)はあるだろうか。千珠はあまりの光景に目を瞠った。
「何だ、あれは……!?」
龍は、もう一度耳をつんざくような咆哮をあげると、沖に出ている一艘の舟を追い始めた。龍が前進するたび、ざざざと大きな波が生まれ、津波のように浜辺へ押し寄せる。
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