公女様、前世に用はないですか?

みあはら

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 公爵家の朝は、静かだ。

 皇宮にいるときのような、常に誰かの視線を意識する空気はない。廊下を歩いても、目的を問われることはなく、時間はきちんと流れている。

 そのことに、今世の私は、ようやく安堵を覚えるようになった。

「体調はどうだ?」

 朝食の席で、父が新聞から目を上げて言った。
 その声は低く落ち着いていて、前世と何一つ変わらない。

「問題ありません。よく眠れました」

「それは結構。無理はしていないか?」

 無理、という言葉に、少しだけ胸が詰まる。
 前世の私は、どんな時でも無理をしている自覚すらなかった。

「……していません」

 そう答えると、向かいに座る母が、紅茶を口に運びながら微笑んだ。

「最近は、表情が明るくなったわね」

「そうか?」

「ええ。以前は、どこか緊張していたもの」

 母は、何気ない調子で言う。
 責めるでも、探るでもなく、ただの感想として。
 ――ああ、この人は、最初から気づいていたのだ。

 私が、皇子に相応しい相手になるために無理をしていたこと。
 それでも止めなかったこと。

「皇宮には、あまり行っていないそうだな」

 父の言葉に、私は一瞬だけ箸を止める。

「……はい」

「理由を聞いてもいいか?」

 問い方は穏やかだ。
 答えを強制する声音ではない。
 私は少し考え、それから正直に言った。

「今は、自分の時間を大切にしたいと思いまして」

 父は、しばらく黙って私を見る。
 その視線は、公爵としてのものではなく、父親のものだった。

「皇子殿下のことでは、ないのだな」

「……はい」

 母が、ふっと息をつく。

「それなら、いいわ」

 その一言は、あまりにもあっさりしていた。

「え……?」

「あなたが誰と結婚するかより、どう生きるかの方が大事でしょう。好きになった相手が皇子殿下だったから、私たちは準備をした。それだけよ」

 胸の奥で、何かが静かにほどけた。
 ――ああ、そうだったのだ。
 私は、期待に応えなければならない存在だと思っていた。
 両親にも、ヴァージルにも愛される条件として、完璧でいなければならないと。

「シャロン」

 父が、珍しく名を呼ぶ。いつもは「シェリー」と、愛称で呼ぶからだ。

「お前が選ばれなかったとしても、そのくらいで、この家は何も失わない」

 淡々とした言葉。
 けれど、それは揺るぎのない真実だった。

「だから、誰かのために生きるな」

 その言葉が、深く胸に落ちる。
 前世での私は、この言葉を知らなかった。
 いや、聞こうとしなかった。
 両親も、殿下との結婚を望んでいると思っていたから。

「……はい、お父様」

 声が、少し震えた。
 私の死の原因を作った誰かに復讐をしようと思わなかった理由が、今なら分かる。
 ここに、居場所があったから。
 復讐のために命を危険に晒すより、私のために、命を守りたいから。
 食後、母と並んで廊下を歩く。

「無理に笑わなくていいのよ」

 母は、前を見たまま言った。

「あなたが、うちにいる。それだけで十分」

 私は、ゆっくりと頷いた。

 ――今世では、殺されない。

 誰かの期待のためではなく。
 誰かを憎むためでもなく。

 私を大切にしてくれる人たちを、裏切らないために。

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