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第7章 戦の前
3、不安な夜
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珠生は夜通し、キャンバスに向かって絵を描いていた。
布団に入ると千秋の身を案じる想いが湧いて心が潰れそうになり、一向に眠れる気がしなかった。
白いキャンバスの上に乗る色は、全てが黒く、重い。嫌になるくらい、自分の不安を映し出す絵だと思った。
コーヒーを入れてソファに座り、白んできた空を見上げる。
空の色は、五百年前と同じ。
その色を映していた瞳も同じ。
珠生は目を閉じて、天井を見上げる。朝日によって生まれた光の筋が、ぼんやりと浮かび上がっている。
千秋……どうしてる?
戻ってきた時、千秋は俺のことを、なんて言う?
やっぱり俺は珠生じゃないって、言うのかな……。
珠生はため息をついた。
駄目だ、こんなことを考えていては敵の思う壺だ。しっかりしなきゃ。
珠生は外を走ろうと思い立ち、立ち上がって着替えをすると、人気のない早朝の道を走りだした。
+
健介は徹夜明けの身体を引きずって、ようやく帰宅した。時刻はすでに朝十時を過ぎ、千秋の怒り顔が目に浮かぶようだった。
恐る恐るドアを開けたが、部屋の中はしんとしていて、誰の気配もない。怪訝に思った健介は、急いでリビングに入る。千秋が寝起きしている和室にはすでに人影はなく、珠生の部屋のドアは閉まっている。
健介は珠生の部屋のドアをノックすると、ドアを開けた。
早起きなはずの珠生が、今日もまだ眠っていた。健介は拍子抜けした気分になって肩を落とすと、部屋に入って珠生の寝顔を見た。
健介がいるのに、全く起きる気配もなくよく眠っている。思いの外幼い寝顔に、健介は微笑んだ。
もう十五歳だといっても、まだ子どもだ。
今まで何で、この子たちを放っておいてしまったのかと後悔する。一緒に暮らしていれば、もっともっと愛らしい寝顔も見れただろうに。眠っている珠生の頭を撫でると、珠生は微かに身動ぎした。
「う……ん」
「あ、起こしたかな……」
「とうさん……おかえり」
長い睫毛を揺らして、掠れた声で珠生はそう言った。健介は笑顔を見せて、「ただいま」と言った。
健介の笑顔を見て、珠生の気が緩む。今まで千秋の夢を見ていたのだ。
「父さん、千秋を……取られちゃった」
「え? ……誰に取られたんだ?」
「でも……取り返すから……」
「怖い夢見たんだな。大丈夫、珠生ならできるよ」
健介は安心させるように笑いかけ、珠生のサラリとした髪を撫でた。あたたかく大きな父親の手にの感触に安堵し、珠生の目からは涙が溢れてきた。
健介は珠生の涙に驚いていたが、ただただ頭を撫で続ける。
「大丈夫だよ、珠生。怖くない。大丈夫だよ」
どういう言葉を掛けていいのか分からず、健介はただただそう言い続けた。珠生は拳で涙を拭いながら、こくりと小さく頷いた。
——やっぱり情緒不安定なのか……。
怖い夢で泣く息子を見つめて、健介は自分の今までの行いを悔いた。
そばにいてやれば、よかったんだ。
自分のことよりも、子どもを大切にするのが当然なのに、自分は……。
「珠生、ごめんな……本当にごめん」
「何、謝ってるの……?」
「いや……何でもない。大丈夫かい?」
「あっ……俺、何で泣いて……」
珠生はがばりと起き上がると、慌てて目をこすった。心配そうに自分を見上げる父親を見て、照れくさそうに赤面する。
「父さん、今帰ったの?」
「ああ、ごめんな。遅くなって」
「ううん……いいよ」
だってそのトラブルは、佐為がやったんだから……と内心思いながら、珠生は首を振った。疲れた父親の顔に、少なからず罪悪感を感じた。
「千秋がもういないんだけど……出かけたのかな」
「あ、うん……。俺、二度寝したから」
「珍しいな、珠生が二度寝なんて。千秋に振り回されて疲れたのかな?」
「うん、まぁそんなとこ」
珠生はぎこちなく笑う。健介は微笑むと、「千秋はどこへ行ったのかな」と言った。
どきりとする。しかし、それを表情に出す訳にはいかない。
「あの……うちの学校の陸上部の練習の見学に行くって」
「そうか。ああ、あの陸上部の彼と出かけたのかな」
「うん、そうだよ」
「モテるなあ、千秋は」
健介はにこやかにそう言って立ち上がった。もう一度珠生の頭をポンと撫でる。
「もう少し寝るかい?」
「うん、そうだね……」
「じゃあ、父さんもちょっと寝るよ。徹夜は堪えるなぁ」
「大変だったね」
「いやいや、なんてこと無いトラブルなんだけどね……原因が分からなくて困った」
健介は大あくびをしながら、珠生の部屋を出ていった。バタンとドアが閉まって、珠生は大きく息を吐く。
何とか、千秋のことは不審がられずにに済んだらしい。
ごめんよ、父さん。
絶対、千秋を取り戻すから。
布団に入ると千秋の身を案じる想いが湧いて心が潰れそうになり、一向に眠れる気がしなかった。
白いキャンバスの上に乗る色は、全てが黒く、重い。嫌になるくらい、自分の不安を映し出す絵だと思った。
コーヒーを入れてソファに座り、白んできた空を見上げる。
空の色は、五百年前と同じ。
その色を映していた瞳も同じ。
珠生は目を閉じて、天井を見上げる。朝日によって生まれた光の筋が、ぼんやりと浮かび上がっている。
千秋……どうしてる?
戻ってきた時、千秋は俺のことを、なんて言う?
やっぱり俺は珠生じゃないって、言うのかな……。
珠生はため息をついた。
駄目だ、こんなことを考えていては敵の思う壺だ。しっかりしなきゃ。
珠生は外を走ろうと思い立ち、立ち上がって着替えをすると、人気のない早朝の道を走りだした。
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健介は徹夜明けの身体を引きずって、ようやく帰宅した。時刻はすでに朝十時を過ぎ、千秋の怒り顔が目に浮かぶようだった。
恐る恐るドアを開けたが、部屋の中はしんとしていて、誰の気配もない。怪訝に思った健介は、急いでリビングに入る。千秋が寝起きしている和室にはすでに人影はなく、珠生の部屋のドアは閉まっている。
健介は珠生の部屋のドアをノックすると、ドアを開けた。
早起きなはずの珠生が、今日もまだ眠っていた。健介は拍子抜けした気分になって肩を落とすと、部屋に入って珠生の寝顔を見た。
健介がいるのに、全く起きる気配もなくよく眠っている。思いの外幼い寝顔に、健介は微笑んだ。
もう十五歳だといっても、まだ子どもだ。
今まで何で、この子たちを放っておいてしまったのかと後悔する。一緒に暮らしていれば、もっともっと愛らしい寝顔も見れただろうに。眠っている珠生の頭を撫でると、珠生は微かに身動ぎした。
「う……ん」
「あ、起こしたかな……」
「とうさん……おかえり」
長い睫毛を揺らして、掠れた声で珠生はそう言った。健介は笑顔を見せて、「ただいま」と言った。
健介の笑顔を見て、珠生の気が緩む。今まで千秋の夢を見ていたのだ。
「父さん、千秋を……取られちゃった」
「え? ……誰に取られたんだ?」
「でも……取り返すから……」
「怖い夢見たんだな。大丈夫、珠生ならできるよ」
健介は安心させるように笑いかけ、珠生のサラリとした髪を撫でた。あたたかく大きな父親の手にの感触に安堵し、珠生の目からは涙が溢れてきた。
健介は珠生の涙に驚いていたが、ただただ頭を撫で続ける。
「大丈夫だよ、珠生。怖くない。大丈夫だよ」
どういう言葉を掛けていいのか分からず、健介はただただそう言い続けた。珠生は拳で涙を拭いながら、こくりと小さく頷いた。
——やっぱり情緒不安定なのか……。
怖い夢で泣く息子を見つめて、健介は自分の今までの行いを悔いた。
そばにいてやれば、よかったんだ。
自分のことよりも、子どもを大切にするのが当然なのに、自分は……。
「珠生、ごめんな……本当にごめん」
「何、謝ってるの……?」
「いや……何でもない。大丈夫かい?」
「あっ……俺、何で泣いて……」
珠生はがばりと起き上がると、慌てて目をこすった。心配そうに自分を見上げる父親を見て、照れくさそうに赤面する。
「父さん、今帰ったの?」
「ああ、ごめんな。遅くなって」
「ううん……いいよ」
だってそのトラブルは、佐為がやったんだから……と内心思いながら、珠生は首を振った。疲れた父親の顔に、少なからず罪悪感を感じた。
「千秋がもういないんだけど……出かけたのかな」
「あ、うん……。俺、二度寝したから」
「珍しいな、珠生が二度寝なんて。千秋に振り回されて疲れたのかな?」
「うん、まぁそんなとこ」
珠生はぎこちなく笑う。健介は微笑むと、「千秋はどこへ行ったのかな」と言った。
どきりとする。しかし、それを表情に出す訳にはいかない。
「あの……うちの学校の陸上部の練習の見学に行くって」
「そうか。ああ、あの陸上部の彼と出かけたのかな」
「うん、そうだよ」
「モテるなあ、千秋は」
健介はにこやかにそう言って立ち上がった。もう一度珠生の頭をポンと撫でる。
「もう少し寝るかい?」
「うん、そうだね……」
「じゃあ、父さんもちょっと寝るよ。徹夜は堪えるなぁ」
「大変だったね」
「いやいや、なんてこと無いトラブルなんだけどね……原因が分からなくて困った」
健介は大あくびをしながら、珠生の部屋を出ていった。バタンとドアが閉まって、珠生は大きく息を吐く。
何とか、千秋のことは不審がられずにに済んだらしい。
ごめんよ、父さん。
絶対、千秋を取り戻すから。
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