公女様、前世に用はないですか?

みあはら

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 公爵家の庭園は、この頃から変わらず手入れが行き届いていた。
 薔薇の剪定は終わり、冬を越す準備が始まっている。土の匂いは冷たく、空気は澄んでいた。

 シャロンは、いつもの時間にそこにいた。

 誰に言われたわけでもない。
 ただ、ここが一番落ち着く。それだけだった。

 以前は、ここで誰かを待つことが多かった。
 声をかけられることも、歩調を合わせることも、当たり前のようにあった。

 今は、ない。

 それを寂しいと思わないようにしているわけではない。
 ただ、事実として受け入れているだけだった。

「……よし」

 剪定ばさみを置き、シャロンは一息つく。
 手袋越しでも、指先が少し痺れていた。
 この数週間で、彼女の生活は静かに変わった。
 無理にヴァージル以外の誰かと距離を取ったわけではない。
 必要以上に前に出ることをやめ、求められなければ応じない。それだけだ。

 そうすると、不思議なほど時間が増えた。

 読書。
 庭の管理。
 侍女との短い会話。

 どれも以前からあったものなのに、今は輪郭がはっきりしている。

「……これでいい」

 小さく、独り言のように呟く。
 自分が何を失ったのかを、正確に把握している訳では無い。
 ただ、“手放した”という感覚だけがある。
 それを後悔と呼ぶには、感情は穏やかすぎた。
 遠くで足音がして、侍女の一人が控えめに声をかける。

「公女様、習い事の刺繍の時間ですが……」

「ええ、すぐに準備するわ」

 返事をしてから、もう一度庭を振り返る。

 ここは変わらない。
 人が変わっても、季節が移っても。

 ――それが、少し救いだった。



 馬車で向かったのは、皇宮のすぐ側にあるサロン。その刺繍室には、既に他の令嬢たちが集まっていた。
 視線が一瞬集まり、すぐに逸れる。
 窓からは、柔らかな午後の光が差し込んでいた。
 窓際のレース越しに射す陽は白く、時間の進みを曖昧にする。

 シャロンは、針先に視線を落としたまま、規則正しく糸を通していく。
 一針一針は小さく、だが確実だった。

 こうして手を動かしていると、余計なことを考えずに済む。
 それは、前世ではほとんど許されなかった贅沢だった。

 ――皇后になるための教育は、常に「正解」を求められるものだった。

 どんな言葉が最適か。
 どんな表情が無難か。
 沈黙はいつ許され、いつ罪になるのか。

 十三歳の今の自分には、まだその重さがない。
 それを思い出すたび、胸の奥がひやりとする。

「……今は、まだ大丈夫」

 誰に言うでもなく、心の中で繰り返す。

 もしあのまま進めば、再び同じ道を辿るのだろうか。
 答えは分からない。

 けれど、少なくとも――
 同じ“速度”では進まない。

 刺繍の図案は、皇宮の庭園の花を模したものだった。
 咲き誇るのではなく、少し控えめに描かれた花。

 それを選んだ理由を、シャロン自身も完全には理解していない。
 ただ、頭に浮かんだ。それだけだ。

「シャロン様は、最近落ち着いていらっしゃいますね」

 すぐ近くで針を刺していた令嬢が、探るようでもなく、ただ感想として口にした。

「そう?」

「はい。前より……柔らかい、というか」

 柔らかい。
 その言葉を、心の中で転がす。

 以前は、常に張りつめていた。
 自分が公女であること、未来の立場、期待される役割。

 それを“当然”として受け入れていたから、疑問すら持たなかった。

 ――でも、死んだ。

 理由も分からないまま。
 幸福の只中で。

 その事実が、すべてを変えた。

 幸せであれば安全だと思っていた。
 愛していれば守られると、どこかで信じていた。
 それが幻想だったとは、今でも思っていない。
 ただ、それだけでは足りなかったのだと、ようやく分かった。

「……ありがとうございます」

 シャロンはそう答え、微笑む。

 その笑みは、前世の“作られたもの”とは違う。
 少し不揃いで、少し控えめで、でも確かに本心だった。

 針を置き、短い休憩が入る。
 令嬢たちはそれぞれにお茶を手にし、小声で会話を始める。

 皇太子の話題が出ることもある。
 だが、今日は不思議と誰も彼の名を出さなかった。
 まるで、空気が察しているかのように。
 シャロンは窓の外を見る。
 風に揺れる木々。
 遠くで聞こえる鳥の声。
 すべてが、当たり前の世界だった。

 ――だからこそ、守りたい。

 誰かの隣に立つためではなく。
 誰かに選ばれるためでもなく。

 自分として、生きるために。

 この静かな日々は、嵐の前の凪かもしれない。
 それでもいい。

 少なくとも今のシャロンは、
 “何も考えずに従う自分”ではないから。

 再び針を取り、布に向き合う。

 未来はまだ白い。
 だが、そこに縫い込む色は――

 もう、他人任せにはしない。
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