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第二章 青葉にて
八、困りごと
しおりを挟む夜半過ぎ、舜海は青葉の寺に帰ってきた。
かなりの酒を飲んだのか、顔は赤く体中から酒の匂いを放ちながら帰宅した舜海を、山吹は迷惑そうな顔もせずに迎え入れた。
「夜顔は?」
玄関先に座り込んで草履を解きながら、山吹に尋ねると、山吹は珍しくほわりとした笑顔を見せた。
「もう、寝ましたよ。可愛らしい子ね」
「そうなんか? お前がそんなこと言うの、珍しやん」
「だって、見た目によらず幼くて素直で、可愛かったわ」
「言葉を覚えたのが遅かったから、成長が遅いんかもしれんな。千珠は?」
「お堂で待ってるって」
「そうか。さて……どうするかな」
「お水、持って行くわ」
「おお、すまんな」
「酒臭いって、文句言われるわよ」
「……」
舜海は裸足で、板張りのひんやりとした廊下を歩きながら、袖を抜いて腕を組んだ。
法堂へ続く回廊から、霞かかった下弦の月を見上げる。法堂の扉は開いていて、中からぼんやりとした蝋燭の灯が見えた。
中を覗くと、本尊の前に千珠が座っている。
「酒臭いぞ」
近寄る前からそんなことを言われ、舜海は吹き出した。山吹の言ったとおりだ。
「すまんすまん。今、山吹が水もってきてくれるから」
「まったく……。仲良くやってるじゃないか」
「まぁな。ええ女や」
「そうだな。今夜も夜顔が世話になった」
「……あいつ、どうや?」
千珠は本尊を見上げてため息をついた。なにか悩んでいる時の千珠の顔だ。
「……過去を知りたいと言ってきた。俺なら知ってるだろうってさ。藤之助は教えてくれないんだそうだ」
「藤之助のやつ、どえらい仕事を押し付けてきたもんやな」
「いずれ言うつもりはあるんだろうが……俺からどこまで話したものか」
「そうやなぁ……」
「千珠さまからお伝えしたほうがいいのではないですか?」
「うわ!!」
いつの間にか側に座っていた山吹に驚き、千珠は飛び上がった。盆に水の入った器と茶の湯の準備をして、山吹はすぐそばに正座しているのだ。
「いつ来た」
「先程から」
「……忍はやめても気配を消す癖は治んないのか?」
と、千珠は山吹から湯のみを受け取りながらそう言った。
「お気づきにならないなんて、よほどお困りのようですね」
「……」
千珠が口をとがらせて黙りこむと、舜海は大笑いをし始めた。
「あはははは、一本取られたな、千珠」
「五月蝿い」
山吹から水を貰うと、舜海はそれを一気に飲み干した。ふうと息をついて、山吹を見る。
「ほんで、お前はどうしてそう思ったんや」
「……苦しい過去を乗り越えることのできたあなたの言葉なら、夜顔様に伝わるような気がします」
「……過去か」
「あなたがどう生き、どうその罪と向き合ってこられたか……その想いがあるからこそ、あなたは彼を助けたのでしょう?」
「……そうだな」
「だからこそ、千珠さまからお伝えするのが良いかと……。失礼、でしゃばった真似を」
たくさん喋りすぎたことを悔いるように、山吹はそっと自分の口を押さえた。千珠は首を振る。
「いや、お前の言うとおりだ。……山吹にそんなことを言われるなんて、びっくりした」
「……あなたについてまわることが多かったですから」
「しかし、よく喋るようになったじゃないか」
「大きなお世話です」
感心したようにそんなことを言う千珠に、山吹は無愛想な言葉を残して法堂を出ていった。ぎぎ……と重い扉が締められる。
「俺も、山吹の言うとおりやと思うな」
舜海も茶を一口すすると、そう言った。千珠は掌を暖めている湯のみを見下ろしながら、頷く。
「そうだな……」
「国へ戻れば藤之助がちゃんとまた話をするやろ。お前はお前の言葉で伝えてやれ」
「うん……」
「なんや、自信ないんか」
「いや……夜顔、よく笑って可愛いんだ」
「ほう」
「あの笑顔を……消してしまわないかと思うと、ちょっとな」
千珠はまた、本尊を見あげた。くすんだ金色の千手観音像が、静かな眼差しで千珠を見下ろしている。
「お前かて、一時期はどうなることかと思ってたけど、よう笑うようになったやん」
「俺か?」
「ああ、そうや。泣いてばっかりだったお前が、この国を支えて、都を守って、皆に愛されて……俺はそんなお前をずっと近くで見てきたつもりや」
「……」
千珠の琥珀色の目が、じっと舜海を見つめた。舜海は笑顔を見せて続ける。
「今や妻子ある立派な男になって、家族ができて、幸せやろ?」
「……うん」
「今のお前なら、大丈夫や。千珠」
舜海の手が、千珠の頭にぽんと載せられた。千珠はどき、と跳ね上がる鼓動を誤魔化すように不機嫌な顔をすると、その手を邪険にする。
「頭撫でるなよ! もう子どもじゃないんだぞ」
「はいはい、すまんな」
舜海は両手を顔の前で開いて、降参の姿勢を見せて笑った。
「でも、ありがとう……舜海」
「おや、素直やな、明日は雪か」
「五月蝿い」
静かに微笑む千珠を、舜海は愛おしげに見つめていた。
もう何年も千珠には触れていない。二人の関係は、友人に近い形で落ち着いているように思えた。互いに守るべきものが増え、互いを良き相談相手として認め合ってきた。
「槐が祝言をあげるらしいで」
「えっ! そうなのか?」
「まだ聞いてなかったん?」
「……話ってそれだったのか。ばたばたして聞いてやれなかったな。夜顔をこっちに連れてきたりしていたから……悪いことをした」
「あいつ、千瑛殿と千珠のあとを必死で追っかけてきたみたいやで。子どもの頃は学問嫌いで落ちこぼれ気味だったが、今はすっかり神祇省の期待の星なんやて、佐為が言うてた」
「そっか……明日はちゃんと話したいな」
「夜顔のこと、気にしていたな。無意識の内に恐れた、と殿に話していた」
「……槐はあの時、夜顔の姿ははっきり見ていない。しかし、あれだけ大きな殺意をもろに浴びて狙われたんだ、身体は覚えているんだろうな」
「せやな……。あの二人は合わせへんようにしたほうがええな」
「ああ」
「明日は結界術の締め直しや。その間、夜顔はここにいさせよう」
「すまんな」
「ええって。今夜も、お前は城へ戻れ」
「でも……」
「あんまり夜顔にばかり気を向けていると、槐がやきもちやくからな」
そう言って、舜海は笑った。
「やきもち?」
「あいつは大人になったけど、心はちっちゃい槐のままや。もっと兄上と遊びたい、もっと兄上に認められたい、もっと一緒にいたいって、それだけを望んでる」
「そうか……」
「今日の宴での顔見てりゃわかるわ。ずっとお前を探してたし、昼間夜顔に刀を抜いたことを恥じていた」
「……気にしなくていいのに」
「ま、そのへんもようよう話してやれ」
「そうするよ」
千珠は立ち上がって、伸びをした。結っていない銀髪を揺らして、法堂を出ていく。
「術式は早朝だ。寝坊するなよ」
戸口に立って、千珠が舜海にそう声をかけた。舜海はひらひらと手を振って、「分かっとる分かっとる」と言う。
「お前も、考えすぎんとすぐ寝ろよ。……おやすみ」
舜海がそう言うと、千珠は横顔で少し笑って、すいも姿を消した。
「さてさて、どうなることやら……」
舜海の呟きが、がらんとした暗い法堂に響く。本尊の前にきっちりと正座をすると、舜海は懐から長い数珠を取り出し、目を閉じて合掌した。
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